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第四話「あなたのためなら」

一週間の猶予は、私の内側で燃え盛る感情のエンジンを極限までチューニングするための、完璧なアイドリング期間となった。

 私は日々のルーティンをこなしながら、脳内で港区の地下浄水施設——表向きは閉鎖された製薬工場となっているあの巨大な要塞の構造を、何万回となくシミュレーションし続けた。


 そして、決戦の夜。

 午前二時。冷たい秋の雨がアスファルトを濡らす、東京湾岸の埋立地。


『……各班、配置についたな』


 インカムから、アドの低く張り詰めた声が響く。

 私は漆黒のライダースジャケットに身を包み、施設の裏手にある搬入口の暗がりに身を潜めていた。冷たい雨が頬を打ち、私の意識をさらに鋭利に研ぎ澄ませていく。


『強襲班、狙撃班、補充班。すべての準備は完了しています。施設の外部監視センサーは、俺がループ映像に差し替えました』


 二ブロック離れた指揮車両にいるロータスの声が続く。彼の声には一週間の特訓と準備に裏打ちされた確かな自信が宿っていた。


『ピュアさん。侵入ルートのロックは解除済みです。いつでもいけます』

「了解よ、ロータス。私の視覚データを共有するわ。あなたの演算で私の死角を完璧にカバーしなさい」

『はいっ!』


 私は腰のポーチから、ロータスが組み上げた『論理爆弾ロジックボム』がインストールされた特殊なUSBデバイスを取り出し、静かに搬入口の扉を押し開けた。


 施設内部は、廃工場という表向きの偽装とは裏腹に、最新鋭のセキュリティと無機質なコンクリートの壁で構成されていた。

 私の最初のタスクは、地下二階にあるメインサーバー室への単独潜入だ。

 通路の角に張り付き、私は異常に発達した聴覚と嗅覚で、敵の気配をスキャンした。


「……三人。重武装の強化兵ね。巡回ルートの交差まであと五秒」


 私は頭の中で、彼らの歩幅、足音の反響、そして視界の有効角度を物理的に計算する。

 彼らが交差点を曲がり、互いの視界がコンマ三秒だけ完全に途切れる瞬間。

 私は床を滑るように蹴り出し、音もなく空間を移動した。強化兵の背後数十センチの距離を通り抜け、彼らの網膜に私の姿が映る前に、次の遮蔽物へと身を隠す。


『完璧です、ピュアさん。第一チェックポイント通過。次の通路には自動機銃セントリーガンの赤外線センサーがあります。タイミングを合わせます……今です!』


 ロータスのナビゲートに従い、センサーの首振り機構の死角を縫うように前転で突破する。

 私は感情を取り戻したことで、恐怖を感じるどころか、愛する者を助け出したいという強烈な『渇望』が、肉体のリミッターを自然と押し上げていた。

 心臓が静かに、しかし力強く脈打ち、全身の筋肉が私の意思に1ミリの遅延もなく追従する。


 地下二階への階段を下り、サーバー室の前に到達するまで、わずか三分。

 扉の前には二人の強化兵が立っていた。ここはステルスでは突破できない。私は即座に計算式を切り替えた。


 音を立てずに背後に忍び寄り、両手に構えたタクティカルナイフを、彼らの頸椎の隙間——ヘルメットと防弾ベストのわずかな防御の切れ目へと同時に突き立てる。

 声を上げる暇すら与えず、延髄を破壊された二人はその場に崩れ落ちた。私は彼らの体を支え、音を立てずに床に横たえる。


「……サーバー室、到着よ」

『了解です。扉の電子ロックを外部から強制解除します』


 カチャリと音を立てて扉が開き、私は青白いLEDの光が点滅する冷徹なサーバー群の中へと足を踏み入れた。

 中央のコンソール端末を見つけ、私はロータスのデバイスを物理ポートへと接続した。


『接続確認! ロジックボム、インストール開始……完了! 施設のメインネットワーク、完全に掌握しました!』


 ロータスの歓喜の声がインカムに響く。

 これで、アリスとタイガーの身体に仕掛けられた爆弾の遠隔起爆信号は完全に遮断された。さらに、施設内のすべての防犯カメラは私たちの支配下に落ち、自動防衛システムは機能停止した。


『よし、よくやったピュア、ロータス!』


 アドの号令が、全回線に向けて轟いた。


『これより陽動の総攻撃を開始する! 全員、派手に暴れ回れ!!』


 その直後だった。

 私のいる地下二階まで、大地を揺るがすような凄まじい爆発音が響き渡った。

 ファイアのC4が、施設の一階正面ゲートと車両搬入口を同時に吹き飛ばしたのだ。


『ヒャッハァァァ!! 消毒の時間だぜェッ!!』


 アリスの代役として前衛に立つクォーツの二丁拳銃の連射音と、ファイアの狂気じみた笑い声。そして、ルミナスとレイの狙撃班による、パニックに陥った敵兵たちの頭蓋骨を正確に穿つ銃声が、インカム越しに次々と聞こえてくる。


