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亡くなった母から、三年後にLINEが届いた〜止まっていた家族の時間が、切なくも温かい奇跡で動き出す〜  作者: 鷹司 怜


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【第二章 母しか知らないこと】 第6話 妹の涙

翌朝、目が覚めた時には少しだけ不思議な気分だった。


実家の天井。


子供の頃から見慣れた木目。


窓の外から聞こえる鳥の声。


何年も離れていたはずなのに、身体は覚えているらしい。


だが胸の奥には昨夜の出来事が残っていた。


母からのLINE。


『次は彩花』


そして。


『彩花ね、本当はずっと怒ってるの』


私は布団の中で天井を見つめた。


怒っている。


誰に。


何を。


答えは何となく分かっていた。


私だ。


たぶん。


いや、きっと。


三年間。


私は妹とも距離を置いてきた。


連絡は最低限。


会うこともほとんどなかった。


母の話になるのが怖かったからだ。


だが彩花から見れば違う。


兄が逃げたように見えたはずだ。


父からも。


実家からも。


そして母からも。


居間へ行くと父が朝食を用意していた。


「珍しいな」


思わず言うと、


「失礼なやつだな」


と父が笑った。


少し前なら考えられない会話だった。


昨日の夜、たくさん話したからだろう。


ぎこちなさが少しだけ消えていた。


食卓には焼き鮭と味噌汁。


母の味には及ばないが、それでも温かかった。


父は味噌汁をすすりながら言った。


「彩花、今日来るぞ」


私は箸を止めた。


「え?」


「昼頃な」


聞いていない。


いや、当然だ。


父と彩花は連絡を取り合っている。


私だけが知らなかった。


胸がざわつく。


会うのはいつ以来だろう。


母の三回忌だったか。


いや、その時もほとんど話していない。


父は何気ない顔で言った。


「帰ってきてるって言ったら驚いてた」


私は苦笑した。


驚くだろう。


私自身が一番驚いている。


食事を終えた後、私は庭へ出た。


紫陽花が揺れている。


母が好きだった花だ。


毎年この時期になると嬉しそうに眺めていた。


ふとスマートフォンを見る。


母とのトーク画面。


新しいメッセージはない。


けれど不思議と寂しくはなかった。


母はどこかで見ている気がした。


そんなことを考えてしまう自分がいる。


昼前。


車の音がした。


私は思わず顔を上げる。


父も気づいたらしい。


玄関へ向かう。


そして扉が開く。


「ただいまー」


明るい声。


聞き慣れた声だった。


彩花だった。


昔より髪が短くなっている。


少し大人びて見える。


けれど面影は変わらない。


私を見るなり足を止めた。


「え……」


その表情が固まる。


私も何と言えばいいか分からなかった。


「久しぶり」


ようやく出た言葉。


彩花は数秒黙った。


そして小さく頭を下げる。


「久しぶり」


それだけだった。


他人行儀な挨拶。


昔は違った。


くだらないことで笑い合った。


喧嘩もした。


母に一緒に怒られた。


それなのに今は距離がある。


はっきり分かるほどに。


昼食は三人で食べた。


だが会話は少なかった。


父が話題を振る。


私が答える。


彩花も答える。


それだけ。


昔のような自然さはどこにもない。


そして私は気づく。


彩花がほとんど私を見ないことに。


目が合わない。


避けられている。


それが分かった。


昼食後。


彩花は仏壇へ向かった。


母の写真の前に座る。


手を合わせる。


私は少し離れた場所から見ていた。


その時だった。


彩花の肩が小さく震えた。


泣いている。


私は初めて気づいた。


彩花は今も泣いている。


三年経った今でも。


父も黙っていた。


誰も声をかけない。


かけられない。


やがて彩花は立ち上がる。


涙を拭く。


そして私の方を見た。


初めて真正面から。


その目には悲しみだけではなかった。


怒りがあった。


はっきりと。


押し殺してきた怒りが。


「お兄ちゃん」


彩花が言う。


静かな声だった。


けれど胸がざわつく。


「少し話せる?」


私は何も言わず頷いた。


その瞬間。


母が言っていた意味を理解した。


彩花は怒っている。


本当に。


ずっと。


三年間。


私は彩花の後を追って庭へ出た。


六月の風が紫陽花を揺らしている。


