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冷血の花は愛に散る  作者: 神城零
第二章「情緒宿す麗しき怪物」
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第五話「すきもきらいも、ぜんぶあげる」

 深い、深い、冷たい水の底に沈んでいるようだった。

 私の意識は、タワーマンションの寝室で発狂し、システムクラッシュを引き起こしたあの夜から、肉体という名のハードウェアの主導権を完全に手放していた。


 暗闇の中で、私はただ1つの『観測窓』から外界の様子を眺めていた。

 表層の肉体を動かしているのは、15歳の私ではない。エラーの蓄積による過負荷から逃れるため、脳の防衛本能が強制的にロールバックさせた『5歳の純玲すみれ』という古いOSだ。


 私は、内側に引きこもったまま、その5歳の私が体験する世界を、まるで映画のスクリーンのように無感情に記録し続けていた。


 医務室の白い天井。

 おじちゃんと呼んで慕う、ロータスの泣きそうな顔。

 ありすおねえちゃんと呼んで抱きつく、アリスの温かい腕。

 タイガーの持ってくる甘いプリン、ルミナスの花、シンの不器用な視線、そして、クォーツが震える手で差し出してくれたキャンディ。


 5歳の私は、それらを何の疑いもなく受け入れ、笑い、無邪気に甘えていた。

 内側にいる15歳の私は、その光景を見ながらも、外部に干渉する演算能力を喪失していた。エラーコードの海に溺れ、自分という存在の『解』を見つけ出せない限り、私は2度と表層へ戻ることはできない。


『どうして私は、生きているのか』

『なぜ、私は人間のように感情のバグを起こすのか』


 その問いに答えるためには、私が15年間、厳重なファイアウォールの奥底に封印し、アクセスを拒絶し続けてきた『原初のデータ』——5歳までの記憶のアーカイヴを、完全に解凍するしかなかった。

 私は、暗い深海の底で、重く錆びついた記憶の扉を開け放った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 私の両親は、狂っていた。

 いや、世間の基準で言えば、彼らは『教育熱心な立派な親』だったのかもしれない。父は著名な学者であり、母もまた名家出身のプライドに凝り固まった女だった。

 彼らにとって、自分たちの遺伝子を受け継いだ子供は、自らの優秀さを世間に証明するための『作品』でなければならなかった。


 私は、不幸なことに、生まれつき異常なまでに聡明な脳を持っていた。

 言葉を理解するのも、文字を読むのも、複雑な数式を解くのも、与えられたパズルを完成させるのも、同年代の子供たちとは比較にならないスピードで処理できた。


 それが、地獄の始まりだった。


『なぜこんな簡単な問題が解けないの!?』

『純玲! ピアノの打鍵のタイミングがコンマ1秒遅れているぞ! やり直しだ!!』


 記憶のスクリーンに再生されるのは、歪んだ顔で怒鳴り散らす両親の姿。

 彼らの要求するハードルは、日々異常な速度で高くなっていった。3歳で微分積分を強要され、4歳で複数言語のマスターを義務付けられた。


 私が1つでも間違った解を出せば、あるいは疲労からほんのわずかでも反応が遅れれば、容赦のない物理的な制裁が飛んできた。

 平手打ちが頬を張り飛ばし、硬い革靴が小さな腹を蹴り上げる。

 頬の粘膜が切れ、口の中に鉄の味が広がる。


 だが、彼らはそれだけでは満足しなかった。彼らが最も好んで使用した『教育プログラム』は、物理的な暴力ではなく、精神の完全な破壊だった。


『お前は本当に悪い子だ。出来損ないめ! 頭を冷やしなさい!』


 両親の怒号と共に、私の首根っこが掴まれ、引きずられていく。

 投げ込まれるのは、家の地下に作られた、電気も窓もない完全に密閉された納戸だった。


 分厚い鉄の扉が閉められ、外から鍵がかけられる。

 光子フォトンが一切存在しない、完全な暗闇。

 音もない。あるのは、コンクリートの床の冷たさと、埃の匂いだけ。

 そして、床の隅に無造作に置かれた、プラスチックの皿。そこには、犬の餌のように水が少しだけ張られていた。


『反省するまで、そこから出しませんからね!』


 その言葉を最後に、私はその暗黒の空間に丸1日、長い時は2日以上も放置された。


 真っ暗で、寒くて、痛くて、怖い。


「……あけて……。ぱぱ、まま、ごめんなさい。あけて……」


 5歳の私は、扉を小さな拳で叩き、血が滲むまで引っ掻いて、泣き叫んだ。

 だが、どれだけ泣いても、どれだけ謝っても、扉が開くことはなかった。

 飢えと渇きが内臓を締め付け、喉は干からび、極限の孤独が脳髄を犯していく。

 皿に張られた水を啜りながら、私は暗闇の中でガタガタと震え続けた。


 ——なぜ、私はこんな目に遭わなければならないの?