『ピュア! 施設の警備部隊が陽動に釣られて一階と上層部へ向かっている! 最深部へのルートが薄くなっているぞ!』

「ええ。ここからが私の本番よ」


 私はサーバー室を飛び出し、背中に負っていたHK416アサルトライフルを構えた。

 ここからは隠密行動の必要はない。立ち塞がる敵は、すべて物理的に排除するだけだ。


 私は地下三階——最深部のラボと独房エリアへと続くスロープを駆け下りた。

 陽動に気づかず残っていた数人の強化兵が、私の姿を認めて銃を構える。

 だが、遅い。


 タタタタンッ!!


 私は走りながら正確無比なバースト射撃を行い、彼らの膝を砕き、崩れ落ちたところを脳幹へと撃ち込む。血飛沫がコンクリートの壁を汚すが、私の歩みは一歩も止まらない。

 私の脳内は、ただ一つの目的のために極限までオーバークロックされていた。


 アリス。私に感情を、温もりを、笑うことの喜びを教えてくれた私の太陽。

 彼女を失うことは、私の世界が再びあの暗く冷たい納戸の中へ逆戻りすることを意味する。それだけは絶対に許容できない。

 タイガーも大切な仲間だ。彼の豪快な笑い声は、私の日常の良いスパイスだった。だが、もし万が一、究極の二者択一を迫られたならば、私は一切の迷いなくアリスの命を優先する。それが私の感情の優先順位であり、譲れないエゴイズムだ。


「そこをどきなさい。私の『好き』を奪ったゴミ共」


 私は冷たく吐き捨て、立ちはだかる防爆ドアのロックをロータスに遠隔解除させながら、最深部へと怒涛の進撃を続けた。

 弾倉が空になれば、走りながら一秒でタクティカルリロードを完了させる。薬物で痛覚を麻痺させた強化兵だろうと、関節の機能を物理的に破壊されれば動けない。私は彼らをただの『障害物』として無慈悲に蹴散らしていった。


『ピュアさん! その奥の重厚な扉の先が、メインの実験ラボです! 生体反応が複数あります!』


 ロータスのナビゲートを受け、私は血塗れたアサルトライフルを構えたまま、その巨大な鋼鉄の扉の前に立った。

 心臓が、早鐘のように打ち鳴らされている。

 この奥に、彼らがいる。


「ロータス、開けて」

『はいっ!』


 プシュゥゥゥ、という空気の抜ける音と共に、重厚な扉がゆっくりと左右にスライドして開いた。

 内部は、眩しいほどの純白のLEDライトに照らされた、広大な無菌室のような実験ラボだった。無数のモニター、点滴のスタンド、未知の薬液が入ったシリンダーが整然と並んでいる。

 そして、部屋の中央。

 冷たいステンレスの手術台が二台、並べて設置されていた。


「——アリス! タイガー!」


 私は銃を構えたまま、その手術台へと駆け寄った。

 そこに横たわっていたのは、間違いなく私の探していた二人だった。

 手足は分厚い革のベルトで手術台に厳重に拘束され、二人の腕には、何本もの点滴の管が突き刺さっている。そこから、赤黒い、あるいは蛍光グリーンの不気味な液体が、彼らの体内へと絶え間なく送り込まれていた。


「アリス……っ、しっかりして! 私よ、ピュアよ!」


 私はアリスの拘束ベルトをナイフで切り裂きながら、彼女の青白い頬を軽く叩いた。

 アリスは微かに目を開けたが、その瞳孔は異常に拡張し、焦点が全く合っていない。


「あ……ぁ……ぴゅあ、ちゃん……?」

「そうよ! 助けに来たわ。もう大丈夫よ!」


 彼女の生気のない声を聞いて、私の胸の奥がギリッと激しく軋んだ。あの向日葵のような笑顔を、ここまで無惨に壊した奴らを、絶対に許さない。

 隣の手術台では、タイガーも同様に拘束されていた。彼の屈強な肉体は異常な汗に塗れ、苦痛に顔を歪めながら低く唸り声を上げている。


「タイガー! 今解くわ」


 私が彼のベルトにもナイフを入れようとした、その瞬間だった。


「——やはり来たか。私の『最高傑作』よ」


 背後から、スピーカーを通したような機械的な、そして傲慢な声がラボに響き渡った。

 私は瞬時に振り返り、アサルトライフルの銃口を声の主へと向けた。


 ラボの奥、ガラス張りの観察室の扉が開き、十数人の重武装の強化兵を従えて、一人の男が姿を現した。

 濃紺のスリーピーススーツ。顔の上半分を覆う黒いフルフェイスバイザー。

 神宮寺誠一郎。私の伯父であり、この狂った『エデン計画』の首魁だ。


「よくここまで辿り着いた。私の防衛網を物理的に突破するその演算能力と暴力……やはり君は、私と君の父親が夢見た、感情を持たない完全なる兵器だ」

「……黙りなさい」


 私は銃口をピタリと彼の心臓に固定し、氷のような声で吐き捨てた。


「ロータスのハッキングで、遠隔起爆のネットワークは完全に遮断したわ。もうアリスたちを人質にした脅しは通用しない。ここであなたのその頭蓋骨を吹き飛ばして、すべてを終わらせてあげる」