母が好きだった花。


昔は家族みんなで眺めた花。


今はどこか寂しく見えた。


彩花は庭の端にある古いベンチへ腰掛けた。


私も少し離れて座る。


沈黙が続く。


鳥の鳴き声だけが聞こえる。


何を話せばいいのか分からない。


いや。


本当は分かっていた。


彩花が話したいことは一つだ。


三年間のこと。


やがて彩花が口を開いた。


「お兄ちゃん」


私は顔を上げる。


彩花は前を向いたままだった。


「私ね」


少し間が空く。


「ずっと怒ってた」


胸が痛む。


やはりそうだった。


分かっていた。


けれど実際に聞くと苦しい。


彩花は続けた。


「すごく怒ってた」


声は静かだった。


怒鳴っているわけではない。


だからこそ痛かった。


「どうして帰ってこないのかなって」


私は俯く。


何も言えない。


「どうして父さんを一人にするのかなって」


言葉が胸へ刺さる。


その通りだった。


私は逃げた。


父からも。


実家からも。


母の思い出からも。


「お盆も来ない」


「正月も来ない」


「電話もほとんどしない」


彩花の声が少し震えた。


「私ね」


そこで初めてこちらを見る。


目が赤かった。


「本当に腹が立った」


私は何も言わない。


言い訳をする資格がない。


彩花は唇を噛んだ。


そして言った。


「お兄ちゃんだけじゃないのに」


私は息を止めた。


「母さんを失ったの」


風が吹く。


紫陽花が揺れる。


彩花は涙をこらえていた。


だが声は震えている。


「父さんも」


「私も」


「みんな同じなのに」


その言葉が胸へ重く沈む。


私は自分の後悔ばかり見ていた。


自分の傷ばかり見ていた。


けれど残された家族も同じように傷ついていたのだ。


その当たり前のことに今さら気づく。


彩花は空を見上げた。


そして小さく笑った。


悲しい笑顔だった。


「でもね」


私は顔を上げる。


「一番怒ってたのは違うこと」


胸がざわつく。


彩花はしばらく黙っていた。


何かを決心するように。


そしてゆっくり言った。


「母さんが亡くなった日」


私は固まる。


あの日の話だった。


三年間。


誰も深く話さなかった日。


彩花の目から涙が落ちる。


「私、本当はお兄ちゃんに電話したの」


私は息を呑んだ。


知っている。


あの日。


何度も着信があった。


会議中だった。


出られなかった。


いや。


出なかった。


後でかけ直そうと思った。


そして間に合わなかった。


彩花は涙を拭う。


「母さんね」


声が震える。


「最後まで待ってたんだよ」


私は動けなくなる。


「お兄ちゃんが来るの」


世界が静かになる。


風の音も聞こえない。


「何度も時計見てた」


彩花は泣いていた。


もう涙を止められない。


「まだかなって」


「大輔まだかなって」


私は目を閉じた。


胸が苦しい。


呼吸ができない。


「だから私」


彩花は嗚咽をこらえながら続ける。


「お兄ちゃんのこと許せなかった」


その言葉に私は頷いた。


当然だった。


恨まれても仕方ない。


責められても仕方ない。


私は間に合わなかったのだから。


だが次の言葉は予想していなかった。


「でもね」


彩花が言う。


「本当は違った」


私は顔を上げる。


彩花は泣きながら笑った。


母によく似た笑顔だった。


「私ね」


声が震える。


「お兄ちゃんに会いたかっただけだった」


私は言葉を失う。


「怒ってたんじゃない」


「寂しかった」


その一言が胸を打つ。


彩花は泣いていた。


子供のように。


三年間我慢してきた涙を流していた。


「家族がバラバラになるのが嫌だった」


私は何も言えなかった。


ただ聞いていた。


聞くことしかできなかった。


彩花は顔を覆う。


肩が震えている。


「母さんがいなくなったのに」


「お兄ちゃんまでいなくなるから」


その言葉に私は唇を噛んだ。


胸の奥で何かが崩れていく。


三年間。


私が逃げたことで傷ついた人がいた。


父だけじゃない。


彩花もだった。


そしてその痛みを誰にも言えなかったのだ。


ずっと。


一人で。


彩花の涙はなかなか止まらなかった。


私は何も言えずにいた。


言葉が見つからない。


いや。


言うべき言葉は分かっている。


ただ、それを口にする資格があるのか分からなかった。


六月の風が静かに吹いている。


紫陽花が揺れる。


母が好きだった庭。


