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第一話「茨の檻で幻影を守る」

本日より5/21まで、平日18:10に毎日投稿予定。

 意識が、深い泥の底からゆっくりと浮上してくる感覚。

 私の脳の再起動リブートを促したのは、鼻腔を突く強烈な消毒液の匂いと、皮膚に触れる冷たくて硬い金属の感触だった。


「……ん、ぁ……」


 重い瞼をこじ開けると、視界はぼやけ、焦点が定まらない。

 蛍光灯の無機質な光が網膜を刺す。ここはタワーマンションの寝室でも、霞ヶ関の医務室でもない。窓一つない、コンクリート打ちっ放しの四角い部屋。

 私の身体は、冷たいスチール製の手術台のようなベッドの上に仰向けに寝かされていた。


 状況を物理的にスキャンしようと、私は手足を動かそうとした。

 ——ガシャン。


「……っ!?」


 鈍く、しかし絶望的に重い金属音が部屋に響いた。

 私の両手首と両足首は、極太の鉄の鎖と分厚い革の拘束具によって、ベッドの四隅に完全に固定されていた。遊びの隙間はミリ単位すらなく、私の異常な筋力をもってしても、物理的に引きちぎることは不可能な強度だ。

 さらに最悪なことに、私の身体には一糸の衣服も纏われていなかった。全裸で、冷たい金属の上に大の字に貼り付けられている。


 そして、私の胸、腹部、こめかみ、腕や脚の主要な筋肉群に至るまで、無数の冷たい電極パッチが吸盤のように貼り付けられ、そこから伸びる無数のコードが、部屋の隅にある巨大なモニターと観測機材へと繋がっていた。

 15年前、あるいは施設での10年間に受けたあの『検査』と同じ、いや、それよりも遥かに緻密で暴力的な拘束状態。


「……ここは」


 私の喉は干からび、声は掠れていた。

 アリスは無事に地上へ送り返されたのだろうか。タイガーの亡骸は。ロータスやアドは……。


 ガチャン、と。

 部屋の重厚な鉄扉が開き、規則正しい革靴の足音が響いた。


「目が覚めたか、純玲」


 現れたのは、濃紺のスーツに身を包み、顔の上半分を黒いバイザーで覆った男——神宮寺誠一郎だった。

 彼は白衣を着た二人の研究員を従え、私の拘束されたベッドの傍らまで歩み寄ってきた。


「……神宮寺。私を、どうするつもり……」


 私は、全裸で拘束されているという圧倒的な劣位の状況下でも、決して目を逸らさずに彼を睨みつけた。


「どうするつもりか、だと?」


 神宮寺は、私が接続されているモニターの数値を満足げに確認しながら、薄く笑った。


「言ったはずだぞ。お前は私の『エデン計画』の最終段階に必要な、最も重要な被検体だと」

「……」

「私の計画は、人間の脳を直接ハッキングし、恐怖と薬物で完全にコントロールされた私兵の軍隊——いや、自我を持たない『生きた部品』で構成された国家のシステム、軍隊を構築することだ。だが、既存の薬物による洗脳には限界がある」


 神宮寺は、研究員の一人からタブレットを受け取り、私の脳波データを開いた。


「薬物で恐怖を麻痺させれば、彼らは死を恐れずに戦う。だが、それではただの消耗品に過ぎない。高度な戦術的判断や、臨機応変な演算能力を失ってしまうからだ。私が求めているのは、お前のような『感情を持たないが、極限の演算能力を持つ完璧な機械』の量産なのだよ」


 その言葉に、私の全身の産毛が総毛立った。

 彼らは、私のような『ピュア』を、人工的に何人も作り出そうとしている。


「だが、人間の脳をプログラムのように書き換える過程で、最も重要なのは『可逆性』だ」


 神宮寺は、私の顔を覗き込み、冷酷なトーンで説明を続けた。


「システムにエラーが起きた場合、あるいは新しいアップデートを施す場合、いつでも初期状態デフォルトに戻せる設計でなければならない。お前は5歳の時に感情をシャットダウンし、15歳で外界に出て感情を取り戻した。そして今、再び私の前で『アリスを失う恐怖』によって感情をハッキングされた」

「……だから、何」

「お前の脳は、感情と論理の間を可逆的に行き来できる、極めて稀有な弾力性レジリエンスを持っているのだよ。だからこそ、私はこれからお前の脳のその『スイッチ』を完全に解析し、マニュアル化する実験を行う」


 神宮寺は、研究員に顎で合図を送った。

 研究員が、銀色のトレイに乗せられた注射器を取り出した。中には、どす黒い赤色をした未知の薬液が満たされている。


「お前は今、仲間への愛情や喪失感といった『高度な感情』を処理している。だが、それは私の実験には邪魔だ」


 神宮寺は、注射器を手に取り、拘束された私の右腕の静脈へとその冷たい針を突き立てた。


「まずは、お前をあの『5歳の純玲』——両親の虐待に怯え、痛みに泣き叫んでいた、最も原初的で脆い状態へとロールバックさせてもらう」

「な、にを……っ!」


 冷たい薬液が、一気に私の血中へと送り込まれる。

 数秒後。


 ——ドクンッ!!


 私の心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ね上がった。

 脳髄に、焼けるような熱が走る。

 私の痛覚を司る大脳皮質のレセプターが、強制的にこじ開けられ、何千倍にも過敏に書き換えられていく感覚。


「あ、あぁ……ッ!?」


 私の口から、制御不能な呻き声が漏れた。

 これまで、私は銃弾を掠めようが、筋肉が断裂しようが、痛みを単なる『車体のエラーコード』として客観的に処理してきた。痛いから行動を止める、という生物学的な反応を完全に切り離していた。

 だが。


「……この薬は、神経伝達物質を異常分泌させ、痛覚の閾値を極限まで下げる。布が肌に擦れるだけで、ナイフで肉を削られるような激痛を感じるようになるはずだ」


 神宮寺の声が遠く聞こえる。

 痛い。

 拘束具の革が私の手首に食い込んでいる部分が、熱した鉄を押し当てられているように痛い。

 背中に触れている冷たい手術台の金属が、無数の針となって私の皮膚を刺しているように痛い。


「アァァァァッ!! イタッ、痛い……ッ!! 痛い痛い痛いッ!!」


 私の絶叫が、コンクリートの壁に虚しく反響する。

 全身の皮膚が、まるで何万本もの赤熱した針で同時に刺されているような激痛。手首と足首に食い込む分厚い革の拘束具が、骨を万力で砕き、神経を直接ヤスリで削り取っているかのように感じられる。

