第四話「花は再び血に染まる」
——俺、早乙女蓮の人生は、あの日を境に完全に常軌を逸してしまった。
借金のカタに裏社会の半グレの手伝いをさせられ、そこで出会ったのは、同い年か少し下くらいに見える、人形のように美しい少女だった。
ピュアさん。彼女は俺の命を救い、心臓病の妹の治療費まで工面してくれた恩人だ。
だが同時に、彼女は俺の常識が一切通じない、冷徹で合理的な『殺し屋』でもあった。
俺は彼女の専属サポーターとして、地獄のような教習所通いを経て、ようやく彼女の『手足』として機能し始めたばかりだった。
彼女は強かった。物理的にも、精神的にも、俺なんか足元にも及ばないほどの絶対的な強者だと思っていた。
だからこそ、俺の腕の中で子供のように泣きじゃくる彼女の姿は、俺の脳の処理能力を完全にオーバーショートさせていた。
「ピュア、さん……?」
どれくらい泣き続けていたのだろうか。
シャツの胸元がぐっしょりと濡れるほどの涙を流し、しゃくり上げていた彼女の身体から、フッと力が抜け落ちた。
俺がそっと肩を揺すって声をかけると、彼女は目を閉じたまま、規則正しい寝息を立て始めていた。
泣き疲れて、眠ってしまったのだ。
「……嘘、だろ」
俺は放心状態のまま、彼女の身体をそっと抱き上げた。
軽い。いつも重い銃器を軽々と扱い、大人を投げ飛ばす彼女の身体は、驚くほど華奢で、そして儚かった。
俺は破れ散らかったシーツを避け、彼女をベッドの綺麗な部分に寝かせ、クローゼットから予備の毛布を取り出して首元までしっかりとかけた。
ふと、彼女の細い腕に目が行く。
彼女自身が掻き毟ったことで皮膚が裂け、痛々しい赤い血が滲んでいた。
俺は慌ててリビングの救急箱から消毒液とガーゼを持ってきて、彼女を起こさないように細心の注意を払いながら傷の手当てをした。
眠っている彼女の顔には、いつも張り付いている氷のような無表情も、敵を撃ち抜く時の冷徹な殺意もなかった。ただの、あどけない少女の寝顔だった。
「……とにかく、アドさんに連絡しないと」
俺は血のついた自分のシャツを気にする余裕もなく、リビングへ飛び出して仕事用のスマートフォンを手に取った。
深夜の時間帯だったが、コール音は2回で途切れた。
『……あぁ? ロータスか。こんな夜更けに何の用だ』
アドさんの眠そうな、しかしすぐに警戒の色を帯びた声が響く。
「ア、アドさん! すみません、夜分に! ピュアさんが……ピュアさんの様子がおかしいんです!」
『おかしい? 敵の襲撃か!?』
「違います! 部屋の中で、いきなり発狂したみたいに叫び出して……自分の腕を傷つけて、部屋をめちゃくちゃにして……それで、俺が押さえつけたら、今度は子供みたいに泣き出して、そのまま寝ちゃったんです!」
俺がパニックになりながら早口で状況を説明すると、電話の向こうでアドさんが舌打ちをする音が聞こえた。
『……過呼吸か、パニック障害か。いや、あいつの脳のストッパーが外れちまったのか……。わかった、今すぐそっちに向かう。お前は絶対にあいつのそばを離れるな』
「はいっ! お願いします!」
通話が切れ、俺は再び寝室へと戻った。
アリスさんは今治療中だ、今は連絡するべきではない。
毛布に包まった彼女は、時折「うぅ……」と小さな寝言を漏らしながら、眉間を寄せて苦しそうに寝返りを打っていた。
俺はベッドの傍らの床に座り込み、ただ彼女が再び暴れ出さないように見守ることしかできなかった。
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約1時間後。
タワーマンションの玄関のチャイムが控えめに鳴った。
俺が慌ててロックを解除すると、コートを羽織ったアドさんが足早にリビングへと入ってきた。
「状況は」
「寝室です。今はまだ眠っています」
俺が案内すると、アドさんは寝室の惨状——引き裂かれたシーツや、床に散らばった物の残骸——を見て、深く眉をひそめた。
「……こりゃあ、ただの癇癪じゃねえな。自分の腕をここまで掻き毟るなんて、あいつの合理的な思考回路じゃ絶対にあり得ねえ行動だ」
アドさんはベッドに近づき、俺が手当てした彼女の腕のガーゼを確認し、そっと彼女の首元に指を当てて脈を測った。
「命に別状はねえ。脈も呼吸も落ち着いてる。だが、起きた時にどんな精神状態になってるか予測がつかねえな」
「アドさん……ピュアさん、どうしちゃったんですか? 俺、何も変なこと言ってないのに、いきなり……」
「お前のせいじゃねえよ」
アドさんはポケットからタバコを取り出そうとしたが、寝室であることを思い出したのか、舌打ちをして箱をしまった。
「あいつは、5歳まで虐待を受けててな、感情ってものを完全に心の奥底に封じ込めて生きてきた。すべてを理屈と物理で計算して、自分を機械だと思い込むことで、あのイカれた世界のバランスを保ってたんだ」
「感情を、封じ込めて……」
「ああ。だが、外界に出て、アリスや……お前と関わるうちに、あいつの中で処理しきれねえ『感情のバグ』が溜まっていったんだろう。それが今日の何かの拍子で閾値を超えて、システムが完全にクラッシュしちまったんだろうな」
アドさんの言葉に、俺は息を呑んだ。
俺が彼女の家に居候するようになってから、彼女は確かに少しずつ変わってきていた。俺の作ったご飯を美味しいと言ってくれたり、俺が拉致された時は激怒して助けに来てくれたりした。
俺はそれが、彼女が人間らしさを取り戻してくれている証拠だと思って、嬉しかった。
だが、それが彼女の精神を崩壊させる原因になっていたのだとしたら。
「……とりあえず、ここに置いておくのは危険だ。医務室に運ぶぞ」
アドさんの声で、俺はハッと我に返った。
「うちの専属医に精密検査をさせる。脳の異常か、精神的なものかを見極めねえと、次にいつ暴れ出すかわからんからな」
「わかりました。俺のグランエースを出します」
俺は急いで準備を整え、アドさんが毛布ごとピュアさんを抱き抱えて地下駐車場へと向かった。
深夜の都内を、俺はかつてないほど慎重に、揺れを最小限に抑えながらグランエースを走らせた。後部座席では、アドさんがピュアさんの状態を常に確認している。
ルームミラー越しに見える彼女の青白い顔は、いつもの俺を威圧するピュアさんとはまるで別人のように脆く見えた。
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霞ヶ関の事務所の地下医務室。
ストレッチャーに乗せられたピュアさんは、すぐに専属医の処置室へと運び込まれた。
俺とアドさんは、冷たいパイプ椅子に座って検査が終わるのを待っていた。
しばらくして、先日アリスさんの治療をしていた時にも見かけた初老の専属医が、疲れた顔で出てきた。
「センセ、どうだ。あいつの頭のネジは飛んじまったか?」
アドさんが立ち上がって尋ねる。
「……脳波やMRIの検査をしたが、器質的な異常は見られん。薬物の影響もないし、身体の傷も表面的なものだけだ」
「じゃあ、なんであんな発狂したんだ」
「おそらく、極度のストレスによる『解離性遁走』、あるいは『退行』の症状だろう」
