表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡くなった母から、三年後にLINEが届いた  作者: 鷹司 怜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/6

【第一章 三年後の通知音】 第2話 最後の一時間

『母』


その二文字を見た瞬間、私はスマートフォンを取り落としそうになった。


画面の光がやけに白く見える。


喉が渇く。


呼吸が浅くなる。


心臓だけが異様な速さで脈打っていた。


あり得ない。


そんなことは分かっている。


母は三年前に亡くなった。


病院で見送った。


火葬場で骨になった姿も見た。


墓石に刻まれた名前にも手を合わせた。


だから、あり得ない。


それなのに画面には確かに『母』と表示されていた。


私は震える指でスマートフォンを握り直した。


通知は消えずに残っている。


見間違いではない。


夢でもない。


酔っているわけでもない。


現実だった。


恐る恐るプロフィール画像を見る。


桜並木の下で笑う母。


七年前の春に撮った写真だ。


あの日も、こんな風に少し肌寒かった。


母は桜が好きだった。


花見というほど大げさなものではない。


近所の公園を歩いて、咲いたねと言い合うだけ。


それだけで満足する人だった。


「写真撮るよ」


そう言って私がスマートフォンを向けると、


「やめてよ、恥ずかしいから」


と顔を隠した。


それでも何枚か撮るうちに、ふっと笑った瞬間があった。


その一枚がこの写真だった。


隣にはレオンも写っている。


尻尾を振り回していて、顔が少しぶれている。


母はその写真を見て嬉しそうに言った。


「宝物だね」


私は笑った。


たかが写真だと思った。


けれど今は違う。


この世に残った母の笑顔は、もう増えない。


これ以上、一枚も。


私は目を閉じた。


胸の奥が痛い。


写真を見るだけで苦しくなる。


なのに視線を逸らせない。


母とのトーク画面を開く。


最後の会話。


四年前。


『今度帰るよ』


私が送った言葉。


『楽しみにしてるね』


母の返信。


その後ろに笑顔のスタンプ。


それが最後だった。


私は帰らなかった。


いや、帰れなかったのではない。


帰らなかったのだ。


忙しかった。


会議が続いていた。


取引先とのトラブルもあった。


休日出勤もあった。


言い訳ならいくらでもできる。


だが本当は違う。


私はどこかで思っていた。


母はいつでも会えると。


来月でもいい。


再来月でもいい。


正月でもいい。


そうやって先延ばしにした。


そして、その時間は永遠になくなった。


・・・


三年前の六月。


月曜日だった。


雨が降っていた。


その日の天気だけは今でも鮮明に覚えている。


朝、母から電話があった。


仕事へ向かう途中だった。


電車の中。


私は出なかった。


あとでかけ直そうと思った。


いつものことだった。


母は用事がなくても電話をしてくる。


「ちゃんと食べてる?」


「疲れてない?」


「今度帰ってくる?」


そんな内容ばかりだった。


だから、その時もそうだと思った。


電車を降りる。


会社へ着く。


朝礼。


メール確認。


資料作成。


気づけば昼になっていた。


母へ折り返すのを忘れていた。


少しだけ気になった。


だが仕事が優先だった。


午後一時。


営業会議。


大会議室には二十人ほど集まっていた。


部長が前に立ち、来期計画の説明を始める。


私は資料に目を落とした。


その時だった。


スマートフォンが震えた。


机の下。


小さな振動。


画面を見る。


彩花。


妹だった。


珍しいなと思った。


だが会議中だった。


出られない。


あとで折り返そう。


私は通知を閉じた。


十分後。


また震える。


彩花。


まただ。


胸の奥が少しざわついた。


だが会議は続いている。


私はスマートフォンを伏せた。


さらに十五分後。


三度目の着信。


彩花。


その瞬間。


嫌な予感がした。


理由は分からない。


ただ、胸の奥が冷たくなった。


何かがおかしい。


そんな気がした。


けれど私は席を立たなかった。


立てなかった。


会議を途中で抜ける勇気がなかった。


社会人として当然の判断をした。


だが、その判断を私は三年間後悔することになる。


私は時計を見た。


午後二時二十分。


部長の説明はまだ続いている。


資料の数字が目に入らない。


彩花から三度も着信が来ることなど、今までほとんどなかった。


胸騒ぎがする。


今すぐ電話をかけたい。


だが会議室の空気は重かった。


全員が前を向いている。


途中で席を立つ者など誰もいない。


私はスマートフォンを握り締めた。


あと少し。


会議が終わったら。


その時にはまだ間に合う。


そう信じた。


そう思いたかった。