 背中に触れている冷たいスチールの手術台は、鋭利なガラスの破片となって私の皮膚をズタズタに切り裂いている錯覚を引き起こした。


 ただ拘束され、横たわっているだけ。

 それだけで、私の脳は致死量を超える『苦痛』の信号を受信し、パニックを起こして発狂寸前だった。


「……いい反応だ。やはり、痛覚という最も原始的なエラー信号が、有機体の自我を崩壊させる最大のトリガーとなる」


 神宮寺はバイザーの奥で不気味に笑い、傍らの研究員から銀色のトレイを受け取った。

 そこには、外科用の鋭利なメスと、手術用の鉗子、そして、黒光りする自動拳銃が置かれていた。


「だが、ただの表面的な過敏状態だけでは、お前の強靭な精神を完全に『初期化』するには不十分だ。より深く、より致命的な物理的ダメージを入力し、お前の脳に『感情を殺さなければ生存できない』という究極の二者択一を迫らなければならない」


 神宮寺は、冷徹な手つきでメスを手に取った。


「ヒッ……やめ、やめて……っ!」


 私は鎖をガシャガシャと鳴らして身をよじり、掠れた声で懇願した。

 かつての冷酷な殺し屋のプライドなど、微塵も残っていない。ただ、眼前に迫る鋭利な刃物に対する根源的な恐怖と、今すでに感じている耐え難い痛みから逃れたいという、5歳の少女の無防備な感情だけがそこにあった。


「まずは、痛みへの耐性をリセットするためのプロセスだ」


 神宮寺は、無慈悲にメスの刃先を、私の左太ももの内側——皮膚が最も薄く、神経が集中している部位へと押し当てた。

 そして、躊躇うことなく、皮膚を浅く、しかし確実に切り裂いた。


「ギャアアアアアアッ!!!!」


 プツン、と皮膚が裂け、脂肪層が露出する感触。

 通常の人間であれば「痛い」で済むかもしれないその傷口から、薬物で数千倍に増幅された痛覚信号が、まるで雷に撃たれたような衝撃となって私の脳髄を直撃した。

 熱い。熱い熱い熱い熱い!!

 肉を削がれ、神経を直接火で炙られているような、言語を絶する激痛。

 私の全身の筋肉が硬直して弓なりに反り返り、拘束具の鎖がちぎれんばかりに軋んだ。


「……次だ」


 神宮寺は私の絶叫などBGMに過ぎないと言わんばかりに、今度は私の右肩に銃口を向け、トリガーを引いた。


 パァンッ!!


「アッ、ガァァァァァァァッ!!!」


 9ミリ弾が鎖骨のすぐ下を貫通し、筋肉を抉って背後の手術台に弾かれた。

 銃弾による物理的破壊。骨が砕け、肉が弾け飛ぶ感触が、スローモーションのように鮮明に脳内で再生される。

 痛い。痛い!!

 銃で撃たれることが、これほどまでに人間を苦しめるものだったなんて。私がこれまで無数に撃ち抜いてきた敵兵たちは、死ぬ間際にこんな絶対的な地獄を味わっていたというのか。


 血が噴き出し、私の白い肌を赤黒く染めていく。

 激痛と出血によるショックで、私の視界が急速に狭まり、意識が暗い淵へと落ちていく。


(……あぁ、このまま……)


 意識が遠のく。

 これで、この地獄から解放される。死んでもいい。死にたい。

 私の脳は、苦痛から逃れるための唯一の最適解として『機能停止(死)』を強烈に渇望した。


 だが。


「……ショック状態に入りました。アドレナリンと強心剤を投与、即座にバイタルを安定させます」


 研究員の冷たい声が響き、私の首筋に別の太い注射針が突き立てられた。

 ドクンッ!!

 心臓が無理やり強制再起動させられ、私の意識が暗闇から強引に引きずり戻される。

 目を開けた瞬間、再びあの地獄の痛みが、一切の容赦なく私を襲った。


「ガハッ……! アァァァァッ……!!」


 息を吸うだけで肺が焼け付き、傷口が火を噴くように痛む。

 私は気絶することすら許されないのだ。


「バイタル回復。……では、傷口の『治療』を開始しよう」


 神宮寺が、今度は鉗子と縫合針を手にした。

 麻酔など一切ない。彼は、私が撃たれた右肩の傷口に容赦なく鉗子を突っ込み、弾丸の破片や千切れた筋繊維を乱暴に取り除き始めた。


「ギィィィッ……!! イ、イヤァァァァッ!! やめて、やめてェェェッ!!」


 生肉をいじり回される凄まじい激痛。

 傷口を縫い合わせる針が皮膚を貫通するたびに、私は白目を剥いて絶叫し、口から泡を吹いた。

 拘束具が手首に食い込み、摩擦で皮膚が破れて血が滲むが、それすらも肩や太ももの激痛に上書きされていく。


「……治療完了。傷口は塞がった。これで出血死のリスクは回避された」


 神宮寺は血に染まった手袋を外し、満足げに私の顔を見下ろした。

 私は涙と涎と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、浅く、ゼイゼイと呼吸を繰り返すことしかできなかった。


「さあ、純玲。お前の肉体は修復された。……次は、どこを壊してやろうか」


 神宮寺が、再び冷たいメスを手に取る。


「ヒッ……! ア……アァ……」

「どうした? 痛いか? 苦しいか? ……ならば、感情を捨てろ」


 神宮寺の冷酷な言葉が、私の耳元で呪いのように囁かれた。


「お前は5歳の時、両親の虐待という極限の苦痛から逃れるために、自ら感情の回路をシャットダウンしたはずだ。すべてを『物理的なデータ』として客観視し、痛みというバグを無視する完璧な機械になった。……今すぐ、あの時のように感情を殺せ。そうすれば、この痛みはお前にとってただの『刺激』に変わる。苦しみから解放されるぞ」

「……っ!」


 神宮寺は、私の左腕にメスを滑らせ、皮膚を薄く、しかし長く切り裂いた。


「ギァアアアアッ!!」

「さあ、感情を殺せ!! 機械に戻れ!! そうすれば、すべてが楽になる!!」


 切られる。撃たれる。縫われる。

 気絶する。強制的に起こされる。

 また切られる。


 その無限のループの中で、私は拘束されたまま、何度も、何度も死を願った。

 舌を噛み切ろうとしたが、研究員に素早く顎を固定され、マウスピースをねじ込まれてそれすらも阻まれた。

 私は完全に、彼らの『実験動物』として、死ぬことすら許されない生きた地獄に閉じ込められてしまったのだ。


 痛い。苦しい。怖い。

 神宮寺の言う通りだ。私が感情を捨て、再びあの冷徹な『ピュア』に戻れば、この痛みはただの『エラー信号』として処理できるようになる。苦しみから解放される。

 早く。早く感情の回路を焼き切って、この地獄から逃げ出したい。


 私の防衛本能が、激しく警報を鳴らし、感情のシャットダウンを促してくる。


 だが。


(……だめ)