専属医はカルテをめくりながら、重々しい口調で説明を始めた。
「人間の脳は、自身の処理能力を超えるほどの精神的苦痛や矛盾に直面した際、自己を防衛するために記憶を切り離したり、精神状態を過去の安全だった時期、あるいはトラウマの根源の時期まで巻き戻すことがある。彼女のような特殊な環境で育った人間なら、その反動は計り知れん」
「退行……ってことは、ガキに戻っちまったってことか?」
「目が覚めてみないことには断言できん。だが、数日は目を覚まさないかもしれんな。脳が自己修復のために強制シャットダウンしている状態だ」
その言葉を聞いて、俺はギュッと拳を握りしめた。
彼女が倒れたのは、少なからず俺の存在が影響している。俺が彼女の生活のペースを乱したからだ。
俺の命を救い、妹の未来を繋いでくれた彼女が、今こんなにも苦しんでいる。
「アドさん。俺……ピュアさんが目を覚ますまで、ずっとここで看病します」
俺が顔を上げて直訴すると、アドさんは少し驚いたような顔をして、それからフッと短く笑った。
「……好きにしろ。どうせお前はあいつの専属サポーターだからな。あいつが動けねえなら、お前の仕事も看病くらいしかねえだろ」
「はい。ありがとうございます」
それから、俺の医務室での泊まり込みの看病が始まった。
ピュアさんは、泥のように眠り続けていた。
点滴で最低限の栄養を補給されながら、彼女はピクリとも動かず、ただ静かに呼吸を繰り返しているだけだった。
途中、松葉杖をついたアリスさんが血相を変えてお見舞いに来た。
「ピュアちゃん! ピュアちゃん!!」
「アリスさん、静かに。ピュアさんはまだ眠っています」
「うぅ……ごめんね、蓮くん。私がピュアちゃんに無理させすぎちゃったのかな……。私が怪我なんかしたから……」
アリスさんはピュアさんの手を握ってポロポロと涙をこぼしていた。
いつも明るい彼女が泣く姿を見て、俺はますます胸が締め付けられる思いだった。俺もアリスさんも、ピュアさんの強さに甘えていたのだ。
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そして、2日後の午後。
俺が医務室のベッドの横で、パイプ椅子に座って教習所の時に使っていた学科の教本をパラパラと見返していた時のことだった。
「……ん、ぅ……」
ベッドの方から、微かな声が聞こえた。
俺はバッと顔を上げ、教本を放り出してベッドに駆け寄った。
「ピュアさん!? 気がつきましたか!?」
彼女の長いまつ毛が震え、ゆっくりとまぶたが開かれた。
いつも俺を射抜くような、冷徹で理知的な漆黒の瞳。
だが、今こちらを見つめているその瞳には、かつての威圧感も、鋭い論理の光もなかった。
ただ、ぼんやりと、不思議そうな目で俺を見上げている。
「ピュアさん……よかった、本当に……っ」
俺は安堵で膝の力が抜けそうになりながら、彼女に声をかけた。
「気分はどうですか? 腕、痛くないですか? 今、先生を呼んできますからね」
「……」
彼女は無言のまま、ゆっくりと上体を起こした。
そして、周囲の白い壁や、点滴のスタンド、そして俺の顔を、キョロキョロと見回した。
その仕草は、どこか幼く、そしてひどく無防備だった。
「……だれ?」
彼女の口から紡がれたのは、鈴を転がすような、しかしひどく頼りない、あどけない声だった。
「え……?」
「おじちゃん、だれ? ここ、どこ?」
俺は自分の耳を疑った。
『おじちゃん』?
俺は戸籍上は20歳だが、実年齢は11歳だ。彼女の方が4歳も年上のはずだ。それなのに、彼女は俺に向かって、まるで小さな子供が大人に向けるような怯えた視線を向けている。
「ピュアさん……? 何言ってるんですか、俺ですよ、ロータスです。蓮です」
「ぴゅあ……? ろーたす……?」
彼女はコテンと首を傾げ、大きな瞳を瞬かせた。
その表情筋の動き。私が知っている『ピュアさん』は、絶対にそんな可愛らしい、感情豊かな表情を作ったりしない。
「ちがうよ。わたしのなまえ、すみれだよ」
「す、すみれ……」
「おじちゃん、すみれのぱぱ? それとも、けいさつのひと?」
彼女は不安そうに毛布をギュッと握りしめ、身を縮めた。
「あのね、すみれ、おこってないよ。……ぱぱとまま、いじめたから、めっ、てしただけなの。だから、おこらないで……?」
その瞬間。
俺の背筋に、ゾクリと冷たい氷を押し付けられたような戦慄が走った。
ぱぱとまま、いじめたから、めっ、てした。
アドさんが言っていた言葉が、脳裏にフラッシュバックする。
『あいつは、5歳まで虐待を受けていた』
まさか。
専属医が言っていた『退行』。
彼女の精神は、あの冷徹な15歳の殺し屋の自我を完全にシャットダウンし。
「……ピュア、さん……いくつ、なの?」
俺は震える声で、恐る恐る尋ねた。
彼女は不思議そうに俺を見つめ、それから、細くて白い指を、顔の前で一生懸命に広げて見せた。
「すみれね、ごさい!」
屈託のない、純真無垢な笑顔。
それは、裏社会で誰よりも恐れられ、物理法則と論理で全てを支配してきた『ピュア』の姿ではなかった。
ただ親の愛情を求め、理不尽な暴力の世界に怯える、どこにでもいる普通の、5歳の女の子の姿だった。
「嘘、だろ……」
俺は絶望的な事実に直面し、その場にへたり込みそうになった。
俺の命の恩人であり、最強の主人である彼女の精神は、完全に壊れてしまっていたのだ。
——俺、早乙女蓮の時間は、あの日から完全に止まってしまったかのように錯覚していた。
霞ヶ関の事務所の地下にある、冷たく無機質な医務室。
俺はパイプ椅子に座ったまま、ベッドの上で無邪気にスケッチブックにクレヨンを走らせている少女を、ただ呆然と見つめていた。
「おじちゃん、みてみて! くるま、かけたよ!」
彼女は、俺が買ってきた子供用のスケッチブックを掲げ、満面の笑みでこちらを向いた。
描かれているのは、赤い箱に黒い丸が四つ付いた、幼児特有の拙い車の絵だ。あの漆黒のポルシェや、真紅のパニガーレの流線型など微塵も感じさせない、本当にただの『車』の絵だった。
「……あ、うん。上手だね、純玲ちゃん」
「えへへー!」
俺が力なく微笑み返すと、彼女は嬉しそうに足をバタバタとさせた。
純玲。
それが、彼女の本当の名前だ。
彼女が目を覚ましてから数日が経過していた。
専属医の診断通り、彼女の精神は完全に『五歳の少女』へと退行してしまっていた。
冷徹な論理で物理法則を語り、躊躇なく引き金を引いていた十五歳の殺し屋『ピュア』の記憶や人格は、厚い氷の下に完全に封印されてしまったようだ。
俺のことは『おじちゃん』と呼び、アドさんを見ては『こわいひと』と泣いてベッドの下に隠れた。食事の時間は、俺がスプーンで口に運んでやらないと上手く食べられないこともあったし、夜になると「暗いのこわい」と言って俺の服の裾を強く握りしめて離さなかった。
それは看病というよりも、完全に『子守り』だった。
俺は実年齢11歳だ。孤児院で妹の面倒を見ていたから、小さな子供の扱いに慣れていないわけではない。
