【第一章 三年後の通知音】 第3話 元気にしてる?
『元気にしてる?』
私は、その文字を見つめたまま動けなかった。
部屋の時計が秒を刻んでいる。
雨が窓を叩いている。
冷蔵庫のモーター音が遠くで唸っている。
それなのに、何も聞こえなかった。
視界の中には、ただスマートフォンの画面だけがある。
『元気にしてる?』
たった七文字。
たった七文字なのに、胸の奥へ沈んでいく。
ゆっくりと。
深く。
息が苦しかった。
心臓が痛いほど脈打っている。
三年前に亡くなった母から、そんな言葉が届くはずがない。
分かっている。
そんなことは。
けれど、その言葉はあまりにも母らしかった。
もし誰かのいたずらなら。
もし誰かが母のスマートフォンを使っているだけなら。
もっと別の言葉を選ぶはずだ。
『久しぶり』
でもない。
『会いたい』
でもない。
『元気にしてる?』
だった。
母は昔からそうだった。
電話をかけてくる時も。
帰省した時も。
久しぶりに顔を合わせた時も。
必ず最初に聞く。
「元気にしてる?」
小学生の頃。
熱を出して学校を休んだ日があった。
三十八度を超えていた。
私は布団の中で唸っていた。
母は仕事を休み、一日中そばにいてくれた。
氷枕を替え。
額の汗を拭き。
何度も体温計を確認していた。
目を覚ますたびに聞かれた。
「大輔、元気にしてる?」
熱があるのだから元気なわけがない。
そう思いながらも、
「うん」
と答えた。
すると母は安心したように笑った。
「よかった」
今思えば変な会話だ。
元気ではないのに。
それでも母にとっては重要だったのだろう。
息子の声を聞くことが。
息子が返事をすることが。
そのこと自体が。
涙が滲んだ。
私は慌てて目を擦る。
だが意味はなかった。
次から次へと溢れてくる。
『元気にしてる?』
文字が滲む。
もう一度読む。
やはり同じだった。
母の言葉だった。
大学進学で実家を離れた日のことを思い出す。
初めての一人暮らし。
狭いワンルーム。
知らない街。
自由になったはずなのに、少しだけ心細かった。
荷解きを終えた夜。
電話が鳴った。
母だった。
「ちゃんと着いた?」
「着いたよ」
「ご飯食べた?」
「食べた」
「元気にしてる?」
私は苦笑した。
引っ越してまだ半日しか経っていない。
元気も何もない。
「してるよ」
そう答えると、
「ならよかった」
と母は笑った。
その笑い声が好きだった。
どこか安心する声だった。
大人になってからも変わらない。
社会人になって。
仕事で失敗して。
上司に叱られて。
取引先に頭を下げて。
疲れ果てて帰った夜。
母から電話が来る。
不思議なことに、タイミングが良かった。
まるで見ていたかのように。
「元気にしてる?」
その言葉を聞くと、少しだけ肩の力が抜けた。
私はソファへ腰を下ろした。
スマートフォンを握り締める。
どうして今さら思い出すのだろう。
いや。
違う。
忘れようとしていたのだ。
三年間。
必死に。
思い出せば苦しくなるから。
後悔するから。
だから仕事へ逃げた。
忙しくした。
考えないようにした。
それなのに。
たった一通のLINEで全部蘇ってしまった。
母の声も。
母の笑顔も。
母の匂いも。
全部。
私は目を閉じた。
その瞬間だった。
三年前の葬儀場の光景が浮かんだ。
葬儀場の匂いを覚えている。
線香の香り。
白い花。
静かな読経。
どれも曖昧になっているのに、その空気だけは今も忘れられなかった。
母が亡くなった翌日。
私は喪服を着ていた。
まるで他人事のようだった。
現実感がなかった。
病院で母の顔を見た時もそうだった。
棺の中の母を見てもそうだった。
どこかで思っていた。
きっと起きる。
きっと目を開ける。
これは悪い冗談だ。
そう思いたかった。
だが現実は残酷だった。
母は何も言わなかった。
笑わなかった。
私の名前を呼ばなかった。
もう二度と。
彩花は泣いていた。
目が真っ赤になるほど。
親戚たちに支えられながら泣いていた。
父も泣いていた。
私は初めて見た。
父の涙を。
父は強い人だった。
転んで膝を擦りむいても、
「そのくらい平気だ」
と言う人だった。
