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エピローグ

 空は、どこまでも高く澄み渡っていた。

 純玲さんがこの世を去ってから、数日が経った。


 アドさんが手配してくれたのは、都心から少し離れた、海が見える静かな斎場だった。

 裏社会で生きてきた俺たちに、表立った派手な葬儀をあげる権利はない。参列者はごくわずかで、身内だけの密やかなお別れの場だった。

 祭壇は、純玲さんが好きだったとアリスさんが言っていた、白い百合や淡い色合いの花々で埋め尽くされていた。その中央に飾られている遺影は、高校の入学式の朝に、俺がマンションの玄関で半ば強引に撮らせてもらった写真だった。

 真新しい紺色のブレザーを着て、少しだけ面倒くさそうに、でもどこか照れくさそうにはにかんでいる彼女の顔。

 あの時は、こんな写真が遺影として使われる日が来るなんて、1ミリも想像していなかった。


 斎場には、重く、苦しい沈黙が降り積もっていた。

 最前列の席には、黒いスーツに身を包んだ『天秤』のメンバーたちが並んで座っている。

 いつもは豪快に笑っているファイアさんが、大きな肩を震わせ、両手で顔を覆って声を殺して泣いていた。レイさんは、壁に背中を預けたまま、静かに目を閉じて動かない。彼はおそらく、自分の直感がもっと早く危機を知らせていればと、自分自身を責め続けているのだろう。

 シンさんは腕を組み、唇を強く噛み締めて祭壇を見つめ続けていた。

 モニターさんは、俺の妹の隣に座り、まるで自分の娘を二度も失ったかのように、目頭をハンカチで何度も押さえている。

 そして、アドさん。彼は斎場の隅で、火のついていない葉巻を指先で弄びながら、ただ虚空を見つめていた。組織のリーダーとして、最高の戦力であり、不器用な娘のようでもあった純玲さんを失った彼の喪失感は、俺なんかには到底計り知れないほど深いものだったはずだ。


 裏社会の人間だけではない。

 後方の席には、制服姿の3人の女子高生たちが座っていた。

 純玲さんが高校に入学して、初めてできた表の世界の友達。休日に一緒にパンケーキを食べに行き、カフェを巡って、純玲さんに「普通の女の子」の時間をプレゼントしてくれた子たちだ。

 彼女たちは、顔をぐしゃぐしゃにして、お互いに抱き合いながら泣きじゃくっていた。

「早乙女さん……っ、また一緒に、クレープ食べるって約束したのに……っ」

「なんで……なんで死んじゃうのよ……っ」

 彼女たちの悲痛な泣き声が、斎場に響く。純玲さんが、短い高校生活の間で、どれほど彼女たちに愛され、慕われていたかが痛いほど伝わってきた。純玲さんは「計算式にないバグだわ」なんて言いながらも、彼女たちとの時間を本当に大切にしていたのだ。


 俺のすぐ隣では、退院したばかりの妹が、小さな手で俺の服の袖をギュッと握りしめていた。

 妹の膝の上には、純玲さんが病室で一緒に折ってくれた、色とりどりの折り紙の花が握られている。

 妹は、俺を庇って純玲さんが撃たれたことを知っている。

「お姉ちゃん……ごめんなさい。私のお兄ちゃんを助けてくれて……ありがとう……っ」

 妹は、小さな肩を震わせながら、祭壇に向かって何度も何度も頭を下げていた。

 俺の命は、純玲さんが自分の命と引き換えにして守ってくれたものだ。俺が今ここで息をして、妹の隣に座っていられるのは、彼女が最期に見せてくれた、痛いほどの愛情の証だった。


