第六話「完全体の再起動」
深夜の六本木。ネオンサインが毒々しくアスファルトを照らす不夜城の裏路地を、真紅のドゥカティ・パニガーレが弾丸のような速度で切り裂いていく。
アクセルを捻り込むと、205馬力を誇る荒々しいエンジンの咆哮が、私の内側で燃え盛る感情のエンジンと完全にリンクし、爆発的な推進力を生み出した。
これまで、私は恐怖や焦りを『生存を脅かす非合理的なバグ』として排除し続けてきた。だが、違う。愛する者を失うかもしれないという強烈な『恐怖』は、今の私の動体視力を極限まで引き上げ、周囲の景色をスローモーションへと変えている。アリスを傷つけた者たちへの『怒り』は、アドレナリンを過剰分泌させ、私の筋繊維が本来持っている出力の限界値を軽々と突破させていた。
感情とは、有機体(人間)が危機的状況を打開するために獲得した、最も強力な物理的ブースターなのだ。
『ピュアさん! 六本木通りに出ます! 交差点のトラフィック、すべて青信号で固定しました! 障害物ゼロです!』
インカムから聞こえるロータスの声には、もはや怯えは微塵もなかった。LTE回線をフル活用し、都内の交通網を意のままに操る彼は、私の完璧な情報処理端末として、その機能を十二分に発揮している。
「上出来よ、ロータス。目標の地下クラブ『エデン』の入り口の構造材と、溶接の強度を算出しなさい」
『クラブの正面シャッターは厚さ15ミリの高張力鋼板! 外側からアーク溶接で六箇所、完全に密閉されています。通常の銃器による貫通・破壊は不可能です!』
「融点と応力の限界値は計算済みよ」
パニガーレのメーターが時速180キロを超え、深夜の六本木交差点を一瞬で通り抜ける。
クラブ『エデン』の入る雑居ビルの前で、私はフロントブレーキを強く握り込み、リアタイヤを滑らせながら車体を真横に向けて急停止した。タイヤが焦げる強烈な匂いが夜気に混ざる。
目の前には、ロータスの報告通り、分厚い鋼鉄のシャッターが下ろされ、外側から鋼材が当てられて頑丈に溶接されていた。敵は初めから、強襲班をこの地下という巨大な密室に閉じ込め、窒息死させる算段だったのだ。
私はバイクのエンジンをかけたまま降り立ち、腰のポーチから小型のC4(プラスチック爆薬)と起爆装置を取り出した。
「溶接部の引張強度は熱と衝撃の複合に弱い。構造上の最も脆い支点にエネルギーを集中させるわ」
私は四つの角と中央の溶接の継ぎ目にC4を均等にセットし、後方へと数歩退きながら起爆スイッチのボタンを押し込んだ。
ドゴォォォンッ!!
深夜の六本木に、鼓膜を劈くような爆音が轟いた。
正確に計算された指向性爆薬の爆風が、溶接箇所を局所的に溶断し、分厚い高張力鋼板のシャッターを内側へとひしゃげさせる。
私は爆風の余韻が残る中、再びパニガーレに跨り、クラッチを乱暴に繋いだ。
吹き飛んだシャッターの隙間を突き破り、そのまま地下へと続く薄暗いスロープを、車体を深くバンクさせながら一気に駆け下りる。
スロープを抜け、重厚な防音扉をバイクのフロントタイヤで蹴り開けた先。
そこは、地獄のような惨状と化した巨大なダンスフロアだった。
2016年の流行であるEDMの重低音が狂ったように鳴り響き、レーザーライトが赤や緑の原色で空間を明滅させている。そして、その極彩色の空間を埋め尽くしているのは、無数の薬莢、血の海、そして虚ろな目をした数十人の薬物中毒の半グレたちだった。
「ヒャハハハッ! まだ動く奴がいるぞ! 殺せェッ!」
敵兵たちが、フロアの中央で背中合わせになって防陣を敷く二人の人影に向かって、アサルトライフルを構えながら群がっていく。
ファイアと、クォーツだ。
ファイアは全身傷だらけになりながらも、奪った鉄パイプを振り回して敵を近づけまいと奮闘している。クォーツも予備の弾倉を撃ち尽くしたのか、落ちていた敵のハンドガンを拾い上げて必死に抗戦していたが、その動きは素人目にも限界が近いことが明らかだった。
だが、その防陣の中に、タイガーとアリスの姿はない。
「……私の仲間に、これ以上触れるな」
私はパニガーレのアクセルを全開にし、フロアの壁面を利用して車体を空中に跳ね上げさせた。
重力と遠心力が交錯する中、私は左手でバイクのハンドルを握ったまま、右手で背中に背負っていたHK416アサルトライフルを抜き放った。
空中に浮かんだバイクの上という極めて不安定な姿勢。しかし、私の脳はすでにターゲット全員の空間座標と、自身の運動ベクトルを完璧に計算し終えていた。
タタタタタタタンッ!!
