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冷血の花は愛に散る  作者: 神城零
第二章「情緒宿す麗しき怪物」
10/16

第三話「全部豁サ繧薙〒螢翫l縺ヲ縺励∪縺・」

 深夜。午前2時45分。

 私はタワーマンションの主寝室で、最高級のエジプト綿のシーツに包まれ、静かに目を閉じていた。


 完璧な空調。計算し尽くされた防音。私のテリトリーは、物理的ないかなる外的ノイズからも完全に遮断されている。

 肉体の疲労は、蓮の用意した適切な栄養素の摂取と、38度の温浴によって修復プロセスに入っている。

 あとは脳を休ませるだけだ。今日1日の視覚、聴覚、触覚から得た膨大なデータを整理し、不要なキャッシュを削除し、必要な情報を長期記憶領域へと移行させる『デフラグメンテーション』の作業。


 私は、静寂の中で自らの思考の海へと潜った。


 ——スキャン開始。


 今日の任務。アリスの負傷。クォーツの拒絶。蓮のシチュー。

 順番にデータを処理していく。しかし、処理の過程で、私の論理回路が小さな『引っ掛かり』を検知した。

 頭の片隅に1時保存(保留)したまま、放置していた疑問の数々。

 無視すればいい。これまでもそうしてきた。だが、アリスや蓮、クォーツといった『感情』という不確定要素に触れすぎたせいか、私の脳はその小さなエラーログを自動的に開き始めてしまった。


 【Error_01:監視役の男】

 施設を出る日、あの監視役の男は私に向かって涙を流した。『自分の娘を重ねてしまう』と言った。

 なぜ?

 私は彼と血の繋がりはない。私は5歳で親を殺した殺人鬼だ。それなのに、なぜ彼は自分の遺伝子を継ぐ個体と私を同1視し、塩分と水分を含む液体を眼球から排出させたのか。非合理的だ。同情? 憐憫? なぜ私にそれを向ける? 私は彼に何も与えていないのに。


 【Error_02:舐められることへの抵抗】

 外界に出てすぐ、私は他者から『舐められる』ことに強烈な怒りのような感情を覚えた。

 安いスマートフォンを渡された時。フレンチの店で服装を判断された時。

 なぜだ? 私は他人に興味がないはずだ。他人が私をどう評価しようと、私の物理的な機能には何の影響もない。それなのに、なぜ私は高級な服を買い、ポルシェやパニガーレといった『舐められない』ための威圧的な装甲を欲した?

 単なる機動力の拡張? 嘘だ。私はあの暴力的なフォルムと排気音に『執着』している。なぜ? 有機物ですらない鉄の塊に、なぜ心が惹かれる?


 思考の回転数が上がり始める。

 バグが、次々と別のバグを呼び起こす。


 【Error_03:アリスへの特別視】

 なぜ私はアリスを失うことを恐れた? 彼女が私の精神安定に機能しているから?

 ならば、なぜクォーツがアリスに甘える姿を見て、胸の奥がざわついた?

 嫉妬? 独占欲? 私はアリスの所有者ではない。彼女は独立した個体だ。それなのに、なぜ私が彼女を独占したがる? 私の計算式に『他者への執着』という変数が組み込まれたのはいつからだ?


 【Error_04:味覚の錯覚】

 アリスの淹れたコーヒー。蓮の作ったシチュー。

 物理的な抽出温度は間違っていた。化学的な旨味成分のアミノ酸は完璧ではなかった。それなのに、なぜ私はそれを『美味しい』と出力した?

 『誰かが自分のために作ってくれた』から?

 ふざけるな。感情が味蕾の電気信号を書き換えるなど、物理法則に反している。プラシーボ効果? いや、もっと根源的な、私の論理を根底から破壊するウイルスだ。


 【Error_05:クォーツの嫌悪】

 『近づかないで!!』

 あの時、クォーツは私を明確に拒絶した。

 なぜ、あの拒絶が私の胸をチクりと刺した? 物理的ダメージはゼロ。彼女の好意など最初から求めていない。なのに、なぜ私はあの時、呆然と立ち尽くした?

 嫌われることが不快? なぜ不快なんだ? 私は、他人にどう思われてもいいはずなのに!!


