第70話 手袋を外すまで
十二月になると、教室の暖房は席によって働きぶりが違った。廊下に近い俺の席では、朝のうちは膝が冷える。休み時間に窓際へ行くと、今度は顔だけが妙に暖かかった。
「三原くん、そこで眠らないでね」
高瀬さんに言われて、俺は窓から一歩離れた。
「起きてる。こっちの暖かさを少し持って帰れないか考えてた」
「それ、持って帰れたら私の席も寒くなるじゃない」
高瀬さんは笑って、机の上のプリントを揃えた。俺が自分の席へ戻ろうとすると、隣の教室から莉緒が顔を出した。両手で持っているのは、見覚えのある俺のノートだった。
「航平、これ。昨日ありがと。分からなかったとこ、先生にも聞けた」
「最後の式、俺の書き方だと飛んでたろ」
「うん。あそこだけ、急に目的地に着いてた」
「途中の駅が抜けたな」
「乗せてほしかったんだけど」
笑いながら受け取ると、付箋に小さく、ここまで分かった、と書いてあった。莉緒が貼ったものだ。進む先が決まってからも、彼女は学校の課題を放り出してはいなかった。俺と受ける試験は違う。それでも、分からないところを聞きに行った話には、素直に頷けた。
「今日、帰り一緒に行ける?」
「行ける。駅までなら」
「じゃ、手袋持ってきて正解だった」
莉緒は制服のポケットを軽く叩いた。十一月の公園で、指が冷たいと言い合ったのを思い出す。寒さに負ける前に、用意できるものは用意しておく。彼女はそれを、会うための支度として楽しそうに言った。
その日の放課後、昇降口を出ると、空はまだ青さを残していた。莉緒の手袋は淡い色で、指先まできちんと覆われている。俺のは家にあった濃い色のものだった。
「左右、間違えてない?」
莉緒が俺の手元を見て言った。
「そこまで信用ないか」
「さっき、親指の場所探してたから」
「鞄の持ち手が引っかかっただけ」
言い訳をしながら、俺は右手を差し出した。莉緒の左手が重なる。布を一枚ずつ挟んでいるせいで、いつもより手が大きくなったようだった。指を絡めようとしてうまくいかず、二人で握り直した。
「冬って難しいね」
「手まで着込むからな」
「でも、これも好き」
莉緒が一度だけ、繋いだ手を持ち上げた。その動きにつられて、俺の腕も少し上がる。掌の温度は直接分からなくても、隣を歩く速さは分かった。
商店街には、小さな照明が吊られ始めていた。昼間から点ける店もあれば、まだ箱を開けている店もある。駅へ向かう人の流れに合わせて歩きながら、俺たちは冬休みの予定を話した。
「年末、姉ちゃんと家の片づけするんだ。私の机の横、作ったやつ便利なんだけど、入れすぎてるって言われた」
「丈夫に作った結果か」
「丈夫でも限界あるよって。作った本人に言うんだよ」
「本人だから言うんじゃないか」
「航平まで姉ちゃん側についた」
莉緒は笑ったあとで、布を買い足すならまず今ある分を見てからにする、と続けた。俺も机に積んだ問題集を思い出した。使っている本と、取り出しやすい場所に置いたままの本が、いつの間にか混ざっている。
「俺も片づける。探してる時間、地味にもったいない」
「じゃあ、今度会ったら、お互い何が出てきたか報告ね」
「答えが出てくると助かるんだけど」
「それは解いて」
遠慮なく返ってくる声が嬉しかった。
駅の広場まで来たところで、莉緒が歩調を緩めた。
「クリスマスの頃、ちょっと会いたい。長いお出かけじゃなくていいから」
俺は頷きかけてから、鞄からスマホを出した。家と学校の予定を書いた画面を開く。指先は手袋のままだとうまく動かず、いったん手を離した。
「二十四日の夕方なら、早めのご飯にできると思う。家で確認する。五時くらいまでに帰る感じで」
「私、その日大丈夫。お昼遅くなりすぎないようにしとく」
「食べたいものある?」
「熱いやつ。あと、座って食べるやつ」
「だいぶ選択肢あるな」
「航平は?」
俺は近くの店を思い浮かべた。前に一人で通りかかったとき、窓に出ていたスープの写真が気になった店がある。
「駅の反対側に、スープとパンの店がある。そこ、行ってみたい」
「いい。私もそれ食べたい」
彼女はすぐに言って、次に、席がいっぱいだったら別でもいいね、と付け足した。俺も頷いた。食べたいものが決まったことと、絶対そこでなければいけないことは、同じではなかった。