片手でのフルオート射撃。通常であれば反動で銃口は空を向く。だが、私は全身の筋肉を使ってリコイルを相殺し、ストロボライトの明滅の中で、クォーツたちを取り囲んでいた敵兵の頭部を次々と粉砕していった。
5.56ミリ弾が頭蓋骨を貫通し、ピンク色の脳漿が宙を舞う。薬物で恐怖を失った死兵たちも、物理的に脳幹を破壊されればただの肉の塊だ。
着地と同時にリアブレーキを踏み込み、パニガーレを横滑りさせながら、私はファイアとクォーツの目の前でバイクを停めた。
硝煙とガソリンの匂いが、地下クラブの淀んだ空気を一掃する。
「ファイア、クォーツ!無事!?」
「ピュア……!? お前、正気に戻ったのか!?」
血まみれのファイアが、信じられないものを見るように声を上げた。
私はバイクのスタンドを立てて降り立ち、アサルトライフルの熱い銃身を下げながら短く答えた。
「ええ。再起動は完了したわ。不要なエラーログは全て消去した」
「マジかよ……! 助かったぜ! 弾も尽きて、マジでここで終わりかと思ったからよ!」
「タイガーとアリスの姿が見えないわ。どこに行ったの?」
私が冷徹に尋ねると、ファイアの顔が悔しげに歪んだ。
「俺たちが壁になってる間に、敵の幹部連中が奥のVIPルームにアリスとタイガーを引きずり込んでいきやがった! ドアのロックが掛けられて、俺たちの火力じゃ突破できなくて……クソッ!!」
ファイアが手にした鉄パイプを床に叩きつける。
VIPルーム。そこは防弾・防音仕様の完全な密室のようだった。一刻も早く突入しなければ、アリスの命が危ない。
私が即座に次の物理的突破方法を演算しようとした、その時。
私のライダースジャケットの裾を、小さな手がギュッと力強く握りしめた。
見下ろすと、そこにはクォーツがいた。
彼女の白い頬には血と泥がこびりつき、肩で荒い息をしている。かつて私に明確な敵意と拒絶を向けてきた彼女の大きな瞳は、今、涙でいっぱいに潤んでいた。
「……ピュア」
クォーツが、震える声で私の名前を呼んだ。
私は彼女の目を見つめ返した。以前の私なら、彼女のその非合理な涙の意味を理解できず、単なる邪魔なノイズとして切り捨てていただろう。
だが、今の私には、彼女の心の奥底にある感情の動きが、手に取るように分かった。
それは、私の内側にいた『5歳の純玲』が感じていた孤独や、アリスを奪われることへの恐怖と、全く同じ色をしていたからだ。
「……あなたが私を嫌った理由が、やっとわかったわ」
私はアサルトライフルを背中に回し、クォーツの目線の高さに合わせてそっと膝をついた。
そして、血に汚れた彼女の小さな手を、私の両手で優しく包み込んだ。
「あなたは、アリスのことが大好きなのよね。彼女の優しい笑顔を独占したくて、急に現れた私が彼女の心を奪っていくのが、怖くてたまらなかったのよね」
「……っ!」
「わかるわ。私も、同じだもの」
私の言葉に、クォーツはハッと息を呑んだ。
冷徹で感情を持たないバケモノだと思っていた私が、自分と同じ『嫉妬』と『愛情』を持っていることを告白したからだ。
「……医務室で、私が壊れてしまっていた時。あなたは毎日、私にお菓子を渡しに来てくれた。私がただの無力な五歳の子供になってしまった時、あなたは私を拒絶せずに、不器用な優しさを向けてくれたわね」
私は、統合された記憶のアーカイヴから、彼女が差し出してくれたイチゴ味のキャンディの甘さを引き出し、小さく微笑んだ。
「あの時、5歳の私に優しくしてくれて、本当にありがとう。……そして、今まであなたの気持ちを計算式でしか理解しようとせず、冷たい言葉で傷つけて、ごめんなさい。私も、すごく不器用だったの」
私が素直な謝罪の言葉を口にすると、クォーツの目から、せき止めていたダムが決壊したように、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
「うぅ……っ、ひぐっ……」
彼女は、私の顔を見て、私がもはや『感情のないバケモノ』ではないことを完全に察したようだった。
私の瞳の奥にある、アリスへの狂おしいほどの愛と、それを守るための決意。それが、彼女自身の心と共鳴したのだ。
「……私こそ、ごめん」
クォーツは、しゃくり上げながら、私の手を強く握り返してきた。
その手の温もりは、アリスやロータスと同じ、命の熱を帯びた人間の温かさだった。
「ひどいこと、言った……。あなたを、バケモノなんて、言って……ごめんなさい……っ」
「謝らなくていいわ。私がバケモノだったのは事実よ。でも、今は違う」
私は彼女の涙を親指でそっと拭い、立ち上がった。
振り返ると、まだ多数の敵兵が、フロアの奥から新たな増援として湧き出してきているのが見えた。
「お願い……ピュア」
クォーツが、祈るように両手を胸の前で組み、私を見上げた。
「アリスを……アリスを、助けて……っ!」
その声には、彼女のすべてが込められていた。
私は、一切の迷いなく、力強く頷いた。
「任せて」
私は再びHK416アサルトライフルを構え、チャージングハンドルをガシャリと引いた。
薬室に初弾が送り込まれる冷たい金属音が、私の内なる殺意に火をつける。
「ファイア、クォーツ。ここの残党は私が制圧するわ。私の射線に入らないように、壁際に下がっていなさい」
「お、おう! 頼んだぜ、ピュア!」
私はフロアの奥——アリスたちが引きずり込まれたVIPルームの堅牢な扉へと向かって、静かに歩みを進めた。
私の視界には、もはや一切のエラーコードは存在しない。
あるのは、立ち塞がる有機物を物理的に破壊するための、完璧に最適化された計算式だけだ。
「私の『好き』を奪うゴミ共には、この世界から退場してもらうわ」
私は冷たく宣告し、群がり来る薬物漬けの死兵たちに向けて、容赦のない弾幕を浴びせ始めた。
タタタタタタタンッ!!
