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冷血の花は愛に散る  作者: 神城零
第三章「始まりの真相」
14/16

第一話「狂気の研究成果」

 目を覚ますと、視界には高く洗練された純白の天井が広がっていた。

 設定時刻通りに開いた遮光カーテンの隙間から、初秋の少しだけ乾いた朝陽が、タワーマンションの主寝室へと差し込んでいる。


 私はゆっくりと上体を起こし、自分が横たわっていたベッドを見下ろした。

 最高級のエジプト綿で織られた純白のシーツ。

 私が感情のオーバーフローを引き起こし、錯乱してズタズタに引き裂き、血で汚してしまったはずのあのシーツは跡形もなく消え去り、全く同じ素材の新しいものに綺麗に取り替えられていた。


「……蓮」


 ぽつりと、口から名前がこぼれた。

 私が医務室で5歳の精神状態に退行し、彼に子守りをさせていた期間の記憶は、15歳の自我と統合されたことで完全に私のアーカイヴに保存されている。

 彼がどれほど献身的に私を世話し、私が不在の間もこのマンションの清掃や管理を怠らなかったか。そして、昨日私がアドの命令で休養を命じられ、一人で帰宅する前に、彼が先回りしてこのベッドを完璧な状態に整えてくれていたことは容易に計算できた。


 私はベッドから降り、シルクのルームウェアのままリビングへと向かった。

 大理石の床は冷たく、そして、広大な部屋の中は耳鳴りがするほどに静まり返っていた。


 キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。

 そこには、タッパーに小分けにされた数日分の食事が、綺麗にラベルを貼られて保存されていた。

 『温める時はレンジで2分。無理しないで休んでくださいね』

 不器用な丸文字で書かれた付箋のメッセージ。


 彼からの気遣いという物理的な証拠を受け取りながらも、私の胸の奥には、ぽっかりと冷たい穴が空いているような奇妙な感覚があった。

 アリスはいない。彼女は今、見知らぬ場所で、あの未知の薬物を投与されながら冷たい手術台の上に縛り付けられているかもしれない。

 蓮もいない。彼は霞ヶ関の事務所の奥深くで、モニターの光に照らされながら、アリスとタイガーを奪還するための情報戦に身を投じている。


 私だけが、この安全で完璧なテリトリーにポツンと取り残されている。

 昨日までなら、他者のノイズが存在しないこの完璧な無菌室こそが、私の最も望む環境だったはずだ。

 だが、感情という機能を取り戻した今の私には、この静寂がただひたすらに『寂しい』というエラーとして処理されていた。


 私はミルでコーヒー豆を挽き、お湯を沸かした。

 温度は93度。抽出時間は正確にストップウォッチで計測する。

 出来上がった琥珀色の液体をマイセンのカップに注ぎ、ソファに深く腰を下ろして一口飲んだ。


「……不味いわね」


 物理的・化学的には完璧なはずのそのコーヒーは、コーヒーとしてして完璧な味わいをしていたはずが、なぜか泥水のように味気なく感じられた。

 アリスが「美味しい!」と笑ってくれないコーヒーに、もはや何の価値も見出せない。人間の味覚が、これほどまでに感情のバイアスに支配される非合理的なシステムだったとは。


 カップをテーブルに置き、私は膝を抱えた。

 アドから「休め」と命じられたが、今の私には何をすればいいのか全くわからなかった。

 これまでは、物理学や化学の専門書を読み漁り、効率的な殺しのシミュレーションを行うことで時間を消費していた。だが、それらはすべて、自分の内側にある『感情のバグ』から目を逸らすための、逃避のルーティンに過ぎなかったのだと今ならわかる。


 本当の私——5歳の純玲は、難しい数式など好きではなかった。

 では、私は何がしたかったのか?


 ふと、私の思考回路は、深い海の底から引き上げたばかりの『過去のアーカイヴ』へとアクセスを始めた。

 両親の記憶だ。


 著名な学者だった父。名家出身のプライドに固執していた母。

 彼らは、私に異常なまでの英才教育を強要し、少しでも計算が遅れれば殴りつけ、暗い納戸に何日も閉じ込めた。

 私は彼らを「私の生存を脅かす障害バグ」と認定し、5歳の時に台所の包丁で物理的に排除した。

 長年、その解釈に疑問を持ったことはなかった。


 だが、感情を取り戻した今の私には、一つの極めて人間らしい、そして純粋な疑問が湧き上がっていた。


『なぜ、彼らはあそこまで私を虐待したのだろうか?』


 優秀な遺伝子を残すため? 世間体のため?

 だとしても、あの暴力と監禁は異常だ。幼児の脳と肉体を破壊しかねないほどの過負荷をかけることは、彼らが望む『優秀な個体の育成』という目的から見ても、明らかに非合理的なアプローチだった。

 まるで、私という存在そのものを激しく憎悪し、壊れることを望んでいるかのような——そんな狂気すら感じられた。


「私のことが、嫌いだった……?」


 口に出してみると、その言葉は存外に私の胸を締め付けた。

 親が子を愛さない。その非合理な事実が、私の中でどうしても計算が合わないのだ。

 彼らはなぜ私を産んだのか。なぜ、あんなにも私を憎んだのか。

 そもそも、私には両親以外に血の繋がった人間はいなかったのだろうか?