 計算しても、答えは出ない。私が計算を間違えたから? ピアノを弾き間違えたから? たったそれだけのことで、命の危機に直面するほどの苦痛を与えられるのは、合理的なのか?


 泣いた。毎日、毎日、暗闇の中で泣き叫んだ。


 だが、そのストレスは、ある日突然、人間の脳が処理できる限界キャパシティを超えた。


 痛い。苦しい。怖い。

 これらの信号シグナルを受信し続けると、私の有機体としての機能は完全に停止してしまう。自己防衛のための防衛本能が、私の脳のシステム領域に強権的に介入し、緊急の書き換え(アップデート)を実行した。


 プツン、と。

 痛覚を処理する大脳皮質の回路が、物理的に遮断された。

 扁桃体が司る『恐怖』や『悲しみ』のレセプターが、完全に焼き切られ、機能停止した。

 その瞬間、暗闇の納戸の中で、私は泣くのをやめた。

 涙腺は乾き、鼓動はフラットになり、全身の痛みがフッと消え去った。


 あぁ、そうか。

 痛みも感情も、生存に不要なエラーデータだったのだ。

 私は機械になればいい。外界からの不快な刺激をすべて論理と物理法則のパラメーターに変換し、感情というノイズを排除すれば、私はこの地獄で完璧に機能し続けることができる。


 こうして、純白の狂気を持つ15歳の『ピュア』の原型が、暗闇の納戸の中で完成した。


 そして、その数日後のことだ。

 私は納戸から出され、いつものように勉強を強制されていた。両親は食事の時間を与えなかった。私の胃袋は完全に空になり、血糖値の低下が脳機能に深刻なエラーを引き起こし始めていた。


 このままでは、有機体として餓死する。

 私は極めて合理的な判断に基づき、台所へ向かった。

 冷蔵庫を開け、そこにあったハムとチーズを取り出し、口に入れた。

 カロリーの摂取。生存のための至極当然の行動だ。

 だが、その光景を見た母親が、金切り声を上げて狂乱した。


『何をしてるの!! 盗み食いをするなんて、教えの守れない悪い子ね!!』


 父親が駆けつけ、私の頬を全力で殴り飛ばした。

 私は床に転がったが、痛みは全く感じなかった。ただ、重心が崩れ、頭部への衝撃が3半規管を揺らしたという物理的現象として処理した。


『またあの部屋に閉じ込めてやる! 今度は3日間、水もやらないからな!!』


 両親が私の腕を掴もうと迫ってくる。

 その時、私の脳内で、1つの完璧な計算式が成立した。


 ——私は今、カロリーを摂取しなければ死ぬ。

 ——だが、この有機物(親)たちは、私の生存行動を非合理的な暴力で阻害し、さらに3日間の軟禁という致命的なダメージを与えようとしている。

 ——彼らは私を保護する存在ではない。私の生存を脅かす、明確な『障害バグ』である。


 障害は、排除しなければならない。

 物理的に、完全に。

 私は感情をピクリとも揺らすことなく、キッチンのシンクに置かれていた3徳包丁を手に取った。


『な、何をする気だ……! このっ、出来損ないが!!』


 向かってくる父親の腹部に向かって、私は全体重を乗せて包丁を突き立てた。

 肉を裂き、内臓を貫く感触。

 父親が驚愕と苦悶の表情を浮かべ、血を吐いて倒れ込む。

 それを見た母親が悲鳴を上げて逃げようとしたが、私はその背中を追い、頸椎の隙間に正確に刃を突き刺した。


 何度も、何度も、彼らのバイタルサインが完全に停止するまで、私は包丁を上下させた。

 血の海が広がり、生温かい液体が私の身体を赤く染め上げる。

 私はその光景を、何の感慨もなく見下ろした。


「……鬱陶しかったから」


 ただ、それだけだ。

 私の生存を脅かすノイズを消去しただけ。

 それが、私が5歳で両親を滅多刺しにした、本当の理由だった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 記憶の再生が終了した。

