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亡くなった母から、三年後にLINEが届いた〜止まっていた家族の時間が、切なくも温かい奇跡で動き出す〜  作者: 鷹司 怜


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【第三章 父の背中】 第11話 母のノート


実家から戻った夜。


私は机の前に座っていた。


部屋は静かだった。


聞こえるのは壁掛け時計の音だけ。


カチ。


カチ。


カチ。


少し前まで、その音が嫌いだった。


時間が過ぎていくことを思い出させるから。


母と過ごせる時間が減っていったように感じるから。


けれど今は違う。


時間は奪うだけじゃない。


悲しみを少しずつ優しくしてくれるものでもある。


私は母のノートを開いた。


父との約束が書かれていたページを過ぎる。


その先。


今まで読まずにいた部分だった。


なぜか怖かった。


母の本当の気持ちが書かれている気がして。


ページをめくる。


そこには日付が記されていた。


亡くなる三か月前。


母の字は少し震えている。


私はゆっくり読み始めた。


『今日は病院でした』


『先生は優しかったです』


『でも顔を見れば分かります』


私は息を呑む。


病気の話だった。


母は私たちの前でほとんど病状を話さなかった。


「大丈夫」


と笑うばかりだった。


だがノートには違う言葉が続いていた。


『思ったより時間は長くないみたいです』


胸が締め付けられる。


文字を見ているだけなのに苦しい。


母は知っていたのだ。


自分の残された時間を。


私たちよりずっと前から。


『不思議です』


『怖いと思っていたのに』


『今はあまり怖くありません』


私は目を閉じる。


母らしい。


本当に。


誰かを安心させるために強がる人だった。


けれどノートの中では正直だった。


『心残りはあります』


『たくさんあります』


その一文に私は釘付けになった。


心残り。


母にもあったのだ。


当然なのに考えたことがなかった。


母は何でも受け入れていた気がしていた。


けれど違う。


母も一人の人間だった。


やり残したこともあった。


会いたい人もいた。


叶えたい夢もあったはずだ。


ページをめくる。


すると次の文章が現れた。


『一番心配なのは大輔です』


私は固まった。


思わず読み返す。


何度も。


確かにそう書いてある。


私の名前だった。


『あの子は優しいから』


『だから心配です』


涙が滲む。


意味が分からなかった。


優しいから心配。


普通は逆だ。


けれど母には分かっていたのかもしれない。


私の弱さを。


自分を責め続ける癖を。


何でも背負い込む性格を。


『きっと自分を責めると思います』


胸が苦しくなる。


まるで見ていたようだった。


いや。


母は見抜いていたのだ。


ずっと前から。


『だからお願いがあります』


私は息を止める。


ページをめくる指が震える。


その続きには、たった一文だけ書かれていた。


『ちゃんと幸せになってください』


涙が落ちた。


ノートの上に。


母は最後まで同じだった。


自分のことじゃない。


私のことを考えている。


父のことを。


彩花のことを。


家族のことを。


最後まで。


私はしばらく文字が読めなかった。


涙で滲んでしまう。


どれだけ時間が経っただろう。


ようやく落ち着き、続きを読もうとした時だった。


一枚の紙がノートの間から落ちた。


床へひらりと舞う。


私は拾い上げる。


小さなメモだった。


母の字でこう書かれていた。


『レオンへ』


私は息を呑んだ。


レオン。


その名前を見た瞬間。


胸の奥が熱くなる。


三年前に亡くなった、


我が家の大切な家族。


ゴールデンレトリバーのレオン。


母が何より可愛がっていた犬だった。


だが。


なぜ今ここで。


なぜ母はレオン宛ての手紙を残したのだろう。


私は震える指で、その紙を開いた。


『レオンへ』


その文字を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


私はしばらく手紙を開けなかった。


レオン。


ゴールデンレトリバーの雄犬。


我が家の三男坊。


私が高校一年生の時にやって来た。


人懐っこくて。


食いしん坊で。


寂しがり屋で。


そして誰よりも母が大好きだった。


母の後ろをいつもついて歩いていた。


料理をしていれば台所の前で待ち、


洗濯をしていれば庭までついて行く。


母がソファへ座れば隣へ寝転ぶ。


まるで母の護衛だった。


いや。


母の子どもだったのかもしれない。


私はゆっくりと便箋を開いた。


母の字が並んでいる。


少し震えた文字だった。


『レオンへ』


『もし先に行くことになったらごめんね』


私は思わず息を止めた。


母らしい。


最初に謝るのだ。


自分が苦しいはずなのに。


『本当は最後まで一緒にいたかった』


文字が滲む。


私は目を擦った。


涙だった。


『散歩も行きたかった』


『ブラッシングもしたかった』


『もっといっぱい撫でたかった』


一つ一つの言葉が胸へ刺さる。


病気が進行してから。


母は思うように歩けなくなった。


それでもレオンの散歩だけは行こうとしていた。


父や私が代わると言っても、


「大丈夫」


と笑っていた。


だが本当は大丈夫じゃなかったのだ。


ノートには続いていた。


『病院へ行く朝』


『レオンが離れませんでした』


私は顔を上げた。


記憶が蘇る。


あの日。


母が入院する朝。


確かにレオンの様子がおかしかった。


玄関の前で座り込んでいた。


いつもなら尻尾を振るのに。


動かなかった。


ただ母を見ていた。


『あの子は分かっていたのかもしれません』


母の文字が少し歪んでいる。


涙の跡のようにも見えた。


『犬は不思議です』


『言葉がなくても伝わるみたいです』


私はレオンの顔を思い出す。


優しい目だった。


大きな体なのに甘えん坊で。


母の膝へ無理やり頭を乗せていた。


その姿に何度笑っただろう。


ページをめくる。


すると次の文章で手が止まった。


『病院で一度だけ会えました』


私は固まった。


知らない。


そんな話は聞いていない。


病院で会った?


レオンが?