だが、目の前にいるのは、かつて俺を冷たい目でひれ伏させ、血と硝煙の中で圧倒的な暴力を行使していたあのピュアさんなのだ。
そのギャップに、俺の頭は何度もショートしそうになっていた。
「おじちゃん、おなかすいたー。おやつ、ないの?」
「あ、えっと……ちょっと待ってね。アリスさんが買ってきてくれたゼリーがあるから」
俺は慌てて医務室の小さな冷蔵庫を開け、カップゼリーを取り出した。蓋を開けてスプーンを添えて渡すと、彼女は「わぁい!」と歓声を上げて美味しそうに食べ始めた。
あのピュアさんが、市販の甘いゼリーを喜んで食べている。
温度や抽出時間を秒単位で計算したコーヒーしか口にしなかった彼女が。
俺は椅子に深く背中を預け、天井を仰いだ。
これから、どうすればいいのだろう。
ピュアさんがこのまま元に戻らなかったら。俺は、彼女を守れるのだろうか。俺には、彼女のように敵を計算で打ち倒す力なんてない。彼女が手足として俺を機能させてくれていたからこそ、俺はこの組織に居場所があったのだ。
「……美味しい? 純玲ちゃん」
「うん! あまいよ!」
無邪気な笑顔を見つめていると、不意に彼女が五歳の時に両親を殺したというアドさんの言葉が脳裏をよぎる。
今の彼女は、その親殺しの直後、あるいは直前の精神状態にいるのだろうか。
時折、ふとした瞬間に、彼女は虚空を見つめて「ぱぱとままたち、うるさいから……」と呟くことがあった。その時だけは、無邪気な瞳の奥に、かつてのピュアさんのような氷の冷たさが垣間見え、俺の背筋を凍らせた。
だが、それもほんの一瞬のことで、彼女はすぐに「おじちゃん、あそぼ?」と普通の五歳児に戻ってしまうのだ。
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医務室での軟禁生活とも言える子守りの日々。
だが、俺と純玲は決して孤独ではなかった。
組織のメンバーたちが、入れ替わり立ち替わり、この医務室へと顔を出してくれたからだ。
「すーちゃん! アリスおねえちゃんが来たよー!!」
バンッ! と勢いよく扉が開かれ、松葉杖をついたアリスさんが満面の笑みで飛び込んできた。
彼女自身の怪我もまだ完治していないというのに、毎日欠かさずリハビリの合間に医務室を訪れ、両手いっぱいの絵本やおもちゃ、お菓子を差し入れてくれていた。
「あ、ありすおねえちゃん!!」
純玲がベッドから身を乗り出し、アリスさんに向かって両手を広げる。
アリスさんは松葉杖を放り出す勢いでベッドに近づき、純玲をギュッと抱きしめた。
「あーもう、すーちゃん可愛い! 今日も天使だね! ほら、新しいクマさんのぬいぐるみ買ってきたよ!」
「わぁ、くまさん! ありがとぉ!」
「えへへー、いいのいいの! おねえちゃんが何でも買ってあげるからね!」
アリスさんは完全に純玲を溺愛していた。
かつての論理的で冷たいピュアさんも「生意気で可愛い」と言っていたが、五歳児になって素直に感情を表現する純玲に対しては、もはや母性本能が爆発しているようだった。
「アリスさん、あんまり甘やかすと虫歯になりますよ」
「いいの! 蓮くんは心配性だなぁ。あ、でも蓮くんも毎日看病お疲れ様! ちゃんと寝てる?」
「……まあ、なんとか」
俺が苦笑いしていると、医務室の扉からさらに大きな人影が現れた。
「おうおう、アリスの嬢ちゃん、松葉杖で暴れんなや。傷が開くで」
タイガーさんだった。彼は大きな紙袋を片手に、豪快な笑い声を響かせて入ってきた。
「タイガーさん、お疲れ様です」
「おう、ロータス。子守りの調子はどうや? ……ホンマに、見れば見るほど中身がガキになっとるんやな。あのピュアちゃんが嘘みたいやわ」
タイガーさんはベッドの上の純玲を見下ろし、呆れたように頭を掻いた。
「たいがーのおじちゃん! だれ?」
「おじちゃん言うな! ワイは猛虎のタイガーや! まあええわ、ホレ、プリン買ぉてきたったで」
「ぷりん! やったー!」
タイガーさんのようないかつい男を前にしても、今の純玲は全く怯えなかった。アドさんのことは怖がるのに、タイガーさんの底抜けの明るさは、五歳児にも安心感を与えるらしい。
「タイガーだけじゃないよ。僕もいる」
タイガーさんの背後から、中性的な容姿のルミナスさんがスッと顔を出した。
彼(あるいは彼女)のその手には、綺麗な花のブーケが握られている。
「ルミナスさんまで」
「不思議なものだね。あの冷徹なスナイパーが、こんなにあどけない少女だったなんて。人間の脳の防衛機制というのは、本当に興味深い」
ルミナスさんはベッドサイドの花瓶にブーケを飾り、純玲に優しく微笑みかけた。
「おはな、きれーい!」
「気に入ってくれて嬉しいよ、純玲ちゃん」
そして、少し離れた廊下の壁に寄りかかるようにして、シンさんも様子を見に来ていた。
彼は腕を組み、溜息を吐きながら部屋の中を眺めている。
「……面倒なことになったな。アドも頭を抱えてるぞ。最強の駒が一つ、使い物にならなくなったんだからな」
「シンさん……」
「お前を責めてるわけじゃない。ただ、事実だ。敵がいつ動くかわからない状況で、戦力の低下は痛い」
シンさんの言葉は冷たかったが、それでも彼がわざわざ医務室まで足を運んでくれていること自体が、彼なりの不器用な心配の表れなのだろう。
かつて純玲が「他者は環境の一部でしかない」と切り捨てていたこの組織の人間たちが、皆、彼女のことを気にかけてくれている。
彼女が外界に出てから築き上げてきた関係は、決して合理的なだけのドライなものではなかったのだ。俺はそれを肌で感じ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
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面会に来てくれるメンバーの中で、最も俺を驚かせたのは、他ならぬクォーツの存在だった。
彼女は、あのコンテナターミナルでの戦闘後、アリスさんに近づこうとしたピュアさんを激しい敵意で拒絶していた。
アリスさんを取られる嫉妬。そして、感情を持たない冷徹なバケモノへの嫌悪。
純玲が退行するきっかけの一つとなったのは、間違いなく彼女のその『拒絶』の言葉だったはずだ。
だから、俺は彼女が医務室に来ることは絶対にないと思っていた。
だが、純玲が目を覚ましてから一週間が経ったある日の夕方。
俺が純玲に絵本を読んで聞かせていると、医務室の扉が音もなく微かに開いた。
隙間から覗いていたのは、色素の薄い大きな瞳。クォーツだった。
「……クォーツさん?」
俺が声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、逃げるように身を隠そうとした。
だが、俺の声に反応して、ベッドの上にいた純玲がひょっこりと顔を出した。
「だれー?」
純玲はベッドから降り、ペタペタと裸足で歩いて扉の方へと向かってしまった。
扉の隙間から、純玲とクォーツの視線が交錯する。
「あ……」
クォーツは、息を呑んで後ずさった。
かつて自分を論破し、冷たい目で見下ろしてきた恐怖の対象。それが今、自分の目の前で無防備に立っている。