 施設に収監されてから10年間、私は外界との接触を絶たれていた。

 アドによって戸籍を『早乙女純玲、20歳』と書き換えられてからは、過去の自分は完全に消滅したものとして扱っていた。

 だが、私のルーツは確かにこの国(日本)のどこかにデータベースとして残っているはずだ。


 私はソファから立ち上がり、蓮がいつも使っていたノートPCの前に座った。

 彼が構築してくれたセキュアな通信環境。2016年から本格的に運用が開始されたマイナンバー制度により、行政のデータベースは以前よりも統合され、ハッキングの難易度は上がっている。しかし、Torネットワークを経由し、『天秤』が保有する警察関係者の裏IDをバックドアとして利用すれば、戸籍や住民票のデータベースにアクセスすることは十分に可能だ。


 私はキーボードに指を乗せ、凄まじい速度でタイピングを開始した。

 コマンドプロンプトに黒い背景と白い文字が次々と流れていく。IPアドレスを数十カ国のサーバーを経由させて偽装し、警察庁の広域ネットワークから自治体の戸籍情報システムへと潜り込む。

 検索クエリに入力するのは、私が唯一覚えている過去の情報。

 私の実の両親の名前だ。


早乙女さおとめ 宗一そういち

早乙女さおとめ 玲子れいこ


 エンターキーを叩く。

 数秒のラグの後、画面にヒットした行政データが展開された。

 死亡届は2005年に受理されている。死因は失血死。事件の詳細は少年法と特例により黒塗り(ブラックアウト)されているが、戸籍の記録は残っていた。


 私は、父・宗一と母・玲子の過去の経歴をスキャンしていった。

 父は都内の有名大学で応用物理学の教授を務めていた。

 母は、地方の歴史ある名家の出身。

 ここまでは私の記憶通りだ。だが、彼らの親族関係のツリーを辿っていくと、いくつか奇妙な事実が浮かび上がってきた。


 父方の祖父母は、私が生まれる前にすでに他界している。親戚付き合いもほとんどなかったようだ。

 問題は、母方の方だった。

 母・玲子の実家は『神宮寺じんぐうじ』という旧華族の流れを汲む資産家一族だった。

 しかし、母の戸籍には、実家である神宮寺家から『分籍』——事実上の勘当(絶縁)をされた記録が残っていたのだ。

 その日付は、1999年。

 私が生まれる、ちょうど1年前のことだった。


「……勘当?」


 私は画面をスクロールさせながら、眉をひそめた。

 母はプライドが高く、常に「私は由緒ある血筋なのよ」と私を怒鳴りつける時に口にしていた。それなのに、実家からは絶縁されていた?

 何があったのか。


 私はさらに深層のデータへと潜り込み、当時の神宮寺家に関連するゴシップや、ネット上の過去のログ(Web Archive)を検索した。

 すると、一つの奇妙な噂が、当時の週刊誌の電子データとして残っているのを発見した。


『名門・神宮寺家の令嬢、学者とのスキャンダル婚の裏側』

『一族がひた隠しにする、遺伝的な精神疾患の噂。令嬢の異常行動とは』


 記事の信憑性は定かではない。だが、そこには母・玲子が若い頃から極度のヒステリーや強迫性障害を患っており、一族の恥として表舞台から遠ざけられていたこと。そして、新進気鋭の学者だった父・宗一が、彼女の資産と名声に目をつけ、ある種の『実験的』な目的で彼女と結婚したのではないか、という下世話な憶測が書かれていた。


「実験的な目的……」


 私は、父の残した論文のデータベースへとアクセスを試みた。

 父・宗一の専門は応用物理学だったが、彼が死の直前まで執筆していた未発表の論文のテーマは、奇妙なことに物理学の範疇を逸脱していた。

 タイトルは、『人間の脳神経回路に対する、極限ストレス下における演算能力の限界突破について』。


 その文字列を見た瞬間、私の背筋にゾクリと冷たいものが走った。


 私は慌ててその論文の概要アブストラクトを読み進めた。

 そこには、こんなことが書かれていた。


『人間の脳は、通常時においては感情や痛覚というリミッターによって、本来の演算能力の数パーセントしか使用していない。しかし、幼少期から継続的かつ極限のストレス環境(物理的苦痛、暗闇による感覚遮断、飢餓など)を与え続けることで、脳の防衛本能が感情の回路を強制的に切断し、純粋な論理演算のみを行う「生体コンピューター」として覚醒する可能性がある。