【Error_06:死への恐怖】

 アドに銃口を突きつけられた日。

 弾丸が側頭部を掠めた瞬間、私は即座に反抗を停止した。彼らには勝てない。それは合理的な判断だ。

 だが、根底にあったのは『死にたくない』という強烈な生存本能だった。

 おかしい。私には生きる目的がない。ただの有機物の塊だ。

 機能停止を恐れる機械など存在しない。

 それなのに、なぜあの時、私は怯えた?

 細胞が震えた。なぜだ。恐怖? 機械に恐怖などあるはずがない。


【Error_07:破壊の快楽】

 新宿のホテル。詐欺師の男の首を絞めた。

 男がもがき、絶望する顔を見た。私はかつてない高揚感を覚えた。

 ただ有機物を破壊するだけの作業。

 なぜ脳がドーパミンを分泌する? 相手の絶望をトリガーにする?

 バベルの残党を処理した時は違った。ただのルーティンだった。

 同じ『命を奪う行為』だ。なのになぜ出力が違う?

 殺しに『好み』がある? 感情的な反応を見て楽しむ私はサディストか?合理性の欠片もない!


【Error_08:所有物への執着】

 蓮が拉致された夜。

 サポーターが失われた。なら、新しい駒を補充すればいい。

 それが最も合理的だ。わざわざ危険を冒す必要はない。

 それなのに、なぜ私は時速200キロでバイクを飛ばした?

 拘束された彼を見た瞬間、なぜ安堵した?

 『無能ね』と突き放しながら、なぜ傷つけないよう慎重に拘束具に刃を入れた?

 彼はただの拡張パーツだ。生きていただけで、なぜ思考のノイズが消えたのだ?


【Error_09:他者への興味】

 服を着ずにリビングを歩いた夜。

 蓮はパニックになり、顔を赤くした。私は彼をソファに追い詰めた。

 なぜだ? 私の身体を評価させようとした。

 ルンバが暴走したら電源を切るだけだ。ルンバの評価など気にするか?

 それなのに、私は彼の動揺する姿に『興味』を惹かれた。

 からかって、楽しんだ。

 楽しい? 機械が他者とのコミュニケーションで遊ぶ? あり得ない。


【Error_10:アリスへの嫉妬】

 クォーツがアリスにチョコレートを渡した。アリスが微笑んだ。

 なぜ、ドス黒い不快感が湧いた?

 アリスは私の所有物ではない。サポートの質は低下しない。

 物理的損失は0だ。

 それなのに、クォーツを視界から消し去りたかった。

 アリスの笑顔を独占したい? 私以外の誰かに向けないでほしい?

 嫉妬? 私は誰にも依存しない、独立したシステムのはずだ!


【Error_11:喪失の恐怖】

 アリスが敵の集中砲火を浴びた。

 防弾素材だ。生存確率は高い。頭では理解していた。

 なのになぜ、レイの指示を無視して走った?

 『彼女を失うかもしれない』。その未確定な仮説が論理をショートさせた。

 血を流す彼女を見て、息が止まるほど恐怖した。

 自分の機能停止以上の恐怖。

 他者の損壊に、なぜこれほど心が痛む? 私の心臓は、私のためのものだろう?


【Error_12:未知の熱】

 散弾を摘出された時。

 アリスは私の手を強く握った。ただの36度の熱移動だ。

 なのになぜ、メスで肉を切られる痛みより、その手の温もりが神経を支配した?

 蓮のコーヒー。蓮のシチュー。

 物理的な温度じゃない。彼らが向ける『好意』という非物理的な概念。

 それが侵入するたび、私の中に『熱』が蓄積していく。

 有機物の体温が、私の論理回路をドロドロに溶かしていく。

 私は冷血な機械だ。バケモノだ。なのに、この温もりは何だ!?


 ——警告(WARNING)。論理回路の矛盾を検知。

 ——処理能力が閾値を超過。


 違う。違う。違う。違う。違う。

 私は機械のように合理的だ。感情の欠落したバケモノだ。

 計算できないものなどない。すべては物理法則で説明できる。

 それなのに、なぜ計算式が合わない? 1+1が2にならない?


 思考はさらに深層へ、私の過去の最も暗いアーカイヴへと強制的にアクセスしていく。


 【Error_13:親殺し】

 私は5歳の時、両親を台所の包丁で滅多刺しにした。

 理由は『鬱陶しかったから』。盗み食いの説教が長かったから。

 本当にそれだけか?

 たったそれだけの物理的音声ノイズを排除するために、自分を保護し、養育するための最も強力なリソースである『親』という存在を破壊したのは、生物学的に究極の非合理ではないのか?