「ほう。ハッキングか。優秀な手駒を手に入れたようだな」


 神宮寺は余裕の笑みを崩さず、ゆっくりと手を叩いた。


「だが、君は一つの重大な計算ミスをしている。ネットワークを遮断すれば、私が起爆スイッチを押せない? ……それは『外部からの通信』に依存した爆弾の場合だけだよ」


 その言葉の意味を、私の脳が瞬時に処理しようとフル回転を始める。

 神宮寺はバイザーを青く光らせ、残忍な声で決定的な事実を口にした。


「君の大切な仲間たちの体内——正確には、彼らの心臓のすぐ傍の動脈壁に、私は『自律型』のマイクロ爆弾をナノマシンと共に注入しておいた。ネットワークなど必要ない。彼らの心拍数が一定の数値を超えた瞬間、あるいは……私がこの手元の『物理的スタンドアローン』な起爆装置のボタンを離した瞬間、彼らの心臓は内側から破裂する」


 男の右手には、親指で強く押し込まれた状態の、小さなスイッチが握られていた。


「……っ!」


 私の全身の血が、一瞬にして凍りついた。

 遠隔起爆ではない。完全に物理的なデッドマン・スイッチ。

 私が彼を撃ち殺せば、彼の親指の力が抜け、スイッチは解放される。そして、アリスとタイガーの心臓が吹き飛ぶ。


「さて、ピュア。前回と同じ選択の時間だ」


 神宮寺は、強化兵たちに顎で合図を送った。

 兵士たちが、無言のままアサルトライフルの銃口を一斉に私、そして手術台のアリスたちへと向ける。


 盤面は、完全に敵の支配下にあった。

 そして、この絶望的な状況下で、私の愛する者たちを巡る、最も残酷で狂気に満ちた演算が、幕を開けようとしていた。


「……撃てないだろう? ピュア」


 神宮寺誠一郎の機械的な音声が、冷たい無菌室のラボに無機質に反響した。

 彼が右手に握りしめた小さな起爆スイッチ。彼が死に、親指の圧力が抜けた瞬間、あるいは外部の監視者が異変を検知した瞬間、アリスとタイガーを包む制圧用マットの内部に仕掛けられた爆薬が起動する。

 ロータスのハッキングで施設内のシステムを掌握したという私たちのアドバンテージは、この極めてアナログで物理的な『人質』という盾によって完全に無力化されていた。


「……汚い真似を」


 私はHK416アサルトライフルを構えたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 銃口は寸分の狂いもなく神宮寺の眉間を捉えている。私の反射神経なら、彼がスイッチの存在を口にした時点で、瞬時に彼の脳幹を破壊することは可能だった。だが、彼が絶命し筋肉が弛緩するまでのタイムラグと、スイッチが解放されて起爆信号が送られるまでの時間を計算すると、アリスたちの生存確率は文字通り「ゼロ」になる。


「汚い? いや、極めて合理的なリスクヘッジ(保険)だよ」


 神宮寺はバイザーの奥で不気味に笑い、背後から現れた重武装の強化兵たちに顎で合図を送った。

 五人の兵士たちが、無言で最新鋭の銃器を構え、私と、そして手術台に縛り付けられたままのアリスとタイガーを半円状に包囲する。


「お前が私を殺せないことは、お前自身の計算回路が一番よく理解しているはずだ。感情というバグをインストールしてしまった欠陥品(お前)は、もはや『仲間』という不確定要素を切り捨てる最適解を導き出せない。……違うかね?」


 私は反論できなかった。

 その通りだ。感情を持たないかつての私なら、自分自身の生存と敵のトップを排除する利益を天秤にかけ、人質ごと敵を吹き飛ばすという極めて冷徹な選択を、一秒の迷いもなく実行していただろう。

 だが、今の私にはそれができない。

 アリスを失うかもしれないという強烈な『恐怖』が、私の論理回路に分厚いストッパーをかけているのだ。


「……あなたの目的は、私を実験動物として連れ戻すことでしょう? だったら、アリスたちを解放しなさい。私があなたの手駒になれば、彼らを殺す合理的な理由はないはずよ」


 私は、自分が彼に屈服するという最大の譲歩カードを切り、冷ややかな声で交渉を持ちかけた。

 私一人で彼らを助け出せないのなら、私が犠牲になるしかない。私の存在価値など、アリスの向日葵のような笑顔がこの世界に存在し続けることの価値に比べれば、塵芥に等しいのだから。


