【第六章 予約されたLINE】 第23話 本当の願い
夕暮れが近づいていた。
西日が居間の畳をゆっくりと染め、仏壇に飾られた母の遺影を柔らかな橙色に包んでいる。
大輔は、母から届いた新しいLINEの通知を前に、しばらく画面へ触れることができなかった。
これまで届いた言葉は、どれも日常の小さな問いかけだった。
「朝ご飯は食べましたか。」
「ちゃんと眠れましたか。」
「笑えていますか。」
どれも母らしい、優しくて何気ない言葉。
だが、その一通一通が止まっていた家族の時間を少しずつ動かしてきた。
父が静かに言う。
「読もう。」
大輔は頷き、通知を開いた。
画面には、これまでより少し長い文章が表示されていた。
> 『ここまで読んでくれて、ありがとう。』
その最初の一文だけで、彩花の目に涙が浮かんだ。
母は、自分たちがここまでたどり着くことを信じていた。
その事実だけで胸がいっぱいになる。
続きを読む。
> 『このLINEは、寂しくさせるために送ったものではありません。』
> 『あなたたちを過去へ戻すためでもありません。』
> 『前を向くきっかけを作りたかっただけです。』
居間に静かな沈黙が流れた。
父は目を閉じ、小さく息を吐く。
「……母さんらしい。」
彩花は涙をぬぐいながら微笑んだ。
「ずっと、お母さんらしいね。」
大輔は画面を見つめたまま、続きを開く。
> 『人は、大切な人を亡くすと、時間まで止まってしまいます。』
> 『でも、本当は時間は止まっていません。』
> 『止まっているように感じるだけです。』
その言葉は、大輔の胸へ真っすぐ届いた。
三年前から、自分だけが立ち止まっていると思っていた。
仕事は続けていた。
食事もしていた。
笑うことだってあった。
それでも心だけは、病室のあの日から動けずにいた。
母は、それを見抜いていたのだ。
いや、見抜いていたのではない。
母自身も、きっと同じ経験をしていた。
祖父を見送ったとき。
祖母を見送ったとき。
大切な人との別れを経験したからこそ、この言葉を書けたのだ。
父がぽつりと口を開く。
「母さんはな……。」
「自分の母親を亡くしたあと、一年以上、実家へ行けなかったんだ。」
大輔は驚いて父を見る。
「そんなこと、一度も聞いたことなかった。」
「ああ。」
父は静かに頷く。
「話したがらなかったからな。」
彩花がそっと尋ねる。
「どうして?」
父は遺影へ目を向けた。
「家へ帰るたびに、『おかえり』って声が聞こえる気がしたらしい。」
「でも、本当は誰もいない。」
「それがつらくて、足が向かなかった。」
大輔は息をのむ。
それは今の自分と同じだった。
病室へ行けなかった理由。
母の部屋を開けられなかった理由。
全部、同じ痛みだった。
スマートフォンには、さらに文章が続いていた。
> 『だから私は決めました。』
> 『あなたたちには、私と同じ後悔をしてほしくありません。』
その一文に、三人は言葉を失う。
母は、自分の死を受け入れたうえで準備をしていた。
未来を変えるためではない。
残される家族が、後悔の中で立ち止まらないように。
それだけを願って。
大輔は画面を見つめながら、小さくつぶやく。
「母さん……。」
その声は震えていた。
しかし、その震えは悲しみだけではなかった。
母の願いを、ようやく理解し始めた喜びも混じっていた。
夕日が少しずつ傾いていく。
遺影の母は、穏やかな笑顔のまま三人を見守っていた。
その笑顔は、「泣かないで」と言っているのではない。
「もう歩いていいよ」と、静かに背中を押しているようだった。
夕陽がゆっくりと沈み始め、居間に長い影を落としていた。
大輔はスマートフォンを両手で持ったまま、母の言葉を読み進める。
画面には、変わらない母の文章が続いていた。
> 『人は、「頑張って前を向こう」と思うほど苦しくなります。』
> 『だから、無理に前を向かなくていい。』
> 『まずは今日一日を、ちゃんと生きてください。』
大輔は静かに息を吐いた。
三年前の自分は、何度も「早く立ち直らなければ」と自分を責めていた。
仕事へ行き、笑顔を作り、人並みに生活していても、心のどこかでは「まだ母を忘れられない自分は弱い」と思っていた。
だが、母は違った。
忘れなくていい。
急がなくていい。
ただ今日を生きなさい。
その言葉は、責任ではなく、許しだった。
彩花がぽつりと口を開く。
「私ね……。」
二人が妹を見る。
「お母さんが亡くなってから、お母さんのレシピを一度も開けなかった。」
少し照れくさそうに笑う。
「開いたら泣いちゃう気がして。」
父は何も言わず、静かに頷いた。
「でも昨日、卵焼きを作ったでしょう?」
彩花は目を潤ませながら微笑む。
「焦げちゃったけど……。」
大輔も笑う。
「あれ、お母さんなら『それも味だよ』って言っただろうな。」
三人の間に、小さな笑い声が広がった。
その笑い声を待っていたかのように、スマートフォンの画面には次の文章が表示される。
> 『もし今、みんなで笑っているなら、それがお母さんへの一番のお返しです。』
彩花が声を詰まらせる。
「どうして……。」
まるで今の様子を見ていたような言葉だった。
けれど大輔は、もう不思議には思わなかった。
母は未来を見ていたのではない。
母は、自分たちならきっと笑える日が来ると信じていたのだ。
だから、この言葉を書き残した。
父は遺影に目を向ける。
「母さん。」
「俺たちを信じてくれてたんだな。」
仏壇の前には、朝供えたご飯がまだ置かれている。
湯気はもう消えていた。
それでも、その茶碗はどこか温かく見えた。