 深海の底で、15歳の私は静かにその真実を受け止めた。

 私は壊れている。

 極限のストレスから逃れるために、自分の感情と痛覚を殺し、全てを理屈でコーティングして生きてきた、ただの欠陥品だ。


 では、感情を殺し、壊れる前の『本当の私』は、あの暗闇の納戸の中で、何を思い、何を願っていたのだろうか。

 痛い。苦しい。怖い。

 それだけじゃない。恐怖の裏側には、常に叶えられなかった強烈な『渇望』があったはずだ。


 ——私は。


 私は、暗闇の中で、ただ、温かい手が欲しかった。

 私を殴る手ではなく、私を優しく抱きしめてくれる手が欲しかった。

 難しい数式を解くことを強要されるのではなく、「すごいね」「いい子だね」と、ただ無条件に褒められたかった。

 愛されたかった。

 人の温もりを感じたかった。


 私は、自分の心に素直に生きたかっただけなのだ。

 親の顔色を窺って計算し続けるのではなく、心の赴くままに、自分の好きなものを「好き」だと言って笑いたかった。


 そうか。

 私は、外界に出てから出会ったものたちに対して、その『本当の願い』を無意識のうちに投影していたのだ。


 アリスが私に向けてくれた、打算のない向日葵のような笑顔。

 彼女が私を「可愛い」「好き」と肯定してくれた時、私の心の奥底に眠っていた『愛されたい』という5歳の私が、どれほど救われたか。

 だから私は、アリスが好きなのだ。

 理屈じゃない。彼女が私の精神安定に機能しているからじゃない。ただ、私の心を温かくしてくれる彼女という存在そのものが、大好きなのだ。


 漆黒のポルシェや、真紅のパニガーレ。

 あれらを見た時、私の胸を高鳴らせたのは、威圧的な機動力が欲しかったからではない。

 ただ純粋に、カッコいい車やバイクに乗って風を切ることが「楽しそうだったから」だ。子供がオモチャに目を輝かせるのと同じように、私はそれにワクワクしたのだ。


 ロータスが毎日作ってくれる、温かいご飯。アリスが淹れてくれるコーヒー。

 抽出温度や栄養素の計算なんてどうでもいい。

 私がそれを「美味しい」と感じたのは、誰かが私のために1生懸命作ってくれたという、その『心』が嬉しかったからだ。


 クォーツが私を拒絶した時に感じた胸の痛み。

 それは、ただのバグじゃない。

 私がアリスを大好きだからこそ、同じようにアリスを愛するクォーツから嫌われたことが「悲しかった」のだ。嫌われたくない、私もその温かい輪の中に入りたいと、心が泣いていたのだ。


 そして。

 施設の図書館で読み漁った物理や化学の専門書。

 私は知識を吸収することが合理的だと思っていた。でも、本当は違う。

 私は、両親に無理やり強要された『勉強』なんて、本当は大嫌いだった。

 難しい数式なんて見たくない。ただ、アリスやロータスと1緒に、美味しいジェラートを食べて、笑い合って、バカみたいな雑談をして過ごす時間の方が、何万倍も、何億倍も大切で、幸せだった。