HK416アサルトライフルのマズルフラッシュが、ストロボライトの瞬く暗がりに連続して閃光を描く。
私の射撃に、もはや1ミリのブレも存在しない。
敵は痛みと恐怖を薬物で麻痺させている。ならば、彼らの身体の運動機能を根源から破壊すればいい。私はセミオートと3点バーストを完璧なタイミングで切り替えながら、前列の敵の膝関節と大腿骨を撃ち砕いて機動力を奪い、崩れ落ちたところを脳幹への1発で確実に沈黙させていった。
感情を取り戻したことで、私の空間認識能力はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。
アドレナリンが血管を駆け巡り、脳の演算速度を限界以上に引き上げている。敵が銃を構える際の筋肉の収縮、重心の移動、そして放たれる弾道のベクトル。すべてがスローモーションのように視覚化され、私は最小限の動きで銃弾の雨を躱しながら、確実に敵の数を減らしていく。
「バケモノが……! 撃て、撃ちまくれェッ!!」
増援として現れた敵の1人が絶叫するが、その口から放たれる音声データが私の鼓膜に届くよりも早く、私の放った5.56ミリ弾が彼の口腔を貫通して延髄を破壊した。
ものの数分で、フロアに湧き出した増援の第1波は完全に沈黙した。血だまりの上に新たな血が重なり、むせ返るような鉄と硝煙の匂いが空間を支配している。
「……ファイア、クォーツ」
私は空になったマガジンを排出し、腰のポーチから新しいものを装填しながら、背後で息を呑んでいた2人に振り返った。
「あなたたちの体力と弾薬はすでに限界値を超えているわ。このパニガーレを使いなさい。運転はファイア、できるわね?あなたがクォーツを乗せてこの地下から離脱するのよ」
「お、おいピュア! お前はどうすんだよ!」
ファイアが血に染まった鉄パイプを握りしめながら、驚愕の声を上げた。
「私の心配は不要よ。私にはまだ、大好きな仲間を回収するという最大のタスクが残っているわ」
「大好きって…だが、お前1人で……」
「ファイア」
私は冷徹な視線で、巨漢の彼を真っ直ぐに見据えた。
「私の計算式に『敗北』の文字はないわ。あなたたちがここに残れば、私の機動力と射線の邪魔になる。クォーツの安全を確保し、ただちに撤退しなさい。これは、私からのオーダーよ」
その言葉の奥にある私の確固たる決意を感じ取ったのか、ファイアはギリッと奥歯を噛み締め、大きく頷いた。
「……わかった。絶対に戻ってこいよ、ピュア。死んだら承知しねえからな!」
「ピュア……」
クォーツが、潤んだ瞳で私を見つめる。私は彼女の頭にそっと手を置き、1度だけ頷いた。
ファイアがパニガーレに跨り、クォーツをタンデムシートに乗せる。パニガーレは本来タンデムに適した車種ではないが、緊急時の脱出用としては十分な推進力を誇る。
荒々しいエンジンの咆哮と共に、2人を乗せた真紅の機体が、私がこじ開けたスロープを駆け上がって夜の闇へと消えていくのを見送った。
2人の安全は確保できた。
残るは、アリスとタイガーの救出のみ。
私はインカムの通信スイッチを入れ、指揮車両にいる2人に呼びかけた。
「ロータス、アド。聞こえるわね」
『ピュアさん! ファイアさんたちの離脱、監視カメラで確認しました!』
「ええ。問題はフロアの奥にあるVIPルームよ。ファイアの火力でも突破できなかった堅牢な扉があるわ。ロータス、電子ロックの構造を解析して」
通信の向こうで、ロータスが凄まじい速度でキーボードを叩く音が響く。
『……ダメです! 扉のロック機構はネットワークから完全に切り離された独立電源です。外部からのハッキングは物理的に不可能です!』
「なら、物理的に破壊するしかないわね」
『待て、ピュア』
アドの低く冷静な声が、通信に割り込んできた。
『あのVIPルームの扉は、防弾・防爆仕様の特殊鋼材だ。扉のど真ん中にC4を仕掛けても、衝撃が分散して中途半端に歪むだけだ。狙うなら扉の蝶番だ。上下2箇所、そこにエネルギーを集中させて吹き飛ばせ』
「了解。構造の最も脆い支点を破壊するわ」
私は素早くVIPルームの扉に接近し、残っていた小型のC4爆薬を上下の蝶番に正確にセットした。
後方へ下がり、起爆スイッチのボタンを押し込む。
ドァァァンッ!!
局所的な爆発が蝶番の金属結合を粉砕し、分厚い扉が斜めに傾いてバランスを崩す。私はすかさず駆け寄り、助走をつけて扉の隙間に強烈な前蹴りを叩き込んだ。
物理的な支えを失った重厚な扉が、凄まじい音を立てて内側へと倒れ込んだ。
もうもうと立ち込める粉塵と硝煙の中、私はアサルトライフルを構えたままVIPルームへと踏み込んだ。
そこは、外のクラブフロアの喧騒とは対極にある、異様なほど静まり返った豪奢な空間だった。
壁には本革のソファが並び、高級なシャンデリアが天井から吊り下げられている。2016年の東京の裏社会における、権力者たちの退廃的なサロン。
そして、その部屋の中央に。
「——アリス! タイガー!」
私の口から、思わず悲痛な声が漏れた。
2人の姿は、私の想像を絶する無惨な状態にあった。
アリスとタイガーは、警察が暴れる被疑者を拘束する際に使用するような、分厚いナイロン製の『制圧用マット』——全身を簀巻きにする保護用拘束具によって、首から下を完全に包み込まれ、ベルクロのベルトで幾重にも厳重に縛り上げられていた。
強力な物理的拘束により、2人の人間離れした筋力をもってしても、身動き一つとれない状態にされている。
さらに最悪なのは、2人の状態だった。
「……ぁ……ぅ……」
「……」
アリスの目は虚ろで焦点が定まっておらず、口からは微かな呻き声が漏れるのみ。タイガーに至っては、完全に意識を失い、頭部から流れた血がマットを赤黒く染めている。
傷の深さだけではない。彼らの瞳孔の開き具合と、浅く不規則な呼吸のパターンから、強力な筋弛緩剤か、あるいは神経を麻痺させる特殊なガスを吸わされたことは明白だった。
私の大切な所有物が、ゴミのように扱われ、ただの肉の塊として床に転がされている。
——ピキッ、と。
私の内側で、理性と感情を繋ぐギリギリの境界線が、怒りによって赤熱し、激しい火花を散らした。
「よくも……私の仲間に……!!」
部屋の奥から、5人の薬物中毒の武装兵が、私に向かってアサルトライフルを構えるのが見えた。彼らは、アリスたちを拘束し、監視していた見張りだ。
「ヒャハハ! バケモノ女が来やがった! 撃てェッ!!」
敵の銃口が火を噴くよりも早く、私の身体はすでに前傾姿勢で床を蹴っていた。
もはや距離を取る必要すら感じない。私は無意識のうちに、最も残酷で、最も確実な物理的排除を選択していた。
タァンッ! タァンッ!