家に帰って、父と母に出かける時間を話した。夕食の都合も確認すると、母はカレンダーを見て頷いた。
「じゃあ、その日は航平の分、夜は軽めで考えておくね」
「ありがとう。帰る時間はまた連絡する」
弟は横から、パンを何個食べるつもりだ、と聞いてきた。
「まだ店にも行ってない」
「先に計画しないの」
「受験の予定とは別だろ」
「そっか。俺なら三個から考える」
妙に具体的な助言をもらって、自分の部屋へ戻った。
机を片づけると、十一月にもらった飴の小袋が出てきた。最後の一個は数日前に食べて、袋だけ机の端に残していた。中をもう一度確かめてから、紙の部分と袋を分けて片づける。なくなったからといって、もらった日の声まで消えるわけではない。夜に聞いた莉緒の笑い声は、今も覚えていた。
その隣からは、文化祭で使った展示の説明を書いた下書きが出てきた。持ち帰った写真は本棚のファイルに入っている。下書きに何度も書き直した題を見て、少し笑った。たった数文字を決めるのに、あのときは随分迷っていた。
残しておきたい紙と、もう使わない紙を分ける。机にできた空きへ、冬の予定を書いた紙を置いた。学校で先生と確かめた出願の条件も、家で確認する項目も、そこへまとめてある。
第一志望の欄を指で押さえてから、今日やるページを開いた。
二十四日は、午後三時半に駅で待ち合わせた。莉緒は先に来ていて、上着の襟に指を添えていた。俺を見つけると、手袋をしたまま手を振る。
「メリークリスマス。まだ夕方にもなってないけど」
「メリークリスマス。腹は減った?」
「挨拶の次、それ?」
「今日の重要事項だから」
「減った。ちゃんと調整してきました」
得意そうな顔に笑って、俺たちは店へ向かった。
窓際は埋まっていたが、奥に二人分の席が空いていた。入口で表示を確かめてから入ると、焼いたパンの匂いがする。莉緒は手袋を外し、片方をもう片方の中へ入れて鞄にしまった。
「なくすから、こうする」
「俺もそうする」
「今までどうしてたの?」
「片方ずつポケットに」
「それもなくさなそうだけど」
真似をしたい理由を聞かれたみたいで、俺は少し困った。
「しまい方、いいなと思った」
「うん。採用して」
莉緒は満足そうに頷いて、メニューを俺の方にも向けた。
俺は豆と野菜のスープ、彼女は鶏肉のクリームスープを選んだ。どちらにもパンがつく。値段を見て、今日持ってきた分で足りるのを確かめ、それぞれ注文した。
運ばれてきた器は思ったより深かった。莉緒がスプーンを持ち上げ、ふっと息を吹いてから、慎重に口へ運ぶ。
「熱い?」
「熱い。でも、おいしい。もうちょっと冷めたら、もっと分かる」
「まだ一部分しか分かってないんだな」
「最初、全部あったかいで埋まった」
俺のスープも十分熱かった。豆を一つすくい、彼女より多めに息を吹く。莉緒がそれを見て笑い、今度は自分のパンをちぎった。
夏に飲んだ冷たいものと違って、急いで食べなくてもいい。窓の外を歩く人が増えても、俺たちの席には湯気が上がっていた。
「机、片づいた?」
莉緒に聞かれて、俺は下書きが出てきたことを話した。
「写真の題、途中で別のにしようとしてたんだ」
「どんなの?」
「ただの『通路』。朝って付けるか、最後まで迷ってた」
「私、朝が付いてるの好きだよ」
「見たときも、これから誰か来そうって言ってたな」
「うん。自分もそこを歩けそうだった」
俺が撮ったのは光だったけれど、莉緒はそこに歩く場所を見つけた。その感想をもう一度聞くと、あの写真を選んでよかったと思った。
「莉緒は、何が出てきた?」
「布。これは予想どおりなんだけど、同じような細い切れ端が、別々の袋に三つ入ってた」
「分身してた?」
「増やしたの私。まとめたら、まだ使えそうだった」
壁に掛けたポケットは少し中身を減らした、と彼女は続けた。すぐ使う道具だけ近くへ置いて、残りは引き出しへ戻したら、むしろ使いやすくなったらしい。
「春、持ってく物も増えるだろうしさ。机、もうちょっと広く使いたいんだ」
「新しい学校の準備?」
「うん。まだ買う物を全部揃える時期じゃないけど、置く場所は作れるから」
莉緒は楽しそうに、少しだけ背筋を伸ばした。俺にはまだ、春の教室が決まっていない。それでも、その話をやめてほしいとは思わなかった。
「見つけたら、話聞かせて。どんな道具使うのか、俺も知らないし」
「聞いて。たぶん、私も初めて知る物ある」