本研究では、遺伝的に精神の均衡が脆い被験体を用いて、その仮説の立証を試みる——』


「……っ!」


 私は思わず、PCの画面から目を背け、口元を手で覆った。

 胃袋が激しく収縮し、吐き気が込み上げてくる。


 被験体。

 遺伝的に精神の均衡が脆い個体。

 極限のストレス。感覚遮断。


 すべて、私だ。

 私が5歳まで受けてきたあの地獄のような虐待は、ただの「行き過ぎた教育」でも「私への憎悪」でもなかった。

 父にとっては、私が感情を失い、生きたコンピューターとなるための『実験』だったのだ。

 母もまた、精神的な病を抱えたまま、父の実験に加担し、あるいは利用され、私という存在を壊すための装置として機能していた。


 彼らは、私が狂ってバケモノになることを、最初から望んでいた。

 『純玲』という名前。純粋で澄み渡った心。

 それは願いなどではない。感情を持たない、何も書き込まれていない純白のハードディスク(機械)になってほしいという、狂気じみた実験のコードネームだったのだ。


「あ、ああ……」


 私は震える手で頭を抱えた。

 私が5歳で彼らを殺した時、彼らは何を思ったのだろうか。

 恐怖しただろうか。それとも、「実験は成功した」と、狂った歓喜の中で息絶えたのだろうか。

 どちらにせよ、私は彼らの思惑通りに感情を殺し、15歳になるまで完璧なバケモノとして仕上がってしまった。

 そして今、そのバケモノが再び感情を取り戻し、こうして人間のようにおぞましい真実を知って絶望している。


「……ふざけないで」


 私はギリッと奥歯を噛み締め、モニターを睨みつけた。

 過去の呪縛。血の系譜。

 私の存在が、狂った学者の実験の産物だったとしても。

 今の私を形作っているのは、あんな親たちのデータじゃない。外界に出て、アリスが私にくれた向日葵のような笑顔だ。蓮が私のために作ってくれた温かい食事だ。タイガーの豪快な笑い声で、クォーツが差し出してくれた甘いキャンディだ。


 私は親の実験動物じゃない。

 私は、私の意志で、私の愛する世界を守るために暴力を行使する、早乙女純玲だ。


 私は乱れた呼吸を整え、再びキーボードに向かった。

 過去の真実は最悪だったが、これで私が揺らぐことはない。むしろ、私がなぜあのような環境に置かれていたのか、その論理的な背景が解明されたことで、心の奥底にあった『親に愛されなかった』という5歳の私の未練は、完全に物理的な事実として消化デリートされた。


 だが、調査を終了しようとした時。

 母の実家である『神宮寺家』の現在の戸籍データに、奇妙なリンクが張られていることに気がついた。


「……神宮寺家は、数年前に没落して資産を解体されているわね。でも、この関係者の名前……」


 私はそのリンクをクリックし、表示された人物の現在の役職を確認した。


 母の兄にあたる人物。つまり、私にとっての『伯父』だ。

 彼の名前は、神宮寺じんぐうじ 誠一郎せいいちろう

 かつての名家の残党でありながら、現在は政界へと進出し、与党の有力な派閥の幹部にまで登り詰めている。


 そして、その顔写真。

 官公庁のデータベースに登録されている彼の近影が、画面に表示された。

 白髪交じりのオールバック。鋭く冷酷な目つき。五十代後半。

 顔の上半分を覆うバイザーこそ着けていないが、その骨格、耳の形、顎のライン。私には一瞬で識別できた。


「……『設計者(あの方)』」


 私の口から、氷のように冷たい声が漏れた。

 間違いない。昨日、六本木のVIPルームでアリスたちを盾に取り、私を自分側に引き込もうとしたあの男。

 あの男が、私の伯父である神宮寺誠一郎だ。


 なぜ、彼が私の本名を正確に知っていたのか。

 なぜ、私を『最高傑作』と呼び、執拗に欲しがったのか。

 すべてが一本の線で繋がった。

 彼はおそらく、私の父の狂った実験のデータを知っていたのだ。いや、もしかすると、没落しつつあった神宮寺家の再興、あるいは国家を裏から支配するための『感情を持たない完璧な兵隊』を作るプロジェクトは、父とこの伯父が共同で企てていたものだったのかもしれない。


