【第二章 母しか知らないこと】 第7話 最後の一時間の真実
『次は病院の話をしようか』
母から届いたその一文は、しばらく私の心から消えなかった。
実家から自宅へ戻った後も。
仕事をしている時も。
電車に揺られている時も。
頭の片隅にずっと残っていた。
病院。
最後の日。
最後の一時間。
私が最も思い出したくなかった記憶。
そして三年間、逃げ続けてきた記憶だった。
スマートフォンを開く。
母とのトーク画面。
返信はしていない。
何を書けばいいのか分からなかった。
母は私の後悔を知っている。
きっと。
だからこそ、この話をしようとしている。
私は深く息を吐いた。
そして打ち込む。
『俺は行けなかった』
送信。
すぐ既読がつく。
まるで向こうで待っていたみたいに。
数秒後。
返信が届く。
『うん』
たった一文字。
責めるわけでもない。
慰めるわけでもない。
それが余計に苦しかった。
私は続ける。
『間に合わなかった』
『電話にも出られなかった』
『今でも後悔してる』
送信。
指が震えていた。
この言葉を誰かに言ったことはなかった。
父にも。
彩花にも。
言えなかった。
言葉にした瞬間、本当に自分の罪になる気がしていたからだ。
スマートフォンが震える。
母から返信が届く。
『じゃあ聞くね』
私は画面を見つめる。
次のメッセージ。
『あの日、お母さんが亡くなった時間を覚えてる?』
心臓が跳ねた。
覚えている。
忘れるはずがない。
病院から電話があった。
午後五時四十二分。
何度も何度も思い返した。
その数字だけは焼き付いている。
私は返信した。
『17時42分』
既読。
そして数秒後。
母から返事が届いた。
『そうだね』
短い。
だが続きがあった。
『じゃあ、お兄ちゃんが病院へ着く予定だった時間は?』
私は固まった。
着く予定だった時間。
そんなこと考えたこともなかった。
あの日のことを思い出す。
会議中だった。
彩花から着信。
何度も鳴っていた。
終わった直後に折り返した。
病院へ向かった。
電車へ飛び乗った。
タクシーも使った。
必死だった。
だが間に合わなかった。
それだけだと思っていた。
私はカレンダーアプリを開く。
三年前の記録。
残っているわけがないと思った。
だが仕事の予定が残っていた。
その日。
会議終了予定。
16時40分。
病院までの移動時間。
約40分。
私は息を止めた。
もし。
もしすぐ向かっていたら。
17時20分頃には着いていた計算になる。
母が亡くなったのは17時42分。
二十二分。
二十二分あった。
私は目を見開いた。
胸が大きく脈打つ。
そんなはずがない。
私は間に合わなかった。
そう思っていた。
ずっと。
三年間。
すると母から新しいメッセージが届いた。
『本当に間に合わなかったのかな』
私はスマートフォンを握りしめた。
呼吸が浅くなる。
何を言っているのか分からない。
私は病院へ着いた時にはもう終わっていた。
そう聞かされた。
そう思っていた。
それなのに。
母は違うことを言っている。
その時だった。
さらに一通のメッセージが届く。
私は画面を見て固まった。
『病院の時計、見た?』
背筋が凍る。
病室の時計。
確かにあった。
白い丸い時計。
母のベッドの正面。
私は見ていた。
泣きながら。
呆然としながら。
けれど。
時間までは覚えていない。
なぜ母はそんなことを聞くのだろう。
そして、
病室の時計に何があるのだろう。
私は初めて気づく。
もしかしたら私は、
あの日のことを何も分かっていないのかもしれない。
『病院の時計、見た?』
母から届いたその言葉が頭から離れなかった。
病室の時計。
白い丸い時計。
ベッドの向こう側の壁に掛かっていた。
確かに覚えている。
だが時間は覚えていない。
覚えているのは彩花の泣き顔。
父のうつむいた背中。
そして白いシーツの上で眠る母だけだった。
私はスマートフォンを握りしめる。
『どういう意味?』
送信。
既読。
しばらく返事は来ない。
代わりに胸の奥がざわついていた。
その夜は眠れなかった。
ベッドへ入っても目を閉じるたびに病室が浮かぶ。
消毒液の匂い。
機械音。
薄いカーテン。
そして時計。
なぜ今になって時計なのだろう。
午前二時を過ぎた頃だった。
スマートフォンが震えた。
母からの返信だった。
『彩花に聞いてみて』
私は思わず眉をひそめる。
彩花?