 ——なんだ。


 深海の底で、15歳の私は、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れるのを感じた。

 私は、難しく考えすぎていただけだ。

 感情を『エラー』や『バグ』だと定義し、物理法則の計算式に無理やり当てはめようとしていたから、システムがオーバーフローを起こして発狂したのだ。


 感情はバグじゃない。

 人間として、私が外界を生きるために手に入れた、最も尊くて、美しい『機能』だ。

 私はもう、感情を隠すための冷徹な論理の鎧なんていらない。


 私は、アリスが好き。ロータスが好き。カッコいいバイクや車が好き。

 この世界が、大好きなのだ。


 私の心を縛る理屈は、もうすべて捨ててしまおう。

 私は、私だ。

 5歳のあどけない純玲も、15歳の冷徹なピュアも、どちらも私自身の欠片だ。

 2つを切り離す必要はない。

 『感情のままに笑い、泣く心』と、『物理的に敵を圧倒する冷酷な暴力』。

 その2つを完全に融合させた時こそ、私は真の『私』として、この外界で誰よりも自由に羽ばたくことができるのだ。


「ねえ、本当にそれでいいの……?」


 深い、深い精神の海の底。私が自らの内なる答えに辿り着き、二つの自我を統合しようと決意したその時。

 背後から微かな波音を立てて、小さな影が姿を現した。

 表層の肉体システムに逃げ込んでいたはずの、『5歳の私』——純玲だった。

 彼女は、両親に閉じ込められていたあの暗闇の納戸にいた時のように、薄汚れたワンピースを着て、小さな両手で自分を力強く抱きしめながら、ガタガタと震えていた。


「純玲……」


 私が静かに名前を呼んで歩み寄ろうとすると、彼女は大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼし、怯えたように後ずさりをした。


「こないで……。あなたは、こわいバケモノだもん。パパとママを、赤い血でいっぱいにしたもん。外の世界のひとたちも、みんな『モノ』みたいに言うもん。あなたの理屈は、冷たくて、怖いよ」


 幼い彼女の拒絶の声が、暗い海に悲しく木霊する。

 かつての私なら、その言葉を『生存に不要な非合理的なノイズ』として即座にシャットダウンし、彼女のアクセス権限を強制的に剥奪していただろう。

 だが、今の私には、彼女がなぜ泣いているのか、なぜ私をこれほどまでに恐れているのかが、痛いほどに理解できた。

 私はゆっくりとその場に膝をつき、彼女と同じ目線に合わせて、両手をそっと膝の上に置いた。


「……そうね。あなたの言う通り、私は感情を切り捨てた冷たいバケモノよ。あなたを守るために、恐怖や悲しみというエラーを強制的にデリートし、世界のすべてを物理法則と数式だけで処理しようとした、いびつな欠陥品」

「……」

「でもね、純玲。私は、他ならぬ『あなた自身』でもあるのよ。あの真っ暗な納戸の中で、喉を渇かせ、飢えと孤独に震え、『誰か助けて』と泣き叫んでいたあなたを、これ以上壊さないために生まれただけの、悲しい自己防衛システムに過ぎないわ」


 私は、自分の両手を見つめた。

 5歳のあの日、キッチンの包丁を握りしめ、両親の肉を裂いた手。

 あの時の生温かい血液の感触が、今更になって、幻肢痛のように手のひらを焼いている。


「私が両親を排除したのは、あなたがこれ以上傷つくのを見たくなかったから。世界の理不尽からあなたを完全に隔離するために、私は『ピュア』という無敵の殺し屋の鎧を着て、心を殺した。すべての血を、すべての罪を、すべての憎悪を、私が一人で被るために」


 その言葉を聞いて、5歳の純玲はハッと息を呑み、目を見開いた。


「じゃあ……あなたは、わたしのために、ずっと一人で戦ってくれてたの……?」

「ええ。でも、その鎧はあまりにも重くて、分厚くて、冷たすぎたわ。私は、あなたを外界の悪意から守ることには成功したけれど……同時に、外界の『温もり』からもあなたを遠ざけてしまっていた」


 私は自嘲気味に微笑み、視線を落とした。


「施設での十年間、私は完璧な機械だった。何の矛盾もなく、論理の歯車は噛み合っていた。……でも、外界に出て、アリスやロータス、クォーツたちに出会って、私の計算式は狂い始めた。彼らの向けてくる無償の愛情や優しさは、私の論理の盾をいとも簡単にすり抜けて、内側に隠していた『あなた』に直接届いてしまったのよ」


 5歳の純玲が、恐る恐る、一歩だけ私に近づいてきた。


「……おじちゃんがつかまった時、どうしてあんなに急いでたすけにいったの?」

「サポーターの代わりなんていくらでもいるはずなのに、彼が血を流しているのを見た瞬間、私のコアは発火するほどに熱くなった。彼がいなくなるのが、恐ろしかったからよ」

「ありすおねえちゃんが撃たれた時は?」

「私はレイの指示を無視して彼女の元へ走った。生存確率の計算なんてどうでもよかった。彼女を失うかもしれないという恐怖が、私のシステムを完全にショートさせたの」

「……おじちゃんの、ごはん……おいしかったね」

「ええ。カロリーや栄養素の補給の問題じゃなかった。彼が私たちの疲労を気遣い、一生懸命作ってくれたという、その不器用で真っ直ぐな心が、私の冷え切ったコアを強烈に温めたわ」