走りながら放ったセミオートの2発が、まず左右にいた男たちの利き手の手首を正確に粉砕した。
悲鳴を上げて銃を取り落とした彼らを無視し、私は中央の3人の懐へと一瞬で潜り込む。
アサルトライフルのストック(銃床)を振り抜き、1人の顔面を物理的に叩き割る。頭蓋骨が砕ける鈍い感触。そのまま反転し、銃口を次々と残る敵の顎下へと押し当て、ゼロ距離からトリガーを引いた。
パシュッ! パシュッ!
血飛沫が豪奢な壁紙を染め上げる。
手首を砕かれて床でのたうち回っていた最初の2人にも、容赦なく眉間へ1発ずつ弾丸を撃ち込み、永遠の沈黙を与えた。
わずか5秒。
5つの有機体が完全に機能停止し、部屋には再び重苦しい静寂が戻った。
私は血に濡れたアサルトライフルを下げ、アリスたちの元へと駆け寄った。
「アリス! アリス、聞こえる!?」
私は制圧用マットのベルクロを引き剥がし、彼女の顔を覗き込んだ。
アリスは微かに反応を示したが、その瞳にはまだ私の姿がはっきりと映っていないようだった。薬物の効き目が強すぎる。
「ロータス! アド! 2人を発見したわ。重度の薬物投与による意識混濁と、物理的な拘束状態よ。すぐにシンの回収部隊を裏口に回して!」
『了解しました! シンさんにはすでに手配済みです、あと数分で到着します!』
インカムからロータスの緊迫した声が返ってくる。
私がアリスの拘束を完全に解こうとナイフを取り出した、その時だった。
「——素晴らしい。実に合理的で、無駄のない暴力だ。噂以上の出来栄えだよ、『天秤』の最高傑作」
部屋の最奥。
豪奢なデスクの後ろにある、重厚な本棚の隠し扉が音もなく開き、1人の男が姿を現した。
私はナイフを握る手に力を込め、ゆっくりと立ち上がり、その男を冷徹な視線でスキャンした。
これまで対峙してきた半グレや、薬物漬けの兵隊たちとは、纏っている空気が根本的に違った。
男は、仕立ての良さが1目でわかる濃紺のスリーピーススーツを身に纏っていた。年齢は50代前後か。姿勢は真っ直ぐで、歩き方には一切のブレがない。極めて高い水準の教育と、圧倒的な権力を行使することに慣れきった人間の動きだ。
そして何より異様なのは、その顔だった。
男の顔の上半分は、2016年当時としては極めて異質な、黒く滑らかなフルフェイスバイザーのようなデバイスで完全に覆い隠されていたのだ。
バイザーの表面には微かな青い光が流れており、それが高度な情報処理機能を持ったウェアラブルデバイスであることを示唆している。
「……あなたが、『あの方』と呼ばれる黒幕かしら」
私が銃口を男に向けたまま問いかけると、男は余裕の笑みを浮かべながら、パン、パンとゆっくり拍手をした。
「いかにも。だが、『あの方』などという時代錯誤な呼び方は好まない。私はただの、この国を次のフェーズへと進めるための『設計者』に過ぎないからね」
男の声は、変声機を通しているのか、機械的で奇妙な響きを持っていた。
だが、その威圧的なトーンと、スーツの襟元に微かに覗くピンバッジの形状——それは間違いなく、この国の行政、あるいは立法機関の中枢に座る『政治家』のものであると、私のデータベースが警告を発していた。
「設計者、ね。薬物で未成年を洗脳し、タトゥーで家畜のように管理することが、あなたの言う次のフェーズなの?」
「そうだ。個人の非合理的な感情や人権などという古い概念は、国家の最適化において最大のバグとなる。だからこそ、私は人間の脳を直接ハッキングし、完璧な『手足』として機能する兵隊を量産しているのだよ。……君たち『天秤』が、司法の裏で暗躍する非公式の暴力装置であるようにね」
男はデスクに手を置き、バイザー越しの視線を私へと向けた。
「早乙女純玲。君のデータはすべて手元にある。感情を持たず、ただ物理法則と論理に従って殺戮をこなす、完璧な有機機械。君こそが、私の求める究極の理想形だ」
男の口から発せられた私の本名に、私はピクリと眉をひそめた。
「私のプロジェクトには、君のような純粋な暴力が必要だ。アドの元を離れ、私の手駒にならないか? そうすれば、そこに転がっている旧世代のゴミ共の命だけは助けてやろう」
その男の傲慢な提案を聞いた瞬間。
私の胸の奥で、かつてないほどの激しい怒りが、冷たい炎となって燃え上がった。
「……私の仲間を、ゴミと呼んだわね」
私はHK416アサルトライフルのセレクターをフルオートに切り替え、銃口を男の心臓にピタリと固定した。
「あなたは致命的な計算ミスを犯しているわ。私はもはや、感情のない機械ではない。愛する者を傷つけたゴミを物理的に消去することに、最高の快楽と合理性を見出す、真のバケモノよ」
「ほう。感情の芽生えか。それは残念なエラーだ」
男が嘆息するように首を振る。
その直後、男の背後の隠し扉から、これまでの敵とは明らかに装備の質が違う、重武装の強化兵たちが無音で姿を現し始めた。
黒一色のタクティカルギアに身を包み、暗視スコープ付きのヘルメットを被った五人の兵士たち。手にしているのは、西側諸国の特殊部隊で採用されている最新鋭のアサルトライフルやサブマシンガンだ。薬物で暴走するだけの半グレとは違い、彼らの動きには高度な軍事訓練を受けた者特有の無駄のない統制があった。
盤面は最終局面。
私は、自分の内なる感情のエンジンを最大出力まで引き上げ、目前の『絶対的な敵』を排除するための完璧な計算式を、脳内で完成させていた。
この距離なら、強化兵たちがトリガーを引くよりも早く、私のフルオート射撃が彼らのバイタルエリアを制圧できる。
「……消えなさい」
私がHK416アサルトライフルのグリップを握り直し、発砲の意思を込めた筋肉を収縮させようとした、その瞬間だった。
「待て。撃つな、早乙女純玲。私にはもう、ここで君と戦う気はない」