だが、純玲はクォーツの怯えなどお構いなしに、にこりと無邪気な笑顔を向けた。
「おねえちゃん、だれ? すみれとあそんでくれるの?」
「……え」
クォーツは、完全に毒気を抜かれたように目を丸くした。
彼女の知っている『ピュア』は、こんな風に笑わない。こんな風に他者に甘えるような声を出さない。
「あの……クォーツさん。純玲さんは、その、記憶がなくなって……5歳の子供になっちゃってるんです」
俺が背後からフォローを入れると、クォーツは信じられないものを見るように、俺と純玲を交互に見つめた。
「……5歳」
「はい。だから、クォーツさんのことも覚えてなくて……」
純玲は、クォーツの持っていた小さなポーチに目を留めた。
そこから、カラフルな包み紙のキャンディが少しだけ顔を覗かせていたからだ。
「あ! おねえちゃん、それ、あめちゃん? すみれ、あめちゃんたべたい!」
「……っ!」
純玲が小さな手を伸ばすと、クォーツはビクッと体を強張らせた。
しかし、彼女は純玲の手を振り払うことはしなかった。
躊躇いながら、震える手でポーチを開け、イチゴ味のキャンディを1つ取り出すと、それをそっと、純玲の手のひらに乗せたのだ。
「わぁ! ありがとぉ、おねえちゃん!!」
「……」
純玲が満面の笑みでキャンディを受け取ると、クォーツの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
彼女はずっと、アリスさんを独占するピュアさんを憎んでいた。冷酷なバケモノだと恐れていた。
だが、目の前にいるのは、ただキャンディ一つで無邪気に喜ぶ、小さな女の子だ。彼女の中にある『敵意』の向け先が、完全に消失してしまったのだろう。
それからというもの、クォーツは頻繁に医務室に顔を出すようになった。
言葉を交わすことは相変わらず少なかったが、彼女は来るたびに違う種類のお菓子をポケットに忍ばせてきて、純玲に無言で差し出した。
「おねえちゃん、きょうはなあに?」
「……チョコレート」
「わぁい! ありがと!」
純玲が嬉しそうにお菓子を頬張るのを見て、クォーツは微かに、本当に微かにだが、口角を上げるようになった。
アリスさんがいる時は、少し気まずそうに部屋の隅にいることもあったが、アリスさんが「クォーツちゃんも一緒に遊ぼ!」と誘うと、渋々ながらも純玲のお絵描きの相手をしたりしていた。
クォーツもまた、不器用ながらに、この状況を受け入れ、彼女なりの優しさを純玲に向けてくれているのだと、俺は感じていた。
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季節は夏へと向かい、8月に入った。
純玲が医務室で目を覚ましてから、すでに1ヶ月半以上の月日が流れていた。
そして、その日は、ある大きな節目となる日だった。
「蓮くーん! すーちゃん!」
医務室の扉が開き、松葉杖なしで、しっかりと両足で歩くアリスさんが現れた。
彼女の怪我が、ついに完治したのだ。
「アリスさん! もう歩いても大丈夫なんですか!?」
「うんっ! 先生からお墨付きもらったよ! リハビリも完璧だし、いつでも最前線に復帰できる状態!」
アリスさんはその場でピョンピョンと軽く飛び跳ねて見せ、身体の異常がないことをアピールした。
「ありすおねえちゃん、あるけるようになったの?」
「そうだよ、すーちゃん! もう一緒に外でお散歩だってできちゃうからね!」
アリスさんが純玲を抱き上げ、くるくると回る。純玲も「きゃははっ!」と声を上げて笑った。
その光景を見ながら、俺は安堵と同時に、一つの大きな不安を抱えていた。
アリスさんが復帰するということは、組織の業務が本格的に再開されるということだ。だが、俺は純玲の看病につきっきりで、組織の仕事をしていない。
純玲が機能しなくなった今、俺たちの収入源は絶たれている。このままでは、妹の病院代や、タワーマンションの維持費すら払えなくなってしまうのではないか。
アドさんの好意にいつまでも甘えるわけにはいかない。俺は、自分一人でも何かの仕事をもらえないかと相談するつもりだった。
「あの、アリスさん。俺、ピュアさんがこのままだと……」
俺が言い淀んでいると、アリスさんは純玲をベッドに下ろし、俺の方へ向き直った。
彼女の目は、いつものおどけたものではなく、真剣な大人の女性の光を宿していた。
「蓮くんの心配してること、わかってるよ」
「え……」
「お金のことでしょ? すーちゃんが仕事できないから、妹さんの治療費や生活費が払えなくなるんじゃないかって」
図星を突かれ、俺はうつむいた。
「……はい。俺、車の運転くらいしかできないし、殺しもできません。ピュアさんがいなきゃ、俺はただの足手まといで……」
「バカ言わないの」
アリスさんが、俺の頭をポンと軽く叩いた。
「蓮くんは、すーちゃんが選んだ専属サポーターだよ。それに、私が怪我した時、すーちゃんがどれだけ私のために戦ってくれたか、アドから聞いてる。すーちゃんが壊れちゃったのは、私を守ろうとしたからでも……あると思うんだ」
アリスさんの声が、微かに震えていた。
彼女は、自分が原因でピュアさんが無理をし、その結果として精神を崩壊させてしまったのだと、自分を責めているようだった。
「だからね、蓮くん」
アリスさんは顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
「すーちゃんのお世話、私にも手伝わせて! 生活費も、妹さんの病院代も、タワマンの家賃も、ぜーんぶ私が出すから!」
「えっ!? そ、そんな、アリスさんにそこまでしてもらうわけには……!」
「いいの! 私、お金なら腐るほどあるってピュアちゃんにも言ったから。何百億も口座に眠らせてるより、すーちゃんと蓮くんのために使った方がずっと有意義だよ!」
アリスさんのその言葉は、圧倒的な札束の暴力でありながら、底抜けの優しさに満ちていた。
「それに、いつまでもこんな地下の医務室にいるより、すーちゃんが自分で選んだあの綺麗なお家に帰った方が、精神的にも絶対にいいと思うの。ね? お家に帰ろっか、蓮くん」
「アリス、さん……」
俺は、彼女の優しさに言葉を詰まらせ、ただ深く頭を下げることしかできなかった。
彼女がいれば、純玲を守れる。俺1人では抱えきれなかった重圧が、スッと軽くなるのを感じた。
「すーちゃん! 今日から、お家に帰るよ!」
「おうち? すみれのおうち?」
「そう! すっごく高くて、夜景が綺麗なお家だよ! アリスおねえちゃんも、一緒にいっぱい遊びに行くからね!」
「わぁい! おうち、かえるー!」
純玲は両手を挙げてバンザイをした。
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その日の午後。
俺たちは、アドさんに退院の報告をし、シンの手配してくれた車で、あのタワーマンションへと帰還した。
エレベーターで最上階へと上がり、玄関の扉を開ける。
白と黒を基調とした、完璧に整頓された広大なリビング。
1ヶ月半ぶりに帰ってきたその空間は、冷たく、静かだった。