自分の知らないことを、彼女がこれから知っていく。別の場所へ行くことを考えると寂しさもあったが、こうして話してくれるのは嬉しかった。
俺のパンが先になくなった。空の皿を見た莉緒が、まだ残っている自分のパンを見てから、俺の顔を見た。
「食べる速さ、違いすぎない?」
「スープに合うから、つい」
「そっち、まだ半分あるじゃん」
「配分を間違えた」
莉緒は一口分をちぎりかけて、手を止めた。
「これ、あげようかと思ったけど、私も最後まで食べたい」
「食べて。俺、追加できるか見てくる」
「うん。よかった、先に言った」
俺は店員に声をかけ、小さいパンを一つ追加した。戻ってきた皿を見て、弟の三個から考えるという言葉を思い出す。話すと、莉緒はスプーンを置いて笑った。
「弟くん、航平のこと分かってる」
「今回は負けた」
わざわざ食べたい分を譲ってもらわなくても、同じテーブルは楽しい。莉緒が最後のパンで器の縁をぬぐうのを見ながら、俺も新しいパンをちぎった。
店を出る頃には、照明が点いていた。街路樹に巻かれた小さな光の下で、莉緒が立ち止まる。俺も歩道の端へ寄った。
「一枚、撮ってもいい?」
彼女は木の方へスマホを向けた。人の流れが切れるのを待ち、光と枝の端だけを画面へ入れる。
「撮れた。見て」
「上の方、月みたいに丸くなってる」
「ぼけたの。それもかわいい」
俺も同じ枝を撮ってみたが、光は小さく並んだままだった。莉緒は二つを見比べ、同じもの見たのに違うね、と笑う。今日は二人の写真を撮ろうとは言わず、彼女はスマホをしまった。
広場の端に人の少ない場所があり、そこで時間を確かめた。駅へ戻っても、約束した時刻には余裕がある。
「もうちょっとだけ、ここにいたい」
莉緒の言葉に、俺は頷いた。
「俺も」
手袋をつけようとしていた彼女の手が止まる。その指を見て、俺は自分の右の手袋をまだポケットへ入れたまま、手を伸ばした。
莉緒の掌は、店の中にいたときより少し冷えていた。握ると、指が自然に重なる。
「今日は上手に繋げた」
「手袋の難易度が高かった」
「じゃあ、寒くなるまでね」
莉緒は笑って、俺の隣へ寄った。肩が上着越しに触れる。歩いている人たちの声が、少し離れたところで混ざっていた。
「受験、近くなってきたね」
「うん。年明けに出願する」
「会う時間、変えたくなったら言って。私も、会いたいときは言うから」
俺は繋いだ手を見た。彼女が自分の希望を言ったあとで、俺の答えを待っているのが分かった。
「試験の前は、外へ出るのを減らしたい。でも、ずっと声も聞かないのは、俺が嫌だ」
「電話?」
「短くても。話せる日、決めたい」
「うん。私もそれがいい」
その場では日付を増やさず、冬休みの予定が揃ったら決めようと話した。言っただけで勉強が進むわけではない。けれど、会いたい自分を毎回どこかへ押し込まなくていいのは、助かった。
風が吹き、莉緒が少し顎を引いた。俺は手を放し、ポケットから手袋を出す。彼女も鞄から取り出して、同じように指を入れた。
「冷たかった?」
「ちょっと。でも、今度はあったかい」
もう一度、布越しに手を繋いだ。駅まで歩く間、さっきより握り方に迷わなかった。
年が明けると、俺の机には提出するための書類が並んだ。冬休み中に学校から受け取った分と、自分で用意する分を、広げる場所を空けて確かめる。
志望する大学ごとの案内を見て、画面へ入力した内容を父ともう一度確認した。氏名の字、受ける学部、試験の日。分かったつもりで進めたところほど、声に出すと一拍止まった。
「ここ、これで合ってる?」
父が指した欄を見て、俺は保存しておいた案内へ戻った。別の日程の説明を読んでいたのに気づき、選んだ方を開き直す。
「こっち。今確かめてよかった」
「急がなくていい。順番にいこう」
費用の手続きは母とも確認した。支えてもらっている額を、画面の数字として見る。ありがとうと言うと、母は頷いて、だからといって今夜全部の問題を解こうとしないでよ、と笑った。
入力を終えたあとも、提出する書類の扱いをそれぞれ確かめた。必要なものを揃え、案内の方法で出した。済んだところへ日付を書き、後で確認するものは、まだ線を引かず残しておく。
数日をかけて、決めていた受験先への出願を終えた。手続きの状況を確認し、受験票を用意できる時期になってから、指定されたものを印刷した。試験会場と持ち物を読み、いつもの筆箱に入っている物も確かめる。