『あの方』と呼ばれる男が、両手を軽く顔の高さまで上げ、降伏に似たポーズをとって私を制止したのだ。
背後の強化兵たちも、男の合図に従って銃口を床へと下げた。
「戦う気がない? これだけ私の仲間を傷つけておいて、今更命乞いでもするつもり?」
「命乞い? まさか。私は極めて合理的な『交渉』を提案しているのだよ」
男はバイザーの奥で不気味に目を細めたように見えた。
「君という最高傑作が、私の予想に反して『感情』という不要なアプリケーションをインストールしてしまったことは遺憾だ。だが、それは逆に、君をコントロールするための新たな脆弱性が生まれたということでもある」
「……何が言いたいの?」
「簡単なことだ」
男は、床に転がっているアリスとタイガーを顎でしゃくった。
「その二人——アリスとタイガーを、少しばかり借りてもいいだろうか?」
私は、己の耳を疑った。
この男は狂っているのか。これほどの惨状を作り出しておいて、今から私の大切な仲間を連れ去ると、堂々と宣言したのだ。
「許可するはずがないでしょう。頭の回路がショートしているの? あなたたちをここで物理的に排除すれば、それで終わる話よ」
「だろうな。君のその演算能力と暴力があれば、私とこの兵士たちを数秒で肉の塊に変えることなど容易いだろう。……だが、それは『君が私の提案を拒否した場合』の話だ」
男はスーツの内ポケットから、黒い小さなリモコンのようなデバイスを取り出した。
「君が許可しないと言うなら、仕方がない。……じゃあ、ここで殺してしまおう」
「……!」
「君が先ほど引き剥がした制圧用マット。その内部には、すでに小型のプラスチック爆薬が仕込んである。二人の心臓の真裏にね。私がこのボタンを押せば、彼らの上半身は跡形もなく消し飛ぶ仕組みだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように凍りついた。
私の視線が、無意識にアリスとタイガーを包む分厚いマットへと走る。確かに、彼らを拘束しているナイロン素材の内部に、不自然な膨らみがある。私が彼らを助け起こそうとした時には、薬物の影響に気を取られて気づかなかったのだ。
「……脅しのつもり? 私の銃弾があなたの脳髄を破壊する速度は、あなたの親指がそのボタンを押し込む筋肉の収縮速度よりも速いわ。あなたがボタンを押す前に、私はあなたを機能停止させられる」
私は銃口を男の眉間から1ミリも動かさずに、冷徹な物理法則を突きつけた。
だが、男の余裕の態度は全く崩れなかった。
「そうだね。君の反射神経なら、間違いなく私を即死させられるだろう。だが……私の心拍が停止すれば起爆するデッドマン装置が組み込まれていたらどうする? あるいは、この部屋の四隅を見てごらん」
男の言葉に従い、私は視線をわずかに動かした。
VIPルームの天井の四隅に、緑色のランプを点滅させる小型の監視カメラが設置されている。現在の4G LTE回線を用いれば、高画質の映像を遅延なく外部へストリーミングすることが可能だ。
「この部屋の映像は、安全な場所にいる別の部下がリアルタイムで監視している。君が私を撃った瞬間、あるいは二人のマットから爆薬を取り外そうとした瞬間、遠隔操作で起爆コードが送信される。私の持っているこのリモコンは、あくまで手動のフェイルセーフに過ぎない」
男は冷酷な笑みを浮かべた。
「君に選択肢はない。私を撃てば、この二人は死ぬ。君が私に従わなければ、アリスとタイガーは有無を言わさずここで肉片に変わるということだ」
「……っ!」
私の脳内で、超高速のシミュレーションが駆け巡る。
男を撃つ。同時にカメラをすべて破壊する。
——ダメだ。タイムラグが数コンマ発生する。外部の監視者が異変を察知し、起爆ボタンを押すリスクが排除できない。
電波ジャマーを使用する。
——手元に機材がない。ロータスに指示を出しても、間に合わない。
私がアリスたちを抱えて爆風から逃れる。
——不可能だ。爆薬が密着している以上、彼らの肉体の損傷率は100パーセントになる。
計算結果は、どれも『アリスとタイガーの死』という、私にとって絶対的に許容できないエラーを吐き出し続けていた。
以前の私なら、どうしていただろうか。
『機能不全に陥った仲間は切り捨てるのが合理的だ。自分自身の生存と、敵のトップを排除する利益を天秤にかけ、敵を撃つ』
そう判断し、1秒の迷いもなく引き金を引いていただろう。
だが、今の私は違う。
感情を取り戻した私にとって、アリスやタイガーは、決して切り捨てていい『ただのパーツ』ではなかった。
彼らは、私が外界で見つけた大切な居場所だ。彼らの笑顔を、温もりを、こんな暗い地下の冷たい床の上で、永遠に失うことなど、絶対に耐えられない。
仲間を失う確率が1パーセントでも存在するのなら、私はその物理的リスクを冒すことはできない。
「……くっ」
私は、ギリッと奥歯を噛み締め、HK416アサルトライフルの銃口を、ゆっくりと、震える手で床へと下げた。
私の人生で初めての『完全な屈服』だった。
「賢明な判断だ、早乙女純玲」
男は満足げに頷き、強化兵たちに顎で合図を送った。
二人の強化兵が無言で前に進み出ると、意識を失っているアリスとタイガーの身体を、制圧用マットごと乱暴に担ぎ上げた。
「やめなさい……! 乱暴に扱わないで!」
私が思わず一歩踏み出すと、男はスッとリモコンを掲げて私を制止した。
「安心したまえ。彼らは私の新しい実験のための、貴重なモルモットだ。君をこちら側へ引きずり込むための最高の『交渉材料』でもある。君が余計な真似をしない限り、殺すような真似はしない」
「……絶対に、殺さないのよね」
私は、這い出るような低い声で、確認を取った。