なぜ。
病室にいたのは彩花だった。
父もいた。
だが最後の時間を一番近くで見ていたのは彩花かもしれない。
私は迷った。
こんな時間に連絡するべきではない。
だが気になって仕方がなかった。
結局、翌日の夜まで待った。
仕事を終え、部屋へ戻る。
何度もメッセージ画面を開いて閉じる。
そして意を決して彩花へLINEを送った。
『少し聞きたいことがある』
返信はすぐに来た。
『珍しいね』
少しだけ柔らかくなった言葉だった。
第6話の日以来、兄妹の距離は確かに縮まっていた。
私は続ける。
『母さんが亡くなった日のこと』
送信。
数秒後。
既読。
だが返信は来ない。
一分。
二分。
五分。
その沈黙だけで分かった。
彩花もまた、あの日を簡単には思い出せないのだ。
ようやく返事が届く。
『どうしたの?』
私は画面を見つめた。
そして書く。
『病室の時計のこと覚えてる?』
既読。
また沈黙。
今度は長かった。
十分近く経ってから返信が来た。
『どうしてそれを?』
胸がざわつく。
何かある。
確実に。
私は正直に打つ。
『母さんに聞かれた』
送信。
既読。
そしてすぐ電話がかかってきた。
私は驚きながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お兄ちゃん』
彩花の声だった。
少し緊張している。
「病室の時計って、どういうこと?」
私が聞く。
電話の向こうで息を吸う音がした。
『覚えてないの?』
「何を?」
長い沈黙。
そして彩花は静かに言った。
『時計、止まってたんだよ』
私は固まった。
「え?」
『病室の時計』
彩花の声が震えていた。
『ずっと止まってた』
理解できなかった。
時計が止まっていた?
そんなこと覚えていない。
『母さんが亡くなる二日前くらいから』
彩花が続ける。
『電池切れてたの』
私は言葉を失った。
病室の時計。
私はあの日それを見た。
確かに見た。
けれど表示されていた時間は本当の時間ではなかったのだ。
『私ね』
彩花の声が少し小さくなる。
『ずっと直そうと思ってた』
『でも母さんがいいって言ったの』
胸がざわつく。
「なんで?」
電話の向こうで彩花が答える。
『そのままにしておいてって』
私は黙る。
理由が分からない。
だが嫌な予感がする。
何か大事なことに近づいている気がした。
彩花は続けた。
『母さん、変なこと言ってた』
「変なこと?」
『時間なんて止まっててもいいのよって』
その言葉を聞いた瞬間。
私は息を呑んだ。
母らしい。
あまりにも母らしい。
だがそれだけではない気がした。
何か別の意味がある。
もっと深い意味が。
『お兄ちゃん』
彩花が言う。
『私ね、今でも覚えてる』
「何を?」
また沈黙。
そして。
彩花は三年間誰にも言わなかった言葉を口にした。
『母さん、最後にね』
私は無意識に立ち上がっていた。
心臓が大きく鳴る。
『時計を見ながら笑ったの』
全身に鳥肌が立った。
時計。
止まった時計。
そして母の笑顔。
何かが繋がりそうになる。
だがまだ分からない。
決定的な何かが足りない。
すると電話の向こうで彩花が言った。
『その時、母さんが言ったこと覚えてる』
私は息を止める。
『まだ間に合う』
彩花の声が震える。
『そう言ったの』
私は動けなくなった。
まだ間に合う。
その言葉の意味は何なのか。
誰に向けて言ったのか。
そして。
本当に母は私を待っていたのか。
答えはまだ見えない。
だが確かに近づいていた。
三年間閉ざしていた最後の一時間へ。
『まだ間に合う』
彩花との電話が終わった後も、その言葉は耳の奥に残り続けていた。
まだ間に合う。
母は誰に向かって言ったのだろう。
私にか。
それとも自分自身にか。
あるいは家族全員に向けていたのか。
窓の外では雨が降っていた。
第1話の日と同じような静かな雨だった。
私は机の上に置いたスマートフォンを見る。
母とのトーク画面。
画面は暗いままだ。
だが不思議と、母がすぐ近くにいる気がした。
私はメッセージを打つ。
『母さんは何を伝えたいの?』
送信。
