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亡くなった母から、三年後にLINEが届いた〜止まっていた家族の時間が、切なくも温かい奇跡で動き出す〜  作者: 鷹司 怜


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10/27

【第三章 父の背中】 第10話 病室の時計


実家から戻った夜。


私は一人で母のノートを読み返していた。


窓の外では雨が降っている。


六月の終わりらしい静かな雨だった。


机の上にはノート。


スマートフォン。


そして一枚の家族写真。


父が見せてくれた若い頃の写真を見たせいか、私は妙に眠れなかった。


母はどうしてここまで準備していたのだろう。


ノート。


アルバム。


手紙。


そしてLINE。


まるで三年後の今を見ていたかのようだった。


スマートフォンが震えた。


母からだった。


最近では通知音が鳴るたびに心臓が跳ねる。


私は画面を開く。


短いメッセージ。


『時計は見つかった?』


私は思わず息を止めた。


時計。


またその話だった。


病室の時計。


止まっていた時計。


私が来る予定だった時間を指し続けた時計。


私は返信する。


『まだ分からない』


すぐ既読が付く。


数秒後。


新しいメッセージ。


『本当に?』


私は眉をひそめた。


意味が分からない。


すると続けて届く。


『病室の時計じゃないよ』


胸がざわつく。


病室の時計じゃない?


