【第三章 父の背中】 第9話 父の背中
「長い話になるぞ」
父はそう言うと、仏壇のある居間へ移動した。
外はすっかり夕暮れだった。
オレンジ色の光が障子越しに差し込み、部屋を柔らかく染めている。
母の写真もその光の中で微笑んでいた。
父は座布団へ腰を下ろす。
私と彩花も向かいに座った。
しばらく誰も話さない。
やがて父が麦茶を一口飲み、ぽつりと言った。
「俺な」
その声は少し掠れていた。
「母さんに初めて会った時、嫌われたんだ」
彩花が吹き出した。
「え?」
私も思わず笑う。
母と父。
正直、あまり恋愛の話を聞いたことがない。
気づいた時には夫婦だった。
親とはそういうものだと思っていた。
父は苦笑した。
「本当だ」
「信じられない」
彩花が言う。
「母さんが?」
「うるさい」
父が照れたように頭を掻く。
その姿が少し新鮮だった。
父は昔から寡黙だった。
仕事。
家族。
責任。
そればかり背負ってきた人だ。
そんな父にも若い頃があった。
当然なのに不思議だった。
「二十二歳だった」
父が言う。
「町工場で働いてた頃だ」
母は二十歳。
近くの洋菓子店で働いていたらしい。
二人が出会ったのは地元の夏祭りだった。
父の友人が無理やり連れて行った。
母も友人と来ていた。
そして。
「ジュースをこぼした」
父が言う。
彩花がまた笑う。
「父さんが?」
「そうだ」
「最悪じゃん」
「だから嫌われたんだ」
私も笑った。
想像できない。
今の父からは。
だがその話をする父は少し楽しそうだった。
まるで三十年以上前へ戻ったみたいに。
「でもな」
父は続ける。
「母さん、怒らなかった」
私は顔を上げる。
「怒らなかった?」
「ああ」
父は懐かしそうに笑った。
「困った顔してた」
それが母らしかった。
本当に。
人を責めるのが苦手な人だった。
父は窓の外を見る。
夕暮れが少しずつ深くなっている。
「それから何度も会った」
「デートとかしたの?」
彩花が聞く。
父は少し考えた。
「いや」
「え?」
「金がなかった」
彩花が呆れた顔をする。
私は笑う。
父も笑った。
そして静かに言った。
「だから歩いた」
その言葉が妙に胸へ残った。
歩いた。
ただそれだけ。
けれど昔の恋愛はそうだったのかもしれない。
父は続ける。
「川沿いをな」
「二時間も三時間も」
「話しながら」
私は想像する。
若い父。
若い母。
並んで歩く姿。
今まで考えたこともなかった。
親にも人生がある。
出会いがある。
恋をする時間がある。
子供の頃はそんな当たり前のことに気づかない。
父は少し笑った。
「母さん、よく笑う人だった」
私は頷く。
知っている。
その笑顔を。
何度も見た。
「でもな」
父の声が少し変わる。
柔らかさの中に影が差した。
「俺は何度も泣かせた」
部屋が静かになる。
彩花も黙った。
父は仏壇の写真を見る。
母も微笑んでいる。
昔と変わらない笑顔で。
「仕事ばかりだった」
父は言う。
「結婚してからも」
「お前たちが生まれてからも」
その声には後悔が滲んでいた。
「家族のためだと思ってた」
私は何も言えない。
それは父だけではない。
私も似ていた。
仕事を理由に母の電話を後回しにした。
帰省も先延ばしにした。
気づけば時間はなくなっていた。
父は続ける。
「母さんは文句を言わなかった」
「だから甘えた」
私は胸が苦しくなる。
母らしい。
だからこそ。
気づけないことがある。
当たり前にいてくれる人ほど。
その大切さを忘れてしまう。
父は長く息を吐いた。
そして言った。
「母さんが倒れた日のこと、今でも夢に見る」
私は顔を上げる。
彩花も固まる。
父は初めてその話をするようだった。
「もしあの日」
父は拳を握った。
「もっと早く帰っていたら」
その言葉で分かった。
父も同じだったのだ。
私と。
後悔の中で生きていた。
三年間ずっと。
「母さんが倒れた日のこと、今でも夢に見る」
父はそう言ったまま、しばらく黙っていた。
居間には時計の音だけが響いている。
カチ。
カチ。
カチ。
その音が妙に大きく聞こえた。
私は何も言わなかった。
彩花も黙っている。
父が自分から話そうとしている。
それを遮りたくなかった。
やがて父が口を開く。
「平日だった」
静かな声だった。
「いつもと同じ日だったんだ」
父は遠くを見るような目をしていた。