 なぜ私は、あの日、包丁を握った?

 なぜ彼らの血溜まりの中で、私は何も感じなかった?

 『純粋で澄み渡った心の持ち主になってほしい』——純玲。

 純粋? 純白? 何にも染まっていない?

 だから殺したのか? 汚れ(ノイズ)を排除するために?


 【Error_14:外界への渇望】

 児童自立支援施設。あの箱庭は完璧だった。

 食事は与えられ、安全は保障され、本を読む自由があった。

 なぜ私は、あの完璧な檻を破ってまで外へ出た?

 自由? 自由とはなんだ? 外界に出た結果、私は殺し屋になり、銃弾を浴び、他者の感情というノイズに振り回されている。施設にいた方が生存確率は圧倒的に高かった。

 なぜ、外へ? 何を求めて?


 【Error_15:殺人への無抵抗】

 なぜ私は人を殺すことに何の躊躇いもない?

 有機物の機能を停止させているだけ? そうだ。ただの物理的な破壊だ。

 だが、なぜ『排除』という選択肢が常に最優先される?

 人間の脳には同種殺しを避けるための強力なストッパーがある。それが私にはない。

 なぜない?

 私は、壊れているのか?


 エラーがエラーを生む。再帰的な問いが無限ループを形成する。

 脳髄が煮えくり返るように熱い。

 視界が歪む。暗闇のはずの寝室が、無数の数式と、血の赤と、アリスの笑顔と、蓮の涙と、クォーツの拒絶の声で埋め尽くされていく。


 計算できない。

 解が、出ない。


 そして、全てのエラーが収束し、最後に残った究極の【致命的欠陥(Fatal Error)】が、私の脳内にぽっかりと口を開けた。


 【Error_16】

 ——『どうして私は、生きているのか?』


 生存の目的。

 ない。

 私には、生きる理由がない。

 アリスを守るため? 蓮を所有するため? 違う、それは外界に出てからの後付けだ。

 私がこの世に産み落とされ、親を殺し、檻を抜け出し、今、ここで呼吸をしている合理的な理由が、どこにも、何1つ、存在しない!!


 存在意義の欠落。

 Null。空白。無。


「ああああ、アアア、ァ、ァァ……っ」


 私の喉の奥から、カタカタと乾いた音が漏れる。

 息が、できない。

 心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れ狂い、全身の血球が沸騰している。


 フラッシュバック。

 脳内を、これまでの事象が暴風雨のように駆け巡る。


 親を刺した。何も感じなかった。

 男の首を絞めた。快楽があった。なぜ?

 アドに銃を向けられた。恐怖した。なぜ?

 蓮が攫われた。怒った。なぜ?

 アリスが撃たれた。絶望した。なぜ?

 クォーツが拒絶した。傷ついた。なぜ?


 私は機械だ。感情はない。

 蓮はただのパーツだ。なら壊れれば捨てればいい。なのに、なぜ助けた?

 アリスはただの他者だ。なら死ねば放っておけばいい。なのに、なぜ走った?

 シチューはただの栄養だ。なら味などどうでもいい。なのに、なぜ美味しい?

 手当てはただの医療行為だ。なら痛みだけ感じていればいい。なのに、なぜ温かい?

 クォーツがアリスに笑いかけた。ただの物理現象だ。なのになぜ、あんなに憎かった?


 矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾。

 エラー。バグ。ノイズ。ウイルス。


 怖い? 何が怖い? 死が? 孤独が?

 痛い? どこが痛い? 肉体が? 心が?

 心?

 心とはなんだ?

 私に心などない。5歳のあの日、血溜まりの中で全て捨てたはずだ。

 純白。何にも染まらない。誰にも依存しない。冷徹な殺し屋。

 それが私だ。それが早乙女純玲だ。

 それなのに、この胸を締め付ける、ドロドロとした熱いものはなんだ!?


 温もり。優しさ。怒り。悲しみ。恐怖。執着。嫉妬。

 知らない。知らない。そんなデータはインストールされていない!

 未定義の変数。解読不能のソースコード。

 私の完璧な計算式が、ただの『感情』という不確定要素によって、めちゃくちゃに破壊されていく。


 1+1が2にならない。

 AならばBにならない。

 生きる意味がないのに、死にたくない。

 愛されたいわけじゃないのに、嫌われたくない。

 他人に興味がないのに、私だけを見てほしい。


 違う! 違う違う違う違う違う!!