「わぁ……ひろーい!」
純玲は靴を脱ぐなり、裸足のまま大理石の床をペタペタと走り出し、リビングの巨大なソファへとダイブした。
「ふかふかだぁ! おじちゃん、ここ、ほんとにすみれのおうち?」
「うん、そうだよ。純玲ちゃんのお家だよ」
俺が荷物を置きながら答えると、彼女はソファから起き上がり、リビングの奥にあるガラス張りの空中ガレージの方へと歩いていった。
そこには、彼女が外界に出て初めて自らの意志で選んだ、漆黒のポルシェと、真紅のドゥカティ・パニガーレが静かに鎮座している。
かつての彼女なら、あの流線型のフォルムと物理的な暴力の結晶を見て、冷たい笑みを浮かべていただろう。
「……あのくろいくるま、おじちゃんのかな?」
ガラス越しに車を見つめながら、純玲が首を傾げて尋ねてきた。
「え……?」
「あかいじてんしゃも、かっこいいね! おじちゃんの?」
俺は、息を呑んだ。
彼女は、自分が選び、自分が運転して風を切り裂いた愛車を見ても、何の記憶もフラッシュバックしないのだ。
彼女にとって、それらはただの『黒い車』と『赤い自転車』でしかない。
彼女の魂は、本当に五歳のあの日に置いてけぼりにされてしまったのだという残酷な現実を、俺は改めて突きつけられていた。
「……ううん、違うよ。それは、純玲ちゃんの大事な宝物だよ」
俺が優しく教えると、彼女は「ふーん?」と興味なさそうに視線を外し、再びリビングへと戻ってきた。
「おなかすいたー! おじちゃん、ごはんまだー?」
「あ、うん。今すぐ作るから、ちょっと待っててね」
俺はキッチンに立ち、冷蔵庫の中に残っていた食材の賞味期限を確認しながら、彼女のための夕食の準備を始めた。
リビングからは、アリスさんが持たせてくれたおもちゃで遊ぶ、純玲の無邪気な笑い声が聞こえてくる。
冷徹な殺し屋だった彼女は、もういない。
でも、俺の命を救ってくれた彼女の魂は、間違いなく今もこの部屋にある。
俺は包丁を握りしめ、心の中で誓った。
彼女がいつか元の記憶を取り戻す日が来るのか、それとも一生このままなのか、誰にもわからない。
でも、どんな状態であれ、俺は彼女の『手足』であり続ける。
かつて彼女が俺に役割を与え、外界を生き抜く力をくれたように。
今度は俺が、この五歳の純玲を、外界のあらゆる悪意から守り抜いてみせる。
それが、俺にできる唯一の、そして最高の恩返しなのだから。
━━━━━━━━━━━━━━━━
9月。
タワーマンションの広大な窓から見下ろす東京の街に、秋の気配が混じり始めた頃。
純玲がタワーマンションに戻ってきてから、すでに1ヶ月以上の月日が流れていた。
専属医の「脳が強制シャットダウンしている」という見立ての通り、彼女の記憶と人格が元に戻る気配は微塵もなかった。彼女は完全に『5歳の純玲』として、この部屋での生活に馴染んでしまっていた。
アリスさんは毎日のように顔を出し、大量のおもちゃや絵本、そして彼女が着るための可愛らしい子供服(サイズは十五歳の彼女に合わせたものだが、デザインはフリルやリボンのついたものが多かった)を買い与えていた。クォーツさんも時折アリスさんの後ろに隠れるようにしてやってきては、無言で純玲にお菓子を差し出している。
俺は相変わらず、彼女の食事を作り、一緒にお絵描きをし、夜は彼女が眠りにつくまで絵本を読んで聞かせる生活を続けていた。
それは、かつて俺が孤児院で妹にしていたことと全く同じだった。
だが、妹と違うのは、目の前にいる少女が、かつて俺に恐怖と畏敬の念を抱かせた最強の殺し屋だという事実だ。
時折、ふとした瞬間に彼女が見せる虚ろな目や、何もない空間を見つめて固まる姿に、俺は彼女の奥底で眠り続ける『ピュアさん』の存在を感じ取っていた。しかし、俺が名前を呼ぶと、彼女はすぐに「おじちゃん!」と無邪気な笑顔を見せて駆け寄ってくるのだ。
「……ピュアさん。俺、どうしたらいいんでしょうね」
眠っている彼女の頭をそっと撫でながら、俺は何度となくそう呟いた。
俺にできるのは、彼女の命を、この平穏な箱庭の中で守り抜くことだけだ。
そんなある日、俺のスマートフォンにアドさんからの着信があった。
『ロータス。ピュアの様子はどうだ』
「……相変わらずです。5歳のまま、元に戻る気配はありません」
『そうか。まあ、期待はしてなかったがな』
電話の向こうで、アドさんが短く息を吐く音が聞こえた。
『お前もいつまでも子守りばっかりしてるわけにはいかねえぞ。次の仕事だ』
「仕事……バベルの関連ですか?」
『ああ。2ヶ月前、お前が参加したコンテナターミナルでの殲滅作戦。あの時回収した情報端末やスマホの解析が、ようやく終わったんだ』
アドさんの声が、仕事人の冷徹なトーンに切り替わった。
『連中は、俺たち「天秤」を陽動するための新たな組織を立ち上げようとしている。東京の地下にばら撒いたあの未知の薬物を使って、手駒となる人間を大量に集めるための「新設クラブ」を、六本木の地下にオープンさせるらしい』
「六本木に……クラブを」
『そこで薬漬けの奴隷を量産し、新たな軍隊を編成するのが目的だろう。オープン直前の今夜、幹部連中と大量の薬物がそこに集まる。前回と同じく、数十人規模の大規模な殲滅作戦になる』
俺は唾を飲み込んだ。
また、あの地獄のような戦場に赴くのか。しかも今回は、ピュアさんという絶対的な武力が存在しない。
『お前は今回も俺と一緒に指揮車両に乗り込め。現場のハッキングと情報処理、各班へのナビゲートだ。ピュアがいねえ分、遠距離の狙撃班の負担が増える。お前のサポートが生命線になるぞ』
「……はい、わかりました。すぐに向かいます」
俺は通話を切り、リビングを振り返った。
純玲は、アリスさんが買ってくれた巨大なクマのぬいぐるみに抱きついて、スヤスヤと昼寝をしている。
俺は彼女を起こさないように、静かに身支度を始めた。
作戦は深夜に及ぶだろう。夕食は作り置きを冷蔵庫に入れ、メモを残しておく。彼女1人で電子レンジを使うことは教え込んだので、なんとか1晩くらいなら留守番できるはずだ。
「純玲ちゃん、ごめんね。ちょっとお仕事行ってくるから、お利口に待っててね」
俺は眠っている彼女の耳元で小さく囁き、玄関へと向かった。
ドアノブに手をかけ、そっと扉を開けようとした、その瞬間だった。
「——おじちゃん?」
背後から、ひどく不安げな、震える声が聞こえた。
俺が振り返ると、クマのぬいぐるみを引きずりながら、純玲がリビングと廊下の境目に立っていた。彼女の大きな瞳には、すでに涙が溢れそうになっている。
「あ……ごめん、起こしちゃった? おじちゃん、ちょっとお外に行かなきゃいけなくて」
「おそと……? すみれを、おいていくの……?」
「ううん、違うよ。すぐ帰ってくるから。冷蔵庫にご飯もあるし、テレビ見て待ってて」
俺が無理に笑顔を作って宥めようとすると、彼女はぬいぐるみを床に落とし、ペタペタと裸足で駆け寄ってきた。
そして、俺のジャケットの裾を、両手でギュッと強く握りしめた。
「やだっ……! おじちゃん、いかないでっ!」
「純玲ちゃん……」