「私の仲間を少しでも傷つけたら……地球の果てまで追いかけて、あなたのその頭蓋骨を1ミリ残らず物理的に粉砕してあげる。約束できるわね?」
「あぁ、約束しよう。……では、今日のところはこれで失礼するよ。また会おう、『ピュア』」
男は優雅に一礼すると、強化兵たちと共に、隠し扉の奥へと続く暗い通路へと姿を消していった。
アリスの金色の髪と、タイガーの血に染まった虎柄のスカジャンが、闇の中へと吸い込まれていく。
「……アリス」
私は、彼らを助けに飛び出したいという激しい衝動を、血の滲むような理性で押さえ込んでいた。
今、ここで私が動けば、二人は爆死する。
私の絶対的な演算能力と暴力が、たった一つの『人質』という古典的で非合理的な手段によって、完全に封殺されてしまったのだ。
無力感と、自分の感情の脆さに、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
『ピュアさん! 応答してください、ピュアさん!』
インカムから、ロータスの切羽詰まった声が響く。
「……私よ。戦闘は終了したわ」
『アリスさんたちは!?』
「……連れ去られた。彼らの身体に遠隔起爆の爆弾が仕掛けられていたの。手出しができなかった」
私が屈辱と共に事実を伝えると、通信の向こうでロータスが息を呑み、アドが激しくデスクを叩く音が聞こえた。
『クソッ……! だからあの野郎、俺たちの通信をジャックもせずに余裕こいてやがったのか!』
アドの怒声が響く中、VIPルームの後方、私がこじ開けた正面の扉とは反対側の壁から、ガチャガチャと鍵を破壊する激しい金属音が聞こえてきた。
バァンッ! と勢いよく蹴り開けられた裏口の扉から、アサルトライフルを構えたシンが、数人の事後処理部隊を率いて飛び込んできたのだ。
「ピュア! 無事か!」
シンは部屋の惨状を素早く見渡し、私と、そして開け放たれたままの隠し扉へと鋭い視線を向けた。
「おい、あの奥に逃げたのは誰だ!? アリスとタイガーはどうした!」
「シン、待って!」
シンが隠し扉の奥へとアサルトライフルの銃口を向け、引き金を引こうとした瞬間。
私は全力で床を蹴り、シンの射線上に自らの身体を投げ出した。
「邪魔だ、どけピュア! 敵の親玉が逃げたんじゃねえのか!」
「撃たないで! あの中にアリスとタイガーがいるのよ!」
私はシンの銃身を手で押さえ込み、必死の形相で彼を制止した。
普段の感情を欠落させた私からは想像もつかないような、焦燥に満ちた叫び声だったのだろう。シンは驚愕に目を見開き、引き金から指を外した。
「あの中にいるだと……? なら、どうして追わねえんだ!」
「二人の身体には遠隔起爆式の爆弾が仕掛けられているの。私たちが少しでも敵を攻撃したり、追跡しようとすれば、外部の監視者が起爆スイッチを押す。だから、あえて逃したのよ」
私が早口で事情を説明すると、シンは「チィッ!」と激しく舌打ちをし、銃のストックを壁に叩きつけた。
「卑劣な真似を……! だが、このまま逃がしていいのかよ!」
「今は耐えるしかないわ。敵はアリスたちを『交渉材料』として生かしておくと言った。それを信じて、私たちが次に打つべき物理的な最適解を再構築するのよ」
私は荒くなった呼吸を整えながら、暗い隠し扉の奥を睨みつけた。
彼らを逃がしたことは、私にとって最大の屈辱だ。私の計算式は完全に敗北した。
だが、これは終わりではない。
感情を手に入れた私は、もう二度と大切なものを失ったりはしない。
必ず、アリスとタイガーを取り戻す。
そして、『あの方』と呼ばれるあの設計者には、私の愛する仲間を『モルモット』や『ゴミ』と呼んだ代償を、文字通り骨の髄まで理解させてやる。
「……撤収するわよ、シン」
私は銃を下ろし、冷たい声で告げた。
遠くから、けたたましいサイレンの音が六本木の夜の静寂を切り裂いて近づいてきていた。
都心のど真ん中で起きた爆発と銃撃戦。いくら深夜とはいえ、TwitterなどのSNSが普及しきった二〇一六年現在において、周辺の住人や通行人が異常に気づかないはずがない。警察が到着するのは時間の問題だった。
「ピュア、下がっていろ。ここからは俺たちの仕事だ」
シンが鋭く指示を飛ばし、クリーニング班の黒服たちが一斉にフロアへと散開していった。
彼らの手際はまさにプロフェッショナルだった。床に散乱した薬莢を強力な磁石と掃除機で手当たり次第に回収し、血だまりには特殊な化学薬品を散布してタンパク質の痕跡を急速に分解していく。大量の死体と押収した薬物は、手回しされた偽装の大型トラックへとベルトコンベアのような手際で運び出されていく。
さらにシンはタブレットを操作し、警察内部の協力者——『天秤』の息のかかった上層部——へと連絡を入れ、通報の握り潰しと初動捜査の遅延工作をリアルタイムで構築していた。
私は部屋の隅に立ち尽くしたまま、その光景をただぼんやりと見つめていた。
私の手には、まだ熱を帯びたアサルトライフルが握られている。だが、私の脳内は先ほどの屈辱と無力感でショート寸前だった。
アリスの金糸の髪。タイガーの虎柄のスカジャン。
彼らが暗い隠し扉の奥へと引きずり込まれていく映像が、網膜の裏側に何度も何度もフラッシュバックし、その度に心臓をヤスリで削られるような物理的な痛みを引き起こしていた。
「……終わったぞ、ピュア。撤収する」
わずか十数分後。シンが私の肩を叩いた。
VIPルームの凄惨な痕跡は、素人目にはただの乱痴気騒ぎの後のように偽装されていた。私たちは裏口からビルの外へ抜け出し、シンの用意した偽装バンに乗り込んだ。
霞ヶ関の事務所へ向かう車内は、重く、息が詰まるような沈黙に支配されていた。