 父の実験は、私というたった一人の個体に対して行われた。

 だが、伯父はそれを大規模にシステム化し、未知の薬物とタトゥーの管理によって、洗脳された私兵の軍隊を量産している。


「……血の繋がり、ね」


 私は画面に映る伯父の顔を、吐き気を催すほどの嫌悪感と、絶対的な殺意を込めて睨みつけた。


 この男が、アリスとタイガーを奪った。

 私の過去という呪縛を利用し、私を絶望の淵に突き落とした。


「絶対に、許さない」


 私はノートPCの画面に映る神宮寺誠一郎の顔を睨みつけ、静かに、しかし確かな殺意を込めて呟いた。

 この男がアリスとタイガーを奪い、私を絶望の淵に突き落とした。そして何より、私が5歳まで受けたあの地獄のような実験の背後に、この男の影がちらついている。

 私はすぐさま手元のスマートフォンを手に取り、暗号化された通信アプリでアドへと連絡を入れた。


『……ピュアか。休めと言ったはずだが。まさか、何かやらかしたんじゃねえだろうな』


 アドの掠れた声が響く。私は彼に送信したばかりのデータファイルのパスワードを告げた。


「休暇中だけど、こんなものを見つけたわ。確認して」

『データ? ……おいおい、なんだこりゃ。神宮寺誠一郎……与党の幹部じゃねえか。しかも、お前の母親の実家だと?』

「ええ。顔の骨格と耳の形状、そして彼が私を『最高傑作』と呼んだ事実。昨夜、六本木でアリスたちを連れ去った『設計者』の正体は、私の伯父にあたるこの男よ」


 通信の向こうで、アドが息を呑む気配がした。


『まさか、黒幕が国会議員で、しかもお前の血縁だったとはな……。だが、これで敵のトップの正体が割れた。ロータスと協力して、こいつの裏の資金ルートや所有している施設を片っ端から洗ってやる』

「アド。私——」

『おい、ピュア。変な気を起こすなよ』


 私が何かを言いかける前に、アドが低く鋭い声で釘を刺してきた。


『相手は国家の権力中枢にいる男だ。証拠もなく真正面から突っ込めば、俺たち『天秤』ごとテロリストとして処理される。アリスとタイガーの居場所を特定するまで、お前は絶対に動くな。いいな?』

「……わかったわ。待機してる」


 私は通話を切り、スマートフォンをテーブルに置いた。

 アドの言うことは極めて合理的だ。確実な座標がわからない状態で暴走すれば、アリスたちの生存確率は下がる。

 だが、私の胸の奥で渦巻くこの不快なノイズは、ただじっと待っているだけでは決して収まらない。

 神宮寺誠一郎。私の母の実家。

 私が5歳で両親を殺した後、彼らは私に一切の接触をしてこなかった。戸籍上の絶縁状態にあったとはいえ、血の繋がった人間がまだこの世界に生きている。

 そして、その血脈が、私から大切なものを奪おうとしている。


 私は立ち上がり、黒のロングコートを羽織った。

 アドには「動かない」と言ったが、それはあくまで『直接的な戦闘行動』を控えるという意味だ。情報収集のためのフィールドワークまで禁じられた覚えはない。

 私はPCで特定した、都内にある神宮寺家の本邸の住所を脳内にインプットし、タワーマンションを後にした。目立つパニガーレは避け、タクシーを乗り継いで目的地へと向かう。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 午後3時。

 東京都内の閑静な高級住宅街。周囲の近代的な豪邸とは対照的に、高い生垣と重厚な黒塗りの門構えを持つ、古い日本家屋がそこにあった。

 表札には、擦れかけた文字で『神宮寺』と刻まれている。

 没落し、資産を解体されたとデータにはあったが、この本邸だけは辛うじて手放さずに維持しているようだ。


 私は門の前に立ち、冷たい風に吹かれながら、自分の内側から湧き上がる奇妙な感覚に戸惑っていた。

 心拍数が上がっている。指先が微かに震えている。

 恐怖?

 私は、自分がこれまで数多の死線を潜り抜け、銃弾の雨の中でも顔色一つ変えなかったことを知っている。それなのに、ただインターホンを押すだけのこの行為に、なぜこれほどまでに怯えているのか。


 血縁。家族。

 私にとって、それらは『私を虐待し、暗闇に閉じ込め、実験動物として扱った存在』という、トラウマの象徴でしかない。

 あの扉の向こうに、両親と同じように私を憎悪し、冷たい目で私を見る人間がいるかもしれない。

 私は無意識のうちに、コートのポケットに忍ばせたグロック19のグリップを強く握りしめていた。


「……大丈夫よ。私はもう、あの時の無力な子供じゃない」


 自分に言い聞かせるように呟き、私は震える指でインターホンのボタンを押した。


 ジリリリリ、という古いベルの音が屋敷の奥で鳴り響く。

 数十秒の静寂の後、ガラガラと重い玄関の引き戸が開く音がし、門の横のくぐり戸から一人の人物が姿を現した。


 上品な薄紫色の着物を身に纏った、小柄で高齢の女性だった。

 背筋は曲がりかけており、顔には深いシワが刻まれているが、その佇まいには旧華族の威厳と静けさが漂っている。彼女が、母・玲子の母親であり、誠一郎の母親——つまり、私の祖母にあたる人物だ。


「……どなたですか?」


 女性は、少し警戒したような、しかし穏やかな声で尋ねてきた。

 私の顔を見ても、彼女の表情に変化はない。無理もない。彼女が私を見たのは、おそらく私が生まれてすぐの頃だけだろう。今の私の姿から、かつての赤ん坊を連想できるはずがない。