「ほう。自分を犠牲にして仲間を救うか。……まるで三文芝居の主人公だな、純玲」


 神宮寺は忌々しそうに首を振り、ゆっくりと私の前まで歩み寄ってきた。


「だが、それでは不十分だ。お前のその『感情』というエラーコードは、私の計画において非常に不快なノイズだ。私は、お前をかつての純白で完璧な『生きたコンピューター』に戻す必要がある。……そのためには、お前のその無駄な感情を、根元から物理的にへし折ってやらねばならない」


 男の言葉に、私の全身の産毛が総毛立った。

 嫌な予感が、私の脳内の危険予測システムを激しく警報させている。


「……何を、するつもり?」

「簡単なことだ。お前が最も執着しているものを、お前の目の前で破壊してやるのさ。そうすれば、お前の心は再び絶望に沈み、感情をシャットダウンして完璧な機械へと戻るだろう」


 神宮寺は、冷酷な視線をアリスとタイガーが横たわる手術台へと移した。


「……ぐ、ぁ……」


 その時、タイガーの喉の奥から、くぐもった呻き声が漏れた。

 分厚いナイロン製のマットで首から下を簀巻きにされている彼は、薬物の過負荷によって意識が混濁していたが、私の声と神宮寺の気配に反応し、重い瞼を微かに持ち上げたのだ。


「……ピュア……ちゃんか……?」


 血と汗に塗れたタイガーの顔が、焦点の合わない目で私を捉えた。

 彼は現状を即座に把握したようだった。自分が完全に拘束され、爆弾の盾にされていること。そして、私が彼らを庇うために銃を下ろし、神宮寺の前に屈しようとしていることを。


「アホか……撃てや……」


 タイガーが、掠れた、だが確かな意志を持った声で唸った。


「ワイごと……こいつの脳天、ぶち抜けや……っ!」

「タイガー……! ダメよ、そんな計算式は成立しない! あなたの生存確率がゼロになるわ!」

「ええんや……ワイは所詮、ただの強襲要員や……」


 タイガーは、苦痛に顔を歪めながらも、自嘲するように笑った。


 私やアリスのように、脳のリミッターを強制解除し、物理法則の限界を超える異常な身体能力を引き出せる特異体質。

 タイガーには、それがなかった。

 彼は純粋に己の肉体を鍛え上げ、圧倒的なタフネスと格闘センスだけで裏社会を生き抜いてきた男だ。だが、それゆえに限界がある。薬物で強化され、痛みを感じない死兵どもを相手にするには、彼の肉体はあまりにも『普通の人間の限界』に縛られすぎていた。


 彼自身が、その事実を一番よく理解していた。

 ここで自分が人質になり続ければ、私という最高戦力が完全に無力化され、結果としてアリスも、そして組織全体も破滅する。

 だから彼は、自らの命を盤上から投げ捨てるという、極めて漢気にあふれた非合理的な選択を私に突きつけたのだ。


「ピュアちゃん……。アリスの嬢ちゃんは、お前の『光』なんやろ……? やったら、迷うな……! ワイの命で、アリスを……!」

「黙りなさい!!」


 私は、彼の言葉を遮るように叫んだ。

 私の胸の奥で、激しい葛藤が渦を巻く。

 タイガーの言うことは、戦術的には絶対的な最適解だ。彼が犠牲になれば、私はノータイムで神宮寺を撃ち抜ける。アリスの生存確率は飛躍的に跳ね上がる。

 だが、私には彼を切り捨てることなどできない。彼を目の前にして、数分前まで、彼を切り捨てることができるのどと思い込んでいた決意は、塵芥の如く吹き飛んでしまった。彼もまた、私に雑談の面白さを教え、バイクの風の心地よさを教えてくれた、大切な仲間なのだ。


「ほう。素晴らしい自己犠牲の精神だ」


 神宮寺が、まるで面白い実験動物の反応を観察するように、タイガーを見下ろした。

 そして、彼は手元のリモコンを操作し、バイザーの奥で私をじっと見つめた。


「だが、ピュア。お前の脳内の演算は、この男の覚悟とは違う答えを弾き出しているのではないかね?」

「……何を言っているの」

「お前の視線の動き、心拍数の変動、発汗の度合い。……お前は口では『仲間』と一括りにしているが、深層心理では明確な『優先順位』をつけている」


 神宮寺の冷徹な指摘が、私の脳髄を鋭く突き刺した。


「お前が最も執着し、絶対に失いたくないとテリトリーの中心に置いているのは、その黒髪の少女アリスだ。対して、こちらのタイガーは、確かに仲間ではあるが、アリスほどの絶対的な価値を持たない。……お前の計算式において、この男は『最悪の場合、切り捨てても自分の精神は崩壊しない』というポジションに置かれている。違うか?」