私は続きを読む。


『彩花とお父さんが連れてきてくれました』


胸が大きく鳴る。


知らなかった。


本当に何も知らなかった。


母が入院していた頃。


私は仕事を理由にほとんど帰らなかった。


だから知らない。


その時間を。


その思い出を。


『レオンは病室へ入るなり走ってきました』


『そして私の手をずっと舐めていました』


涙が止まらない。


情景が浮かぶ。


病室。


ベッド。


痩せた母。


そしてレオン。


大好きな母を見つけて駆け寄る姿。


『大丈夫だよ』


『そう言っているみたいでした』


私は顔を覆った。


母はどんな気持ちでその時間を過ごしたのだろう。


どんな気持ちでレオンを撫でたのだろう。


ノートには続いていた。


『帰る時が一番辛かったです』


その一文だけで十分だった。


説明はいらない。


母は分かっていたのだ。


もう会えないかもしれないと。


レオンも分かっていたのかもしれない。


だから離れなかった。


最後まで。


『でも約束しました』


私は息を呑む。


約束。


またその言葉だった。


父との約束。


家族との約束。


そして今度はレオンとの約束。


『また会おうね』


短い言葉だった。


だが母らしい。


涙よりも。


絶望よりも。


希望を残す人だった。


私はしばらくページを閉じることができなかった。


レオンのことを思い出していた。


そしてその時だった。


便箋の裏に小さな追記があることに気づく。


震える指で裏返す。


そこには一行だけ書かれていた。


『レオンが待っていた場所を見てください』


私は息を止めた。


待っていた場所。


それはどこなのか。


庭か。


玄関か。


それとも。


母しか知らない場所なのか。


私は急いでスマートフォンを手に取った。


母とのトーク画面を開く。


すると。


ちょうどその瞬間だった。


新しい通知が届く。


『次はレオンに会いに行こう』


画面を見つめながら、


私は静かに頷いた。


物語はまだ終わらない。


母の想いも。


レオンの想いも。


まだ続きを待っている。


翌週の土曜日。


私は再び実家へ帰っていた。


最近は毎週帰っている。


三年前なら考えられなかったことだった。


玄関を開けると、父が笑った。


「また来たのか」


「悪い?」


「別に」


そう言いながら嬉しそうなのだから分かりやすい。


居間へ入ると彩花も来ていた。


テーブルの上には母のノート。


そしてレオンへの手紙。


私は二人へ事情を話した。


『レオンが待っていた場所を見てください』


という一文について。


彩花は少し考えた。


「玄関じゃない?」


確かにあり得る。


レオンはよく玄関で寝ていた。


母の帰りを待つように。


だが父は首を振った。


「違うな」


「え?」


父は窓の外を見る。


庭だった。


初夏の風が紫陽花を揺らしている。


そして静かに言った。


「たぶん縁側だ」


私は顔を上げた。


縁側。


懐かしい場所だった。


子供の頃。


夏になると家族でスイカを食べた場所。


母が洗濯物を畳んでいた場所。


レオンが昼寝していた場所。


私たちは庭へ出た。


縁側は昔のままだった。


木の色は少し褪せている。


だが母の面影が残っている。


