【第一章 三年後の通知音】 第1話 雨の日の紫陽花
最後に会えなかった人はいますか。
もっと優しくできたかもしれない人はいますか。
私は最近、大切な存在との別れを経験しました。
そのたびに思います。
「あの時、もっと何かできたのではないか」と。
けれど、どれだけ後悔しても時間は戻りません。
だからこそ、この物語を書きました。
これは、亡くした人への想いと、それでも前を向いて生きていこうとする人の物語です。
読んでくださった皆さまが、大切な誰かを思い出すきっかけになれば嬉しく思います。
少しでも皆さまの心に届けば幸いです。
雨の日になると、母を思い出す。
理由は分からない。
母が雨を好きだった記憶はないし、雨の日に特別な思い出があるわけでもない。
それでも六月の雨を見るたびに、胸の奥に小さな石が沈むような感覚があった。
その日も雨だった。
仕事帰りの駅前。
傘を差した人たちが足早に行き交う中、私は花屋の前で立ち止まった。
店先には紫陽花が並んでいる。
青。
紫。
薄い桃色。
雨粒をまとった花びらが街灯の光を受けて静かに輝いていた。
母は紫陽花が好きだった。
小学生の頃、梅雨になると近所の公園へ連れて行かれた。
「ほら、見てごらん」
母は楽しそうに紫陽花を指差した。
「同じ花なのに色が違うんだよ」
私は興味がなかった。
早く帰ってゲームがしたかったし、友達と遊びたかった。
だから適当に相槌を打った。
「ふーん」
それだけだった。
けれど母は満足そうに笑っていた。
今なら分かる。
あの時間は、花を見る時間じゃなかった。
母にとっては、息子と一緒に歩く時間だったのだ。
私は小さく息を吐いた。
花屋の軒先に並ぶ紫陽花を見つめる。
買おうかと思った。
仏壇に供えようかと思った。
だが結局、手は伸びなかった。
母が亡くなって三年になる。
今さら花を供えたところで何になる。
そんな気持ちが先に立った。
そして、その考え方こそが母に叱られそうだと思った。
「気持ちなんだから、遅いなんてないでしょう」
母ならそう言う気がした。
私は苦笑しながら歩き出した。
駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
営業部のグループチャットだった。
来週の会議資料。
私は通知を閉じた。
仕事は順調だった。
課長という立場にも慣れた。
部下もいる。
取引先からの信頼もある。
周囲から見れば、それなりに成功している人間に見えるかもしれない。
けれど。
母が亡くなってからの三年間、私はずっと何かを置き忘れている気がしていた。
電車がホームへ滑り込む。
乗り込む人の波に押されながら車内へ入る。
窓ガラスに映った自分の顔が目に入った。
疲れている。
そう思った。
最近、鏡を見るたび父に似てきた気がする。
若い頃は母似だと言われていた。
親戚が集まるたび、
「大輔はお母さんにそっくりだね」
と笑われたものだ。
それが今では違う。
目元も。
口元も。
ふとした表情も。
父に似てきている。
年を取ったということだろう。
あるいは、母がいなくなったからかもしれない。
父とは長いこと会っていない。
喧嘩をしたわけではない。
仲が悪いわけでもない。
ただ会えなくなった。
母が亡くなった日の夜。
父は仏壇の前に座り、遺影を見つめ続けていた。
何時間も。
一言も話さずに。
私はその背中を見ることができなかった。
逃げるように実家を後にした。
それ以来、帰省の回数は減った。
電話も減った。
父が悪いわけではない。
分かっている。
本当は、自分自身から逃げているだけなのだ。
母の死と向き合うことから。
最後に会えなかった事実から。
最寄り駅に着いた頃には、雨脚が少し強くなっていた。
改札を抜け、コンビニへ立ち寄る。
缶ビールを一本。
温めてもらう弁当を一つ。
それだけを買って店を出る。
会計を終えた時だった。
レジ横に並ぶペットフードが目に入った。