仕事で失敗して落ち込んでいる時も、
「次がある」
と言う人だった。
その父が、棺に手を置いて泣いていた。
声を押し殺しながら。
肩を震わせながら。
私はただ見ていた。
何もできなかった。
そして、自分が泣いていないことに気づいた。
涙が出なかった。
悲しくないわけじゃない。
苦しくないわけじゃない。
胸は張り裂けそうだった。
なのに涙だけが出なかった。
その理由は分かっていた。
私は自分を許せなかったのだ。
最後に会えなかった。
電話にも出なかった。
病院へ着いた時には遅かった。
そんな自分が泣く資格なんてないと思った。
母を一番悲しませたのは自分だと思った。
だから泣けなかった。
泣いてしまえば、自分を許してしまう気がした。
それが怖かった。
葬儀が終わった後も同じだった。
納骨の日。
四十九日。
一周忌。
三回忌。
私はずっと普通を演じていた。
仕事をして。
笑って。
食事をして。
生活していた。
だが心のどこかは、あの日の病室から動いていなかった。
父と会う回数が減ったのもそのせいだ。
父を見ると思い出す。
病室で母の手を握っていた背中を。
私は父に責められたことなど一度もない。
それなのに会えなかった。
本当は父ではなく、自分自身から逃げていたのだ。
もし父と向き合えば。
もし母の話をすれば。
自分の後悔とも向き合わなければならない。
それが怖かった。
だから逃げた。
三年間。
ずっと。
私は目を開いた。
現実へ戻る。
部屋は静かだった。
雨音だけが聞こえている。
テーブルの上のスマートフォン。
そこには今も表示されている。
『元気にしてる?』
私は笑ってしまった。
元気なわけがない。
母がいなくなってからの三年間。
本当はずっと元気じゃなかった。
誰にも言わなかっただけだ。
仕事は順調だった。
昇進もした。
周囲から見れば問題なく生きている。
けれど夜になると考える。
母のことを。
病室のことを。
最後の一時間を。
そして同じ後悔を繰り返す。
もし。
あの時。
そうやって三年間を過ごしてきた。
スマートフォンを見つめる。
返信欄が開いている。
カーソルが点滅していた。
私は指を置いた。
何かを書かなければならない気がした。
何より先に浮かんだ言葉があった。
ごめん。
その二文字だった。
『ごめん』
打ち込む。
画面に文字が現れる。
その瞬間、胸が痛くなった。
違う。
これだけじゃない。
私は続けて打ち始めた。
『会いに行けなくてごめん』
『電話に出られなくてごめん』
『最後に間に合わなくてごめん』
『親孝行できなくてごめん』
『ありがとうも言えなくてごめん』
文字が増えていく。
涙で画面が滲む。
指が震える。
三年間言えなかった言葉だった。
いや。
本当は今でも言えていない。
送信できないからだ。
私は目を閉じた。
そして一文字ずつ消していく。
ごめん。
ごめん。
ごめん。
全部消した。
返信欄は空白に戻る。
私は深く息を吐いた。
もし相手が母じゃなかったら。
もし悪質ないたずらだったら。
もし誰かが母のアカウントを使っているだけだったら。
そう考えると怖かった。
期待するのが怖かった。
もう一度失うのが怖かった。
だから私は、震える指で別の言葉を打ち込んだ。
私は震える指で文字を打ち込んだ。
『誰ですか?』
たった五文字。
送信ボタンを押すまでに一分以上かかった。
本当は聞きたくなかった。
もし相手が母ではないと分かったら。
もし悪意のあるいたずらだったら。
もし誰かが偶然、母のアカウントを使っているだけだったら。
そう考えると怖かった。
けれど、このまま信じることもできない。
私は目を閉じる。
そして送信した。
緑色の吹き出しが画面に表示される。
『誰ですか?』
部屋が静かだった。
雨音だけが聞こえる。
時計の秒針がやけに大きく響く。
私はスマートフォンをテーブルに置いた。
落ち着こうとする。
だが無理だった。
立ち上がる。
キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開ける。
ミネラルウォーターを取り出す。
一口飲む。
喉が渇いているはずなのに味がしない。