「おいてかないで……! ひとりぼっち、やだ……こわいよぉ……っ!」
純玲は俺の胸に顔を押し付け、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
その泣き顔は、俺が孤児院で妹を置いて働きに出ようとした時の、妹の泣き顔と完全に重なった。
5歳の彼女にとって、今この世界で頼れるのは俺しかいないのだ。アリスさんや他のメンバーがどれだけ優しくしてくれても、彼女が一番安心できるのは、毎日一緒にご飯を食べ、絵本を読んでくれる『おじちゃん』のそばだけなのだ。
「……っ」
俺は、ドアノブから手を離した。
彼女を1人で置いていくことなんて、できるわけがない。
もし、俺がいない間に彼女が目を覚まし、誰もいない暗い部屋で一人泣き叫んでいたら。もし、パニックを起こしてベランダや外に出てしまったら。
俺は彼女の専属サポーターだ。彼女を守るためにここにいるのだ。
「……わかった。一緒に行こう、純玲ちゃん」
「え……? ほんと……?」
「うん。おじちゃんのお仕事、一緒に来て。でも、絶対におじちゃんのそばから離れちゃダメだよ。約束できる?」
「うんっ! すみれ、いいこにする! ぜったい、はなれない!」
純玲は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭い、満面の笑みを浮かべた。
俺は彼女に外出用のコートを着せ、手をしっかりと握ってマンションを出た。
アドさんに何と言われるか想像もつかなかったが、俺には彼女を置いていくという選択肢はすでに消え去っていた。
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霞ヶ関の事務所、地下の大会議室。
重厚な扉を開けて中に入ると、すでに今回の作戦に参加するメンバーが円卓を囲んでいた。
「おっ、ロータスの坊主、遅かったな——って、ええ!?」
タイガーさんが声を弾ませた直後、彼の目が点になった。
無理もない。俺の背中に隠れるようにして、5歳の精神状態の純玲が、俺の服の裾をギュッと握りしめて会議室に入ってきたからだ。
「れ、蓮くん!? どうしてすーちゃん連れてきてるの!?」
アリスさんが驚いて立ち上がり、隣にいたクォーツさんも目を丸くしている。
そして、円卓の上座に座っていたアドさんが、葉巻を灰皿に叩きつけ、深い、深いため息を吐いた。
「……ロータス。お前、頭湧いてんのか?」
地を這うようなアドさんの低い声に、俺はビクッと肩を震わせた。
「す、すみません……! でも、俺が家を出ようとしたら、泣きついて離れなくて……! 1人で置いておくのは、どうしても心配で……!」
「ここは遊び場じゃねえんだぞ! これから数十人規模の殺し合いに行く作戦会議に、記憶を無くしたガキを連れてくる馬鹿がどこにいる!!」
「ひぃっ……!」
アドさんの怒鳴り声に、純玲が怯えて俺の背中に完全に隠れてしまった。
俺は必死に頭を下げた。
「わかっています! でも、ピュアさんは俺が絶対に守ります! 指揮車両の中で、俺の横に座らせておくだけでいいんです! 邪魔はさせませんから、どうか同行を許可してください!」
「……お前なぁ……」
アドさんが頭を抱えようとした時、横から助け舟を出してくれたのは、意外にも狙撃班のレイさんだった。
「まあ、いいんじゃねえか、アド」
「あ?」
「どのみちロータスは後方の指揮バンから1歩も出ねえんだろ? お前とロータスがついてりゃ、指揮バンが襲われる確率なんてゼロに等しい。だったら、家に1人で置いてパニック起こされるより、目の届くところに置いておいた方がロータスも仕事に集中できるってもんだ」
レイさんの言葉に、ルミナスさんも中性的な笑みを浮かべて頷いた。
「僕もレイに賛成だよ。彼女がピュアとしての記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないしね」
「ガハハハ! ええやんけ! ワイらが前線で暴れとる間、後方で高みの見物と洒落込んでもらおうやないか!」
タイガーさんも豪快に笑い飛ばす。
アリスさんも「すーちゃんが一緒なら、私も頑張れちゃうかも!」とガッツポーズを作った。
アドさんはメンバーたちの反応を見て、チッと舌打ちをした。
「……お前ら、緊張感ってもんがねえのか。……まあいい。ロータス、ピュアの安全はお前が全責任を持て。指揮バンから一歩でも出したら、お前をぶっ殺すからな」
「は、はいっ! ありがとうございます、アドさん!」
俺が深く頭を下げると、背中に隠れていた純玲が、そっと顔を出してアドさんを窺った。
「こわいおじちゃん……怒ってない?」
「……怒ってねえよ。大人しくしてろ」
「うんっ!」
アドさんが不器用に顔を背けると、純玲は嬉しそうに俺の手を握り直した。
クォーツさんが無言で近づいてきて、純玲のコートのポケットにこっそりとチョコレートを滑り込ませる。純玲は「あ、おねえちゃんありがと!」と小声で笑った。
「よし、茶番は終わりだ。ブリーフィングを始める」
アドさんがメインモニターに六本木の地下クラブの見取り図を映し出した。
「ターゲットは、今夜プレオープンする新設クラブ『エデン』。バベルの残党と、新しく組織された『あの方』の私兵どもが、ここで大量の新型薬物をさばくための拠点を構築している。現在の敵の総数は約40人。幹部クラスも数名集まっているはずだ」
モニターに、クラブの入り口と、裏口の搬入経路、そして地下に広がる広大なダンスフロアの図面が展開される。
「作戦は前回と同じだ。近接の強襲班——アリス、タイガー、ファイア、クォーツが正面と裏口から同時に突入し、敵のヘイトを集めて物理的に破壊する。狙撃班のルミナスとレイは、向かいのビルの屋上からクラブの換気口や窓越しに、逃げようとする幹部を狙撃。俺とロータス、そして……ピュアは、2ブロック離れた路地の指揮バンでナビゲートと電子戦を行う」
アドさんの指示に、全員が真剣な表情で頷いた。
ピュアさんがいない分、強襲班の負担は跳ね上がる。だが、彼らの目には微塵も恐怖や不安はなかった。
「敵は薬物で恐怖を麻痺させている。だが、前回で連中の動きのパターンは割れている。容赦はするな。1人残らず、物理的に排除しろ」
「了解!」
会議室に力強い声が響き渡る。
俺は純玲の手を強く握りしめ、自分のノートPCをリュックに詰め込んだ。
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深夜0時30分。
六本木の喧騒から少し離れた、人気のない裏路地。
俺たちが乗る黒塗りの指揮車両は、街灯の光が届かない死角にひっそりと停車していた。
バンの後部座席は、完全に電子戦用の要塞として改造されている。
壁一面にマルチモニターが配置され、高出力のサーバーと通信機材が青白い光を放っていた。俺はヘッドセットを装着し、キーボードの上に指を走らせていた。
「クラブのセキュリティシステム、掌握しました。防犯カメラの映像、引けます。周辺の信号機とNシステムの制御も完了。強襲班の突入経路、クリアです」