 私は乾いた唇を開き、声を絞り出した。

 感情を殺した冷徹な声ではなく、かすかに怯えと緊張が混じった、15歳の少女の不器用な声だった。


「……早乙女、純玲です」


 その名前を口にした瞬間。

 女性の目が、パッと大きく見開かれた。

 手入れされた庭の砂利を踏む足が止まり、彼女は信じられないものを見るように、私の顔を凝視した。


「さおとめ……純玲……?」


 彼女の口から漏れた声は、ひどく震えていた。

 彼女の視線が、私の目、鼻、そして輪郭をなぞる。そして、その目にみるみると涙が溢れ出していくのがわかった。


「……玲子の……純玲ちゃん、なの……?」

「……はい。突然訪ねてしまって、申し訳ありません」


 私が深々と頭を下げて敬語を使うと、彼女は「あぁ……」と泣き崩れそうな声を出して、門を開け放った。


「入りなさい……! さあ、早く中へ……っ」


 私は促されるままに門をくぐり、古い木造の屋敷の中へと案内された。

 通された客間は、古びてはいるものの塵一つなく掃除が行き届いており、畳のい草の匂いと、微かな線香の香りが漂っていた。


「……温かいお茶を淹れますね。少し、待っていてちょうだい」


 祖母は手巾で目元の涙を拭いながら、急いで台所へと向かっていった。

 私は座布団の上に正座し、静かに部屋を見回した。床の間には古い掛け軸があり、その横には小さな仏壇が置かれている。そこには、見覚えのある男女の写真——私が5歳の時に殺した、両親の遺影が飾られていた。


 私の胸の奥が、チクリと痛んだ。

 私は親殺しの殺人鬼だ。彼女からすれば、愛する娘を奪った憎むべき仇のはずだ。それなのに、なぜ彼女は私を家に招き入れ、あんなにも悲しそうに、そして懐かしそうに涙を流したのだろうか。


「どうぞ。……粗茶ですが」


 お盆に乗せた湯呑みを運びながら、祖母が戻ってきた。

 彼女は私の対面に座り、しげしげと私の顔を見つめた。


「ありがとうございます。……あの、あなたが、私の……祖母、ですか?」

「ええ、そうよ。……大きくなったわね、純玲ちゃん。最後に会った時は、まだこんなに小さかったのに……。お母さんの、若い頃にそっくりだわ」


 祖母は優しく微笑んだが、その笑顔には深い後悔の念が滲み出ていた。


「……私を、憎んでいないのですか?」


 私は湯呑みに触れず、単刀直入に尋ねた。


「私が、あなたの娘である玲子さんと、宗一さんを……包丁で刺して、殺したのに」

「……」


 祖母は静かに目を伏せ、小さく首を横に振った。


「憎むだなんて、とんでもない。……あの子たちがあなたに何をしたか、私は後になって知ったのよ。暗い納戸に閉じ込めて、ひどい暴力を振るって……あの子たちは、狂っていたわ。あなたをあんな地獄に追いやった親を、どうして私が責められるでしょう」


 祖母の目から、再び涙がこぼれ落ちた。


「ごめんなさいね、純玲ちゃん。……私が、もっと早く気づいていれば。あの子たちからあなたを引き離して、私が育てていれば、あなたがこんなに重い十字架を背負うことにはならなかったのに……本当に、ごめんなさい……っ」


 祖母が畳に手をつき、私に向かって深く頭を下げる。

 私は驚きで息を呑んだ。

 血縁者とは、私を憎悪し、迫害する存在だとばかり思っていた。だが、目の前にいるこの人は、私の罪を責めるどころか、私を救えなかった自分自身を責めて泣いているのだ。


「……頭を上げてください。私は、あなたが謝るような人間ではありません」


 私は戸惑いながらも、静かに言葉を返した。


「私が今日ここへ来たのは、過去の謝罪を求めるためではありません。……神宮寺誠一郎について、聞きたいことがあって来たのです」


 その名前を出した瞬間、祖母の肩がビクッと大きく跳ねた。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、恐怖に引き攣った目で私を見た。


「……誠一郎に、会ったの?」

「ええ。昨夜、少しだけ」

「あぁ……なんという因果なんでしょう……」


 祖母は顔を青ざめさせ、震える手で自分の胸元を強く握りしめた。


「……あの男は、昔から恐ろしい子だったわ。頭は飛び抜けて良かったけれど、人の心というものが欠落していたの。神宮寺の家を継ぐためなら、他人がどうなろうと知ったことではない。自分の目的のためなら、親兄弟でさえも『駒』としてしか見ていなかった」

「彼が、私の父と共同で、私を実験動物として扱っていたことは知っています。彼は今、何を企んでいるのですか?」


 私が鋭く尋ねると、祖母は悲しげに目を伏せた。


「……詳しいことは、私にはわからないわ。あの男は、私が止めるのも聞かずに神宮寺の資産を食いつぶし、裏の怪しげな連中と手を組んで政界へとのし上がっていった。私とはもう何年も連絡を取っていないの」

「何か、手がかりになるようなものはありませんか。彼は今、私の大切な仲間を人質に取っています。彼らがどこに囚われているのか、どんな組織と繋がっているのか、知る必要があるんです」