三年前ではなく、その日そのものを見ているようだった。
「朝、母さんは普通だった」
「普通に朝飯を作って」
「普通に見送ってくれた」
父は少し笑う。
「弁当まで持たせてな」
母らしい。
体調が悪くても無理をする人だった。
家族のために。
誰かのために。
自分を後回しにする人だった。
「昼頃に彩花から電話が来た」
彩花が俯く。
あの日のことを思い出しているのだろう。
「母さんが倒れたって」
父は拳を握る。
「すぐ帰ればよかった」
その言葉に胸が痛んだ。
父は続ける。
「でもな」
苦しそうに笑う。
「仕事があった」
私は目を閉じた。
その言葉は痛いほど分かる。
私も同じだった。
仕事。
責任。
締め切り。
会議。
いつだって優先しなければならないと思っていた。
「一時間だけ」
父は言う。
「一時間だけ片付けてから帰ろうと思った」
その一時間。
人生には取り返せない一時間がある。
父はそれを知っている。
私も知っている。
「病院へ着いた時には」
父の声が震える。
「もう意識がなかった」
部屋が静まり返る。
誰も言葉を発せない。
父は三年間、その言葉を飲み込んで生きてきたのだ。
「何度も考えた」
父が言う。
「もしあの時」
「仕事なんか放り出していたら」
「もっと早く帰っていたら」
私は胸が締め付けられた。
それは私自身の後悔と同じだった。
立場が違うだけで。
父もまた、自分を責め続けていた。
「だからな」
父は苦く笑う。
「お前を責められなかった」
私は顔を上げる。
父がこちらを見ていた。
「大輔」
その呼び方をされるのは久しぶりだった。
「俺も同じだからだ」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
父は続ける。
「最後に会えなかった」
「間に合わなかった」
「もっと何かできたんじゃないか」
「ずっと思ってた」
私の目から涙がこぼれた。
父もだったのだ。
私だけじゃない。
父も。
彩花も。
みんな同じ場所で立ち止まっていた。
三年間。
母を失った場所で。
その時だった。
彩花が小さく言った。
「でもね」
私たちは彩花を見る。
彩花は涙を拭いながら笑った。
「母さん、最後まで父さんのこと褒めてたよ」
父が驚いた顔をする。
「え?」
彩花は頷く。
「あの日」
病室の空気が戻ってくるようだった。
「母さんね」
彩花の声が震える。
「お父さん頑張ったからって」
父が固まる。
彩花は続けた。
「ありがとうって言ってた」
父は何も言えなかった。
唇を噛みしめている。
「だから」
彩花が優しく言う。
「母さんは怒ってないと思う」
父の肩が小さく震えた。
長い沈黙。
やがて父は顔を覆った。
私は初めて見た。
父が泣くところを。
子供の頃。
転んだ時も。
受験に落ちた時も。
祖父が亡くなった時も。
父は泣かなかった。
そんな父が今、泣いていた。
三年間我慢していた涙だった。
「情けないな」
父が笑う。
泣きながら。
「母さんがいなくなってから」
「何もできなくなった」
私は首を振った。
違う。
父は十分頑張っていた。
一人で家を守った。
仏壇を守った。
彩花を支えた。
そして帰ってこなかった私を待ち続けた。
誰よりも。
父の背中はずっと重い荷物を背負っていたのだ。
私は初めてそれに気づいた。
その時。
ふと仏壇の写真へ目が向く。
母が笑っていた。
昔と変わらない笑顔で。
まるで言っているようだった。
――やっと話せたね。
私は小さく頷く。
きっとそうなのだ。
母はずっと待っていた。
家族が本当の気持ちを話せる日を。
そのために三年後の今へ、私たちを導いたのかもしれない。
父が涙を拭いてから、しばらく誰も話さなかった。
夕陽は沈み始めていた。
仏壇の前に置かれた母の写真だけが、静かに微笑んでいる。
やがて父が立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
そう言って隣の部屋へ消える。
私は彩花と顔を見合わせた。
何かを思い出したようだった。
数分後。
父は古い木箱を抱えて戻ってきた。
小さな裁縫箱ほどの大きさ。
角が擦り切れ、長い年月を感じさせる。
父はそれをそっと畳の上へ置いた。
「母さんの宝箱だ」
彩花が驚く。
「まだあったの?」
「ああ」
父は苦笑した。
「誰にも触らせなかった」