昔はここで家族四人で花を眺めたこともあった。


その記憶が胸を締め付ける。


彩花は涙を拭った。


だが次から次へと溢れてくる。


三年間。


抱え続けてきた涙だった。


私は拳を握った。


逃げてはいけない。


もう逃げたくない。


母から届いたLINE。


父との再会。


そして今。


全部が私をここへ連れてきた。


私は彩花を見た。


妹は泣いている。


私のせいで。


いや。


母を失った悲しみと、兄を失った寂しさの両方で。


私はゆっくり口を開いた。


「ごめん」


声が震えた。


情けないほど小さな声だった。


彩花は顔を上げる。


私は続けた。


「本当にごめん」


胸が痛い。


言葉にするたび苦しい。


「父さんからも逃げた」


「彩花からも逃げた」


「母さんのことからも逃げた」


涙が滲む。


「怖かったんだ」


彩花は黙って聞いていた。


「思い出すのが」


「病院のことも」


「最後の電話も」


「全部」


私は目を伏せた。


「だから逃げた」


最低だと思う。


兄として。


息子として。


人として。


けれどそれが事実だった。


彩花は何も言わない。


私は続ける。


「でも」


声が詰まる。


「一番苦しかったのは俺だけじゃなかった」


父の顔が浮かぶ。


仏壇に話しかける父。


日記に『ごめんな』と書き続ける父。


そして今、目の前にいる彩花。


私は何も見ていなかった。


自分しか見ていなかった。


「ごめん」


もう一度言った。


今度は少しだけまっすぐに。


彩花の目を見て。


長い沈黙が流れた。


風の音だけが聞こえる。


やがて彩花が小さく笑った。


涙でぐしゃぐしゃの顔だった。


「遅いよ」


その言葉に私は思わず笑ってしまう。


泣きながら。


彩花も笑った。


泣きながら。


まるで子供の頃みたいだった。


「本当に遅い」


彩花が言う。


「三年だよ?」


「うん」


「長すぎ」


「うん」


「馬鹿」


「うん」


私は否定できなかった。


彩花は大きく息を吐く。


そして空を見上げた。


「でもね」


私は顔を上げる。


「私も悪かった」


意外な言葉だった。


彩花は苦笑する。


「怒ってるふりしてた」


「ふり?」


「うん」


少し考えるように言う。


「怒ってる方が楽だったから」


私は黙って聞いていた。


「寂しいって認めるより」


「怒ってる方が楽だった」


その言葉が胸に残る。


人は悲しい時ほど怒ってしまう。


本当は会いたいだけなのに。


本当は寂しいだけなのに。


彩花はそうだったのだ。


「お兄ちゃんに会いたかった」


その言葉に私は目を閉じた。


胸が熱い。


三年間。


たったその一言が言えなかった。


私も。


彩花も。


母がいなくなったことで。


家族は言葉を失っていた。


だが今。


少しずつ取り戻している。


そんな気がした。


その時だった。


玄関の方から父の声が聞こえた。


「おーい」


私たちは振り向く。


父が縁側に立っていた。


「お茶入れたぞ」


昔と同じだった。


何も聞かない。


何も言わない。


ただ待っていてくれる。


彩花が笑う。


「行こうか」


私は頷いた。


二人で立ち上がる。


その瞬間。


スマートフォンが震えた。


私は立ち止まる。


画面を見る。


母だった。


新しいメッセージ。


胸が高鳴る。


ゆっくり開く。


そこには短く書かれていた。


『よくできました』


思わず笑ってしまった。


涙が出る。


彩花が不思議そうな顔をする。


私は画面を見せなかった。


まだ説明できない。


けれど確かに感じる。


母は見ている。


私たちを。


ずっと。


その時、さらに新しいメッセージが届いた。


私は息を呑む。


そこに書かれていた言葉を見て。


心臓が大きく脈打った。


『次は病院の話をしようか』


全身が固まる。


病院。


最後の日。


最後の一時間。


私が最も向き合いたくなかった記憶。


母はそこへ向かおうとしている。


私は画面を見つめた。


逃げられない。


いや。


逃げたくない。


今なら向き合える気がした。


父がいて。


彩花がいて。


そして母がいる。


たとえどんな形であっても。


私は深く息を吸った。


そしてゆっくり空を見上げる。


雲の切れ間から陽の光が差していた。


まるで母が笑っているようだった。

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