「仲間……」


 祖母は私の必死な声色を聞いて、少しだけ驚いたような顔をした。

 私が『大切な仲間』という言葉を口にしたことが、彼女には予想外だったのだろう。


「そう……純玲ちゃんには、大切な人たちがいるのね。あんな地獄を生き抜いて、あなたの心を温めてくれる人たちに出会えたのね……」


 祖母は優しく目を細め、それから、意を決したように立ち上がった。


「詳しい組織のことや、彼らがどこにいるかは本当に知らないの。でも……誠一郎が、何か『とんでもないこと』を企てていることだけは、肌で感じていたわ」


 祖母は部屋の隅にある古い箪笥へと向かい、一番下の引き出しから、小さな桐の箱を取り出してきた。


「誠一郎が最後にこの家を訪れた時、書斎に忘れていったものよ。私は中を見るのが恐ろしくて、ずっとここに隠していたのだけれど……純玲ちゃん、あなたがこれを持って行きなさい」


 祖母が私の前に差し出した桐の箱を開けると、そこには古いUSBメモリと、いくつかの手書きのメモの束が入っていた。

 メモには、複雑な化学式のようなものと、都内のいくつかの施設の名前、そして『エデン計画』という見慣れない単語が記されていた。


「化学式……これは、おそらくアリスたちを支配しているあの未知の薬物の構成式の断片ね。そしてこの施設のリストは、ダミー組織の拠点か、あるいは薬物の製造工場かもしれないわ」


 私はメモを素早くスキャンし、USBメモリをコートのポケットに収めた。

 これは、ロータスに解析させれば、確実に敵の中枢へと迫る決定的な手がかりになる。


「……ありがとうございます。この恩は、必ずお返しします」

「恩だなんて……いいのよ。純玲ちゃん、お願いだから、無理はしないで。誠一郎は、本当に危険な人間よ。目的のためなら、どんな残虐なことでも平気でやるわ。あなたがこれ以上、傷つくような真似だけは……」

「心配しないでください。私は、もう弱くありません」


 私は立ち上がり、祖母に向かって深く、丁寧にお辞儀をした。


「私は、私の大切な人たちを取り戻すために、私が持っているすべての力を使います。あの男の企みは、私が物理的に完全に粉砕してみせますから」

「純玲ちゃん……」


 祖母は涙ぐみながら、私の手を両手で優しく包み込んでくれた。

 その温かく、シワだらけの手の感触は、私が長年拒絶し続けていた『血の繋がり』というものが、必ずしも呪いだけではないのだと教えてくれているようだった。


「気をつけてね。……いつでも、ここに帰ってきていいのよ。ここは、あなたのお母さんの、そしてあなたの家なのだから」

「……はい」


 私は祖母の真っ直ぐな言葉に、少しだけ戸惑いながらも頷いた。

 出されたお茶はすっかりぬるくなっていたが、一口含むと、ほのかな甘みと渋みが口の中に広がった。外界に出てからアリスと飲んだ高級な紅茶とも、蓮が淹れてくれる緻密に計算されたコーヒーとも違う、どこかホッとするような不思議な味だった。


「純玲ちゃんは、あの後……どうやって過ごしていたの?」


 祖母が、私の顔を愛おしそうに見つめながら尋ねてきた。

 私は湯呑みを両手で包み込みながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「児童自立支援施設という場所にいました。山奥にあって、外には出られなかったけれど、ご飯は毎日出ましたし、本がたくさんあったので、ずっと図書館で物理や化学の本を読んでいました」

「そう……。寂しい思いをさせてしまったわね」

「いいえ。当時の私は感情を完全に封じ込めていたので、寂しいという感覚すらありませんでした。ただ、静かで……安全な場所でした」


 私は祖母を安心させるように、少しだけ口角を上げた。


「でも、去年の冬にそこを出て、今は東京に住んでいます。そこで、とても優しい人たちに出会いました。……いつも私のことを気にかけてくれて、美味しいものを食べさせてくれて、一緒に笑ってくれる人たちです」

「まあ……それは、本当によかったわ」


 祖母の目元が再び潤み、彼女はハンカチでそっと涙を拭った。


「あなたが、そんな風に笑えるようになって……温かい人たちに囲まれて生きていると知って、私、本当に嬉しい。お母さんやお父さんのことは、もう忘れて、あなたはあなたの人生を幸せに生きてちょうだいね」


 殺しの仕事や、私が『天秤』という裏組織に身を置いていることは当然伏せた。それでも、私が語ったアリスや蓮たちとの日々は嘘ではない。彼らと過ごす時間は、私にとって何よりも大切な宝物なのだから。