再びスマートフォンを見る。
変化はない。
私は苦笑した。
何を期待しているのだろう。
母が返事をするわけがない。
そんなこと、あるはずがない。
三年間。
私は現実を受け入れて生きてきた。
母は亡くなった。
もう会えない。
声も聞けない。
触れることもできない。
そう自分に言い聞かせてきた。
それなのに今は。
ほんの少しだけ期待している。
もし。
本当に母だったら。
その考えが浮かんだ瞬間。
スマートフォンが震えた。
――ピコン。
私は息を呑んだ。
急いで画面を開く。
新しいメッセージ。
指先が冷たくなる。
そこにはこう書かれていた。
『そんなに警戒しなくても大丈夫だよ』
私は固まった。
呼吸が止まる。
胸の奥で何かが大きく揺れた。
その言葉だった。
間違いなく。
母の言葉だった。
小学生の頃。
初めて補助輪なしの自転車に乗った日。
私は怖くて仕方なかった。
転ぶのが嫌だった。
怪我をするのが嫌だった。
何度も後ろを振り返った。
そんな私に母は笑った。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
高校受験の日もそうだった。
前日の夜。
緊張して眠れなかった。
何度も参考書を開いていた。
母は温かいお茶を持ってきて言った。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
社会人になって初めての営業先へ向かう朝も。
ネクタイを締めながら、
「失敗したらどうしよう」
と言った私に、
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
と笑った。
母はいつもそうだった。
私が不安になるたびに同じ言葉をくれた。
大丈夫。
なんとかなる。
そう言われている気がした。
私はスマートフォンを見つめた。
あり得ない。
そんなはずがない。
頭ではそう思っている。
けれど心が追いつかない。
この言葉を知っている人はいる。
父も。
彩花も。
親戚も。
だが。
この言葉の使い方。
このタイミング。
この空気。
それがあまりにも母だった。
涙が溢れる。
止められない。
ぽたり。
ぽたり。
画面に落ちる。
私は唇を噛んだ。
その時だった。
再び通知音が鳴った。
私は画面を見る。
新しいメッセージ。
短かった。
たった一言だった。
『大輔』
私は目を閉じた。
その呼び方だった。
母は怒る時以外、名字では呼ばなかった。
「大輔」
嬉しい時も。
心配な時も。
落ち込んでいる時も。
いつもそう呼んだ。
社会人になっても。
四十代になっても。
母にとって私は息子のままだった。
『大輔』
たった三文字。
それだけなのに。
胸の奥で張り詰めていた何かが切れた。
私は顔を覆った。
声が漏れる。
涙が止まらない。
母に会いたかった。
ずっと。
三年間ずっと。
会いたかった。
謝りたかった。
ありがとうと言いたかった。
病室で言えなかった言葉を。
伝えたかった。
その全てが涙になって溢れていく。
どれほど時間が経っただろう。
気づけば雨音だけが部屋を満たしていた。
私はゆっくりと顔を上げる。
スマートフォンを見る。
そこには母の名前。
そしてメッセージ。
まるで三年間の空白がなかったかのように。
私は震える指で画面に触れた。
何を送ればいいのか分からない。
聞きたいことは山ほどある。
どうして。
なぜ今。
本当に母なのか。
けれど、そのどれよりも先に浮かんだ言葉があった。
私はゆっくりと文字を打ち込む。
今度は消さなかった。
逃げなかった。
送信ボタンを押した。
『会いたい』
たった四文字。
送信された緑色の吹き出しを見つめる。
その瞬間だった。
すぐに既読がついた。
大輔の心臓が跳ねる。
そして数秒後。
新しいメッセージが届いた。
そこには――
『まだ会えるよ』
と書かれていた。
私は息を止めた。
意味が分からなかった。
理解できなかった。
けれど、その一文が物語を大きく動かし始める。
母しか知らない秘密へ。
そして、三年前の後悔の真実へ。
私はまだ、その入口に立ったばかりだった。