「っ……!!」


 私は、呼吸を止めた。

 否定したかった。そんな冷酷な優先順位などつけていないと、感情をぶつけたかった。

 だが、私の超高速で演算を続ける論理回路は、神宮寺の指摘が物理的かつ心理的な『事実』であることを、冷酷に証明してしまっていた。


 もし、アリスとタイガー、どちらか一人しか助けられない究極の二者択一を迫られたら。

 私は、1ミリの躊躇もなくアリスを選ぶ。

 タイガーが死ねば悲しい。喪失感に苛まれるだろう。だが、アリスが死んだ場合の『世界が暗闇に逆戻りする絶望』に比べれば、私の精神はタイガーの死を許容し、自己修復できると計算してしまっているのだ。

 感情を取り戻したと喜んでいた私が、その根底では依然として、他者の命に明確な『価値の優劣』をつける冷酷なバケモノのままだったという事実。


「……私の、心を……勝手に分析しないで……っ」


 私は銃を握る手を小刻みに震わせながら、掠れた声で唸った。


「図星のようだな」


 神宮寺は満足げに頷き、タイガーの横に立った。


「お前は感情を手に入れたつもりでいるが、結局のところ、自分の快不快で他者の命を天秤にかける身勝手な欠陥品に過ぎない。ならば、私がその中途半端な感情の脆さを証明してあげよう」


 神宮寺の親指が、手元のリモコンのボタンの一つに触れた。


「仲間を切り捨てられないと偽善を振りかざすお前が、己の無力さのせいで目の前で仲間を失う絶望を味わうがいい。……この男の命がお前にとって『二番目』だとしても、感情を持った今のトラウマとしては十分に機能するだろう」


「やめろォォォォッ!!」


 私が絶叫し、銃口を上げようとした、その瞬間だった。


「ガハハ……ええ判断や、クソ野郎。……ピュアちゃん、泣くなや。お前は、アリスを……」


 タイガーが、最期に私に向かって、血まみれの顔でニカッと笑った。

 あの時、六本木の裏路地で私をバイクの後ろに乗せてくれた時と同じ、底抜けに明るく、漢気に溢れた猛虎の笑顔だった。


 カチリ、と。

 神宮寺の親指が、無慈悲にボタンを押し込んだ。


 ドフッ!!


 くぐもった、しかし確かな破壊の音が、無菌室に響き渡った。

 タイガーを拘束していた制圧用マットの胸部——心臓部分に仕掛けられていた指向性爆薬が、彼の肉体の内側に向かって起爆したのだ。


 爆発は決して部屋全体を吹き飛ばすような派手なものではなかった。

 だが、その結果は致命的で、あまりにも残酷だった。


「…………ぁ……」


 タイガーの巨体が、一瞬だけビクッと大きく跳ね上がった。

 拘束用マットが内部からの圧力で弾け飛び、彼の分厚い胸板が、肋骨ごと内側から無惨に吹き飛ばされた。

 ドス黒い大量の血液と、砕け散った肉片が、天井に向かって噴水のように吹き上がる。

 タイガーの口から大量の血が溢れ出し、彼の大きく見開かれた目から、急速に命の光が失われていく。

 そして、彼の巨体は、ドサリという重い音を立てて手術台の上に力なく沈み込み、二度と動くことはなかった。


「…………ぁ、あぁ……」


 私の喉の奥から、意味を成さない空気の漏れるような音がこぼれた。

 目の前で、私の仲間が、完全に物理的な機能を停止した。

 私が、彼を見殺しにした。私がアリスの命を優先し、神宮寺の脅しに屈して引き金を引けなかったから。私の身勝手な『優先順位』のせいで、タイガーは切り捨てられたのだ。


「……タイガー……?」


 隣の手術台で意識が混濁していたアリスが、爆発音と血の匂いに反応して薄く目を開け、惨劇の光景を目の当たりにした。

 彼女の虚ろだった瞳孔が、驚愕と絶望で極限まで収縮する。


「うそ……タイガー……っ、いやぁぁぁぁっ!! タイガァァァァッ!!」


 アリスの悲痛な絶叫が、血に塗れたラボに木霊した。

 彼女は拘束されたまま狂ったように身をよじり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、動かなくなった仲間の名を呼び続けた。