 窓の外の空が少しずつ茜色に染まり始めていた。

 アリスたちの居場所を特定するためにも、早くこのUSBメモリを蓮に渡さなければならない。

 私はそろそろお暇しようと思い、座布団の横に手をついた。


「今日は、お会いできてよかったです。……過去のことが知れて、私の心の中のわだかまりも解けました」

「ええ。私も、生きて純玲ちゃんに会えて、本当によかったわ」


 祖母も立ち上がり、私を玄関まで見送ろうとしてくれた。

 その時、ふと思い出したように、祖母が足を止めた。


「……そういえば、純玲ちゃん。弟さんのことは聞いた?」

「弟、ですか?」


 私は一瞬、首を傾げた。

 弟。その単語で真っ先に思い浮かんだのは、蓮のことだった。

 アドが私の戸籍を書き換えた際、カモフラージュのために彼を私の『双子の弟』として登録した。だが、それはあくまで裏社会の人間が捏造したデータであり、目の前にいる祖母がそんな裏事情を知っているはずがない。


「私に弟は居ませんよ。両親の子供は、私一人だけだったはずです」


 私が答えると、祖母は悲しげに目を伏せ、小さくため息をついた。


「そう……誰も教えてくれなかったのね。無理もないわ。あの凄惨な事件の直後だもの、あなたが知らされていなくても不思議ではないわね」

「どういうことですか?」


 私が尋ねると、祖母は少し躊躇うように視線を泳がせ、やがて静かに真実を語り始めた。


「……あの日。あなたがご両親を……その、亡くした日。玲子のお腹の中には、新しい命が宿っていたのよ。もうすぐ臨月という時期だったわ」

「お腹の、中に……?」


 私の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。

 10年前のあの日の光景がフラッシュバックする。

 キッチンの床に倒れた母親。広がっていく血の海。

 私は感情を殺していたため、母親のお腹が大きかったかどうかなんて記憶に留めていなかった。ただ、私の生存を脅かす存在として、無機質に処理しただけだった。


「玲子は助からなかったけれど、病院に運ばれた後、緊急の帝王切開が行われてね。お腹の男の子だけは、奇跡的に命を取り留めたのよ」

「男の子……私の、実の弟が、生きているんですか」

「ええ」


 祖母は頷き、少しだけ声を潜めた。


「でも、私はその子を神宮寺の家に引き取ることはできなかった。……誠一郎さんが、またあの子にまであの恐ろしい実験をするんじゃないかって、どうしても怖かったの」


 神宮寺誠一郎。あの『設計者』が、私の弟にまで魔の手を伸ばす可能性。

 確かに、彼の思想を考えれば、私と同じ遺伝子を持つ赤ん坊を放置しておくとは思えない。新たなモルモットとして、非道な実験の材料にされていた確率が極めて高い。


「だから私は、神宮寺の血を引いていると誠一郎さんに悟られないように、私たちがこっそり出資している遠方の孤児院に、あの子を預けてもらったの。身元も完全に隠してね」


 祖母は玄関の棚の引き出しを開け、小さな紙切れを取り出して私に手渡した。


「生きていれば、今年で11歳になるはずよ。あなたが今すぐ会いに行く必要はないけれど……もし、いつか心の整理がついたら、たまに気にしてあげてちょうだい」


 渡されたメモには、都内から少し離れた場所にある児童養護施設——孤児院の名前と住所が書かれていた。

 私はそのメモをじっと見つめた。

 私が両親を殺したあの時、私は無意識のうちに、まだ見ぬ弟の命まで奪おうとしていたのだ。だが、彼は生き延びた。

 私と同じ血を分けた、たった一人の弟。

 今年で11歳。


 11歳。

 その年齢の符合に、私の頭の片隅で何かが引っかかった。

 孤児院育ちで、今年で11歳になる少年。

 私のタワーマンションで、毎日私に温かいご飯を作り、「ピュアさんの役に立ちたい」と一生懸命に働いている、私の大切なサポーター。

 早乙女蓮。


『俺たちがいた孤児院の院長は、最低のクズでした。国からの補助金や寄付金を自分のギャンブルと酒代に全部着服して……』


 いつか彼が語っていた過去の言葉が、脳裏に蘇る。

 祖母が「出資している」と言った孤児院。もしその資金が、強欲な院長の懐に入っていたとしたら。


「……まさか」


 私はメモを握りしめ、小さく息を呑んだ。

 世の中に11歳の男の子なんて星の数ほどいる。孤児院で育った子供も珍しくはない。これが単なる偶然である確率は十分に高い。

 だが、私と彼が初めて出会った廃ビルで、彼が名乗った『早乙女』という苗字。私はあの時、単なる偶然だと切り捨てた。

 もし、あれが偶然ではなかったとしたら?

