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亡くなった母から、三年後にLINEが届いた  作者: 鷹司 怜


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【第二章 母しか知らないこと】 第5話 財布を拾った夏の日

三年ぶりに実家へ帰ると決めた夜、私はなかなか眠れなかった。


ベッドに入っても目が冴える。


天井を見つめながら何度も寝返りを打った。


スマートフォンを手に取る。


母とのトーク画面。


最後のメッセージは変わらない。


『本当はね、お父さんにも秘密があるんだよ』


その一文が頭から離れなかった。


父の秘密。


何だろう。


借金でもあるのか。


病気なのか。


それとも母との間に何かあったのか。


考えれば考えるほど分からない。


だが一つだけ分かることがあった。


母は私を実家へ帰らせようとしている。


まるで背中を押すように。


私はスマートフォンを閉じた。


母ならそうするだろう。


誰かを責めるためではなく。


誰かを繋ぐために。


そういう人だった。


・・・


翌朝。


私は始発に近い電車へ乗った。


土曜日だった。


窓の外を流れる景色を見ながら、胸の奥が落ち着かない。


最後に実家へ帰ったのはいつだろう。


一周忌だったか。


いや、もっと前かもしれない。


正月も理由をつけて帰らなかった。


仕事が忙しい。


予定がある。


そんな言い訳をして。


本当は怖かっただけだ。


実家へ帰れば母を思い出す。


仏壇を見ることになる。


食卓を見ることになる。


母のいない現実と向き合わなければならない。


だから逃げていた。


三年間。


ずっと。


電車を降りる。


懐かしい駅だった。


駅前のパン屋。


古い時計台。


小さなロータリー。


ほとんど何も変わっていない。


変わったのは私だけなのかもしれない。


駅から実家までは歩いて十五分ほど。


昔は近く感じた道が少し長く感じる。


住宅街を抜ける。


見慣れた公園が見える。


赤い財布を隠した公園だった。


思わず立ち止まる。


母とのLINEがなければ思い出すこともなかった場所だ。


胸の奥が少し温かくなった。


そして、実家が見えた。


二階建ての古い家。


庭には紫陽花が咲いている。


母が好きだった花だ。


昔と変わらない。


変わらないはずなのに。


なぜだろう。


胸が締め付けられる。


玄関の前に立つ。


インターホンへ手を伸ばす。


だが押せない。


緊張している。


実の父なのに。


三年も会っていないだけで、こんなにも遠くなるのか。


私は深呼吸をした。


そしてインターホンを押す。


数秒後。


玄関の向こうから足音が聞こえた。


ゆっくり近づいてくる。


ガチャ。


扉が開く。


そこにいたのは父だった。


少し痩せていた。


髪も白くなっていた。


だが顔を見た瞬間に分かった。


父だ。


間違いなく。


「……大輔か」


父が言った。


私は頷いた。


「久しぶり」


それしか言えなかった。


父も同じだった。


しばらく沈黙が続く。


やがて父は少しだけ笑った。


「とりあえず入れ」


その言葉に救われた気がした。


私は玄関へ足を踏み入れる。


懐かしい匂いがした。


木の匂い。


畳の匂い。


そして。


もういないはずなのに。


母を思い出させる匂いだった。


胸が熱くなる。


私は黙ったまま靴を脱いだ。


居間へ向かう。


そして視線の先に仏壇が見えた。


母の写真。


優しく笑っている。


三年前から変わらない笑顔。


その前には新しい花が供えられていた。


私は思わず立ち止まる。


母のLINEの言葉が蘇る。


『仏壇のお花、毎週替えてる』


本当だった。


その事実が胸へ静かに染み込んでいく。


父は何も言わない。


私も何も言えない。


だが、その沈黙の中に。


三年間言葉にできなかったものが確かに存在していた。


仏壇の前に立ったまま、私はしばらく動けなかった。


母の写真は変わらない。


あの日のまま笑っている。


優しい笑顔だった。


どんな時も人を安心させる笑顔。


子供の頃から見慣れていたはずなのに、今は少し苦しかった。


会いたい。


その気持ちが胸の奥から込み上げる。


けれど、もう会えない。


その現実も同時に押し寄せてくる。