いつもなら、私はこの移動時間を使って自分の消費した弾薬の計算や、次なるターゲットへの物理的なアプローチをシミュレーションしているはずだ。だが、今の私には何も計算できなかった。
ただ、失ったものの重さが、私の華奢な身体を押し潰そうとしていた。
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午前三時半。
霞ヶ関の事務所、地下の大会議室。
重厚な扉を開けて中に入ると、そこには今回の作戦に参加したメンバーたちが円卓を囲んで待機していた。
「ピュアさん!!」
一番に駆け寄ってきたのは、指揮車両からいち早く帰還していたロータスだった。彼は私の無事な姿を見て安堵の息を漏らしたが、私の背後にアリスとタイガーの姿がないことに気づき、サッと顔色を青ざめさせた。
ファイアが包帯だらけの痛々しい姿で立ち上がり、クォーツも不安げに私の顔を覗き込む。
ルミナスとレイも、円卓の奥で険しい表情を浮かべていた。
「……ピュア。報告しろ。奥の部屋で何があった」
上座に座るアドが、火のついていない葉巻を指でもてあそびながら、極めて静かな声で尋ねた。
私はゆっくりと円卓の前に進み出た。
息を吸い込む。事実だけを客観的なデータとして出力すればいい。それだけのことだ。
「……VIPルームに突入した時、アリスとタイガーは制圧用マットで拘束され、重度の薬物投与により意識を失っていたわ。見張りの五人を排除した直後、本棚の裏から『あの方』と呼ばれる設計者が姿を現したの」
「設計者だと?」
「ええ。五十代前後。仕立ての良い濃紺のスーツ。襟元には、与党の国会議員が着ける菊花のピンバッジがあった。顔の上半分は、黒いフルフェイスバイザーのようなウェアラブルデバイスで覆われていたわ」
私が特徴を述べると、ロータスが素早く手元のパソコンにキーを叩き、条件に合致する人物のデータベース照合を始めた。
「私は彼を銃撃しようとした。……でも、できなかった」
「どういうことだ。お前の反射神経なら、相手が何人いようが制圧できたはずだろ」
アドの追及に、私の喉の奥がヒュッと鳴った。
声が、震える。
「……アリスとタイガーを包む拘束具の中に、小型のプラスチック爆薬が仕掛けられていたの。設計者の持つリモコンにはデッドマン装置が組み込まれ、さらに部屋の四隅の監視カメラを通じて、外部の人間がリアルタイムで起爆のタイミングを握っていた」
私は両手を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込む痛みで自分の意識を保とうとした。
「私が……少しでも敵に危害を加えれば、二人は確実に爆死する状況だった。設計者は、二人を『交渉材料のモルモット』として連れ去ると言った。私は……彼らが死ぬ確率が百パーセントになる物理的リスクを、どうしても……どうしても、冒せなかったの」
その言葉を口にした瞬間。
私が必死に構築していた理性のファイアウォールが、音を立てて決壊した。
「ごめんなさい……っ!」
私の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
自分でも制御できない。声が上擦り、視界が歪む。冷徹で合理的な殺し屋の機能が完全にショートし、ただ大切なものを奪われた絶望感と、自分の無力さに対する悔しさが、濁流となって溢れ出した。
「私が……私が弱かったから……っ! 計算式なんて何の役にも立たなかった! 目の前にアリスたちがいたのに、何もできなかった……! あいつらが、アリスをゴミみたいに引きずっていくのを、ただ見てるしか……っ、うぅっ……!」
私は両手で顔を覆い、その場に膝から崩れ落ちた。
会議室の冷たい床に突っ伏し、子供のようにしゃくり上げながら号泣した。
「ピュアさん……っ」
ロータスが悲痛な声を上げ、私を庇うように傍らに膝をついた。
会議室は、水を打ったような静寂に包まれていた。
ファイアも、レイも、ルミナスも、そしてシンでさえも、完全に呆気に取られていた。
あの感情を持たないバケモノ、物理法則の具現化のような冷徹な少女が、仲間を奪われたことに対する己の弱さを嘆き、大声を上げて泣き崩れているのだ。誰もが、彼女のそんな姿を見たことがなかった。
「……ピュア」
クォーツが、小さな足音を立てて私に近づき、無言で私の震える背中にそっと触れた。
その温かい手のひらが、私をさらに惨めな気持ちにさせた。
私は彼女に「任せて」と言ったのだ。絶対にアリスを助け出すと約束したのに、私は自分の恐怖に負けて、約束を破ってしまった。
その時だった。
「……甘ったれるな」
円卓の上座から、氷のように冷たく、重い声が降ってきた。
アドだ。
彼は葉巻をテーブルに放り投げ、鋭い眼光で泣き崩れる私を見下ろしていた。
「仲間を大切にするなとは言わねえ。お前がアリスやタイガーを失いたくねえと思う感情は、人間として当然のものだ」
アドの言葉は、淡々と、そして無慈悲に事実だけを切り裂いた。
「だがな、ピュア。お前はただの小娘じゃねえ。『天秤』の最高戦力だ。あの場でお前が引き金を引いていれば、アリスとタイガーを犠牲にしつつも、この一連のデカい陰謀の首魁を確実に討ち取ることができたはずだ。敵のトップを物理的に排除すれば、地下で量産されている何百、何千という薬物中毒の奴隷たちを救い、今後の被害を根絶できたんだぞ」
「アドさん! それはいくらなんでも……!」
「黙れロータス!」
アドの怒号が、ロータスの反論を完全に封殺した。
「大局を見ろ。俺たちの仕事は、法で裁けねえ巨悪を刈り取ることだ。二人の命と、数千人の命と国家の安全。どちらが重いか、以前のお前ならコンマ一秒で計算できたはずだ。お前は自分の個人的な感情を優先し、敵の首魁を取り逃がした。それはプロとして、最悪の『エラー』だ」