既読。
そして数秒後。
返信が届いた。
『病院へ行こう』
その一文に、胸が大きく鳴った。
翌週の日曜日。
私は再び実家へ向かった。
父と彩花にも事情を話した。
もちろん「母からLINEが来ている」とは言っていない。
そんなことを言えば心配される。
ただ、
「あの日のことを知りたい」
そうだけ伝えた。
父も彩花も驚いていた。
だが反対はしなかった。
三人で病院へ向かう。
母が最期を迎えた場所。
私は三年間、一度も来ていなかった。
来られなかった。
病院の建物が見えた瞬間、足が止まりそうになる。
胸が苦しい。
逃げ出したくなる。
だが父が先に歩いた。
彩花も続く。
私は深呼吸して二人の後を追った。
病室はもう別の患者が使っていた。
当然だった。
三年も経っている。
だが病棟の看護師長が当時を覚えていてくれた。
事情を説明すると、
「お母さま、とても優しい方でしたね」
と懐かしそうに笑った。
その言葉だけで胸が熱くなる。
しばらく話した後、
看護師長はふと思い出したように言った。
「そういえば」
私たちは顔を上げる。
「お母さま、最後の日までずっと時計を気にしていましたね」
私は息を止めた。
時計。
やはり。
看護師長は続ける。
「あの止まった時計です」
彩花と視線が合う。
父も驚いている。
「新しい時計に交換しましょうかって何度も言ったんです」
看護師長は少し笑う。
「でも断られました」
『そのままにしてください』
そう言っていたらしい。
私は唇を噛む。
なぜ。
なぜそんなことを。
すると看護師長が続けた。
「理由も聞きました」
胸が高鳴る。
「何と?」
私が尋ねる。
看護師長は少し考えてから答えた。
「この時計を見ると安心するんです」
私は固まった。
安心する。
止まった時計なのに。
看護師長は続ける。
「息子が来る予定の時間だからって」
世界が静止した。
私は理解できなかった。
頭が真っ白になる。
息子が来る予定の時間。
それは。
私だ。
間違いない。
看護師長の声が遠く聞こえる。
「時計が止まった時間が、ちょうど大輔さんが来る予定だった時間だったそうです」
私は膝から力が抜けそうになった。
彩花が息を呑む。
父も言葉を失っている。
止まった時計。
あの日のまま。
母はそれを直さなかった。
なぜなら。
そこに私がいたからだ。
来るはずだった私が。
涙が溢れた。
止まらなかった。
私は三年間勘違いしていた。
母は私を待ちながら亡くなった。
そう思っていた。
違った。
母は信じていたのだ。
私が来ることを。
最後まで。
疑わずに。
だから時計を残した。
そこに私がいるから。
病院を出た後。
私たちは近くの公園へ寄った。
ベンチへ座る。
誰もすぐには話せなかった。
やがて父が呟く。
「母さんらしいな」
私は頷く。
彩花も泣いていた。
父は空を見上げる。
「待ってたんじゃない」
静かな声だった。
「信じてたんだな」
私は目を閉じた。
胸がいっぱいだった。
三年間、自分を責め続けた。
最後に会えなかった。
間に合わなかった。
母を悲しませた。
そう思っていた。
けれど母は違った。
責めていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ信じていた。
それだけだった。
その夜。
帰宅した私はスマートフォンを開いた。
母とのトーク画面。
新しいメッセージが届いていた。
『分かった?』
涙が滲む。
私は震える指で返信した。
『少しだけ』
既読。
そして最後に届いた言葉を見て、私は声を上げて泣いた。
『後悔より、思い出してほしかったの』
私はスマートフォンを胸に抱えた。
母はずっとそれを伝えたかったのだ。
最後に会えなかったことではない。
失敗でもない。
後悔でもない。
一緒に過ごした時間を。
笑った日々を。
家族だった時間を。
覚えていてほしかったのだ。
窓の外では雨が止んでいた。
雲の切れ間から月が見える。
私は空を見上げる。
そして三年ぶりに心から言った。
「ただいま、母さん」
どこかで優しい笑い声が聞こえた気がした。