私は箱を見る。
知らなかった。
母にそんなものがあったなんて。
父は蓋を開ける。
中には様々な物が入っていた。
古い映画の半券。
色褪せたキーホルダー。
遊園地のチケット。
手紙。
どれも大切に保管されている。
そして一番下から一枚の写真を取り出した。
私は思わず目を見開いた。
若い父と母だった。
二十代前半だろうか。
今の私より若い。
二人とも笑っている。
眩しいくらいに。
「これが最初の写真だ」
父が言う。
私は写真を受け取る。
母は今と変わらない笑顔だった。
いや。
今より少し無邪気かもしれない。
父も驚くほど若い。
彩花が笑う。
「父さん髪あるじゃん」
「余計なお世話だ」
久しぶりに三人で笑った。
父は写真を見つめる。
その目は優しかった。
「母さんな」
静かに言う。
「写真が好きだった」
私は頷く。
知っている。
どこへ行っても撮っていた。
運動会。
旅行。
誕生日。
何でも。
「理由を知ってるか?」
父が聞く。
私は首を振った。
彩花も知らないらしい。
父は少しだけ笑った。
そして言った。
「忘れたくなかったんだ」
その言葉が胸へ落ちる。
父は続ける。
「母さん、自分の記憶力に自信がなかった」
思わず笑ってしまう。
確かに。
冷蔵庫の鍵を探しながら手に持っていたり、
眼鏡をかけたまま眼鏡を探したり。
そんな人だった。
父も笑う。
「だから言ってた」
『写真があれば忘れない』
そう。
母らしい言葉だった。
けれど父はそこで少し表情を変えた。
「でもな」
静かな声だった。
「一冊だけ特別なアルバムがあった」
私と彩花は顔を上げる。
アルバム。
消えたアルバムのことだ。
父は頷く。
「母さんが一番大事にしてた」
胸が高鳴る。
「どんなアルバム?」
彩花が聞く。
父は少し考える。
そして答えた。
「家族になる前から、家族になった後まで全部入ってる」
私は息を呑む。
母と父の出会い。
結婚。
私の誕生。
彩花の誕生。
家族旅行。
全部。
家族の歴史そのものだった。
「じゃあなんで隠したの?」
私が尋ねる。
父はしばらく黙った。
答えを選ぶように。
そして静かに言った。
「約束したからだ」
「約束?」
父は頷く。
「亡くなる少し前にな」
私は無意識に身を乗り出していた。
父は母との最後の会話を思い出しているようだった。
「もし私が先にいなくなったら」
母はそう言ったらしい。
「すぐには見せないで」
父はその時、
縁起でもないと怒ったという。
けれど母は笑っていた。
いつものように。
「みんなが前を向けるようになった時に見てほしい」
そう言った。
私は言葉を失った。
前を向けるようになった時。
つまり。
三年前ではなく。
今。
この時だったのだ。
父は木箱の中からもう一枚の紙を取り出した。
小さく折り畳まれている。
母の字だった。
私は見ただけで分かった。
父がそれを開く。
そして読み上げる。
『アルバムはまだ見つからなくて大丈夫です』
『でも、きっと見つかります』
『その時は家族みんなで見てください』
父の声が少し震える。
彩花は涙を拭っていた。
私も胸が熱かった。
母は全部分かっていたのだ。
私たちが立ち直るまで。
時間がかかることも。
家族が離れてしまうことも。
それでもいつか、
また一緒に笑える日が来ることも。
信じていた。
だからアルバムを隠した。
思い出を閉じ込めるためではない。
家族をもう一度集めるために。
その時だった。
私のスマートフォンが震えた。
母からだった。
画面を見る。
短いメッセージ。
たった一行。
『次は彩花の番だね』
私は息を呑んだ。
彩花も私の表情で何かを察したらしい。
不思議そうな顔をしている。
母はまだ終わっていない。
父の後悔。
私の後悔。
その次は。
彩花だった。
三年間。
妹が胸の奥に閉じ込めてきた想い。
私たちの知らない涙。
それが今、少しずつ開かれようとしていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、大切な人との別れと後悔をテーマに書きました。
もし皆さまにも「今はもう会えないけれど、感謝を伝えたい人」がいたら、心の中でその人を思い浮かべてもらえたら嬉しいです。
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