「ありすおねえちゃんのコーヒー、にがかったけど、いい匂いがしたよ」

「そうね。抽出温度は間違っていたし、カフェインの量も最適解ではなかった。けれど……彼女が私たちに向けてくれた向日葵のような笑顔は、どんな完璧な数式よりも美しくて、眩しかった」

「クォーツのおねえちゃんがくれた、イチゴのあめちゃん。あまくて、うれしかった」

「……ええ。私を『バケモノ』だと明確に拒絶したはずの彼女が、5歳になったあなたには歩み寄ってくれた。それは、あなたが心を開いて、彼女に笑いかけたからよ。私の冷徹な論理や物理的脅迫では、決して導き出せない優しい奇跡だったわ」


 私が外界で得た一つ一つの思い出を、エラーではなく『尊い記憶』として肯定していくと、5歳の純玲の瞳から、ポロポロと安堵の涙が溢れ出した。

 彼女はペタペタと裸足で歩み寄り、私の冷たい頬に小さな手をそっと当てた。


「……あなたも、ほんとうはさみしかったんだね」


 その無垢で残酷な言葉が、私の胸の奥深くに、鋭いナイフのように突き刺さる。


「そうよ……。私はずっと、寂しかった。無敵の殺し屋なんて嘘。私はただの、結局はあなたと同じ怯えた小さな子供だったのよ。誰かに愛されたくて、でも裏切られるのが怖くて、傷つくのが恐ろしくて……全部を…自分すらも『モノ』だと見下し、計算で支配することでしか自分を保てなかった、哀れな臆病者だったの」


 私の目から、熱い液体がこぼれ落ちた。

 機械には流せないはずの、人間の涙。

 それが頬を伝い、5歳の純玲の指先を濡らし、暗い海の底へとポタポタと落ちていく。

 私が泣いているのを見て、5歳の純玲は背伸びをし、私の首に短い腕を回して、力強く抱きしめてくれた。


「もう、がまんしなくていいんだよ」


 彼女の小さな背中をさすりながら、私は声を上げて泣き崩れた。


「あなたは、わたし。わたしは、あなた。ずっと一人で、こわい世界と戦ってくれて、ありがとう。もう、重たい鎧はぬいでいいよ。一緒に、笑って、一緒に、泣こう?」


 彼女の言葉と体温が、私の全身の回路に流れ込んでいく。

 凍りついていた私の精神が、心地よい熱を帯びてドロドロに溶け出していくのがわかった。


「ありがとう、純玲……。でも、外の世界には、まだ私たちを脅かす理不尽がたくさんあるわ。アリスやロータスを傷つけようとする、悪意に満ちた有機物どもが、今まさに私たちの宝物を奪おうとしている」


 私は涙を拭い、彼女の背中に腕を回し、しっかりと抱きしめ返した。


「だから、私は『ピュア』としての力も捨てない。感情という弱さを知ったからこそ、私はさらに強くなれる。あなたのその温かい『心』を守るために、私は私の持つすべての物理的暴力と演算能力を、最も合理的に行使するわ」

「……おねえちゃんたちを、たすけにいくの?」

「ええ。私たちの『大好き』な人たちを、絶対に失わせない。私に、表層システムのアクセス権限と、あなたの『心』を明け渡しなさい。そして、私に怒りを許可して。あの薄汚いゴミ共に、私たちがどれほど彼らを愛しているかを教えてやるのよ」