 私はバケモノだ! 人間じゃない!

 温もりなんていらない! 誰かの手なんていらない!

 私に触れるな! 私の中に侵入するな!

 アリスの笑顔が、蓮の声が、クォーツの涙が、アドの銃口が、男の絶望が、親の怒鳴り声が!

 頭の中で、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、視界を、聴覚を、私という存在の全てを食い破っていく!


 排出すべきだ。

 この汚染されたデータを、物理的に削除しなければ。

 でも、どうやって? どこから?

 脳髄を抉り出せばいいのか? 心臓を握り潰せばいいのか?

 わからない。わからない。わからない!!


 矛盾。矛盾。矛盾。

 私は合理的だ。私は感情がない。

 なのに、なぜこんなに胸が痛い? なぜこんなに苦しい? なぜ涙腺から勝手に涙が溢れ出そうとしている!?


 理解できない!

 計算できない!

 (コタエ)が、出ない(デナイ)!!


 私ハ、何ダ?

 私ハ、誰ダ?

 私ハ、何ノ為ニ、コノ(ヨゴ)レタ世界デ、呼吸ヲシテイルッ!?


 脳内の演算回路が、限界を突破してショートする。

 論理の城が音を立てて崩壊し、純白だったはずの私の精神が、理解不能な感情と狂気のバグによってドロドロに浸食されていく。


 限界だ。

 これ以上の処理は、不可能だ。


 私はベッドの上に身をよじり、シーツを掻き毟りながら、肺の底に溜まった全ての酸素を使い果たし、暗闇の虚空へ向かって、自らの存在そのものを破壊するかのように、世界中に響き渡るような声で発狂した。



「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!!!!」


 自分の口から出力された音声データが、鼓膜を突き破って脳内を反響する。

 うるさい。うるさい。誰だ、この耳障りな周波数を垂れ流している有機物は。

 私だ。私が、悲鳴を上げている。

 なぜ? 理由が計算できない。理由がないのに出力が止まらない。

 視界が、明滅している。純白だったはずの天井が、赤、黒、赤、黒、と規則性のないノイズに侵食されていく。


 皮膚の下で、何かが蠢いている。

 エラーだ。私の完璧な肉体の中に、論理の破綻という名のバグが、物理的な虫となって這い回っている。血管を食い破り、神経細胞をショートさせながら、脳髄へと這い上がってくる。


 排除しなければ。

 物理的に、この不快なバグを掻き出さなければならない。


 私は両手で自分の腕を掻き毟った。

 爪が皮膚を裂き、赤い液体——血液が滲み出す。だが、足りない。もっと深く。もっと深くえぐり出さなければ、この胸の奥で暴れ狂う『存在しないはずの感情』というウイルスを取り除けない。

 指先に布の感触。最高級のエジプト綿のシーツ。邪魔だ。私に巻き付くな。

 ビリィッ、ビリィィィッ!!

 私はシーツを力任せに引き裂いた。繊維が断裂する音が、頭蓋骨の裏側でガラスが割れる音に変換される。


「アァッ、ハァ、アアアアッ!! イタイ、違う、痛覚じゃない、苦しい、計算、計算式ガ合ワナイッ!!」


 空間の座標が歪む。重力のベクトルが真上に向かったかと思えば、横にスライドする。私は自分がベッドの上にいるのか、天井に張り付いているのかすら認識できなくなり、吐瀉物をぶちまける。


『ドンッ、ドンッ、ドンッ!!』


 突然、私のテリトリーを隔てる境界線——寝室の扉から、激しい物理的衝撃音が響いた。


「ピュアさん!? ピュアさん、どうしたんですか!?」


 音声データを受信。

 ロータス。早乙女蓮。私の所有物。

 だが、現在の私の脳は、その音声を正しく翻訳できなかった。

 ノイズまみれの音声。それは私を脅かす外部からのウイルスだ。私の領域に侵入しようとする悪性のプログラム。


「ピュアさん! 入りますよ!? 開けますよ!」


「来るなァァッ!!」


 私は声のする方向——歪んだ空間の先にある4角いモザイクの塊に向かって、獣のように咆哮した。


「消えろッ! 入るな! 私の世界に、これ以上不確定要素を入れるなッ!! 死ね!! 死ね死ね死ね死ね死ねッ!!」


 論理も何もない。ただの拒絶。

 彼が入ってくれば、このバグはさらに増殖する。アリス、蓮、クォーツ。彼らが私のシステムに感染させたのだ。彼らが私の純白の世界を汚したのだ!