「飯、食うだろ」


父の声で我に返った。


振り向くと父は台所へ向かっていた。


私は小さく返事をする。


居間のテーブルには二人分の食事が並んでいた。


焼き魚。


味噌汁。


漬物。


昔から変わらない献立だった。


母がいた頃は、ここへもう一人いた。


いや、母がいたからこそ、この食卓は食卓だった。


今は静かすぎる。


父と向かい合って座る。


言葉が出てこない。


何を話せばいいのか分からない。


三年間という時間は、それほど長かった。


父が箸を動かす。


味噌汁を飲む。


その姿を見ながら私は思った。


老けた。


いや、歳を取ったのだ。


当たり前なのに気づかなかった。


最後に会った時より背中が小さく見える。


肩も少し落ちている。


それなのに私は何も知らなかった。


どんな生活をしていたのか。


元気なのか。


寂しくないのか。


何も聞かなかった。


聞けなかった。


いや、聞こうとしなかった。


「仕事はどうだ」


父が尋ねた。


「まあ普通かな」


「そうか」


会話が終わる。


昔から父は口数が多い人ではない。


だが今は、それ以上に沈黙が多かった。


食事を終えた頃だった。


父が立ち上がる。


そして仏壇の前へ行った。


慣れた動作だった。


湯飲みの水を替える。


花の位置を直す。


線香を一本立てる。


何気ない動き。


けれど私は目を離せなかった。


母のLINEを思い出したからだ。


『今でも毎朝、お母さんに話しかけてるよ』


本当なのだろうか。


私は見つめた。


父は線香へ火をつける。


手を合わせる。


目を閉じる。


そして。


小さな声で言った。


「今日は大輔が帰ってきたぞ」


私は息を止めた。


父はこちらを見ていない。


母の写真を見ていた。


「久しぶりだな」


笑うような声だった。


けれど少し震えていた。


私は何も言えなかった。


父は続ける。


「相変わらず愛想はないけどな」


小さく笑う。


それから少し黙った。


長い沈黙だった。


やがて父はぽつりと呟いた。


「お前なら喜ぶだろ」


その言葉に胸が締め付けられた。


父は毎日こうしているのだ。


母へ話しかけている。


三年間。


ずっと。


私は視線を落とした。


知らなかった。


何も知らなかった。


母を失ったのは私だけじゃない。


父も同じなのに。


いや。


父の方がずっと長い時間を母と過ごしてきた。


何十年も一緒に生きてきた。


その喪失を私は想像すらしていなかった。


父は仏壇から離れた。


そして居間へ戻る。


テレビをつける。


いつもの習慣なのだろう。


だが画面を見ているようには見えなかった。


私は思い切って尋ねた。


「父さん」


「ん?」


「母さんが亡くなってから……ずっと一人だったんだよな」


父は少し考えた。


そして笑った。


寂しそうな笑顔だった。


「まあな」


短い返事。


だがその一言の重さに私は何も言えなくなる。


その時だった。


仏壇の前に置かれた写真立てが目に入った。


母の写真の横。


小さなメモ帳が置いてある。


見覚えのないものだった。


私は立ち上がる。


近づく。


そして気づいた。


それは日記だった。


父の字で何かが書かれている。


一ページだけ開いていた。


そこに書かれていた日付を見た瞬間、私は固まった。


三年前。


母が亡くなった翌日だった。


そして、その下に書かれていた言葉を見て、私は息を呑む。


そこには――


『ごめんな』


とだけ書かれていた。


大きく。


震える文字で。


まるで誰かへ謝り続けるように。


私はゆっくり顔を上げた。


父はテレビを見ている。


だがその横顔は。


今まで見たことがないほど寂しそうだった。


『ごめんな』


その文字から目を離せなかった。


日記帳は開いたままになっている。


震えた筆跡だった。


父らしくない字だった。


まるで何かにすがるように書かれている。


私はそっとページを閉じた。


勝手に読むべきではないと思った。


だが気になって仕方がない。


あの言葉は誰へ向けられたものなのか。


母なのか。


それとも。


「見たか」


父の声がした。


振り返る。


父はテレビを消していた。


画面が黒くなる。


静寂が部屋へ戻る。


私は返事に困った。


だが父は怒っていなかった。


