【最終章 ありがとう、お母さん】 第25話 父との和解
母からの最後の電話を聞いた翌朝。
家の中は、不思議なほど静かだった。
重苦しい静けさではない。
長い間閉ざされていた窓を開け、ようやく新しい風が通り始めたような静けさだった。
大輔はいつもより早く目を覚まし、庭へ出た。
紫陽花の花は、昨夜の雨粒を受けて朝日に輝いている。
母は毎年、この花を見ながら言っていた。
「紫陽花はね、雨が降ったからこそ、こんなにきれいに咲くの。」
あの頃は意味が分からなかった。
今なら、その言葉が胸に染みる。
人もまた、悲しみを経験するからこそ、人の痛みに寄り添えるのかもしれない。
縁側では、父が湯飲みを手に座っていた。
湯気がゆっくりと立ち上っている。
「起きてたのか。」
「うん。」
短い会話。
以前なら、それで終わっていた。
だが今日は違った。
父がぽつりと言った。
「少し歩かないか。」
大輔は静かに頷く。
二人は家を出て、近所の川沿いの道を歩き始めた。
朝の空気はひんやりとしていて、鳥のさえずりだけが静かに響いている。
しばらく無言で歩いたあと、父が口を開いた。
「お前が小さい頃、この道をよく三人で歩いたな。」
大輔は笑った。
「四人だよ。」
「母さんも一緒だった。」
父は少し照れくさそうに笑う。
「ああ、そうだった。」
また沈黙が流れる。
けれど、その沈黙はもう気まずくなかった。
川面を渡る風が、二人の間を優しく吹き抜ける。
やがて父が立ち止まり、橋の欄干に手を置いた。
「なあ、大輔。」
「俺は、お前に謝らなきゃならないことがある。」
大輔は驚いて父を見る。
「謝る?」
父は視線を川へ向けたまま、小さく頷いた。
「母さんが亡くなってから……。」
「俺は父親でいることばかり考えていた。」
「泣いたら、お前たちがもっとつらくなると思った。」
「だから、平気なふりをしていた。」
父の声は穏やかだった。
けれど、その奥には三年間押し込めてきた感情が滲んでいた。
「本当は……。」
言葉が止まる。
肩が小さく震えた。
「本当は、毎日泣いていた。」
その一言で、大輔の胸が締めつけられる。
「仕事へ行く前も。」
「帰ってきた夜も。」
「お前たちが寝たあとも。」
「仏壇の前で、『今日も何とか終わったよ』って母さんに話しかけてた。」
父は苦笑した。
「返事なんか返ってこないのにな。」
その笑顔は、ひどく寂しかった。
大輔は何も言えなかった。
父はずっと強かったのではない。
強くあろうと、必死に耐え続けていただけだったのだ。
風が吹き、川面に小さな波紋が広がる。
父はゆっくりと目元をぬぐった。
「昨日の電話を聞いてさ。」
「初めて思えたんだ。」
「もう泣いてもいいんだなって。」
その言葉と同時に、一筋の涙が父の頬を伝った。
大輔は初めて見た。
父が、人前で涙を流す姿を。
幼い頃も。
祖父の葬儀でも。
母を見送った日でさえ。
父は泣かなかった。
いや、泣けなかった。
家族を守るために。
ただ、それだけの理由で。
大輔はゆっくりと父の隣に立つ。
「父さん。」
「もう、一人で我慢しなくていいよ。」
父は涙をぬぐいながら笑った。
「ああ。」
「ありがとう。」
その笑顔は、三年前より少しだけ穏やかだった。
川の流れる音だけが、静かに耳へ届いていた。
父は欄干にもたれたまま、遠くを見つめている。
大輔は隣に立ち、何も言わず父の言葉を待った。
しばらくして、父がゆっくりと口を開く。
「母さんが亡くなる前の日だった。」
その声は穏やかだった。
どこか昔話をするような優しさがあった。
「病室で、二人きりになる時間があったんだ。」
大輔は息をのむ。
母の最後の日。
父だけが知る時間。
「母さんは点滴を見ながら、急に笑った。」
父も小さく笑う。
「『こんなに管につながれてるのに、お腹は空くんだね』って。」
「最後まで食いしん坊だったよ。」
二人は少しだけ笑った。
その笑いのあと、父は静かに続ける。
「しばらくして、母さんが俺に聞いた。」
『ねえ。』
『私がいなくなったら、この家はどうなると思う?』
父はそのときのことを思い出すように目を閉じた。
「俺はすぐに答えられなかった。」
「そんなこと考えたくもなかったからな。」
大輔は父の横顔を見つめる。
「でも母さんは、怒らなかった。」
「ただ笑ってた。」
父は少しだけ空を見上げる。
「あの人はな。」
「最後まで、自分のことより俺たちのことを考えてた。」
風が静かに吹き抜ける。
父は続けた。
「母さんは言ったんだ。」
『きっとね。』
『大輔は自分を責める。』
『彩花は泣いても泣いても、誰にも甘えない。』
『あなたは、強い人のふりをする。』
大輔は胸が締めつけられた。
その通りだった。
まるで三年後を見てきたような言葉。
父は苦笑した。
「俺、『そんなことない』って言ったんだ。」
「そしたら母さんが笑ってさ。」
『あるよ。』
『だって家族だもの。』
『みんな、同じところがあるでしょう?』
父は目尻を拭った。
「あの笑顔には勝てなかった。」
「全部見透かされてたよ。」
大輔も思わず笑う。
「母さんらしいな。」
「ああ。」
「本当に母さんらしかった。」
少し間が空く。
父は声を落として続けた。
「それから母さんは、俺に頼みごとをした。」