 ガチャリ、と。

 無機質な音がして、扉が開かれた。


「ピュアさ……っ!?」


 侵入者が現れた。

 私の網膜に映ったのは、人間の形をした、黒く蠢くノイズの塊だった。

 輪郭がブレている。目や鼻のパーツが溶け落ち、ただ私を脅かす巨大な影として認識される。


「ピュアさん、血が! 何をしてるんですか、自分の腕を……っ!」


 黒い影が、私に近づいてくる。

 危険。危険。危険(WARNING)。

 排除対象。物理的に破壊しなければ、私が破壊される。


「アアアアアアアッ!!」


 私はベッドから跳ね起き、その黒い影に向かって飛びかかった。

 殺す。殺す。頸動脈洞を圧迫して、気管を砕いて、眼球を抉り出して、完全に機能停止させる。


 私は腕を振り上げ、影の顔面を目掛けて拳を振り下ろした。

 ——だが、空を切った。

 対象の質量を捉えるはずの拳が、あっさりと軌道を逸らされたのだ。


「ピュアさん! やめてください!」


 黒い影の腕が、私の腕を絡め取る。

 私は即座に重心を沈め、膝の関節を破壊するための蹴りを放った。

 しかし、その蹴りも、寸前のところでスッと躱される。


 おかしい。なぜ当たらない?

 私の攻撃は常に最短距離で、人体の構造上の弱点を突く完璧なベクトルを持っているはずだ。

 だが、今の私の動きには、何の計算も、物理学的な最適化も存在していなかった。

 ただ感情のままに腕を振り回し、恐怖とパニックで重心が浮き上がった、素人以下のデタラメな暴れ方。

 私が彼に教え込んだ「力で対抗するな、ベクトルの向きを変えろ」という防衛術の基本を、今の私は完全に忘れ去り、自らその罠に飛び込んでいたのだ。


「死ねッ! 壊れろ!! 私の頭から出て行けェェッ!!」


 私はもう片方の腕で引っ掻こうとし、歯を剥き出しにして噛み付こうとした。

 唾液が飛び散り、呼吸がゼイゼイと鳴る。

 スマートで冷徹な殺し屋の姿など、そこには欠片もなかった。ただの、発狂した獣。


「落ち着いてください、ピュアさん!!」


 黒い影が、私のデタラメな攻撃を紙1重で捌きながら、私の懐へと滑り込んできた。

 そして、私の両腕を背中側に回すのではなく、正面からガシッと強く抱きしめ、自分の体重を預けて私をベッドの上へと押し倒したのだ。


「離セッ! 触ルナ、汚イ、ノイズ、バグッ!!」


 私は暴れた。拘束を解こうと全身の筋肉を稼働させる。

 だが、影の腕は力強く、私の背中と頭をしっかりとホールドし、決して逃がそうとしなかった。


「ピュアさん、俺です! 蓮です! お願いします、落ち着いて……っ!」


 蓮。ロータス。

 その単語が脳内で空回りする。

 理解できない。この温かい拘束具は何だ? なぜ私を壊さない? なぜ私を殺そうとしない?

