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亡くなった母から、三年後にLINEが届いた〜止まっていた家族の時間が、切なくも温かい奇跡で動き出す〜  作者: 鷹司 怜


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【最終章 ありがとう、お母さん】 第24話 最後の着信

翌朝。


 空は雲ひとつない青だった。


 昨夜まで降り続いていた雨が、まるで季節を洗い流したように澄み切った空気を残している。


 庭の紫陽花は朝日に照らされ、青や紫の花びらに小さな雫を宿していた。


 大輔は縁側に腰を下ろし、その景色を静かに眺めていた。


 母が好きだった六月の朝。


 「紫陽花はね、雨の日だけじゃなくて、晴れた朝もきれいなのよ。」


 子どもの頃、そう教えてくれた声が耳によみがえる。


 あの頃は意味が分からなかった。


 けれど今なら分かる。


 悲しい日だけではなく、その先にも美しい景色はあるのだと、母は伝えたかったのかもしれない。


 居間から味噌汁の香りが漂ってくる。


 彩花が朝食の準備をしていた。


 父は新聞を畳みながら、縁側にいる大輔へ声を掛ける。


「今日は会社は休みでいいのか。」


「うん。有給を取った。」


 父は静かに頷いた。


「たまにはいい。」


「母さんなら、『ちゃんと休みなさい』って言うだろう。」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑う。