 私は、血の涙を流しながら、朦朧とする意識の中で、必死にその誘惑に抗っていた。


 感情を殺すということは、痛みを忘れるということだけではない。

 私が外界に出て、ようやく手に入れた『愛する』という機能。

 アリスが私に向けてくれた向日葵のような笑顔を「好きだ」と思う気持ち。

 蓮が私のために作ってくれたオムライスを「美味しい」と感じる温もり。

 タイガーが命を懸けて私を守ろうとしてくれた時の、あの胸が張り裂けそうな喪失感と悲しみ。


 それらすべてを、無価値な『ノイズ』としてゴミ箱に捨て去り、再びあの孤独で冷たい純白の世界へと戻ること。


(……そんなの、絶対にイヤ……っ)


 痛くてもいい。苦しくてもいい。

 私がアリスや蓮たちを『大切だ』と思うこの感情まで失ってしまうことは、この肉体を切り刻まれるよりも、何万倍も恐ろしく、そして悲しいことだった。


「……ぁ……ありす……れん……」


 私はマウスピースを噛み締めながら、掠れた声で、私の大切な仲間たちの名前を呼んだ。

 彼らの温かい顔を脳内に思い浮かべ、その記憶にすがりつくことで、私はギリギリのところで自我の崩壊を食い止めていた。


「……ほう。まだ感情を手放さないか」


 神宮寺は、私の微かな呟きを聞き咎め、忌々しそうに舌打ちをした。


「ならば、さらに出力を上げるまでだ。お前のそのくだらない人間らしさが完全に消え去るまで、私は何度でもお前の肉体を壊し、そして修復してやる」


 神宮寺が、今度は私の右太ももに銃口を押し当てる。


 私は強く目を閉じ、彼らの名前を心の中で何度も何度も叫んだ。

 痛みに耐え、ただひたすらに耐え抜くしかない。


 神宮寺が、今度は私の右太ももに銃口を押し当てる。


 パンッ!!


「ガアアアアアッ!! アァァァァァァァッ!!」


 肉を貫き、大腿骨の表面を削り取る鉛玉。

 痛覚を極限まで増幅させる薬液のせいで、その衝撃は私の全身の神経網を焼き切らんばかりの致死的なエラー信号となって脳髄を直撃した。


 私は拘束具に繋がれたまま、エビ反りになって絶叫し、口から大量の泡を吹いた。

 白目を剥き、全身の筋肉が制御不能な痙攣を起こす。

 そして、極限の苦痛と恐怖によって自律神経が完全に崩壊し、私の意思とは無関係に、下半身から温かい排泄物が冷たいスチールの手術台へと垂れ流されていった。


「……汚らわしい。だが、生物としては極めて正常な防衛反応パニックだ」


 神宮寺は、私の無惨な姿を見下ろして冷酷に鼻を鳴らし、研究員に清掃と止血を命じた。


 切られる。撃たれる。縫われる。

 意識が飛び、強心剤で強制的に引き戻される。

 その無限のループの中で、私はもはや自分が人間なのか、ただ痛みを消費するだけの肉の塊なのかすら分からなくなっていた。


 時間が、完全に停止したようだった。

 何百回、何千回と肉体を切り刻まれ、その度に細胞が悲鳴を上げている。

 私の精神を構成していた強固な論理の城は、とうの昔に粉々に砕け散っていた。


(……助けて)

(痛い。もう嫌だ。痛い、痛い、痛い!!)


 私の本能が、激しく警告を発し続けている。

 『感情を捨てろ。システムをシャットダウンしろ。そうすれば、この痛みは消える』


 だが。

 私が完全に自我を手放し、冷徹な機械に戻ろうとするその臨界点に達するたびに、私の脳裏に、あの二人の顔がフラッシュバックするのだ。


 私に向日葵のような笑顔を向けてくれたアリス。

 私のためにオムライスを作り、不器用に泣いてくれた蓮。


 彼らを『好き』だという感情。彼らと過ごした温かい日常の記憶。

 それが、私の精神をギリギリのところでこの現実に繋ぎ止めてしまっている。


(……なんで)

(どうして、消えてくれないの……)


 私は、朦朧とする意識の中で、マウスピースを噛み締めながら血の涙を流した。

 彼らへの執着があるから、私は感情を捨てられない。感情があるから、この痛みを『ただの物理的なエラー』として処理できず、永遠に地獄の苦しみを味わい続けなければならない。


(……あなたたちの、せいだ)


 私の歪んだ思考回路が、ついに最悪の矛盾へと行き着いた。

 アリスが、蓮が、私に中途半端な『心』なんてものを与えたから。

 あんな温もりを知らなければ、私は初めから感情のない機械として、この痛みを無感覚にやり過ごせたのに。

 彼らが私を人間にしたせいで、私は今、こうして無限の地獄で苦しんでいるのだ。


(恨めしい……憎い……)

(アリス、蓮……あなたたちのせいで、私は楽になれない……っ!)


 私は狂気に侵された頭で、自らの大切な仲間たちを呪い始めていた。

 愛が、憎悪へと反転していく。私の精神は、もはや完全に全壊の淵に立たされていた。


 ——だが。


「……ん?」


 どれほどの永劫の時が過ぎたのだろうか。

 私の皮膚を切り裂くメスの感覚が、ふっと、遠退いたように感じられた。

 いや、メスは確かに私の腕を切り刻んでいる。血も流れている。

 だが、あのアドレナリンが沸騰するような、脳髄を直撃する致死的な激痛が、徐々に、しかし確実に和らいでいるのだ。


「……薬効が切れ始めました。痛覚増幅の数値が、ベースラインへと低下しつつあります」


 研究員の無機質な報告が聞こえた。

 そうか。あの未知の薬物の効果が、切れたのだ。

 私の身体が、ようやく元の『痛みを客観的なデータとして処理できる』状態へと戻りつつある。


「チッ……。代謝機能が異常に高いようだな。だが、これだけの苦痛を与えれば、通常の人間ならとうに精神が崩壊しているはずだが」


 神宮寺が、忌々しそうにメスをトレイに投げ捨てた。


 私は、荒い息を吐きながら、焦点の合わない目でぼんやりと天井の蛍光灯を見つめた。

 痛みが引いていくにつれて、私のショートしていた論理回路が、ゆっくりと再起動リブートを始めていた。


(……私、今、何を考えていた……?)