「……っ!」
その正論の刃は、私の心臓を深く、えぐり取るように突き刺した。
そうだ。彼の言う通りだ。
私の合理的な計算回路は、確かに『犠牲を払ってでも撃つべきだ』という解を出していた。だが、私がそれを拒絶したのだ。
「違う……っ!!」
私は顔を上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、柄にもなく感情的にアドに向かって叫んだ。
「計算なんてどうでもいい! 数の問題じゃないわ!! アリスとタイガーは、私にとっての『世界』なのよ! 数千人の見知らぬ命を救うために、私の大切な人たちを天秤にかける計算式なんて、最初から存在しないッ!」
「なら、お前のその身勝手な感情のせいで、二人はこれから敵のモルモットとして地獄の苦しみを味わうことになる!お前の弱さが、あの二人を生き地獄に突き落としたんだぞ。それがお前の望んだ結果か?」
「あああああッ!!」
私は両手で耳を塞ぎ、悲鳴を上げた。
アドの言葉は、私が一番恐れていた事実だった。私が決断を鈍らせたせいで、彼らは今も冷たい手術台の上で、あの未知の薬物を投与されているかもしれない。私の弱さが、すべてを台無しにしたのだ。
私は再び床に突っ伏し、声を枯らして泣き続けた。
「……アド、言い過ぎだぜ」
ファイアが、大きな手で頭を掻きながらアドを睨みつけた。
「俺たちだって、もしピュアが俺たちを見捨てて撃ってたら、一生あいつのこと恨んだかもしれねえ。仲間を見捨てる組織に、誰が命を懸けられるってんだよ」
「そうだね」ルミナスも静かに同意した。「僕たちスナイパーも、味方を巻き込む確率が少しでもあれば引き金は引かない。彼女の判断は、チームとして間違っていないと思う」
「直感で言わせてもらうがな」レイも気だるげに口を開いた。「あの場でピュアが撃ってたら、確実に組織は内側から崩壊してたぜ。ピュア自身の精神もな」
クォーツが私の隣にしゃがみ込み、私の手をギュッと強く握りしめてくれた。
ロータスも私の背中をさすりながら、必死に言葉を紡いでいる。
「ピュアさん……自分を責めないでください。ピュアさんが駆けつけてくれなかったら、強襲班の皆さんは全滅していました。俺だって、ピュアさんがアリスさんたちを見捨てなかったこと、誇りに思います」
彼らの優しさが、痛かった。
私は彼らを失望させたのに。最高のバケモノとして機能できなかったのに、彼らは怒るどころか、この役立たずの私を慰めようとしている。
その温もりが、私が取り戻したばかりの脆い感情を、とめどなく揺さぶり続けていた。
「……はぁ」
仲間たちの反応を見て、アドは深く、本当に深いため息を吐いた。
彼は懐から新しい葉巻を取り出し、火をつけずに口にくわえた。
「……わかってるよ。俺だって、あいつらを見捨てろなんて本心じゃ思っちゃいねえ」
アドのトーンが、先ほどの冷酷な上司のものから、少しだけ不器用な、年長者としての声色に変わった。
「今回、敵の罠にハマって全滅しかけた俺たちを救ったのは、間違いなくピュア、お前が感情を爆発させて現場に急行してくれたおかげだ。お前がいなかったら、今頃ここにいる強襲班の四人は全員死体袋の中だっただろうさ」
「アド……」
「お前が『感情』を取り戻したことは、組織にとっても大きなイレギュラーだ。だが……まあ、悪いことばかりじゃねえのかもな」
アドは椅子から立ち上がり、私の前まで歩いてくると、私の頭の上に無造作に大きな手をポンと乗せた。
「せっかく人間らしい感情を取り戻したんだ。一回、休め」
「え……?」
「今のメンタルじゃ、まともな判断もできねえだろ。家に戻って、少し頭を冷やしてこい。お前には休養が必要だ」
その意外な気遣いの言葉に、私は涙に濡れた目でアドを見上げた。
「でも、アリスたちが……」
「あいつらの居場所は、俺たちが必ず探し出す。ただし」
アドは視線を横にずらし、ロータスを見た。
「これから、敵の『設計者』が持つ政治的なネットワークや、ダミー組織の通信ログを洗い出すための激しい情報戦が始まる。ロータス、お前のハッキングスキルは俺の横でフル稼働してもらうぞ。当分家に帰れると思うな」
「はいっ! ピュアさんのためにも、絶対にアリスさんたちの居場所を突き止めてみせます!」
ロータスが力強く頷く。彼はもう、ただの震える少年ではなかった。組織の中枢を担う立派な情報処理担当だ。
「ピュア。お前は家で待機だ。金の心配はするな、アリスの口座からいくらでも引き出せるように手配しておくし、お前の給料もたっぷり弾んでやる」
アドはそう言って、私に背を向けた。
「だが、次にお前が戦場に立つ時は、絶対に迷うな。感情を力に変えて、あのクソ野郎の頭を物理的に粉砕してこい。それが、お前にできる唯一の恩返しだ」
その言葉は、私に対する最高の信頼の証だった。
私は床に手をついたまま、ゆっくりと立ち上がった。
まだ足は震えているし、涙も止まらない。だが、胸の奥にある絶望の泥濘の中に、確かな熱い火種が灯るのを感じていた。
「……ええ。わかったわ」
私は手の甲で乱暴に涙を拭い、仲間たち、そしてアドを真っ直ぐに見据えた。
「私の弱さで彼らを奪われたのなら、私の全部を使って彼らを取り戻す。……待っていてちょうだい、必ず完璧な計算式を組み直して、あいつらをこの世から物理的に消去してみせるから」
私の冷徹な宣言に、ファイアが「それでこそピュアだ!」と笑い、クォーツが小さく頷いた。
私はロータスに後を任せ、一人でタワーマンションへと帰還する途についた。
外界の夜明けが近づいている。私の世界は今、深い悲しみと怒りに包まれているが、この感情こそが、私を最強の怪物へと進化させる原動力なのだと、私は確かに理解し始めていた。