 エラーログが視界を埋め尽くし、私はパニックの頂点に達していた。


「ヤダ、ヤダヤダヤダ!! ウルサイ、消エロォォォッ!!」


 私が金切り声を上げ、なおも暴れ狂って彼の肩に歯を立てようとした、その瞬間だった。



「——落ち着けって言ってるんだ!!」



 鼓膜を震わせる、巨大な音声物理データ。

 それは、普段のオドオドした蓮の声ではなかった。

 腹の底から絞り出された、確かな怒りと、強い意志を持った『叱責』の声。


 ビクンッ、と。

 私の全身の筋肉が、強制的にフリーズした。


 大声。

 怒鳴り声。

 私を見下ろす、巨大な影。


 視界のノイズが、急激に別の映像へと切り替わっていく。

 ここは、どこだ。

 タワーマンションの寝室ではない。

 狭くて、油の匂いがする場所。足元には冷たいクッションフロア。

 目の前には、私を見下ろす、2つの巨大な影。


『また盗み食いしたの!? 何度言ったらわかるの!』

『いい加減にしろ! お前は本当に悪い子だ!』


 耳を劈くような、金切り声と怒鳴り声。

 あの日。10年前の、あの日の情景。

 私が、両親を包丁で滅多刺しにする直前の、記憶。


「あ……」


 私の脳内で、強固に構築されていた『冷徹な15歳の殺し屋』という自我が、音を立てて崩れ落ちていく。

 膨大なエラー処理に耐えきれなくなった脳が、自己防衛のためにシステムをロールバックさせていく。

 10年前に、時間が巻き戻る。

 私は、絶対的な力を持つ『親』に怒鳴られ、恐怖し、抑圧されていた『5歳の子供』へと、急激に退行していったのだ。


 巨大な影が、私を怒っている。

 大声を出している。

 私が悪いことをしたから。私が、壊れてしまったから。


「あ、あ、ぁ……」


 暴れていた私の身体から、スッと力が抜け落ちた。

 両腕がだらりと下がり、呼吸の乱れだけが残る。


 私を抱きしめている影の輪郭が、徐々に焦点を結び始めた。

 黒いノイズが晴れ、そこにいたのは、顔を青ざめさせ、悲痛な表情で私を見つめる、早乙女蓮の顔だった。


 彼は、怒っている。

 私が、彼の言うことを聞かなかったから。

 私が、悪い子だから。

 また、あの長いお説教が始まるのだ。暗い部屋に閉じ込められて、ご飯を抜きにされるのだ。


 怖い。

 怖い。怖い。怖い。怖い。


「……ピュアさん?」


 蓮が、私の異変に気づき、抱きしめる力を少し緩めた。

 その顔を見た瞬間、私の目から、せき止めていたダムが決壊したように、熱い液体がボロボロと溢れ出した。


「ご……めんなさい……っ」


 私の口から出たのは、冷徹な論理でも、殺意の言葉でもなかった。

 しゃくり上げ、震え、ただ許しを請うだけの、ひ弱な子供の声だった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……っ、怒らないで……」


 私は、自分を抱きしめている蓮の胸に顔を押し付け、シャツを小さな両手でギュッと握りしめた。


「ごめんなさい、もう、しないから……いい子に、するから……っ。大声出さないで……怒らないでよぉ……っ!」


 ぽろぽろと、止めどなく涙が溢れる。

 鼻水が垂れ、嗚咽が漏れる。

 私が10年もの間、心の奥底の『何もない部屋』に閉じ込め、無視し続けてきた根源的な恐怖。

 親に愛されず、疎まれ、怒鳴られ続けた、5歳の少女の孤独な魂が、今、完全に表層へと溢れ出していた。


「ピュア、さん……?」


 蓮は、自分にしがみついて幼児のように泣きじゃくる私を見て、完全に混乱しているようだった。

 先ほどまで殺意を剥き出しにして暴れ狂っていた怪物が、突如として5歳の子供のように怯え、泣き叫んでいるのだから当然だ。


「ヒック……うぇぇぇんっ……ごめんなさぁい……っ!」


 私はただ、泣いた。

 世界のバグを物理的に排除することもできず、計算式で自分を保つこともできず、ただ絶対的な他者の温もりにすがりつき、赦しを乞うことしかできなかった。


「……ピュアさん」


 蓮は、戸惑いながらも、私の背中にそっと手を回した。

 そして、子供をあやすように、ゆっくりと、優しく、私の背中をトントンと叩き始めた。


「……怒ってないです。大丈夫ですよ。俺は、怒ってません」


 その声は、さっきの大声とは違う、いつもの彼の、少し情けないけれど、限りなく優しい声だった。


「誰も、ピュアさんを怒りません。大丈夫、俺がいますから……」

「ほんと……? ほんとに、怒ってない……?」

「はい。怒ってないです」


 温かい。

 彼の体温が、私の震える身体を包み込んでいる。

 施設にいた頃も、外界に出てからも、こんな風に無条件で、ただ優しく抱きしめられたことなど、1度もなかった。


 私の脳内で暴れ狂っていたエラーのアラートが、彼の規則正しい背中のタップと、温かい体温によって、少しずつ、少しずつ、鎮静化していく。


「うぅ……ぐすっ……」


 私は彼にしがみついたまま、ただ泣き疲れるまで涙を流し続けた。

 冷徹な殺し屋の純玲はそこにはおらず、そこにはただ、世界の理不尽に怯え、温もりを求めるだけの、哀れな5歳の少女が存在しているだけだった。

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