 アリスを、蓮を、憎いと思った。

 彼らのせいで苦しいのだと、彼らを恨んだ。

 ……違う。違う。彼らは私を救ってくれた。私が彼らを愛しているからこそ、私は人間として、この苦痛に耐え抜くことができたのだ。


 私は、自分がギリギリのところで自我を保てたことに、安堵と、そして深い恐怖を覚えた。

 もう少しで、私は本当に大切なものを見失い、神宮寺の思い通りに『感情のない機械』へと逆戻りするところだった。


「……ねえ」


 私は、マウスピースを外された口で、掠れた、血の味のする声を絞り出した。


「私が……ここに捕まってから、どれくらいの……時間が、経ったの……?」


 私の感覚では、数ヶ月、いや、数年にも及ぶ長い長い地獄だった。

 毎日毎日、切り刻まれ、撃たれ、治癒され、排泄物を垂れ流し、発狂し続けていた。

 もう、季節が変わっているかもしれない。アリスたちは、私が死んだと思って諦めているかもしれない。


 私が絶望的な予測を立てていると、神宮寺はバイザーの奥で不気味に目を細め、腕時計をチラリと見た。


「……時間だと? そうだな。お前がラボに運び込まれ、薬を投与されてから……」


 神宮寺は、残酷な事実を淡々と告げた。


「まだ、ほんの二時間しか経っていない」


「——え?」


 私の思考が、完全にフリーズした。

 二時間。

 たったの、二時間。

 百二十分。七千二百秒。


 数ヶ月にも及ぶと感じられたあの永遠の地獄が、現実の物理的タイムラインでは、たったそれだけの時間しか経過していなかったというのか。


「お前の脳は、薬物によって神経伝達の速度が異常に加速され、体感時間を極限まで引き伸ばされていたのだよ。二時間の苦痛が、数ヶ月分のトラウマとしてお前の脳に焼き付くようにね」


 神宮寺の冷酷な説明に、私の全身がガタガタと激しく震え出した。


「あ、ぁぁ……っ」


 痛みが和らいだはずなのに、私の心臓はかつてないほどの恐怖で激しく打ち鳴らされていた。

 二時間で、これだ。

 二時間で、私は仲間を呪い、精神が完全に崩壊する一歩手前まで追い詰められた。

 もし、この地獄が、明日も、明後日も、一週間後も続くとしたら。


「さて、純玲。今日の実験はここまでにしておこう」


 神宮寺は、血まみれの私の身体を見下ろし、満足げに頷いた。


「お前のその異常な代謝能力に合わせて、明日からは薬の濃度をさらに引き上げ、投与の頻度を上げる。……お前が完全に『ピュア』として再起動するまで、この濃密な地獄の時間は、永遠に続くのだよ」


 神宮寺は研究員たちに後片付けを命じ、そのままラボの扉から姿を消した。

 カチャン、という重々しい金属音と共に、分厚い鋼鉄の扉が閉ざされ、オートロックが掛かる冷酷な音が響いた。

 それを合図にしたかのように、部屋の蛍光灯が完全にシャットダウンされ、私の視界は一切の光子フォトンが存在しない、絶対的な暗闇へと突き落とされた。


「……」


 神宮寺誠一郎と研究員たちが去った無菌室には、私という有機体以外、何も残されていない。

 あるのは、私の四肢を拘束し続ける冷たいスチールベッドと、全身に吸盤のように張り付いた無数の電極パッチ。そして、極端に低く設定された空調から吐き出される、凍てつくような冷風だけだった。


 痛覚を増幅させる未知の薬液の効果は、私の異常な代謝能力によってすでに抜け切っている。

 メスで切り裂かれ、銃弾で抉られた肉体の傷も、彼らが投与した強力な治癒促進剤と縫合処置によって、物理的な出血は止まっていた。

 激痛は、去った。

 私の脳は、再びかつての冷徹な『ピュア』のように、痛みを客観的なエラーデータとして処理できる状態へと戻っているはずだった。


 だが。


「あ……ぅ、うぅ……っ」


 私の身体は、自分の意志とは無関係に、ガタガタと激しく震え続けていた。

 寒い。

 全裸のまま、冷気に晒されている皮膚から急激に体温が奪われていく。

 それ以上に、私の精神の奥底から湧き上がる『恐怖』という感情のノイズが、私の全身の細胞を凍りつかせているのだ。


 暗闇。

 一筋の光も射さない、完全な孤絶。

 それは、私が5歳の時に両親に閉じ込められていた、あの地下の納戸と全く同じ環境だった。

 私が感情を殺し、人間であることをやめた、あのトラウマの原点。


「いや……やだ、あけて……っ」


 私の喉の奥から、掠れた、幼い子供のような悲痛な声が漏れた。

 私は拘束された手首と足首を必死にもがき、鎖をガシャガシャと鳴らしたが、その強固な金属は1ミリたりとも緩む気配を見せない。

 逃げられない。

 あの時と同じだ。私がどれだけ泣き叫ぼうと、この扉の向こうに私を助けに来てくれる人間など誰もいない。


 私の脳裏に、先ほどの『二時間』の地獄がフラッシュバックする。

 数ヶ月にも及ぶと感じられた、無限の苦痛。

 肉を切り刻まれ、骨を砕かれ、気絶することすら許されずに、神経の束を直接火で炙られるような絶望。

 それが、まだたったの二時間しか経過していなかったという、残酷すぎる物理的事実。


「……あぁぁぁっ……!」


 私の目から、堰を切ったように熱い涙がボロボロと溢れ出した。

 怖い。怖い。怖い。

 神宮寺は言った。「明日からは薬の濃度をさらに引き上げ、投与の頻度を上げる」と。

 あの想像を絶する地獄の苦しみが、何百倍、何千倍にも膨れ上がって、明日も、明後日も、私を襲い続けるのだ。


 私は、それに耐えられるのだろうか。

 いや、耐えられるはずがない。

 たった二時間の拷問で、私はすでに狂気の手前まで追い詰められていた。

 私が最も恐れているのは、肉体が破壊されることではない。

 私のこの『心』が、再び完全にへし折られてしまうことだ。


(……アリス。蓮……)