じゃあ何だ。


私はスマートフォンを見つめる。


母からさらにメッセージが届く。


『家の中にある』


私は立ち上がった。


思わず部屋を見回す。


時計ならいくつもある。


壁掛け時計。


置時計。


腕時計。


だが母が言う時計とは違う気がした。


何か意味がある。


母はいつもそうだった。


遠回しで。


分かりにくくて。


でも最後には必ず理由があった。


私は再び返信する。


『どこ?』


既読。


そして少し長い沈黙。


その後、届いた言葉は一つだけだった。


『お父さんの部屋』


私は固まった。


父の部屋。


三年前からほとんど変わっていない部屋。


母の遺品整理の時もほとんど手を付けなかった場所だ。


なぜそこに。


そしてなぜ時計なのか。


翌週の日曜日。


私は再び実家へ向かった。


父は驚かなかった。


「また来たのか」


そう言って笑った。


少し前なら考えられない。


今では毎週帰っている。


彩花には、


「反動がすごい」


と笑われた。


昼食後。


私は父へ尋ねた。


「父さんの部屋、見てもいい?」


父は不思議そうな顔をした。


だがすぐ頷いた。


「ああ」


二階の奥。


父の部屋。


昔からほとんど変わらない。


本棚。


机。


古いラジオ。


仕事関係の資料。


どれも父らしい。


私は部屋を見回す。


時計はすぐ見つかった。


机の横。


小さな置時計。


古びた銀色の時計だった。


だが不思議なことに。


針が止まっていた。


私は近づく。


父が言う。


「ああ、それ壊れてる」


心臓が少し速くなる。


止まった時計。


まただ。


私は時間を見る。


午後六時十五分。


そこで止まっている。


何か意味があるのだろうか。


その時だった。


父がぽつりと呟いた。


「母さんが最後に触った時計だ」


私は振り返った。


父は窓の外を見ていた。


静かな顔だった。


けれどその声には、消えない寂しさがあった。


私は時計を見る。


母が最後に触った時計。


そして止まった時間。


午後六時十五分。


その数字に、まだ私は気づいていなかった。


それが母の最後の秘密へ続く入口だということに。


午後六時十五分。


止まったままの時計を見つめながら、私は首を傾げていた。


何か意味がある。


母はわざわざ父の部屋の時計へ私を導いた。


ただの故障なら、こんな回りくどいことはしない。


私は時計を手に取る。


少し重い。


銀色の縁には細かな傷がついている。


長年使われてきたことが分かった。


「いつから止まってるの?」


私が聞くと、父は少し考えた。


「さあな」


「気づいたら動いてなかった」


「母さんが入院する前くらいだったかもしれん」


私は時計の裏側を見る。


メーカー名と、小さなシール。


そして、その下に薄く鉛筆で書かれた文字が見えた。


私は目を凝らした。


かすれている。


消えかけている。


だが読めた。


『忘れないように』


胸がざわついた。


母の字だった。


間違いない。


私は父へ見せる。


父も驚いた。


「こんなの書いてあったか……?」


「知らない」


彩花も首を振る。


母だけが知っていた言葉だった。


忘れないように。


何をだろう。


私はそのまま時計を机へ戻した。


すると父がぽつりと言った。


「そういえば」


私は振り返る。


「母さん、あの時計だけは捨てるなって言ってたな」


胸が高鳴る。


「いつ?」


「入院する少し前だ」


父は遠い記憶を探るように目を細める。


「壊れてるのに不思議だった」


「新しいの買えばいいだろって言ったんだ」


「でも母さん、絶対駄目だって」


私は黙る。


やはり意味がある。


母は何かを残したかったのだ。


私はふと思い立ち、母のノートを開いた。


持参していたノートだ。


最近はどこへ行くにも持ち歩いている。


ページをめくる。


何度も読んだ箇所。


そして、まだきちんと読んでいなかった後半。


すると、一つの文章に目が止まった。


『時計を見るたびに思い出す』


私は息を呑んだ。


その続きを読む。


『あの日のことを』


『あの約束のことを』


約束。


またその言葉だった。


父と母の約束。


アルバムにも繋がる言葉。


私はページを読み進める。


母の文字は少しだけ震えていた。


病気が進行していた頃なのかもしれない。


『あの人は忘れたと思っている』


『でも私は忘れていない』


私は父を見る。


父は不思議そうな顔をしていた。


「父さん」


「なんだ」


「何か約束したことない?」


父は苦笑した。


「夫婦なんて約束だらけだ」


確かにそうだ。


だが母が言っているのは違う。


もっと特別な何かだ。


父は腕を組む。


しばらく考え込む。


そして突然、


「あ」


と声を上げた。


私と彩花は同時に顔を上げた。


父は驚いたような顔をしていた。


「まさか……」


その表情を見て、私は確信する。


思い出したのだ。


何かを。


長い年月の中へ埋もれていた約束を。


父は時計を見る。


午後六時十五分。


止まった針を。


そして小さく笑った。


どこか照れたように。


どこか泣きそうに。


「そんなことか」


そう呟いた。


けれどその声は震えていた。


私は思わず身を乗り出す。


「何なの?」


父はしばらく黙っていた。


そして静かに言った。


「この時計な」


指先で時計を撫でる。


まるで大切な思い出を触るように。


「母さんへ初めて渡したプレゼントなんだ」


私は言葉を失った。


彩花も目を見開いている。