 その悲鳴は、私の脳髄を物理的なドリルで削り取るような、強烈なエラーとして私のシステムを蹂躙した。

 私が守りたかったアリスの笑顔。私が絶対に失いたくなかった世界。

 それが今、私の目の前で、最も残酷な形で破壊され、泣き叫んでいる。


「あ、ああああ……ァァァァァァッ!!!」


 私は、両手で頭を抱え、獣のように泣き叫んだ。

 私の世界を構成していた論理の城が、音を立てて崩れ落ちていく。

 タイガーの死。アリスの絶叫。自分の醜いエゴイズム。

 私が彼らを守るために取り戻したはずの感情が、今、私自身の精神を内側から物理的に食い破ろうとしていた。


「素晴らしい。実に美しい絶望のシンフォニーだ」


 神宮寺は、タイガーの返り血をハンカチで拭いながら、狂気に満ちた笑みを浮かべた。


「どうだ、純玲。自分の無力さと、感情というノイズの愚かさを思い知ったか。お前のその中途半端な優しさが、この男を殺し、あの少女を絶望の淵に突き落としたのだ」


 神宮寺は、今度はアリスの胸の奥で点滅する爆弾の起爆スイッチに親指をかけた。

 彼の指が沈み込めば、あるいは私が彼を撃ち抜いて指の力が抜ければ、アリスの心臓はタイガーと同じように跡形もなく吹き飛ぶ。


「さて、次はこの女だ。お前が最も執着しているこの太陽が、お前の目の前で肉塊に変わるのを見れば、お前の感情回路は完全に焼き切れ、私のかわいい人形に戻ってくれるだろう」

「……やめて……」


 私は床に這いつくばったまま、掠れた声で懇願した。

 かつての冷徹な殺し屋のプライドなど、もはや塵芥ほども残っていない。アリスを失うくらいなら、私は何度でもこの男の靴を舐め、彼の人形に成り下がる方がマシだと本気で計算していた。


「アリスだけは……どうか、お願い……っ」

「泣いて命乞いをするか。最高傑作の名が泣くぞ、純玲。……だが、無駄だ。お前のその心を完全にへし折らなければ、お前は再び私のコントロール下で『機能』することはできない」


 神宮寺の親指が、無慈悲にスイッチを押し込もうとした。


「やめろォォォォッ!!」


 私が絶叫し、銃口を上げようとした、その瞬間だった。


「……ピュアちゃん……泣かないで……っ!」


 アリスの拘束された身体から、異常な熱量が爆発的に放出された。


 リミッターの強制解除。

 彼女は、自らの意志で、薬物で麻痺した肉体の限界を突破したのだ。

 通常、彼女がリミッターを外すのは極限の感情——憎悪や怒りが暴走した時だけだ。そして、一度外れれば理性が飛び、周囲のすべてを破壊し尽くす狂戦士と化す。

 だが、今の彼女は違った。

 タイガーを殺された悲しみと怒り以上に、目の前で絶望に打ちひしがれ、私のために心を壊そうとしているピュアを救いたいという、純粋で強烈な『愛情』が、彼女の脳のリミッターを別ベクトルで吹き飛ばしたのだ。


「う、おおおおおおおッ!!」


 アリスの華奢な筋肉が、物理法則を無視した異常な収縮を起こす。

 バキバキと、彼女自身の骨が軋み、筋繊維が引きちぎれる凄まじい音がラボに響き渡った。

 彼女は、首から下を簀巻きにしていた分厚いナイロン製の制圧用マットと、それを縛り付けていた強靭な革のベルトを、ただ純粋な暴力のみで内側から引き裂いたのだ。


 ビリィィィッ!!


 拘束具が破裂するように弾け飛び、アリスの自由な両腕が解放される。

 彼女は拘束具の一部——胸の奥に埋め込まれていたマイクロ爆弾の起爆回路の端末を、自らの爪で皮膚ごと強引にむしり取り、床へと投げ捨てた。


「なっ……!? 馬鹿な、人間の筋力で防刃素材のマットを引き裂けるはずが……!」


 神宮寺が驚愕に目を見開き、スイッチを持つ手が止まる。

 だが、アリスの限界突破の代償はあまりにも大きかった。

 彼女の腕や足の筋肉はすでに何箇所も断裂し、皮膚の下で内出血による赤黒い斑点が広がっている。彼女は手術台から崩れ落ちるように着地し、足に力が入らずその場に膝をついた。


「ピュアちゃん……私は、大丈夫……だから……っ!」


 アリスは、血反吐を吐きながらも、私に向かって向日葵のような笑顔を向けた。

 自分の肉体がボロボロに壊れても、私に希望を失わせないために、起爆回路を物理的に排除してみせたのだ。

 私が神宮寺を撃てば、彼女は助かる。


「……アリスッ!!」


 私は弾かれたように立ち上がり、HK416アサルトライフルを神宮寺へと構え直した。


「よくも……よくも私の太陽を……ッ!!」


 私の瞳の奥に、絶対零度の殺意と怒りが燃え盛る。

 だが、私がトリガーを引くよりも早く、神宮寺の冷酷な命令が下された。


「撃て!! その女の四肢を撃ち抜け!!」


 ラボを取り囲んでいた十数人の強化兵たちが、一斉にアリスに向かってアサルトライフルの銃口を向けた。

 アリスは私の盾になるように前に出ていたため、私の射線が完全に塞がれてしまっている。


 タタタタタンッ!!