むしろ少し疲れたような顔で笑った。


「別に隠してるわけじゃない」


そう言って立ち上がる。


仏壇の前へ来る。


そして日記帳を手に取った。


「母さんがいなくなってから書いてる」


静かな声だった。


私は何も言えない。


父は表紙を撫でる。


大切なものに触れるように。


「誰にも見せたことはないけどな」


少し照れたように笑う。


その笑顔を見て、胸が痛くなった。


父も同じだったのだ。


私と。


ずっと苦しんでいた。


父はゆっくりと座った。


そして日記帳を開く。


最初のページ。


三年前の日付。


母が亡くなった翌日。


そこには短い文章が並んでいた。


『ごめんな』


『もっと早く病院へ連れて行けばよかった』


『もっと無理をするなと言えばよかった』


『気づいてやれなかった』


私は息を止めた。


父は続ける。


「母さんな」


少し間が空く。


「最後まで俺に心配かけまいとしてたんだ」


窓の外で風が鳴る。


父は母の写真を見る。


遠い昔を見るような目だった。


「具合が悪いのに平気だって言ってた」


私は黙って聞いていた。


「病院へ行こうと言っても大丈夫だって笑ってた」


父は苦く笑う。


「俺も信じた」


その言葉が重かった。


信じた。


それだけだった。


愛していなかったわけではない。


無関心だったわけでもない。


ただ信じたのだ。


一番近くにいた人の言葉を。


「だからな」


父は拳を握った。


「今でも思うんだ」


声が震える。


「無理やりでも連れて行けばよかったって」


私は何も言えなかった。


その後悔は私と同じだったから。


もし。


あの時。


その言葉に人生は縛られる。


私もそうだった。


父もそうだった。


違うのは対象だけだ。


私は最後の電話。


父は最後の日々。


それぞれ違う場所で後悔を抱えていた。


父は続ける。


「お前だけじゃないんだ」


私は顔を上げる。


父がこちらを見ていた。


まっすぐに。


「大輔」


久しぶりに名前を呼ばれる。


「お前が自分を責めてるのは分かってた」


胸が詰まる。


父は知っていたのだ。


何も言わなかっただけで。


「だから何も言えなかった」


父は苦笑した。


「俺も自分を責めてたからな」


私は俯いた。


涙が込み上げる。


三年間。


私は一人で後悔していると思っていた。


違った。


父も同じだった。


同じ場所で立ち止まっていた。


その事実が苦しかった。


そして少しだけ救いだった。


「父さん」


声が震える。


「俺……」


続きが出てこない。


謝りたかった。


帰らなかったことを。


逃げていたことを。


一人にしていたことを。


だが言葉にならない。


すると父は笑った。


本当に久しぶりに見る笑顔だった。


「母さんなら怒るぞ」


私は思わず顔を上げる。


「え?」


「また二人して後悔してるってな」


その言葉に思わず笑ってしまった。


涙が出るのに。


笑ってしまった。


母なら確かに言いそうだった。


父も笑う。


私も笑う。


それだけなのに胸の重さが少し軽くなる。


その夜。


久しぶりに父と長く話した。


子供の頃の話。


母の話。


彩花の話。


どうでもいい話。


本当に久しぶりだった。


時計が日付を越える頃。


私は客間の布団へ入った。


懐かしい天井。


懐かしい匂い。


そして枕元のスマートフォンが震えた。


私は飛び起きる。


画面を見る。


母だった。


新しいメッセージ。


そこには短く書かれていた。


『仲直りできたね』


涙が滲む。


私は小さく笑った。


返信を打つ。


『ありがとう』


送信。


数秒後。


母から返事が届く。


『まだ終わってないよ』


私は首を傾げる。


その直後。


新しいメッセージが表示された。


『次は彩花』


妹の名前だった。


胸がざわつく。


母は続ける。


『彩花ね、本当はずっと怒ってるの』


私は息を呑んだ。


怒っている?


誰に。


何を。


その答えを知らない。


だが確かなことがあった。


母が私に届けているのは奇跡ではない。


残された家族をもう一度繋ぐための言葉だ。


そして次に向き合うべき相手は――


妹の彩花だった。

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