大輔は母の写真を見つめる。
「俺、勘違いしてた。」
二人が振り向く。
「母さんは『忘れないで』って言いたいんだと思ってた。」
首を横に振る。
「違った。」
「『ちゃんと生きて』って言いたかったんだ。」
父はゆっくりと微笑んだ。
「そうだな。」
「母さんは昔からそういう人だった。」
「誰かのために生きるより、自分の人生をちゃんと生きなさいって、いつも言ってた。」
その言葉を聞いた瞬間、大輔の胸によみがえった。
高校の卒業式の日。
進学で家を離れる朝、母は玄関でこう言ってくれた。
『困ったら帰っておいで。』
『でも、帰ってくる場所があるからって、挑戦することをやめちゃだめよ。』
あの日は照れくさくて、「うん」としか答えられなかった。
けれど今なら分かる。
母はずっと、自分たちの人生を応援してくれていたのだ。
スマートフォンには、さらに最後の数行が続いていた。
> 『人生には悲しい日があります。』
> 『でも、それと同じ数だけ、誰かと笑える日もあります。』
> 『どうか、その笑顔を怖がらないでください。』
大輔の頬を、一筋の涙が伝う。
その涙は、喪失の涙ではなかった。
母から「生きることを許された」涙だった。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと紫色へ変わり始めていた。
庭の紫陽花が、風に揺れる。
母が好きだった、この季節の色だった。
居間には、夕暮れの静けさが広がっていた。
誰も言葉を発しない。
それでも、不思議と沈黙は苦しくなかった。
母のLINEが、その場にいる三人の心をゆっくりと結び直していたからだ。
大輔はスマートフォンを握りしめ、最後の文章へ指を滑らせた。
画面に現れたのは、これまでで一番長いメッセージだった。
> 『ここまで読んでくれて、本当にありがとう。』
> 『たぶん、この頃のみんなは、少しだけ前を向けていると思います。』
> 『もし違っていても、大丈夫。』
> 『人には、それぞれの歩く速さがあります。』
大輔は思わず微笑んだ。
母らしい。
最後まで、誰かを急がせることはない。
競争させることもない。
ただ、その人の歩幅を信じてくれる。
文章は続いていた。
> 『お母さんには、ひとつだけ心残りがありました。』
三人は息をのむ。
> 『みんなの結婚式を見られないことでもありません。』
> 『孫を抱けないことでもありません。』
> 『もっと長生きできないことでもありません。』
大輔の目に涙が滲む。
では、母は何を一番気にしていたのか。
震える指で続きを読む。
> 『お母さんが一番心配だったのは、私がいなくなったあと、この家から笑い声が消えてしまうことでした。』
その一文が、胸の奥深くへ静かに落ちていく。
父は顔を伏せた。
彩花は口元を押さえ、小さく肩を震わせている。
三年前。
確かに、この家から笑い声は消えた。
テレビの音だけが流れ、食卓には会話がなくなった。
誰も泣かなかった。
誰も怒らなかった。
ただ、静かだった。
その静けさこそが、母の一番恐れていた未来だったのだ。
LINEはさらに続く。
> 『だから、お母さんはお願いがあります。』
> 『命日だけでなく、何でもない日にも集まってください。』
> 『特別な料理じゃなくていい。』
> 『お惣菜でも、おにぎりでも、卵焼きが少し焦げてもいい。』
> 『同じ食卓を囲んでください。』
彩花が泣きながら笑った。
「焦げた卵焼き……。」
父も目頭を押さえながら笑う。
「見てたみたいだな。」
大輔の脳裏に、昨日の食卓が浮かぶ。
三人で笑いながら食べた、少し焦げた卵焼き。
あれは失敗ではなかった。
母が一番見たかった景色だった。
画面には、最後のメッセージが残っていた。
> 『人は、いつか必ず誰かとお別れします。』
> 『でも、愛した時間はなくなりません。』
> 『思い出は、悲しむためにあるのではなく、明日を生きる力になるためにあります。』
大輔の涙が止まらなかった。
母は、自分の死を「悲劇」にしようとはしなかった。
最後まで、残される家族が生きるための言葉を選び続けていた。
そして、画面の一番下。
本当に最後の一文が表示される。
> **『約束してください。』**
> **『幸せになってください。』**
その瞬間、彩花が声を上げて泣いた。
父も目を閉じたまま、大きく息を吐く。
大輔は何度も何度も、その二行を読み返した。
母は、自分たちに何かをしてほしかったのではない。
母が望んだものは、たった一つだった。
自分たちが幸せになること。
それだけだった。
大輔は仏壇の前へ歩き、静かに手を合わせる。
「母さん。」
涙で声が震える。
「約束する。」
「俺たち、ちゃんと生きる。」
「ちゃんと笑う。」
「ちゃんと幸せになる。」
父と彩花も、大輔の隣に並んだ。
三人で静かに手を合わせる。
窓の外では、紫陽花が夕風に揺れていた。
その花は三年前と同じ場所で咲いている。
けれど、それを見つめる家族は、もう三年前のままではなかった。
悲しみは消えない。
寂しさもなくならない。
それでも、人は前へ歩いていける。
大切な人から受け取った愛を胸に抱きながら。
そのときだった。
スマートフォンの画面が静かに消灯した。
新しい通知は届かない。
もう、届かない。
大輔はゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう、お母さん。」
その言葉は、母へ向けた別れではない。
これからも心の中で一緒に生きていくという、家族からの新しい約束だった。