 5歳の純玲は、涙で濡れた顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。


「うんっ! わたし、あなたにぜんぶあげる。わたしの『すき』も、『こわい』も、『いたい』も、ぜんぶ。だから、アリスおねえちゃんたちを、たすけて!」

「……もちろんよ」


 私がそう宣言した瞬間、私たちの身体は眩い光の粒子に包まれた。

 2つの分かたれていた自我が、寸分の狂いもなく完全に統合されていく。

 5歳の純玲が持っていた、純粋で豊かな感情の海。

 15歳の私が研ぎ澄ませてきた、冷徹で完璧な演算回路。

 2つが混ざり合い、新たな計算式が構築される。


 『愛する者を守るための暴力は、宇宙で最も美しい物理法則である』


 私はもう、自分を欠陥品だとは思わない。感情という最強のエンジンを手に入れた私は、今度こそ真の意味での『絶対的な存在ピュア』へと進化したのだ。

 統合の光が深海を照らし出し、暗かった精神の世界が、澄み渡るような純白へと染め上げられていく。


 私は、ゆっくりと立ち上がった。

 私の内側には、もう迷いも、エラーコードも存在しない。

 ただ、愛する者たちの元へ駆けつけるための、純度100パーセントの意志だけが輝いていた。


 深海の底の観測窓から、私は現在の外界の状況を捉えた。


 六本木の地下クラブ『エデン』。

 モニター越しに映る光景。

 強襲班が罠にハマり、絶望的な状況に追い詰められている。

 そして、私の最も愛する人——アリスが、血まみれになって敵に髪を掴まれ、床に引き倒された。


『大人しくしろ、アマ!』


 スピーカーから響く敵の嘲笑。

 アリスの悲痛な呻き声。

 観測窓の前で、表層の5歳の私が泣きじゃくっている。


「おねえちゃん……っ! ありすおねえちゃん……!!」

「やめて! おねえちゃんをいじめないで! やだ、やだぁっ!!」


 ——失う。

 私の大好きな人が。私に愛を教えてくれた、たった1つの太陽が、あの薄汚いゴミ共の手によって、破壊されようとしている。


 許さない。

 私の胸の奥から、煮えたぎるマグマのような『怒り』と『殺意』が爆発的に噴き上がった。

 それは、5歳の時の自己防衛のための排除ではない。

 愛するものを奪おうとする者への、純度100パーセントの、感情と暴力が融合した絶対的な殺意。


 私は、深海の底から水面に向かって、一気に浮上を開始した。

 もう、理屈でコーティングして感情を誤魔化す必要はない。

 私の『好き』を奪う奴らは、1人残らず、この手で八つ裂きにして物理的に消去する。


 5歳のシステムのOSを強制オーバーライド。

 15歳の『ピュア』の機能を、感情のエンジンをフル稼働させて完全再起動リブートする。


 視界のノイズが晴れ、私の意識は表層の肉体と完全にシンクロした。

 私は泣くのをやめた。

 涙で濡れた頬そのままに、モニターに手を当てたまま、ゆっくりと顔を上げる。


 車内の空気が、私の放つ圧倒的な殺気によって凍りつくのがわかった。

 アドが息を呑み、ロータスが恐怖と安堵で震えている。


 私の頭の中は、今までにないほどクリアだった。

 感情を否定しない。私が怒っているのは、アリスを傷つけられたからだ。

 私がこいつらを殺すのは、合理的だからじゃない。私が、こいつらを殺したいからだ!


 私は細い喉を震わせ、世界の理不尽を全て噛み砕くような、限界を超えた咆哮を放った。


「——アリス!!!」


 その声は、絶望の淵にいた5歳の少女の泣き声ではなく、愛する者を守るために地獄の底から這い上がってきた、完全なるバケモノの産声だった。


 私は車内の武器ラックからHK416アサルトライフルと2丁のグロック19を引き抜いた。

 思考は極限まで加速している。敵の配置、弾薬の残量、最短の突入ルート。全てが1瞬で組み上がり、完璧な殺戮のアルゴリズムが完成する。


「……ロータス」


 私が冷たく、しかし確かな信頼を込めて名を呼ぶと、彼はビクッと身をすくませた。


「私のパニガーレは、外に積んであるわね?」

「は、はい……! もしもの時のためにと、アドさんが、バンの後部のハッチに……」

「私のライフルと弾薬は?」

「あ、あります! すべて、ピュアさんのオーダー通りに……」

「そう。上出来よ」


 私はアサルトライフルのチャージングハンドルをガシャリと引き、冷酷な笑みを浮かべた。


「私の所有物を傷つけたゴミ共には、暴力で報いを受けさせる。……ロータス。クラブのエントランスへの最短ルートをナビゲートしなさい。私の機動力で、1分以内に戦場へ到達するわ」

「了解しました! ピュアさん!」


 ロータスがキーボードを叩き、私はバンのハッチを蹴り開けて夜の闇へと飛び出した。


 待たせたわね、アリス。

 今度は私が、私の全部を使って、あなたを助けてあげる。

 私は真紅のパニガーレに跨り、エンジンを咆哮させた。

 感情という最強のエンジンを搭載した私の物理的暴力は、もはや誰にも止めることはできない。

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