 その笑顔には、もう無理がなかった。


 三年前には考えられなかった穏やかな朝だった。


 食卓には焼き鮭、味噌汁、ほうれん草のおひたし。


 そして、彩花が少し照れながら差し出した卵焼き。


「今日は焦がさなかったよ。」


 父が箸を入れる。


「……うまい。」


 大輔も一口食べる。


 甘さは母より少し控えめだったが、それが彩花らしい味になっていた。


「お母さんの味じゃない。」


 彩花が少し不安そうに言う。


 大輔は首を横に振った。


「違う。」


「彩花の味だ。」


「だからいいんだ。」


 その一言に、彩花は照れくさそうに笑った。


 食卓に笑い声が広がる。


 父はふと仏壇へ目を向けた。


「母さん。」


「約束、少しは守れてるかな。」


 その瞬間だった。


 ――ブブッ。


 静かな居間に、小さな振動音が響いた。


 三人の動きが止まる。


 テーブルの上に置かれていた母のスマートフォンが、わずかに震えている。


 画面がゆっくりと明るくなる。


 表示された文字を見て、大輔は息をのんだ。


『母』


 その名前の下に、一行だけ表示されている。


「着信があります」


 LINEではなかった。


 電話だった。


 彩花が思わず口元を押さえる。


「うそ……。」


 父は信じられないという表情で画面を見つめる。


 三年間、一度も鳴らなかった着信音。


 それが今、静かな部屋に響いている。


 大輔の心臓が激しく鼓動する。


「どうして……。」


 画面には、通話時間が刻まれていた。


 あと二十秒。


 十九。


 十八。


 誰も動けない。


 出るべきなのか。


 出られるのか。


 父は震える手を伸ばしかけ、止めた。


「……大輔。」


 静かに名前を呼ぶ。


「お前が出なさい。」


 大輔はゆっくりとスマートフォンを手に取った。


 冷たいガラス越しに、自分の震える指が映る。


 残り十秒。


 九。


 八。


 彩花が涙を流しながら、小さく頷いた。


「お兄ちゃん……。」


 残り五秒。


 大輔は深く息を吸う。


 三年前、病室で最後まで言えなかった言葉。


 胸の奥で何度も繰り返した言葉。


 今なら、言える。


 震える指先が、緑色の受話器に触れた。


 通話ボタンを押す。


 耳にスマートフォンを当てる。


 静寂。


 そして――。


 聞こえてきたのは、母の声ではなかった。


 小さな電子音のあと、録音された優しい声が流れ始める。


「もしもし。」


 その一言だけで、大輔の視界は涙で滲んだ。


 紛れもない。


 母の声だった。


「もしもし。」


 その一言だけで、大輔の体から力が抜けた。


 耳に届いたのは、忘れようとしても忘れられなかった母の声。


 少しかすれていて、それでも優しくて。


 何度も「おかえり」と迎えてくれた、あの声だった。


 大輔は言葉を失った。


 受話器を持つ手が震え、視界が涙でぼやける。


 父と彩花も、息をひそめて耳を澄ませていた。


 電話の向こうから、小さく笑う声が聞こえる。


「びっくりしたでしょう?」


 その声に、彩花が堪えきれず泣き出した。


 父は目を閉じ、静かに唇をかみしめる。


 母は続けた。


「これはね、生きているお母さんが録音しています。」


「だから今、この電話を聞いている頃には、お母さんはもう、みんなのそばにはいません。」


 一度だけ、小さく息を吸う音が入る。


 病室の静けさまで伝わってくるようだった。


「でもね。」


「寂しい顔はしないでください。」


「きっと、みんなは泣いているでしょう。」


「お父さんは我慢しているかな。」


「彩花は声を上げて泣いているかな。」


「大輔は……。」


 少しだけ間が空く。


 まるで、息子の顔を思い浮かべているようだった。


「自分を責めていませんか?」


 その一言に、大輔の胸が締めつけられる。


 三年間、誰にも言えなかったこと。


 病室へ行けなかった後悔。


 「もっと会えばよかった」という自責。


 母は、そのすべてを知っていた。


「大輔。」


「あなたは昔から、何でも自分のせいにする子でした。」


「転んだ友達を見ても、自分が悪かったって泣いていたね。」


「でもね。」


「人の死だけは、誰のせいでもありません。」


 大輔は唇を震わせた。


 涙が止まらない。


「お願いだから、自分を許してください。」


「病室へ来られなかったことも。」


「最後に会えなかったことも。」


「全部、お母さんは分かっています。」


 大輔はその場にしゃがみ込み、嗚咽をこらえきれなくなった。


「……ごめん。」


 ようやく口から出た言葉は、それだけだった。


「ごめん、母さん……。」


 電話の向こうでは、母が優しく笑っていた。


「謝らなくていいの。」


「お母さんが欲しかったのは、『ごめんね』じゃない。」


 少し間があく。


 そして、母はゆっくりと言った。


「『ありがとう。』」


 その一言に、父もとうとう涙を流した。


 母は続ける。


「ありがとうって言ってもらえたら、それで十分。」


「お父さん。」


「あなたは本当に頑張りました。」


「強くいようとしてくれて、ありがとう。」


「でも、もう頑張りすぎなくていいよ。」


 父は何度も頷きながら、声にならない返事をする。