 そして、誰よりも悲しみの底にいたのは、最前列の真ん中に座る雫さんだった。

 アリスさんに続いて、純玲さんという唯一の頼れる存在までをも失ってしまった彼女の絶望は、言葉で表現できるものではない。

 彼女は、純玲さんの棺の前にすがりつき、喉が枯れるほどに泣き叫んでいた。


「純玲……っ! やだ、置いていかないで……っ! アリスも、純玲もいない世界で、私、どうやって生きていけばいいの……っ!」


 彼女の泣き声が、俺の心臓を物理的に抉り取っていくようだった。

 俺は立ち上がり、雫さんの傍らに歩み寄って、その小さな背中をそっとさすった。俺にも、気の利いた慰めの言葉なんて1つも浮かばない。ただ、俺たちにはもう、お互いしか残されていないのだという残酷な現実を共有することしかできなかった。


 だが、雫さんは、しばらく泣き崩れた後、俺の腕の中でゆっくりと顔を上げた。

 彼女の大きな瞳は真っ赤に腫れ上がっていたけれど、その奥には、かつての言葉を持たなかった孤読な少女の脆さはなくなっていた。


「……泣かない」


 雫さんは、両手で乱暴に涙を拭い、純玲さんの遺影を真っ直ぐに見上げた。


「純玲が……私に、生きる場所を残してくれたから。……アリスがくれた温もりを、純玲が命懸けで守ってくれたから」


 彼女の声は震えていたが、そこには確かな強さが宿っていた。


「私、一人じゃない。……純玲の分まで、私、ちゃんと生きる。……純玲が教えてくれた、人間の心を、絶対に手放さないよ」


 その言葉を聞いて、俺の目からも再び涙が溢れ出した。

 純玲さんが不器用に伝え続けた想いは、確かに雫さんの中に息づいている。彼女の生き様は、決してエラーだらけの無駄なものではなかったのだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 火葬が終わり、すべてが灰になってしまった後。

 俺と雫さんは、アドさんが手配してくれた車で、あのタワーマンションへと帰ってきた。


 玄関の扉を開けると、白と黒で統一された無機質で広大なリビングが、しんと静まり返ったまま俺たちを出迎えた。

 数日前まで、ここに純玲さんがいて、俺が作ったご飯を「美味しいわ」と言って食べてくれていた。アリスさんが買ってくれた黒いレザーソファには、今も純玲さんが座っていた痕跡が残っているような気がした。

 窓の向こうには、東京の夜景がキラキラと輝いている。彼女がこの景色を見つめながら、どんな思いで夜を過ごしていたのか、俺にはもう知る術はない。


「……蓮。これ」


 雫さんが、純玲さんの寝室から戻ってきて、俺に一通の白い封筒を差し出した。

 彼女の瞳には、また少しだけ涙が滲んでいた。


「純玲の部屋の机の引き出しに、入ってた。……私たち宛てみたい」


 俺は、震える手でその封筒を受け取った。

 表には、純玲さんの几帳面で整った字で、『蓮、雫へ』と書かれている。

 俺はソファに腰を下ろし、ペーパーナイフで封を切った。中には、数枚の便箋が折り畳まれて入っていた。

 雫さんが隣に座り、俺たちは一緒にその手紙に目を落とした。


『この手紙を読んでいるということは、私の生命活動はすでに停止し、あなたたちは私のいないこの部屋にいるということね』


 冒頭の一文から、純玲さんらしい、理屈っぽくて冷徹な言葉選びが目に飛び込んできた。

 その文字を見るだけで、彼女の声が脳内で再生され、胸の奥がギュッと締め付けられる。


『私は、近いうちに死ぬと思うわ。

 自分の演算能力が低下したわけでも、敵の戦力を過大評価しているわけでもない。ただ、私にはわかるの。

 私は、両親を殺し、アリスの命をこの手で終わらせ、数え切れないほどの命を奪ってきた。そんなバケモノが、あなたたちと一緒にこんなに幸せな日々を送って、温かいご飯を食べて、普通の高校生として笑って生きるなんて。そんな都合のいい計算式が、この世界で許されるわけがないのよ』