 無慈悲な銃声が連続して響き渡った。

 アリスの身体が、銃弾の衝撃で激しく踊る。

 右肩、左太もも、右ふくらはぎ。

 強化兵たちの放った弾丸は、神宮寺の命令通り致命傷(心臓や頭部)を避け、彼女の運動機能を完全に破壊するための精密な部位に正確に撃ち込まれた。


「アァァッ……!!」


 アリスの口から、痛みに耐えきれない悲鳴が漏れた。

 彼女の膝が完全に砕け、血飛沫を散らしながら、冷たい無菌室の床へと無惨に崩れ落ちる。


「アリス!!」


 私は強化兵の隙間を縫って走り、血の海に倒れ込んだアリスの身体を抱き起した。

 彼女の華奢な四肢からは、とめどなく鮮血が流れ出ている。リミッター解除による筋繊維の断裂と、至近距離からの銃創。彼女の肉体は、物理的にこれ以上一歩も動けない状態まで完全に破壊されていた。


「ピュア、ちゃん……ごめん、ね……。私……うまく、立てない、や……」


 アリスは、血に染まった震える手を伸ばし、私の涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった頬をそっと撫でた。

 その手の温度は、どんどん冷たくなっていくのがわかった。


「喋らないで、アリス! 出血が多すぎる、お願い、死なないで……っ!!」

「だいじょうぶ……だよ。私、ピュアちゃんを……絶望、させないって、約束、したから……」


 アリスは、こんな状態になっても、まだ私に向かって微笑もうとしていた。

 私の心が壊れることを、誰よりも恐れ、守ろうとしてくれている。


「……うぁぁぁぁぁっ……!!」


 私は、血まみれのアリスをきつく抱きしめながら、声を枯らして泣き叫んだ。

 彼女は起爆回路を外し、私に神宮寺を撃つチャンスを与えてくれた。だが、今の彼女は自分の力で逃げることもできず、私一人で彼女とタイガーの遺体を抱えてこの強化兵の包囲網を突破することは、物理的に不可能だ。


 私は、仲間を守るための圧倒的な暴力を持っていたはずなのに。

 私のその『暴力』は、彼らを傷つける盾に阻まれ、結果として彼らの命を削る引き金にしかならなかった。

 私の感情が、私を弱くし、私からすべてを奪っていく。


「……美しい自己犠牲だ。だが、これでチェックメイトだよ、純玲」


 神宮寺が、完全に制圧された私たちを見下ろし、靴音を鳴らして近づいてきた。

 彼のバイザーの青い光が、無慈悲に私たちを照らし出す。


「お前はもう、私を撃てない。お前が私を撃てば、この強化兵たちが一斉に火を吹き、お前の大切な『太陽』は確実にハチの巣になるからな」


 その通りだ。

 アリスを抱きかかえたまま、片手で全員の頭を打ち抜くような離れ業は、今の私の精神状態と体勢では不可能だ。私が動けば、アリスが死ぬ。

 完全に、物理的・心理的な退路を断たれていた。


「さて、純玲。お前には最後の選択肢を与えよう」


 神宮寺は、冷酷な目で私を指差した。


「お前が大人しく武器を捨て、私の実験の最終段階の『被検体』として大人しく投降するなら、このアリスだけは生かして、この施設から逃がしてやろう。私が本当に欲しいのはお前のデータだけだからな。ここで本当にこの少女を殺して自殺でもされたらたまったものじゃない。今お前の精神を追い詰めるのはここまででいいだろう」