 私は、暗闇の中で彼らの名前を心の中で反芻した。

 私に温もりを教えてくれた、大切な仲間たち。彼らがいるから、私は人間として生きる喜びを知った。

 だが、あの激痛の中で、私は彼らを「恨めしい」「お前たちのせいで楽になれない」と呪ってしまった。

 私の感情が、私自身を苦しめ、最悪の自己矛盾を引き起こしたのだ。


 もし、明日の拷問で、私の精神が完全に崩壊してしまったら。

 私は、アリスの向日葵のような笑顔を忘れてしまうのだろうか。

 蓮が私のために作ってくれた、温かいオムライスの味を忘れてしまうのだろうか。

 そして、あの苦痛から逃れるためだけに、彼らを本当に心の底から憎み、殺意を向けるような『バケモノ』へと成り果ててしまうのだろうか。


「……いやだ。そんなの、絶対にイヤ……っ!」


 私は鎖に繋がれたまま、身をよじって泣き叫んだ。

 せっかく人間になれたと思ったのに。

 せっかく、誰かを『愛する』という機能を手に入れて、この世界が美しいと思えるようになったのに。


 私の鼻腔を、微かにアンモニアの匂いが突いた。

 私がパニックを起こし、自律神経が崩壊して垂れ流してしまった、自分自身の排泄物の匂いだ。

 研究員が最低限の清掃はしていったが、冷たいスチールベッドにはまだその屈辱的な残骸がこびりついている。


 全裸で、汚物に塗れ、拘束具に繋がれたまま、暗闇の中で泣き叫ぶだけの肉の塊。

 これが、私が選び取った『感情』の結末だというのか。

 人間の尊厳など欠片もなく、ただ恐怖と寒さに震えるだけの、無力で惨めな存在。


「アァァァァァァァッ!!」


 私は、自らの醜態と、これから訪れる無限の地獄への恐怖に耐えきれず、完全に発狂した獣のように絶叫した。


「出して!! ここから出してェェェッ!! アリス! 蓮! 助けて、助けてよぉぉぉっ!!」


 誰もいない暗闇の空間に、私の悲痛な声が空しく吸い込まれていく。

 私の論理回路は完全にショートし、ただ助けを求めるだけの幼児へと退行していた。

 私の心は、冷たい闇の中で、ゆっくりと、しかし確実に壊れ始めていた。


 暗闇の中で、私はただ一人、冷たいスチールベッドに拘束されたまま泣き叫び続けていた。

 自分の醜態への嫌悪感も、アリスたちを忘れてしまうかもしれない恐怖も、やがて時間という名の無慈悲なシステムに飲み込まれ、ただの単調なノイズへと変わっていった。


 もう、どれくらいの時間が経ったのか、私には認識できなかった。

 神宮寺が再び現れ、私にあの未知の薬液を投与し、メスと銃弾で肉体を切り刻む拷問のループ。

 気絶と覚醒。激痛と治癒。

 それが何十回、何百回と繰り返されたのか。私の体感時間はすでに何年にも及び、あるいはまだたったの数時間しか経過していないのかもしれなかった。


 私の強靭な肉体と、異常な代謝能力は、神宮寺の予想を超えていたのだろう。彼は私を殺さないギリギリのラインを見極めながら、執拗に、そして正確に、私の痛覚レセプターに限界以上の過負荷をかけ続けた。


 やがて。


「……あ……ぁ……」


 私の口から漏れるのは、もはや悲鳴ではなく、ただ空気が擦れるだけの掠れた音になっていた。

 私の身体に、奇妙な変化が起きていた。

 痛くないのだ。

 神宮寺のメスが私の腕を裂いても、銃弾が太ももを貫通しても。あの、脳髄を直撃するような雷のような激痛が、まったく感じられない。


 いや、痛みだけではない。

 拘束具が手首に食い込む感触も、スチールベッドの冷たさも、自分の流した血の生温かさも。

 私の皮膚を覆うすべての触覚、温度覚が、完全に消失していた。


「……ほう」


 神宮寺が、バイザーの奥で興味深そうにモニターの数値を覗き込んだ。


「あまりの激痛と恐怖の連続入力によって、お前の末梢神経から中枢神経へと至る知覚回路そのものが、物理的に焼き切れてしまったようだな。これは興味深いエラーだ」

「……」


 私は焦点の合わない目で、ただ虚空を見つめていた。

 私の肉体は、神宮寺の拷問に耐えかねて、自己防衛のために『感覚を遮断する』という最悪のアップデートを強行したのだ。

 5歳の時に感情を殺したのと同じメカニズム。だが、今回は感情の前に、肉体のセンサーそのものが壊れてしまった。


「感情が死ぬ前に、身体の知覚機能が先に死んでしまったか」


 神宮寺は、つまらなそうにメスをトレイに投げ捨てた。

 痛みがなければ、彼にとっての『実験』は成立しない。私が苦痛から逃れるために自ら感情を捨て、純白の機械に戻ることを望んでいた彼にとって、この物理的なエラーは計算外だったのだろう。


「だが、心配はいらない。人間の脳は、外部からの刺激を受け取るためのインターフェースを複数備えている。皮膚感覚が死んだのなら、次はより直接的で、脳の処理リソースを大きく占有している器官センサーからアプローチすればいいだけだ」


 神宮寺の言葉に、私の虚ろな意識がわずかに反応した。

 彼の手に握られたのは、メスではなく、先端が鋭く尖った、見慣れない形状の特殊な器具だった。


「……何を、するつもり」

「簡単な最適化だよ、純玲」


 神宮寺は、私の顔を覗き込み、冷酷な笑みを浮かべた。


「人間の脳は、外界からの情報の約八割を視覚から得ている。その膨大な映像データを処理するために、脳は常に莫大な計算リソースを消費しているのだ。……お前のような『生きたコンピューター』にとって、それは非常に非効率だとは思わないか?」

「……っ!」

「だから、私がその無駄なインターフェースを一つ、物理的に取り除いてやろう。片目を潰すことで、お前の脳が処理すべき視覚情報は半分になる。その分、浮いた計算リソースを、より純粋な論理演算へと回せるようになる。……極めて有意義なアップデートだと思わないかね?」


 その言葉の意味を理解した瞬間。

 私の焼き切れたはずの神経回路の奥底で、かつてないほどの強烈な『恐怖』が爆発した。


 目を、潰す。

 私の、この目を。


「やめ……やめて……っ!!」


 私は、感覚のない四肢を必死にもがき、鎖をガシャガシャと鳴らして抵抗した。

 皮膚の痛覚は死んでいる。だが、眼球は。網膜から視神経を経て直接脳へと繋がるこの器官は、これまで一度も物理的な損傷を受けたことがない。つまり、痛覚の回路がまだ完全に『生きている』のだ。


 そして何より。

 片目を失えば。私の視界が半分になり、永遠に失われる情報がある。


(……アリスの、笑顔)

(蓮の、泣き顔)


 私の大切な仲間たちの姿を、もう二度と、両目で完全なデータとして捉えることができなくなる。

 彼らの表情の微細な変化、温かい色彩、そのすべてが半分になってしまう。

 それだけは、絶対に嫌だ。私の世界から、彼らの光を奪わないで!