だが、その「あと少し」が取り返しのつかない時間になることを、私は知らなかった。


会議が終わったのは午後三時過ぎだった。


終了の声を聞いた瞬間、私は立ち上がった。


資料をまとめることもせず、会議室を飛び出す。


廊下へ出る。


すぐに彩花へ電話をかけた。


一回。


二回。


三回。


呼び出し音が鳴る。


そして繋がった。


『お兄ちゃん!』


彩花は泣いていた。


その声を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。


『お母さんが……』


言葉になっていない。


泣き声で途切れる。


私は壁に手をついた。


嫌な予感が現実になる。


『病院……今……』


その先はよく覚えていない。


頭の中が真っ白だった。


ただ一つだけ分かった。


母の身に何かが起きた。


私は会社を飛び出した。


エレベーターを待つ時間さえ惜しかった。


階段を駆け下りる。


雨が降っていた。


六月の雨だった。


傘を開く余裕もない。


駅へ向かって走る。


靴が濡れる。


ズボンの裾が重くなる。


それでも走った。


病院は実家の近くだった。


電車では間に合わない気がした。


私は駅前でタクシーを止めた。


「○○総合病院までお願いします!」


運転手は驚いた顔をしたが、何も言わずに車を出した。


私は何度も時計を見た。


午後三時二十一分。


午後三時二十三分。


午後三時二十五分。


時間だけが進んでいく。


信号が赤になる。


止まる。


胸が締め付けられる。


頼む。


進んでくれ。


青になれ。


間に合ってくれ。


祈ることしかできなかった。


窓の外では雨が流れている。


景色が滲む。


いつの間にか涙が出ていた。


母の顔が浮かぶ。


運動会で弁当を作ってくれたこと。


受験の日に駅まで送ってくれたこと。


就職が決まった時、一番喜んでくれたこと。


何でもない思い出ばかりだった。


だが、そのどれもが大切だった。


もっと帰ればよかった。


もっと話せばよかった。


もっと――。


後悔が次々と浮かぶ。


まるで今になって請求書のように押し寄せてくる。


タクシーが病院へ到着した。


私は料金を払うのももどかしく車を降りた。


病院の自動ドアを駆け抜ける。


受付。


エレベーター。


長い廊下。


全部が遅く感じた。


病室の前に彩花がいた。


目を真っ赤に腫らしている。


私を見るなり泣き崩れた。


その姿を見た瞬間、全てを悟った。


私は足を止めた。


病室へ入るのが怖かった。


けれど入らなければならない。


ゆっくり扉を開く。


病室は静かだった。


あまりにも静かだった。


父がいた。


ベッドの横に座り、母の手を握っている。


その背中は小さく見えた。


母は眠っていた。


いや、眠っているように見えた。


顔色は穏やかだった。


苦しそうには見えない。


今にも目を開けそうだった。


「遅いじゃない」


そう笑いそうだった。


私はベッドの横へ近づいた。


母を見る。


何か言わなければならない。


ありがとう。


ごめん。


お母さん。


どれでもよかった。


一言でよかった。


なのに声が出ない。


喉が詰まる。


言葉にならない。


母の手に触れる。


冷たかった。


その冷たさだけが現実だった。


私は何も言えなかった。


ありがとうも。


ごめんも。


伝えられなかった。


その瞬間からだ。


私の時間が止まったのは。


三年間。


私はあの日から逃げ続けた。


仕事に没頭した。


忙しくした。


考えないようにした。


だが忘れられるわけがない。


母との最後の時間だったのだから。


もし最初の電話に出ていたら。


もし会議を抜けていたら。


もしもっと早く病院へ向かっていたら。


そんな「もし」を何千回考えただろう。


答えは出ない。


出るはずもない。


それでも考えてしまう。


それが後悔というものだった。


気づけば私は再び現在へ戻っていた。


部屋には雨音が響いている。


テーブルの上にはスマートフォン。


画面は静かに光っていた。


母とのトーク画面。


四年前で止まっていたはずの会話。


『今度帰るよ』


『楽しみにしてるね』


その下に。


あり得ない続きがあった。


私は震える指で画面に触れた。


呼吸が浅くなる。


胸が痛い。


目が離せない。


そして見た。


新しい吹き出し。


たった一行。


たった一行だった。


だが、その言葉は三年間閉じ込めていた後悔を一瞬で壊した。


そこにはこう書かれていた。


『元気にしてる?』


母の口癖だった。


帰省した時も。


電話でも。


久しぶりに会った時も。


必ず最初に聞いた言葉。


『元気にしてる?』


視界が滲む。


涙が画面へ落ちる。


私は動けなかった。


ただ、その言葉を見つめ続けることしかできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