「……」

「だが、お前が少しでも反抗の意思を見せれば、今度こそこの女の頭蓋骨を吹き飛ばす。……さあ、どうする?」


 私は、腕の中で荒い息を繰り返すアリスを見つめた。

 彼女の向日葵のような笑顔。私に温もりと、美味しい食事と、人間としての感情を教えてくれた、私のたった一つの太陽。

 タイガーは死んだ。私の身勝手な優先順位のせいで。

 なら、せめてアリスだけは。私のこの命と自由を引き換えにしてでも、彼女だけは絶対にこの冷たい地獄から生きて帰さなければならない。


「ピュアちゃん……だめ……。私のために、あなたが、犠牲に……なるなんて……」


 アリスが、掠れた声で必死に私を止めようとする。

 私は彼女の血に染まった額に、そっと自分の額をすり合わせた。


「……いいのよ、アリス。あなたが私に教えてくれたこの感情は、決してエラーなんかじゃなかった。私は、あなたに出会えて、人間になれて……本当に幸せだったわ」


 私は、彼女の耳元で優しく囁き、それから、ゆっくりと立ち上がった。

 手の中のHK416アサルトライフルと、腰のグロック19を、冷たい床の上にカランと音を立てて投げ捨てる。

 それが、私の完全なる降伏の合図だった。

 私が外界に出て初めて手に入れた『自分の意志で振るう暴力』の放棄であり、同時に、神宮寺誠一郎という狂気に完全に屈服したことを示す物理的証明だった。


「……素晴らしい。賢明な判断だ、早乙女純玲」


 神宮寺は、私が武器を捨てたのを確認すると、バイザーの奥で満足げに口角を上げた。


「お前が己の感情というエラーコードに縛られ、その非合理な自己犠牲を選択したこと。それこそが、お前を完璧にコントロールするための最強のリミッターとなる」


 男は顎で合図を送り、周囲を取り囲んでいた重武装の強化兵のうち二人が、無言のままアリスの元へと歩み寄った。

 彼らは血の海に倒れ伏すアリスの身体を乱暴に抱え上げ、止血用の医療キットを取り出し始めた。


「治療を施せ。死なせてはならん」

「……アリス!」


 私が思わず一歩踏み出そうとすると、残りの強化兵たちが一斉に私にアサルトライフルの銃口を向け、警告音を鳴らした。


「動くな。……言ったはずだぞ、純玲」


 神宮寺の声が、氷のように冷たく響く。


「お前が少しでも変な気を起こせば、あるいは逃亡を企てれば、今度こそその女の頭蓋骨を物理的に吹き飛ばす。お前のそのくだらない愛情とやらが、アリスの命を繋ぐ唯一の命綱だということを、骨の髄まで理解しておけ」

「……」

「お前の優先順位のトップにあるその女は、私がお前を『最高傑作』として完成させるための、お前自身が絶対に破ることのできないリミッターとなるのだからな」


 その言葉は、私の論理回路に反論の余地を与えなかった。

 私が抵抗すれば、アリスは確実に死ぬ。タイガーの二の舞になる。

 私の圧倒的な身体能力も、演算速度も、彼女の命という絶対的な人質の前では、ただの無用の長物と化していた。


 アリスが強化兵の手で応急処置を施されながら、痛みに顔を歪め、それでも私を心配するように潤んだ瞳を向けている。

 タイガーの亡骸は、すでに冷たくなり始めている。


「……わかったわ」


 私は、両腕をだらりと下げたまま、虚ろな声で呟いた。

 かつての冷徹な殺し屋のプライドは、もうどこにもない。ただ、アリスの命が助かるというその1点の事実にしか縋ることができず、私の戦意は完全に根元からへし折られていた。


「アリスが無事なら……アリスを助けてくれるなら、私は何でも言うことを聞くわ。あなたの実験動物でも、人形にでもなる」

「ピュアちゃん……っ、だめ……っ!」


 アリスが掠れた声で叫ぼうとしたが、強化兵に口を塞がれ、無理やり鎮痛剤を注射されたことで、彼女の意識は急速に混濁していった。


「ほう。アリスが無事なら何でも言うことを聞く、か」


 神宮寺は、私の完全に戦意を喪失した姿を見下ろし、まるで興味深い実験結果を得た学者のように、感心したような声を上げた。


「お前のその『アリスの優先順位が自分自身の生存より高い』という状態は、感情を取り戻したことによる非常に厄介な副作用だと思っていた。だが……その優先順位を遵守するために、お前が『抵抗を完全に放棄し、自己を犠牲にする』という無駄のない即断即決を下したことは、極めて論理的で、良い兆候だ」

「……」

「お前のその合理的な自己犠牲の計算式は、私のプロジェクトの最終段階において、非常に有用なデータとなるだろう」


 神宮寺は満足げに頷き、アリスを抱えている強化兵たちに向き直った。


「ならば、約束通り、この女は本当に用済みだ。……上で無駄な強襲を仕掛けている『天秤』の連中に、この女を返してきなさい」

「ハッ!」


 神宮寺の命令を受け、二人の強化兵が、意識を失いかけたアリスの身体を担ぎ上げ、ラボの出入り口へと向かって歩き出した。


「待って……アリス……っ」


 私が手を伸ばしかけた瞬間、私の背後から忍び寄っていた別の強化兵が、私の膝裏を警棒で強烈に打ち払った。


「ぐっ……!」


 バランスを崩した私の両腕が、背中側に乱暴に捻り上げられ、冷たい金属の手錠がガチャンと音を立てて掛けられた。

 さらに、私の首筋に、先ほどよりも強力な鎮静剤と筋弛緩剤の混合液が、太い注射針で容赦なく叩き込まれる。


「あ、ぁ……アリス……」


 視界が、急速にブラックアウトしていく。

 全身から力が抜け、私は冷たい無菌室の床へと顔から崩れ落ちた。


 薄れゆく意識の中で、最後に私の網膜に焼き付いたのは。

 強化兵に担がれてラボの外へと運び出されていく、アリスの赤いメッシュの入った黒髪。

 そして、血の海に沈むタイガーの動かない巨体。

 私を冷酷に見下ろす、神宮寺誠一郎のバイザーの青い光だった。


「ようこそ、私の愛しい実験室エデンへ、純玲」


 神宮寺の嘲笑を最後に、私の世界は完全に暗転した。

 私は仲間を守るために戦い、そして、自らの感情の脆さに敗北した。

 私が15年間封印し続けてきた地獄への扉が、今再び、冷酷な音を立てて閉ざされようとしていた。

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