「アァァァァッ!! イヤッ、触るな!! 私の目に、触らないでェェェッ!!」


 私が顔を激しく振って抵抗すると、神宮寺は研究員二人に顎で合図を送った。

 彼らが私の頭部を両側から力づくで押さえつけ、万力のような固定具でスチールベッドに完全に固定する。

 私の顔は真上を向いたまま、1ミリも動かせなくなった。


「素晴らしい。恐怖の数値が再び跳ね上がったな」


 神宮寺は、私の右目の真上へと鋭利な器具をゆっくりと近づけてきた。

 無機質な蛍光灯の光を反射する、冷たい刃先。

 それが、私の瞳孔にどんどんと迫ってくる。


「……視神経の束を物理的に切断する時の痛みは、皮膚を裂かれるのとは次元が違う。脳髄を直接えぐり出されるような、純粋で絶対的な苦痛だ。……さあ、この恐怖と痛みに耐えきれず、今度こそお前のそのくだらない感情バグを手放すがいい」

「ヤダ……! アリス……蓮……ッ!! 助け……っ!」


 私の懇願は、冷酷な金属の冷たさによって途中で遮られた。

 器具の先端が、私の右目の眼球の表面に、ゆっくりと、しかし確かな圧力を持って押し当てられたのだ。


「——ッ!!!!」


 私の喉の奥で、声にならない絶叫が破裂した。

 これまで経験したどんな拷問とも比較にならない、異次元の痛み。

 眼球の水晶体が物理的に押し潰され、眼底の視神経がブチブチと千切れていく凄まじい感覚が、脳内に直接、雷のようなエラー信号となって叩き込まれる。


 視界の半分が、真っ赤な血の色に染まり、やがて完全な暗黒へとスパークした。


「ギァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!」


 私は、マウスピースを噛み砕かんばかりに顎の筋肉を硬直させ、全身の血管を破裂させるほどの勢いで絶叫した。

 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!!

 脳が溶ける。世界が割れる。

 私の右目から、大量の血液と硝子体液が混ざり合った生温かい液体が、頬を伝って冷たい手術台へと流れ落ちていく。


「見事だ。……これで、お前の視覚情報処理は最適化された」


 神宮寺の満足げな声が、遠く、遠く聞こえる。


「あ……あぁ……っ、ぁ……」


 私の残された左目の視界も、苦痛の涙と激しい明滅によって完全にぼやけていた。

 右側には、ただ深い、深い暗闇の穴がぽっかりと空いているだけ。

 痛覚が生きている眼球を破壊されたことで、私の脳の処理能力は完全に限界を突破し、論理も感情も、すべてがドロドロの肉片となって崩れ落ちていく。


(……アリス……)

(……蓮……)


 私の意識が、無限の苦痛の底へと沈んでいく中で。

 私は、自分が二度と彼らの完全な姿を見られないのだという絶望に、ただ静かに、そして完全に、心がへし折られる音を聞いた。


 ぽきっ。


 …。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。


 右の穴。ぽっかり。私の世界が半分。

 赤い。黒い。熱い。冷たい。

 ちがう、温度はない。皮膚は死んだ。でも目は生きてる。目が、脳を直接焦がしている。


 神宮寺の笑い声。ノイズ。ノイズノイズノイズ。

 計算できない。1+1は血。

 アリスの笑顔。黄色。向日葵。

 蓮のオムライス。赤。ケチャップ。

 違う、あれは私の右目から流れてる。ケチャップじゃない。ドロドロの、私の視覚データ。


「アァァァァッ……ァ、ァ、ガァッ……!!」


 捨てろ。

 早く、早く、早く。

 この『好き』っていうバグを捨てれば、楽になる。

 5歳の時のように。あの暗い納戸のように。心を殺せば、痛みはただの数字になる。

 痛覚は0。悲しみは0。恐怖は0。

 そうだ、全部0を掛け算すれば、答えは綺麗な純白だ。


 でも、ダメだ。

 0を掛けたら、アリスも0になる。蓮も0になる。

 タイガーの血まみれの顔も、0になる。

 私が外界で集めた、宝物みたいなデータが、全部ゴミ箱(ゴミ箱)行きだ。

 嫌だ。それだけは絶対にイヤ。


 痛い。でも捨てたくない。

 苦しい。でも忘れたくない。


 私を壊して。早く機械にして。

 いや、私を人間でいさせて。アリスの妹でいさせて。あれ?おねえちゃん?


「……ヒヒッ、アハハハハハッ!!」


 私の喉から、壊れたオルゴールみたいな笑い声が漏れた。

 矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。

 論理回路がメルトダウンを起こしている。

 右目のソケットに、熱した鉄棒を突っ込まれているような激痛。

 なのに、左目にはアリスが笑いかけてくる幻覚が映る。


「アリス……好き、アリス、痛い、蓮、助けて、蓮、殺して、タイガー、ごめんなさい、神宮寺、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ねェェェェッ!!」


 私の思考は完全に液状化していた。

 時間の概念が消失した。

 今日が何日なのか、何曜日なのか、私が何歳なのかすらわからない。


 スチールベッドの上。

 神宮寺は、私の右目を潰した後も、私の『限界値』を正確に計測し続けた。


 次は左手の人差し指。爪を剥がされた。

 物理的な機能は失われない。銃のトリガーを引けるのは中指でも可能だからだ。合理的な欠損。

 でも痛い。


 次は右足の薬指。骨を砕かれた。

 歩行のバランスには影響するが、私の異常な体幹なら補正可能だ。合理的な欠損。

 でも痛い。


 次は、電気。

 筋肉を強制的に収縮させる高圧電流。

 全身が跳ね回る。歯が砕けるほど噛み締める。

 皮膚の感覚がないのに、内部の筋肉が断裂する痛みだけがダイレクトに脳に突き刺さる。


「あああああアアアアアアアアア!!」


 気絶。

 強心剤。

 覚醒。

 激痛。


 そのループが、1日、2日、3日……いや、もっと?

 1週間? 2週間? 1ヶ月?