紺色の筆箱の仕切りから、短くなった鉛筆を一本抜いた。普段ならまだ使える。でも、試験の机で慌てなくて済むよう、別の一本と入れ替えた。
捨てるには早い方を、家で使う箱に移す。莉緒にもらってから、何度こうして中身を替えただろう。筆箱そのものは、最初の日より手に馴染んでいた。
スマホが震えたのは、片づけ終わったあとだった。
『今日、電話できそう?』
莉緒からだった。前に相談していた候補の日だ。夕食までの時間を見て、俺は返した。
『できる。今から十五分くらいなら』
『私も大丈夫』
声が繋がると、彼女はまず、お疲れ、と言った。
「出願、終わった。受験票も今、用意した」
「そっか。じゃあ、いよいよ航平が受けに行くんだね」
「うん。急に、紙がすごく大事になった」
「鞄に入れるの忘れないでよ」
「そこは本当に気をつける」
笑って答えたあと、俺は会場までの道を調べた話をした。第一志望の試験は二月の上旬、莉緒の誕生日を過ぎてからだった。いちばん初めに受ける別の大学の試験は、一月の終わりにある。
莉緒は聞き終えてから、その日、自分は学校へ行っているはずだと言った。
「終わってすぐ、返事できるか分かんないけど、連絡くれたら読む」
「終わったって送る。出来をその場で全部説明できるかは、分からないけど」
「うん。それでいい」
約束をすると、彼女は、今日ほかに話したいことある、と声を明るくした。新しい布の話かと思ったら、家で姉と卵焼きを作った話だった。切る向きを揃えずに並べてしまい、皿の中で全部別の料理みたいだったらしい。
「味は同じ?」
「同じ。姉ちゃんには、見た目の前に火の加減って言われた」
「それは俺にも必要な話だ」
受験票の隣で、俺は笑った。十五分が近づくと、莉緒は自分から、またね、と言った。俺もまたねと返し、通話を終えた。
前の晩、鞄を用意していると、弟が部屋の入口から顔を出した。消しゴムは二個あるか、と聞かれて、机に並べたものを見せる。
「ある。落としたとき用」
「俺、一回も両方持って帰れたことない」
「二個目も落とすのか」
「違う。貸すと、そのまま忘れる」
弟は笑ってから、明日使うんだから今は貸せないな、と言った。誰も借りに来ていないのに、妙な確認だった。俺も笑い、消しゴムを筆箱へ戻した。
「終わったら、テレビの音ちょっと上げてもいい?」
「帰ったら言う。今も、別に消さなくていいぞ」
「じゃ、ちょっとだけにする」
扉が閉まると、階下から小さく番組の音が聞こえた。いつもの家のままで、明日を迎えられそうだった。
一月最後の試験の日、家を出る前に母が、いってらっしゃいと言った。俺は玄関で靴紐を結び直し、鞄の内側に受験票があるのをもう一度確かめた。
電車には、同じような鞄を持つ人が何人もいた。誰が何を解けるのか、顔を見ても分からない。当たり前のことを考えながら、俺は手袋の中で指を動かした。
会場の机に座ると、脚の片方が少し浮いていた。足を引く位置を変えて落ち着かせ、筆箱から必要な物を出す。周りの紙をめくる音が近く聞こえた。
始まってからは、書いてあることを読むしかなかった。解ける問いもあった。途中で手が止まる問いもあった。一つに時間をかけすぎそうになり、印をつけて次へ進む。練習で何度も言われたことを、今日は自分の手でやった。
最後の時間が終わると、肩がひどく固まっていた。出口へ向かう人の列に入り、建物の外へ出てからようやく息を長く吐いた。
駅へ歩く途中、通行の邪魔にならないところへ寄って、スマホを出した。
『一つ目、終わった。今から帰る』
送って、すぐには画面を見直さず、手袋をつけた。改札を通る前に通知に気づき、端へ寄って開く。
『お疲れさま。私も今、学校終わった。今日は帰ったらあったかいもの食べてね』
続いて、もう一通届いた。
『私、航平の声聞きたい。今日じゃなくても、落ち着いたら』
俺は鞄の持ち手を持ち替えた。今夜、答案のことを思い返すだろう。見直したい所もある。それでも、この誘いに答える言葉は決まっていた。
『俺も。夕飯のあと、少し話せるか帰ってから連絡する』
送信してから、電車の時刻を見た。間に合う列車へ急ぐ人を先に通し、俺はホームへ下りた。暖かい車内へ入ると、手袋を片方ずつ外し、二つまとめてポケットへしまった。