私は思わず足を止めた。
犬用のおやつだった。
レオン。
胸の奥に、その名前が浮かぶ。
十五年間一緒に暮らした愛犬だった。
母はレオンを溺愛していた。
「この子は私の三男だから」
と本気で言っていたほどだ。
私と妹が家を出た後、母にとってレオンは家族そのものだった。
実家へ帰れば真っ先に玄関へ飛んできた。
年を取って足腰が弱くなってからも、それだけは変わらなかった。
尻尾を振りながら、まるで何年も会っていなかったかのように喜ぶ。
その姿を見るたびに、私は少しだけ救われた。
だがレオンも、もういない。
母が亡くなった一年後。
まるで後を追うように旅立った。
最後に会った時のことを覚えている。
レオンは母の部屋の前から離れようとしなかった。
誰もいない部屋なのに。
閉じられた扉を見つめたまま動かなかった。
犬にも分かるのだろうか。
もう帰ってこないことを。
それとも、まだ待っていたのだろうか。
私は小さく首を振った。
考えるのはやめよう。
そう思いながらも、思い出は勝手に蘇ってくる。
部屋へ戻る。
鍵を開ける。
暗い玄関。
誰もいない部屋。
当たり前の光景だった。
それなのに時々、錯覚する。
玄関を開けた瞬間だけ。
「おかえり」
という声が聞こえる気がするのだ。
もちろん、聞こえるはずがない。
私は靴を脱ぎ、部屋へ上がった。
ネクタイを外し、テレビをつける。
ニュース番組が流れていた。
だが内容はまったく頭に入らない。
テーブルの上には写真立てが置かれている。
母とレオンが並んで写っている写真だった。
近所の公園で撮ったものだ。
春だった。
満開の桜の下で、母はしゃがみ込み、レオンを抱きしめている。
レオンは少し迷惑そうな顔をしていた。
「ほら見て。レオンも笑ってるでしょう?」
母は本気でそう言っていた。
「犬は笑わないよ」
私がそう返すと、
「笑うの。この子は」
と真剣な顔で反論してきた。
今思えば、どうでもいい会話だった。
けれど、そのどうでもいい会話が愛おしい。
もっと聞いていればよかった。
もっと付き合っていればよかった。
もっと帰ればよかった。
もっと。
その言葉ばかりが増えていく。
母が亡くなって三年。
後悔は少しも減らなかった。
むしろ時間が経つほど増えている気さえする。
スマートフォンが震えた。
妹からだった。
珍しい。
最近は年に数回しか連絡を取っていない。
私は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お兄ちゃん?』
妹の声は少し疲れて聞こえた。
「どうした?」
『来週、お母さんの命日だから』
私は黙った。
命日。
その言葉だけで胸の奥が重くなる。
『お父さん、一人だからさ』
妹は続けた。
『たまには顔出してあげたら?』
言葉に詰まった。
返事ができない。
父が嫌いなわけじゃない。
むしろ尊敬している。
それなのに会えない。
会おうとすると、どうしても母のことを思い出してしまうからだ。
妹はしばらく待っていた。
やがて小さく息を吐く。
『無理にとは言わないけど』
そして少しだけ笑った。
『お母さん、きっと喜ぶと思うよ』
その一言が胸に刺さった。
私は曖昧に返事をして電話を切った。
部屋が静かになる。
雨音だけが聞こえている。
時計を見る。
午後十一時四十分。
私は写真立てへ目を向けた。
母とレオンが笑っている。
変わらない笑顔だった。
それなのに、なぜだろう。
今夜は少しだけ寂しそうに見えた。
私は缶ビールを手に取った。
一口飲む。
その時だった。
机の上のスマートフォンが小さく光った。
――ピロン。
聞き慣れたLINEの通知音。
仕事の連絡だろう。
そう思いながら画面を見る。
そして私は凍りついた。
表示されていた名前を理解するまで、数秒かかった。
呼吸が止まる。
心臓が大きく脈打つ。
画面には、こう表示されていた。
『母』