父が母へ贈った最初のプレゼント。


それがこの時計だった。


古びた銀色の時計。


どこにでもありそうな時計。


けれど母はずっと持っていた。


何十年も。


家族ができても。


子供が生まれても。


病気になっても。


ずっと。


父は小さく笑う。


「安物だったけどな」


その笑顔は若い頃の父に少し似ていた。


そして私は気づく。


この時計の本当の意味は、まだここからなのだと。


なぜ午後六時十五分なのか。


なぜ母は「忘れないように」と書いたのか。


その答えは、まだ語られていない。


「この時計な」


父は止まった時計を手に取った。


午後六時十五分。


その針は何十年もの時間を閉じ込めるように動かない。


「母さんへ初めて渡したプレゼントなんだ」


父は懐かしそうに笑った。


私は時計を見る。


どこにでもありそうな小さな置時計だった。


高価なものには見えない。


むしろ質素だ。


だが母は最後まで手放さなかった。


それだけは分かる。


「どうして時計だったの?」


彩花が聞いた。


父は少し照れたように頭を掻く。


「給料日前でな」


「指輪なんて買えなかった」


思わず私と彩花は笑った。


父らしい。


父は続ける。


「でも何か渡したかった」


若い父の姿が目に浮かぶ。


二十二歳。


工場で働き始めたばかり。


お金もない。


未来も不安だったはずだ。


それでも母が好きだった。


だから贈った。


たった一つの時計を。


「母さん、喜んだ?」


私が聞く。


父は少しだけ目を細めた。


「ああ」


その表情だけで答えは十分だった。


きっと心から嬉しかったのだろう。


高価だからではない。


父がくれたものだから。


母はそういう人だった。


父は時計を撫でる。


そして静かに言った。


「この時計を渡した日な」


私たちは耳を傾ける。


「雨だった」


窓の外を見る。


偶然なのか、今日も雨が降っている。


父は遠い昔を思い出していた。


「帰り道だった」


「橋の上でな」


母と二人で立ち止まった。


川の水が増えていたらしい。


雨粒が街灯に照らされていた。


そして父は母へ時計を渡した。


母は驚いた。


何度も箱を見た。


時計を見た。


そして笑った。


父はその笑顔を今でも忘れていないという。


「その時、約束したんだ」


私は息を呑む。


約束。


母のノートに書かれていた言葉。


『あの人は忘れたと思っている』


『でも私は忘れていない』


その約束だ。


父は少し恥ずかしそうに笑った。


「若かったからな」


彩花がにやりとする。


「気になる」


「やめろ」


父は苦笑した。


だがやがて観念したように話し始めた。


「もし喧嘩しても」


父の声が静かになる。


「もし離れても」


「毎年六月二十五日の午後六時十五分には会おうって約束した」


私は固まった。


彩花も言葉を失う。


父は笑う。


「子供みたいだろ」


確かに少し照れくさい約束だった。


けれど。


胸が熱くなった。


若い二人が未来を信じて交わした約束。


何十年も前の約束。


父は続ける。


「その時間が」


時計を見る。


午後六時十五分。


止まったままの針。


「時計を渡した時間だった」


私は思わず時計へ目を向けた。


だから母は残したのか。


だから捨てなかったのか。


だから『忘れないように』と書いたのか。


父は静かに笑った。


「俺は忘れてた」


その声は少し寂しそうだった。


「結婚して」


「仕事して」


「子供が生まれて」


「気づけば覚えてるのは母さんだけだった」


私は胸が締め付けられる。


母らしい。


本当に。


覚えていてほしい人ほど忘れてしまう。


でも母は忘れない。


誰よりも。


父は時計を見つめたまま言った。


「入院する少し前にな」


「六月二十五日だった」


私は顔を上げる。


父の目が少し潤んでいた。


「母さんが時計を見ながら言ったんだ」


父の声が震える。


「約束の時間だねって」


部屋が静まり返る。


誰も話せない。


父は唇を噛んだ。


「その時にな」


「思い出した」


何十年も前の約束を。


若かった頃の二人を。


未来しか見えていなかった二人を。


父は小さく笑った。


涙を浮かべながら。


「母さん、ずっと覚えてたんだ」


私は仏壇の写真を見る。


母は微笑んでいた。


優しく。


いつものように。


その時だった。


ふとノートの最後のページが風でめくれた。


ぱらり、と音がする。


私は視線を落とす。


そこには今まで気づかなかった一文が書かれていた。


小さな文字だった。


ページの端。


まるで追記するように。


『約束は守れました』


私は息を止めた。


その下に、さらに続いていた。


『だから次は、みんなの番です』


胸の奥が熱くなる。


母は父との約束を守った。


最期まで。


何十年経っても。


忘れずに。


そして今度は私たちへ託したのだ。


家族として生きること。


伝えること。


会いたい人に会うこと。


大切な人を後回しにしないこと。


その想いを。


私はノートをそっと閉じた。


窓の外では雨が止み始めていた。


雲の隙間から夕陽が差し込む。


仏壇の母が、その光の中で微笑んでいた。


まるで言っているようだった。


――まだ終わってないよ。


私は小さく頷いた。


そうだ。


まだ終わっていない。


母が残したノートには、まだ続きがある。


そして私たちの物語も。

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