『よくやった、ロータス。こちら強襲班、正面入り口前に到着したぜ』
インカムからファイアの低く抑えた声が聞こえる。
俺の隣では、アドさんが全体の戦況マップを睨みながら、各班の配置を最終確認していた。
「狙撃班、配置は?」
『ルミナスだ。向かいのビルの屋上、配置完了。クラブの裏口と、換気ダクトからの射線は通っているよ』
『レイだ。……中の連中、かなり浮き足立ってやがる。薬のせいか、プレオープンのせいか知らねえが、警戒はザルだ。いつでもいける』
全員の準備が整った。
俺は深く深呼吸をし、モニターの光に照らされた車内を振り返った。
バンの最後尾、サーバーラックの裏の安全なスペースに、小さな折りたたみ椅子が置かれている。
そこにちょこんと座っている純玲は、両手でクォーツさんにもらったチョコレートを大事そうに握りしめながら、キョロキョロと車内の機材を珍しそうに見回していた。
「純玲ちゃん、怖い?」
「ううん! おじちゃんと一緒だから、こわくないよ!」
「そっか。絶対におじちゃんの後ろから出ちゃダメだからね。音が少しうるさくなるかもしれないけど、耳塞いでてね」
「うん、わかった!」
純玲は素直に両手で自分の耳を塞ぎ、ニコリと笑った。
そのあどけない笑顔に、俺は少しだけ救われた気がした。
「……作戦開始」
アドさんの冷徹な命令が、通信回線を通じて全員のインカムに響き渡った。
『ヒャッハー!! 行くぜオラァッ!!』
モニター越しに、ファイアがクラブの重厚な鉄扉に仕掛けたC4爆薬を起爆させる映像が映し出された。
轟音と共に扉が吹き飛び、紫煙と粉塵が舞い上がる。
その直後、タイガーとアリス、クォーツの3人が、爆風の只中へと弾丸のように突入していった。
銃声、怒号、そして破壊音が、モニターのスピーカーから車内へとリアルタイムで流れ込んでくる。
俺はキーボードを叩き、強襲班のカメラ映像と、レイさんの直感による予測データを統合し、瞬時にナビゲートを開始した。
「アリスさん、右の通路から3人来ます! タイガーさん、2階のキャットウォークにアサルトライフル! クォーツさん、そのまま前進してカバーを!」
『了解!』
『任せとけや!!』
戦端が開かれた。
俺は純玲という『守るべき存在』を背後に感じながら、自分の持てる全ての情報処理能力を解放し、この血に塗れた盤面をコントロールするための演算の海へと没入していった。
しかし、作戦開始から、わずか15分。
俺の目の前に並ぶマルチモニターには、六本木の地下クラブ『エデン』の惨状がリアルタイムで映し出されていた。
だが、その映像とインカムから流れ込んでくる音声は、俺の脳内での計算予測を悉く裏切り、最悪の方向へと転がり落ちていた。
「おかしい……! 敵の数が合わない!」
俺はキーボードを叩きながら、焦燥に駆られた声を上げた。
「アドさん! 事前のスキャンでは40人程度だったはずです! でも、倒しても倒しても、フロアの奥の隠し扉から次々と増援が現れます! 現在確認できるだけでも、すでに70人を超えています!」
「……チィッ!!」
隣で戦況マップを睨みつけていたアドさんが、忌々しそうに葉巻を灰皿に叩きつけた。
「俺としたことが……完全に読まれていたか。これは『プレオープン』なんかじゃねえ。俺たち『天秤』の遊撃部隊を一網打尽にするために用意された、巨大な『鼠捕り(トラップ)』だ」
「罠……!?」
「ああ。連中はわざと情報端末にこの場所のデータを残し、俺たちが大規模な殲滅作戦に出るよう誘導したんだ。地下深くの入り組んだ構造は、ルミナスとレイの狙撃を無効化するための地形。そして、この無尽蔵に湧いてくる薬物漬けの私兵どもは……強襲班の体力を物理的に削り殺すための『壁』だ」
アドさんの冷酷な分析が、車内の温度を急激に下げた。
インカムからは、強襲班の激しい息遣いと、絶え間ない銃声が響き続けている。
『クソッ! 撃っても撃ってもキリがねえぞ! このゾンビ野郎ども!!』
『ファイア、下がりなさい! 爆薬の残りは!?』
『もうカラだ! アサルトライフルの弾も底を尽きかけてる!』
アリスさんの切羽詰まった声と、ファイアの怒号。
モニター越しに見える彼らの動きは、明らかに精彩を欠き始めていた。
通常、どれだけ訓練された殺し屋であっても、携行できる弾薬の数には物理的な限界がある。そして何より、彼らが相手にしているのは、痛みも恐怖も感じない薬物強化された狂人たちなのだ。1発や2発の被弾では止まらない敵を相手にすれば、弾薬の消費は想定の数倍に膨れ上がる。
「レイさん、ルミナスさん! 援護は!?」
俺が通信回線に向かって叫ぶと、レイさんの舌打ちが聞こえた。
『無理だ! 敵の増援は地下3階のさらに奥から湧いてきてやがる。俺たちのいるビルの屋上からじゃ、射線が通らねえ! 換気口から撃ち込める範囲には限界がある!』
『僕も2回ほど位置を変えたけど、これ以上は強襲班に誤射するリスクが高すぎる。……すまない、ロータス。ここから先は彼らの自力に頼るしかない』
狙撃班の無力化。
それはつまり、地下クラブに取り残された4人が、完全に孤立したことを意味していた。
『弾切れだ!! 畜生が、来やがれェッ!!』
モニターの中で、ファイアが空になったアサルトライフルを投げ捨て、巨大なサバイバルナイフを両手に構えて敵陣に突っ込んでいく。
クォーツさんも二丁拳銃を撃ち尽くし、予備のハンドガンに切り替えているが、その発砲間隔は明らかに長くなっていた。
『クォーツちゃん、背中合わせて! 近接戦に切り替えるよ!』
『……っ、了解』
アリスさんがタクティカルナイフを逆手に握り、クォーツさんと背中合わせになって防陣を敷く。
だが、多勢に無勢。しかも相手はアサルトライフルを持ったままだ。
ナイフでの近接戦闘は、相手の懐に飛び込まなければならない。銃弾の雨を掻き分けて接近すれば、当然、無傷では済まない。
「アリスさん! 右斜め後ろから2人!」
『わかってる……ッ!』
俺のナビゲートでアリスさんが身を翻し、1人の首を掻き切る。だが、もう1人の放った銃弾が、彼女の左肩を深々と掠めた。
『がはっ……!』
『アリス!!』
『大丈夫、かすり傷……っ! タイガー、そっちは!?』
『ワイを誰やと思とるんじゃボケェッ!!』
タイガーさんがショットガンを鈍器代わりにして敵の頭蓋骨を粉砕しているが、彼の虎柄のスカジャンもすでに何箇所も赤く染まっていた。
彼らの超人的な反射神経をもってしても、全方位からの物理的な弾幕を完全に避けることは不可能なのだ。徐々に、しかし確実に、強襲班は戦傷を負い、体力を削られていく。
「アドさん……! このままじゃ、全滅します! 撤退の指示を!」
俺が悲痛な声で訴えると、アドさんはギリッと奥歯を噛み締めた。
「……強襲班! 状況は絶望的だ。作戦を中止し、裏口からただちに離脱しろ! 殿は……」
『無理や、アド!!』
タイガーさんの声が、通信を遮った。
『裏口のシャッター、いつの間にか外から溶接されとるわ! 正面は敵の壁や! 完全に袋のネズミやで!』
「なんだと……!?」
罠は完璧だった。