父が縁側の端を指差した。


「ここだ」


そこには古い傷があった。


爪で引っ掻いたような跡。


私はしゃがみ込む。


父は静かに話し始めた。


「母さんが亡くなった後な」


胸が締め付けられる。


父は続けた。


「レオン、毎日ここに座ってた」


風が吹いた。


紫陽花が揺れる。


私は黙って聞く。


「朝も」


「昼も」


「夜も」


父の声が少し掠れる。


「ずっと玄関じゃない」


「ここだった」


なぜだろう。


私はそう思った。


すると父が答えるように言う。


「母さんが帰ってくる場所だと思ってたんだろうな」


私は目を閉じた。


母は入院する前。


毎日ここで洗濯物を取り込んでいた。


庭仕事もしていた。


レオンはその隣にいた。


だから待ったのだ。


母が戻ってくると信じて。


毎日。


毎日。


毎日。


彩花が涙を拭う。


「そんな話、聞いてない」


父は苦笑した。


「言わなかったからな」


「どうして」


父は少しだけ空を見る。


青空だった。


母が好きだった空。


「俺も辛かった」


その一言だった。


それだけで十分だった。


父も苦しかったのだ。


レオンを見るたびに。


母を思い出して。


だから話せなかった。


私は縁側へ腰を下ろした。


風が気持ちいい。


ふとレオンが隣にいる気がした。


大きな体で。


尻尾を振りながら。


母を待っている。


そんな気がした。


その時だった。


彩花が縁側の下を覗き込む。


「あれ?」


私たちは振り向く。


彩花が何かを見つけていた。


小さな缶だった。


お菓子の空き缶。


少し錆びている。


父も驚いている。


「こんなのあったか?」


彩花は缶を開けた。


中には数枚の写真が入っていた。


私は息を呑む。


母だった。


若い頃の母。


父と並んで笑っている。


そして。


私と彩花が小さい頃の写真。


さらに。


レオンの写真。


たくさん。


たくさん。


入っていた。


彩花が一枚取り出す。


そこには母とレオンが写っていた。


縁側で。


夕陽の中で。


母が笑っている。


レオンも笑っているように見える。


写真の裏に文字があった。


母の字だった。


『家族へ』


私は胸が高鳴る。


まだある。


母はまだ何かを残している。


写真を裏返す。


そこには短い言葉が書かれていた。


『私の心残りは、家族写真を完成させることでした』


私は固まった。


彩花も。


父も。


誰も言葉が出なかった。


家族写真。


完成させる。


その意味は何だろう。


写真の裏には続きがあった。


『アルバムの最後のページを見てください』


風が吹く。


写真が小さく揺れる。


私はゆっくり顔を上げた。


ついに繋がった。


消えたアルバム。


母のノート。


レオン。


父との約束。


全部が。


母が本当に伝えたかったこと。


母の本当の心残り。


その答えが、


アルバムの最後のページにある。


私は写真を握りしめた。


胸の奥で何かが動き始めていた。


三年間止まっていた時間が、


少しずつ前へ進み始めている。

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