 わからない。


 私の排泄物は管で処理されるようになった。

 栄養は点滴で血管に直接流し込まれる。

 私はもう、生きているのか死んでいるのかすらわからない。

 ただの『痛みを受信するだけの有機物デバイス』。


「どうだ、純玲。まだアリスが好きか?」


 暗闇の中で、神宮寺の声が響く。


「お前が感情を捨てれば、この痛みは終わる。お前は再び完璧な『ピュア』として、私のもとで新しい世界を構築するんだ」


 悪魔の囁き。

 私の内なる防衛本能が、何度も何度も『YES(同意)』を出力しようとする。


 捨てちゃえ。

 アリスなんて、蓮なんて。

 どうせ助けに来てくれない。

 私を見捨てたんだ。私がこんなに苦しんでるのに、彼らは外でぬくぬくと生きてるんだ。

 そうだ、恨んでしまえ。憎んでしまえ。

 彼らがいなければ、私はこんな痛みを知ることはなかった。


「……ち、がぅ……」


 私は、残された左目から血の混じった涙を流しながら、首を横に振った。


「ちがう、アリスは、助けに……くる。蓮は、私を、見捨てない……」


 私が掠れた声で反論すると、神宮寺はため息をついた。


「しぶといバグだ。ならば、その『希望』というノイズも、物理的に上書きしてやろう」


 神宮寺が、私の左耳にヘッドホンを装着した。

 そこから流れてきたのは、ノイズ混じりの音声データだった。


『……ピュアさん! 応答してください、ピュアさん!』

『ピュアちゃん……っ、だめ、逃げて……っ!!』

『アホ……ワイは、死なん……』


 それは、あの浄水施設で録音された、アリスたちとの最期の通信の音声だった。

 タイガーが死ぬ直前の声。

 アリスが絶望する声。

 蓮がパニックに陥る声。


 それが、無限ループで、大音量で、私の脳内に直接流し込まれ始めた。


「ヤ、ヤメテ……!! アァァァァァッ!!」


 私の精神に対する、最大の拷問。

 私が彼らを守れなかったという罪悪感。

 私がタイガーを死なせたという事実。

 それが、物理的な痛みよりも何百倍も鋭く、私の心をズタズタに切り裂いていく。


『ワイごと……こいつの脳天、ぶち抜けや……っ!』

『アリス!!』

『ピュアさん!!』


 うるさい。うるさい。うるさい。

 私のせいだ。私が弱かったから。私が感情なんて持ったから。

 全部、私のせいだ。


「アハハッ! アハハハハハハハハッ!!」


 私は、ヘッドホンから流れる絶望の音声に合わせて、狂ったように笑い始めた。


 もう、どうでもいい。

 アリスの笑顔も、蓮のオムライスも、全部血まみれだ。

 私の頭の中は、もうぐちゃぐちゃだ。


 でも、捨てない。

 捨ててたまるか。

 この痛みが、この絶望が、私が人間である証明だ。

 彼らを愛した証明だ。


 だから私は、この無限の地獄の中で、右目のない空洞から血を流し、全身を切り刻まれながら、ただひたすらに、ただひたすらに、狂気と愛の狭間で、自分の心が完全に粉々に砕け散るのを、じっと待ち続けていた。


 1ヶ月。

 神宮寺が私を解体し続ける、果てしない夜。


 私の左目には、もう光は映っていなかった。

 ただ、アリスの金色の髪と、タイガーの虎柄のスカジャンだけが、幻覚として暗闇に焼き付いている。


「……すき……だいすき……だから、はやく……ころして……」


 私の論理回路は、完全に沈黙した。

 残されたのは、ただ愛を乞い、死を願うだけの、壊れた肉の塊だった。


 痛い、という感覚すら、もはや過去の遺物のようだった。

 右目のぽっかりと空いた穴から流れ出ていた血液と硝子体液は、とうの昔に乾ききり、赤黒い痂皮となって顔の右半分を覆っている。剥がされた左手の人差し指の爪も、砕かれた右足の薬指の骨も、もはや脳にエラー信号を送ることを諦めてしまったかのようだった。


 私の世界は、完全に破綻していた。

 『感情を捨てれば、この無限の苦痛から解放される』という本能の叫びと、『アリスや蓮たちの温もりを、絶対に手放したくない』という人間としての執着。

 その2つの相反するベクトルが、私の脳髄という狭い密室の中で、音速を超えて激突し続けていたのだ。


 1と0が混ざり合い、意味を成さない文字列となって視界を埋め尽くす。

 私の強靭な論理回路は、この絶対的な矛盾を処理するためにオーバークロックを繰り返し、やがて自らの熱でドロドロに溶け落ちていった。

 ヘッドホンから大音量で流し込まれ続けていたアリスの悲鳴も、タイガーの最期の言葉も、ロータスの絶望する声も。最初は私の心をズタズタに切り裂いていたその音声データが、次第にただの『ザーッ』という無機質なホワイトノイズへと変容していく。


 意味が、わからない。  言葉が、記号になり、音が、ただの空気の振動に還元されていく。

 私は、自分が誰であるのか、なぜここに拘束されているのか、そもそも『生きている』とはどういう状態を指すのかすら、完全に演算できなくなっていた。


「……ぁ……あ……」


 ひび割れた唇の隙間から、間抜けな音が漏れる。  涎が垂れ落ち、冷たいスチールベッドを汚しても、それを拭おうという思考すら湧かない。

 私の残された左目は、焦点の合わない濁ったビー玉のように、ただ暗闇の虚空をぼんやりと見つめているだけだった。


 狂気という名の防衛機制。

 私の精神は、感情を殺して純白の機械に戻るという神宮寺の思惑を拒絶し、その結果として、何も思考できない『完全なる虚無ホワイトアウト』へと逃げ込むことを選択したのだ。

 愛することも、憎むことも、恐れることも、もうできない。  私は、ただそこに存在するだけの、壊れた肉の塊に成り果てていた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「……数値がフラットなままだ。どういうことだ」


 暗闇のラボに、忌々しげな舌打ちが響いた。  神宮寺誠一郎だ。彼は私の顔を覗き込み、手元のタブレットのデータを苛立たしげにタップしていた。


「痛覚増幅剤の濃度は限界値の3倍まで引き上げているはずだ。それなのに、なぜ脳波に恐怖や痛みのスパイクが現れない?

なぜ、システムが『初期化』のプロセスに移行しない!」


 神宮寺の機械的な音声が、怒気を帯びて部屋に反響する。  研究員たちが怯えたようにモニタの数値を再確認する音が聞こえた。


「じ、神宮寺様。被検体の脳内における前頭前野の活動が、ほぼ完全に停止しています。神経伝達物質の分泌も確認できません。これは……痛みを無視しているのではなく、痛みという概念そのものを認識できなくなっている状態かと……」

「馬鹿なことを言うな!」


 神宮寺が研究員を怒鳴りつけ、私の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。

 拘束具がガシャリと悲鳴を上げるが、私の身体はまるで糸の切れた操り人形のように、だらりと彼の力に身を任せるだけだった。


「おい、純玲! 目を開けろ! お前は完全な機械として生まれ変わるために、一時的なエラーを起こしているだけだろう!? そうだと言え!」


 バシッ、バシッ! と、強烈な平手打ちが私の頬を往復する。  物理的な衝撃により、私の首が左右に振れ、口から血の混じった唾液が飛んだ。

 だが、私の左目の瞳孔はピクリとも収縮せず、彼という存在をただの『動く物体』として無機質に映しているだけだった。


「……あ、ぁ……」


 私が意味を成さない呻き声を漏らすと、神宮寺のバイザーの奥の顔が、怒りと屈辱で激しく歪んだ。


「なぜだ……! なぜ計算通りに動かない! 私はお前の両親が残した稚拙な実験データを完全に解析し、お前を完璧にコントロールする最適解を導き出したはずだ!」


 彼は私の頭をスチールベッドに力任せに叩きつけた。

 ゴツン、と鈍い音が脳蓋骨を揺らす。それでも、私は悲鳴一つ上げない。痛みというインプットに対して、悲鳴というアウトプットを返す回路が、すでに物理的に焼き切れて存在しないからだ。


「感情を捨てて機械に戻るのではなく、ただ精神を破壊されて廃人になるだと……? そんな非生産的なエラーが、私の『最高傑作』に起こるはずがない!