その一言で、大輔は姿勢を正した。
「頼みごと?」
「うん。」
父はゆっくりとうなずく。
「『もし大輔が自分を責め続けていたら、いつか必ず伝えて。』」
「『あなたは悪くないって。』」
大輔は息を止めた。
父はまっすぐ息子を見る。
「昨日の電話で、母さん自身も同じことを言ってたな。」
「だから、もう隠す理由はなくなった。」
父は一歩、大輔へ近づいた。
「大輔。」
「母さんは、お前を責めたことなんて一度もない。」
「病室へ来られなかったことも。」
「最後に手を握れなかったことも。」
「全部知ったうえで、『大丈夫』って言ってた。」
大輔の目から涙があふれる。
「でも俺……。」
「もっと会えたはずなんだ。」
「もっと話せたはずなんだ。」
父は静かに首を横へ振った。
「後悔は、残る。」
「俺にもある。」
「母さんにも、きっとあった。」
「でもな。」
父は優しく笑う。
「後悔があるからって、その人との時間が不幸だったことにはならない。」
その言葉は、静かに大輔の胸へ染み込んでいった。
母との思い出は、最後の一日だけではない。
運動会の日。
財布を拾った夏の日。
焦げた卵焼き。
レオンと歩いた夕暮れ。
紫陽花の咲く庭。
笑い合った、何気ない毎日。
そのすべてが、母との人生だった。
父は空を見上げた。
「母さんは最後に言った。」
『お父さん。』
『この子たちを、悲しみの中で育てないでね。』
父は静かに微笑んだ。
「ようやく……約束を守れそうだ。」
大輔は何も言わず、父の隣で大きくうなずいた。
空には、夏を思わせる青空が広がっていた。
川の流れる音だけが、静かに耳へ届いていた。
父は欄干にもたれたまま、遠くを見つめている。
大輔は隣に立ち、何も言わず父の言葉を待った。
しばらくして、父がゆっくりと口を開く。
「母さんが亡くなる前の日だった。」
その声は穏やかだった。
どこか昔話をするような優しさがあった。
「病室で、二人きりになる時間があったんだ。」
大輔は息をのむ。
母の最後の日。
父だけが知る時間。
「母さんは点滴を見ながら、急に笑った。」
父も小さく笑う。
「『こんなに管につながれてるのに、お腹は空くんだね』って。」
「最後まで食いしん坊だったよ。」
二人は少しだけ笑った。
その笑いのあと、父は静かに続ける。
「しばらくして、母さんが俺に聞いた。」
『ねえ。』
『私がいなくなったら、この家はどうなると思う?』
父はそのときのことを思い出すように目を閉じた。
「俺はすぐに答えられなかった。」
「そんなこと考えたくもなかったからな。」
大輔は父の横顔を見つめる。
「でも母さんは、怒らなかった。」
「ただ笑ってた。」
父は少しだけ空を見上げる。
「あの人はな。」
「最後まで、自分のことより俺たちのことを考えてた。」
風が静かに吹き抜ける。
父は続けた。
「母さんは言ったんだ。」
『きっとね。』
『大輔は自分を責める。』
『彩花は泣いても泣いても、誰にも甘えない。』
『あなたは、強い人のふりをする。』
大輔は胸が締めつけられた。
その通りだった。
まるで三年後を見てきたような言葉。
父は苦笑した。
「俺、『そんなことない』って言ったんだ。」
「そしたら母さんが笑ってさ。」
『あるよ。』
『だって家族だもの。』
『みんな、同じところがあるでしょう?』
父は目尻を拭った。
「あの笑顔には勝てなかった。」
「全部見透かされてたよ。」
大輔も思わず笑う。
「母さんらしいな。」
「ああ。」
「本当に母さんらしかった。」
少し間が空く。
父は声を落として続けた。
「それから母さんは、俺に頼みごとをした。」
その一言で、大輔は姿勢を正した。
「頼みごと?」
「うん。」
父はゆっくりとうなずく。
「『もし大輔が自分を責め続けていたら、いつか必ず伝えて。』」
「『あなたは悪くないって。』」
大輔は息を止めた。
父はまっすぐ息子を見る。
「昨日の電話で、母さん自身も同じことを言ってたな。」
「だから、もう隠す理由はなくなった。」
父は一歩、大輔へ近づいた。
「大輔。」
「母さんは、お前を責めたことなんて一度もない。」
「病室へ来られなかったことも。」
「最後に手を握れなかったことも。」
「全部知ったうえで、『大丈夫』って言ってた。」
大輔の目から涙があふれる。
「でも俺……。」
「もっと会えたはずなんだ。」
「もっと話せたはずなんだ。」
父は静かに首を横へ振った。
「後悔は、残る。」
「俺にもある。」
「母さんにも、きっとあった。」
「でもな。」
父は優しく笑う。
「後悔があるからって、その人との時間が不幸だったことにはならない。」
その言葉は、静かに大輔の胸へ染み込んでいった。
母との思い出は、最後の一日だけではない。
運動会の日。
財布を拾った夏の日。
焦げた卵焼き。
レオンと歩いた夕暮れ。
紫陽花の咲く庭。
笑い合った、何気ない毎日。
そのすべてが、母との人生だった。
父は空を見上げた。
「母さんは最後に言った。」
『お父さん。』
『この子たちを、悲しみの中で育てないでね。』
父は静かに微笑んだ。
「ようやく……約束を守れそうだ。」
大輔は何も言わず、父の隣で大きくうなずいた。
空には、夏を思わせる青空が広がっていた。