 彼女はずっと、自分の過去の罪に苛まれていたのだ。

 俺やアリスさんがどれだけ「純玲さんは優しい人だ」と伝えても、彼女の根底にある『自分は罰せられるべき存在だ』という論理は、決して覆ることはなかったのだろう。

 だから彼女は、自分がいつか理不尽な暴力によって報いを受けることを、ずっと覚悟して生きていたのだ。


『でも、私が死んでも、あなたたちには生きてほしい。

 この手紙を残したのは、私の所有物をあなたたちに適切に譲渡するための、物理的な手続きよ。

 このタワーマンションの権利も、ガレージにあるポルシェもパニガーレも、私の口座に残っているお金も、すべて蓮と雫で引き継いでちょうだい。

 アリスが私に買ってくれた家具も、服も、全部残しておくわ。彼女からもらった温かいものを、今度はあなたたちが大事に受け継いでいってほしいの』


 私は、便箋を握る手に力を込めた。

 彼女は、自分が死んだ後のことまで、すべて完璧に計算して、俺たちが生きていくための環境を整備してくれていたのだ。


『雫。あなたはもう、言葉を恐れる必要はないわ。あなたには、相手の心を正確に読み取る力がある。アリスがあなたを愛したように、あなたも誰かを愛して、その優しさを世界に与えてあげてね。


 そして、蓮』


 俺の名前が書かれた行で、視界が涙で激しく歪んだ。


『できればあなたに、妹さんと一緒に、この自宅を守ってほしいの。

 私は、あなたが私の実の弟だと知った時、過去の罪悪感から逃げるように、あなたを私の所有物として縛り付けた。

 親の愛情を奪い、あなたに過酷な運命を強いた私を、あなたは恨んで当然だと思うわ。私があなたに姉らしいことをしてあげられたかは、結局最後までわからなかったけれど。

 でも、私に残された未来ある肉親の一人に……アリスと純玲という人間が、確かにこの世界で生きて、誰かを愛したという形を、守っていってほしいの。

 私の勝手なエラー行動で、あなたに重い荷物を背負わせてしまうことを許してね』


 手紙は、そこで終わっていた。

 恨むわけがない。俺が純玲さんを恨む日なんて、1日たりともなかった。

 彼女は、不器用で、いつも理屈っぽくて、俺を振り回してばかりだったけれど。彼女が俺に向けてくれた眼差しは、誰よりも温かく、本当の家族の愛に満ちていた。

 俺が彼女に恋をしたことは、永遠に叶わない秘密になってしまった。

 でも、彼女が俺の実の姉であり、俺を守るために命を投げ出してくれたという事実は、俺の魂に永遠に刻み込まれている。


「……純玲さん」


 俺は、手紙を胸に抱きしめ、声を押し殺して泣いた。

 隣で雫さんも、私の肩に頭を預けて静かに涙を流している。


 彼女が遺してくれたこの部屋には、まだ彼女の匂いが残っているような気がした。

 キッチンに行けば、「塩少々とは何グラムのこと?」と真剣な顔で聞いてくる彼女の姿が浮かぶ。

 窓の外を見れば、「満員電車なんて性に合わないわ」と笑ってバイクのキーを回す彼女の姿が浮かぶ。


 彼女は、もういない。

 でも、彼女が俺たちに与えてくれたこの『居場所』は、確かにここにある。


 俺は、涙を拭って立ち上がり、広大なリビングの窓から、東京の夜景を見下ろした。

 無数の光が、今日も変わらずに瞬いている。

 純玲さんが、アリスさんが、その命を懸けて守り抜いた世界。

 俺は、この光の中で生きていく。妹と一緒に、雫さんと一緒に、彼女たちが生きた証を抱きしめながら、ただ前を向いて歩いていく。


 窓ガラスに映る俺の顔は、もう何かに怯える12歳の少年のものではなかった。

 夜の闇が少しずつ薄れ、東の空が白み始めている。

 今日もまた、新しい朝が来る。

 俺は、静かに息を吐き出し、ただフラットに、目の前に広がる光の海を見つめ続けていた。

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