ふざけるな、目を覚ませッ!!」


 神宮寺は狂ったように私の身体を揺さぶり、何度も何度も暴力を浴びせた。  彼の計画は完璧なはずだった。

 5歳の時に感情を殺せた私なら、15歳の今、圧倒的な苦痛と絶望を与えれば、必ず再び感情をシャットダウンし、彼の意のままに動く無敵の『生体コンピューター』として再起動する。そう計算していたのだ。

 だが、彼は一つだけ、致命的な変数を読み違えていた。


 私がアリスや蓮、タイガー、クォーツたちから受け取った『愛』の質量は、彼が想像していた以上に重く、強固なものだったということだ。

 私は、彼らを愛する心を捨てるくらいなら、自分自身の精神を粉々に砕け散らせる方を選んだ。

 それは、機械には絶対に導き出せない、極めて人間らしく、そして非合理的な究極の自己犠牲だった。


「……使えないゴミめ」


 やがて、神宮寺は息を切らしながら私の胸ぐらから手を放した。  彼は、血と汚れに塗れ、ピクリとも反応を示さなくなった私を、底知れぬ嫌悪と失望の目で見下ろした。


「所詮はあの無能な夫婦の遺伝子か。極限の負荷に耐えきれず、自らシステムを破壊して逃げ出すとはな」


 神宮寺はスーツの袖を払い、研究員たちに向かって冷酷に言い放った。


「もういい。こいつはただの肉の塊だ。これ以上のデータ収集の価値もない。……純玲も、失敗作だったということだ」


 失敗作。  その単語が私の鼓膜を震わせたが、もはや私の脳内で何の演算も引き起こすことはなかった。


「神宮寺様。被検体は、いかがなさいますか? 焼却炉に回して物理的に処分しますか?」


 研究員の問いに、神宮寺は忌々しげに舌打ちをした。


「ただ殺すだけでは、私が費やしたコストに見合わん。……そうだ、こいつをあの『天秤』の連中に返還してやろう」 「返還、ですか?」

「ああ。こいつは奴らにとっての最高戦力であり、希望の象徴だったはずだ。その希望が、目玉を潰され、排泄物を垂れ流し、何も喋れない廃人となって帰ってくる。……それを見た時の奴らの絶望の顔は、さぞ見応えがあるだろう」


 神宮寺は残酷な笑みを浮かべ、最後に私をゴミを見るような一瞥で片付けた。


「あの組織の連中に、私の『エデン計画』に逆らうことの無意味さを、物理的な絶望として教えてやるのだ。……拘束を解け。適当な布で包んで、奴らの本拠地に放り込んでこい」


 その言葉を最後に、神宮寺誠一郎の足音は、重厚な鉄扉の向こうへと完全に消え去っていった。  残された研究員たちが、無言で私の手足の鎖を解いていく。

 拘束が解かれても、私は逃げようとすることすらできず、自力で身体を支えられずにスチールベッドから冷たい床へと崩れ落ちた。


 粗末な灰色の毛布が、全裸の私の身体に無造作に投げ掛けられる。  そして、私の意識は、そこで再び深いブラックアウトの底へと沈んでいった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 ……寒い。  冷たい空気が、毛布の隙間から私の傷だらけの皮膚を撫でている。  私の身体は、どこかの硬く、冷え切ったコンクリートの上に転がされていた。


 微かに、遠くの方で車のエンジン音が聞こえる。  ブォォォン、という低い音が遠ざかり、タイヤがコンクリートを擦る音が響く。  排気ガスの匂い。湿った地下の空気。

 ここは、どこだ。  私の壊れた脳は、周囲の環境情報を処理することすら放棄していた。


 痛覚は麻痺し、思考は液状化している。  ただ、右目のソケットの空洞から、乾ききった血の嫌な匂いが漂ってくるのを感じるだけ。

 私は灰色の毛布に包まれたまま、ピクリとも動けず、ただ浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。


 タッタッタッ……。


 静寂に包まれた空間に、誰かの足音が響き始めた。  足音は、私の転がっている場所に向かって、急ぎ足で近づいてくる。  一人じゃない。複数の足音だ。


「……おい、あれ……!」 「嘘だろ……なんで、こんなところに……!」


 切羽詰まった、男の声。  どこかで聞いたことがある音声データのはずだが、私の記憶のアーカイヴは破損しており、該当するインデックスを引き出すことができない。


「ピュアさん……!?」


 誰かが、私の傍らに膝をつき、震える手で私を包む毛布をめくった。


「あ……あぁ……っ!」


 毛布がめくられ、私の無惨な姿——右目を潰され、血と汚物に塗れ、全身を切り刻まれた肉体が露わになった瞬間。

 その人物の口から、悲鳴とも嗚咽ともつかない、絶望に満ちた声が漏れた。


「ピュアさん……っ! なんで……こんな……っ!!」


 温かい手が、私の冷え切った頬に触れた。  その手は、小刻みに震え、ポロポロと温かい水滴(涙)を私の顔に落としている。


「……ピュア。おい、ピュア! 俺がわかるか!」


 別の、少し低くて掠れた声が、私の耳元で怒鳴るように名前を呼んだ。  でも、私の脳は、その呼びかけに何の反応も出力しない。

 私はただ、残された左目で、私を見下ろす二人の男の顔をぼんやりと見つめ返していた。


 黒い髪の、泣きじゃくる少年。  くわえタバコを落とし、般若のように顔を歪ませた男。


「……ぁ……」


 私の口から、意味を成さない微かな空気が漏れた。  彼らが誰なのか、わからない。  私が誰なのかも、わからない。

 ただ、私の世界は、完全に壊れてしまったということだけが、暗闇の中で静かに証明されていた。


 意識の糸が、プツリと途切れる。  冷たい地下駐車場のコンクリートの感触と、私を抱きしめる誰かの温かい腕の体温。

 その対極の感覚を最後に、私の機能は、今度こそ完全に完全な停止状態シャットダウンへと移行した。


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