敵は最初から彼らを逃がすつもりなどなく、この地下クラブという密室で、彼らの命を真綿で首を絞めるように確実に奪い取る算段だったのだ。
『……っ、あぐっ!!』
その時、インカムからタイガーさんの重い苦悶の声が響いた。
モニターを見ると、タイガーさんがアリスさんを庇うようにして前に飛び出し、その太ももと腹部に数発の銃弾をモロに受けていた。
『タイガー!!』
『ぐっ……アホ、ワイは不死身の猛虎や……こんなもん、蚊に刺された程度……ゴホッ!』
タイガーさんが膝をつき、口から血を吐き出す。
彼の巨体が崩れ落ちるのを見て、敵兵たちが歓声を上げ、一気に距離を詰めてきた。
『殺すな! そいつらを生け捕りにしろ!』
『あの方への極上の手土産になるぞ! 女もだ、両腕を撃ち抜いて動けなくしろ!』
敵のリーダー格と思われる男の残忍な命令が、スピーカー越しに車内に響き渡る。
『やらせるか……ッ! クォーツちゃん、タイガーを連れて下がって! 私が道を開ける!』
アリスさんが肩から血を流しながらも、両手にナイフを構えて前に出る。
だが、彼女の足取りはフラフラで、素人目に見ても限界を超えているのは明らかだった。
敵の男たちが、下卑た笑いを浮かべながらアリスさんを取り囲んでいく。
『……ここまで、か……』
アリスさんの、諦めと絶望の混じった、小さな呟きがインカムから漏れた。
『ごめん、みんな……。私、メンター失格だね……』
「アリスさん!! 諦めないでください! 今、俺がスプリンクラーを誤作動させて視界を……!」
俺が必死にキーボードを叩こうとした、その時だった。
「……ありすおねえちゃん?」
車内の最後尾、俺の後ろの折りたたみ椅子から、震える小さな声が聞こえた。
俺はハッとして振り返った。
純玲が、俺の指示通り両手で耳を塞いでいたはずなのに、スピーカーから流れてきたアリスさんの悲痛な声に反応し、手を下ろしてモニターを見つめていたのだ。
「ありすおねえちゃん……けがしたの? いたいの?」
純玲の大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
彼女は、モニター越しに血まみれになっているアリスさんやタイガーさんの姿を、5歳の少女の純粋な心で受け止めてしまっていた。
「純玲ちゃん、見ちゃダメだ!」
俺は慌てて彼女の目を塞ごうとした。
だが、純玲は俺の手をすり抜け、モニターに近づいた。
「おじちゃん……ありすおねえちゃん、いじめられてる。たすけないと……。おねえちゃん、しんじゃうよぉ……っ」
彼女の声が、恐怖と悲しみで震えている。
俺は唇を噛み締めた。
助けたい。俺だって助けたい。だが、今の俺にはどうすることもできない。俺はただの情報処理端末であり、物理的な暴力を持たない無力な存在なのだ。
『大人しくしろ、アマ!』
『きゃあっ!!』
スピーカーから、アリスさんが敵に髪を掴まれ、床に引き倒される凄惨な音が響いた。
『アリス!! 放せ!!』
クォーツさんの悲痛な叫び声。ファイアの怒号。タイガーの呻き声。
それらが全て混ざり合い、絶望のオーケストラとなって車内に充満する。
「おねえちゃん……っ! ありすおねえちゃん……!!」
純玲が、モニターに小さな手を押し当て、泣きじゃくった。
「やめて! おねえちゃんをいじめないで! やだ、やだぁっ!!」
俺は何も言えなかった。
アドさんも、拳を血が滲むほど強く握りしめ、沈黙している。
誰もが、強襲班の全滅という最悪の結末を覚悟していた。
だが。
その直後、車内の空気が、異様なまでに張り詰めた。
「……ぇ?」
俺は、思わず息を呑んだ。
モニターの前で泣きじゃくっていた純玲の鳴き声が、ピタリと止まったのだ。
ただ泣き止んだのではない。
彼女の身体から、五歳の少女特有の『怯え』や『幼さ』が、まるで電源を落とされた機械のように、一瞬にして消え去った。
純玲は、ゆっくりとモニターから手を離した。
そして、ダラリと両腕を下げたまま、静かに、本当に静かに、顔を上げた。
その顔を見て、俺の全身の産毛が総毛立った。
涙で濡れた頬。だが、その瞳には、先ほどまでの怯えた子供の光は微塵も存在しなかった。
そこにあったのは、絶対零度の氷のような、漆黒の虚無。
すべての感情を削ぎ落とし、ただ物理的な殺意だけを純度100%にまで濃縮した、あの『冷徹なバケモノ』の目。
アドさんも、その異変に気づき、ハッと目を見開いた。
「……ピュア、なのか?」
純玲は、アドさんの問いかけには答えなかった。
彼女はただ、モニターの中で敵に押さえつけられているアリスの姿を、感情の抜け落ちた目で見つめていた。
そして。
彼女の細い喉から、鼓膜を物理的に引き裂くような、しかし極めて冷徹で、獲物を奪われようとしている絶対者の『咆哮』が放たれた。
「——アリス!!!」
その声は、5歳の子供の泣き声ではなかった。
それは、自らの所有物を汚す者への、明確で圧倒的な『死の宣告』だった。
車内の空気が震える。
ピュアさんが、完全に、そして最悪の形で再起動した。
「……ロータス」
ピュアさんが、ゆっくりと俺の方へ首を向けた。
その視線に射抜かれた瞬間、俺は自分が蛇に睨まれた蛙になったように、一歩も動けなくなった。
「私のパニガーレは、外に積んであるわね?」
「は、はい……! もしもの時のためにと、アドさんがバンの後部のハッチに……」
「私のライフルと弾薬は?」
「あ、あります! すべて、ピュアさんのオーダー通りに……」
「そう。上出来よ」
ピュアさんは、涙で濡れた自分の頬を無造作に袖で拭い去り、車内の武器ラックからHK416アサルトライフルと予備弾倉、そして二丁のグロック19を引き抜いた。
その流れるような物理的動作に、一切の迷いはない。
彼女の脳内で、先ほどまでのバグとエラーは完全にデフラグされ、アリスを救出し、敵を殲滅するための完璧な計算式が再構築されていたのだ。
「ピュア! お前、正気に戻ったのか!?」
アドさんが立ち上がり、信じられないものを見るように声を上げた。
「アド。私の不在でこれほどの醜態を晒すなんて、あなたらしくもないわね」
ピュアさんは冷たく言い放ち、アサルトライフルのチャージングハンドルをガシャリと引いた。
「私の所有物を傷つけたゴミ共には、物理法則の限界を超えた暴力で報いを受けさせる。……ロータス」
「は、はいっ!」
「クラブのエントランスへの最短ルートをナビゲートしなさい。私の機動力で、一分以内に戦場へ到達するわ」
ピュアさんの声は、俺が教習所通いをしていた時に聞いていた、あの冷徹で合理的な、完璧な主人の声だった。
俺の心に、恐怖と、それ以上の圧倒的な安堵感が広がっていく。
「了解しました! ピュアさん!」
俺は弾かれたようにモニターに向き直り、キーボードを叩き始めた。
ピュアさんがバンの後部ハッチを開け、暗闇の中へと飛び出していく。
数秒後、路地の奥から、真紅のパニガーレの暴虐的なV型四気筒の排気音が、夜気を切り裂いて轟いた。
最強の殺し屋が、覚醒した。
盤面は、ここから完全にひっくり返る。俺は確信と共に、彼女の走るルート上の信号をすべて青へと強制的に書き換えた。