 もし、彼が本当に私の——。


「純玲ちゃん? どうかしたの?」

「……いえ、何でもありません」


 私は思考を打ち切り、メモをコートのポケットに深くしまった。

 今はそんな不確かな仮説を検証している場合ではない。私には、最優先で助け出さなければならない仲間がいるのだ。


「ありがとうございます。このメモは、大切に預かっておきます。……それから、お祖母様も、誠一郎には気をつけてください」

「ええ。ありがとう、純玲ちゃん。あなたもね」


 祖母の温かい見送りを受けながら、私は神宮寺家を後にした。

 夕暮れの街を歩きながら、コートのポケットに入ったUSBメモリと、孤児院のメモの重みを感じていた。

 過去と現在が、目まぐるしく交錯していく。

 だが、私の足取りに迷いはなかった。私が守るべき世界は、もう決まっているのだから。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 夜の帳が完全に降りた頃、私は霞ヶ関の事務所へと到着した。

 地下の専用エリアへと下り、重厚なセキュリティゲートを抜けてアドの執務室の扉を開ける。


「おい、お前……」


 部屋の中では、アドがデスクに広げた大量の資料と睨み合いながら、眉間に深い皺を寄せてタバコをふかしていた。

 隣のサブデスクでは、蓮——ロータスが、数台のモニターに囲まれながら、キーボードを凄まじい速度で叩き続けている。目の下には薄く隈ができ始めており、昨夜から一睡もせずにハッキング作業を続けていることが一目でわかった。


「ピュアさん! どうしてここに……休んでいてくださいって言ったのに」


 私が入ってきたのを見て、蓮が慌てて立ち上がろうとする。

 私は彼を手で制し、アドのデスクの真ん中に、祖母から受け取った古いUSBメモリをトンと置いた。


「だからお前は休暇中だろ。俺の命令が聞けねえのか」


 アドが呆れたようにため息を吐き、タバコの煙を天井に向けて吹き出した。


「たまたま母の実家に行く用事があって、そこで拾ったのよ。神宮寺誠一郎が実家に忘れていったデータよ」

「……なんだと?」


 アドの目の色が変わった。

 彼はUSBメモリを手に取り、まじまじと見つめた。


「あいつが残したデータ……。おい、ロータス!」

「はいっ!」

「すぐにこいつの中身を解析しろ! トラップが仕掛けられてる可能性もある、スタンドアローンの端末を使え!」


 アドがUSBメモリを放り投げると、蓮はそれを見事にキャッチし、すぐに専用のノートPCへと接続した。

 カタカタカタッ、と小気味良いタイピング音が執務室に響き渡る。


「……暗号化されています。かなり古い形式のアルゴリズムですね。これなら、俺の組んだ復号プログラムで数分で突破できます」

「頼むぞ。アリスたちの居場所に繋がる手がかりが、少しでもあればいいんだが」


 アドが腕を組み、モニターの進捗バーを食い入るように見つめる。


 私はその横で、キーボードを叩く蓮の横顔を静かに観察していた。

 真剣な眼差し。少しだけ癖のある黒髪。私とは似ても似つかない顔立ちだ。だが、血の繋がりなんて外見だけで判断できるものではない。

 もし、彼が本当に私の弟だったとしたら。

 私が5歳の時に命を奪いかけた、たった一人の家族だったとしたら。


 ——私は、彼にどう接すればいいのだろう。


 胸の奥がチクリと痛む。

 だが、不思議と嫌な感じはしなかった。

 血の繋がりが呪いだった過去は、今日の祖母との出会いで終わった。もし彼が私の弟なら、彼が私のために作ってくれた食事や、私を慕ってくれるその心の温かさは、私にとってかけがえのない『家族の愛』だったということになる。


「……ピュアさん? どうかしましたか? 俺の顔に何かついてます?」


 視線に気づいたのか、蓮がキーボードから手を離さずに不思議そうに私を見た。


「いいえ、何でもないわ。少し疲れた顔をしていると思っただけよ」


 私がそう答えると、蓮は少しだけ照れくさそうに笑った。


「大丈夫です。アリスさんたちを見つけるまでは、絶対に倒れたりしませんから」


 その真っ直ぐで不器用な優しさに、私は小さく息を吐いた。

 弟であろうとなかろうと、彼が私の大切な仲間であり、私が守るべき存在であることに変わりはない。

 今はただ、目の前の敵を打ち倒し、アリスとタイガーを取り戻すことだけを考えよう。


「……ビンゴです!!」


 数分後、蓮が弾かれたように声を上げた。

 モニターの暗号化解除のプログレスバーが100パーセントに達し、大量のテキストデータと画像ファイルが画面に溢れ出したのだ。


「これは……『エデン計画』の初期の概要書と、神宮寺が個人的に出資している研究施設や倉庫のリストです! なかに、表向きは閉鎖されたことになっている都内の製薬工場の地下プラントの図面があります!」

「製薬工場の地下……。そこが、あの未知の薬物の製造拠点であり、アリスたちが監禁されている場所の可能性が高いな」


 アドが身を乗り出し、画面に表示された図面を鋭い視線でなぞる。


「よくやった、ピュア。そしてロータス。これでようやく、反撃の糸口が掴めたぜ」


 アドの口元に、凶悪な笑みが浮かんだ。

 私もコートのポケットに手を入れたまま、冷たい決意と共に頷いた。

 神宮寺誠一郎。私の過去を弄び、私の現在を奪おうとした男。

 彼がどんな強固な要塞に引きこもっていようと、私たち『天秤』の力を結集すれば、必ず物理的に粉砕できる。


「アド。私はもう十分に休んだわ。出撃の準備をさせてちょうだい」


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