 母の声は、今度は彩花へ向けられた。


「彩花。」


「あなたは、人のために無理をする子です。」


「だから、たまには誰かに甘えてください。」


「お兄ちゃんでも、お父さんでもいい。」


「一人で泣かなくていいからね。」


 彩花は両手で顔を覆いながら泣いていた。


 その姿を見て、大輔は初めて知る。


 妹も、自分と同じように、ずっと悲しみを抱えていたのだと。


 しばらく静かな時間が流れる。


 そして母は、最後にもう一度、大輔の名前を呼んだ。


「大輔。」


「最後に、一つだけお願いがあります。」


 その声は、少しだけ真剣だった。


 大輔は涙を拭い、姿勢を正す。


「うん。」


 返事は届かない。


 それでも自然に答えていた。


「聞いてるよ。」


 電話の向こうで、母は優しく微笑んだようだった。


 そして、静かに言葉を続ける。


「このお願いだけは……。」


「ちゃんと守ってね。」


電話の向こうで、母は小さく息を吸った。


 病室の空気が、そのままこちらへ流れてくるようだった。


「大輔。」


「最後に、一つだけお願いがあります。」


 大輔は涙をぬぐい、スマートフォンを握り直した。


「うん。」


 声は届かない。


 それでも自然と返事をしていた。


 母は、少しだけ笑ったようだった。


「お母さんのお墓に、毎月来なくていいです。」


 大輔は思わず目を見開く。


 予想もしなかった言葉だった。


「お花も、無理に供えなくていい。」


「命日だからって、泣かなくてもいい。」


 父も彩花も、静かに耳を澄ませている。


 母は穏やかな声で続けた。


「その代わり……。」


 少し間を置いてから、優しく言った。


「一年に一度でいいから。」


「家族みんなで、ご飯を食べてください。」


「笑ってください。」


「今日あったことを話してください。」


「『おいしいね』って言ってください。」


 大輔は涙を流しながら笑った。


 どこまでいっても、母らしい願いだった。


 豪華な法事でも、高価な供養でもない。


 母が望んだのは、生きている家族の日常だった。


 電話の向こうで、母は少し照れたように笑う。


「できれば……。」


「卵焼きも作ってね。」


 彩花が思わず笑いながら泣いた。


「また焦げちゃうかもしれないよ。」


 父も涙を拭きながら笑う。


「そのときは、俺が味見役だ。」


 居間に、小さな笑い声が広がる。


 母は、その笑い声を待っていたかのように話を続けた。


「その笑い声を聞けないのは、ちょっと残念だけど。」


「きっと、お母さんは安心しています。」


 大輔はスマートフォンを胸に抱いた。


 もう二度と、この声は聞けない。


 そう思うと胸が苦しくなる。


 けれど、その苦しさの中に、不思議な温かさがあった。


「それからね。」


 母の声が少しだけ真剣になる。


「大輔。」


「お父さんも、年を取ります。」


「彩花も、いつか家庭を持つかもしれません。」


「だから、これからはあなたがお兄ちゃんとして、この家の『おかえり』を守ってください。」


 大輔は息をのんだ。


 「おかえり」。


 それは母が毎日、玄関で言ってくれた言葉だった。


 疲れて帰った日も。


 落ち込んで帰った日も。


 遅くなった夜も。


 母は必ず笑って迎えてくれた。


「家ってね。」


 母は静かに続ける。


「帰る場所じゃないの。」


「『帰ってきていい』って思える場所なの。」


「その場所を、なくさないでね。」


 大輔の涙があふれる。


 もう返事は届かない。


 それでも、精いっぱいの声で言った。


「分かった。」


「約束する。」


 父と彩花も、涙を流しながら頷いている。


 電話の向こうで、母が安心したように息をついた。


「ありがとう。」


「それじゃあ……。」


 一拍、静かな間が流れる。


「みんな。」


「元気でね。」


 そして最後に、いつもの声で、いつものように。


「いってらっしゃい。」


 ――ツーッ、ツーッ。


 通話が終わった。


 部屋には静かな電子音だけが残る。


 誰もすぐには動けなかった。


 大輔はスマートフォンを胸に抱き、深く頭を下げる。


「……ありがとう。」


 父も、彩花も、仏壇へ向かって手を合わせた。


 窓の外では、風が紫陽花を揺らしている。


 その花は、三年前と同じように咲いていた。


 けれど、この家はもう違う。


 母はいない。


 それでも母が守りたかったものは、確かにここに残っている。


 食卓の笑い声。


 「おかえり」と迎え合える家。


 誰かを思いやる言葉。


 それらはもう、母だけのものではなかった。


 大輔は立ち上がり、玄関へ向かう。


 靴を履き、振り返る。


 父と彩花が笑顔で立っていた。


「行ってきます。」


 二人は微笑み、声をそろえる。


「いってらっしゃい。」


 その言葉は、どこか母の声に似ていた。


 大輔は空を見上げる。


 六月の青空が、どこまでも広がっている。


 そして、心の中で静かにつぶやいた。


(母さん、ちゃんと聞こえたよ。)


(これからは、俺たちがこの家の『おかえり』を守っていく。)


 その足取りは、三年前よりも少しだけ軽かった。

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