【第五章 レオン】 第19話 写真の中の笑顔
翌朝、大輔はいつもより早く目を覚ました。
障子越しに差し込む朝日が畳を淡く照らし、庭からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。
昨夜、母とレオンのことを思い返していたせいか、眠りは浅かった。
それでも、不思議と心は少しだけ軽かった。
縁側へ出ると、父はもう庭の草取りを始めていた。
麦わら帽子をかぶり、黙々と雑草を抜いている。
その姿を見ていると、母が亡くなってからの三年間、父はこうして毎日この家を守ってきたのだと改めて思った。
「おはよう。」
「おう。早いな。」
父は額の汗を拭いながら笑う。
「今日は倉庫を片付けようと思う。」
「アルバム以外にも、まだ整理できてない箱があるからな。」
朝食を終えると、大輔と彩花も加わり、三人で納屋の整理を始めた。
棚の上には古い段ボールが何箱も積まれている。
子どもの頃の工作。
運動会の賞状。
父の会社員時代の書類。
母が趣味で集めていた押し花のしおり。
どれも、この家で積み重ねてきた時間そのものだった。
大輔が一番奥の箱を引き寄せると、埃がふわりと舞う。
蓋には母の字で、
「写真(現像前)」
と書かれていた。
「現像前?」
彩花が首をかしげる。
箱を開けると、中には何本ものフィルムケースと、小さな封筒が入っていた。
その一つには、写真店の名前と受け取り日が記されている。
「……受け取りに行ってない。」
父が驚いたようにつぶやく。
日付は、母が再入院する二日前。
「もしかして……。」
大輔の胸が高鳴る。
このフィルムには、母が最後に撮った写真が残っているかもしれない。
父は封筒をそっと撫でた。
「母さん、現像する時間がなかったんだな。」
その日の午後、三人は町の写真店へ向かった。
店の前に立つと、大輔は幼い頃の記憶を思い出す。
運動会や入学式のあと、母はいつもここへフィルムを持ってきていた。
『写真はね、撮るだけじゃだめなの。』
『ちゃんと残してあげないと、思い出は形にならないから。』
母の言葉が、今も耳に残っている。
店内へ入ると、白髪の店主がゆっくり顔を上げた。
「あれ……もしかして、佐藤さん?」
父は少し驚きながら頭を下げる。
「ご無沙汰しています。」
店主は三人の顔を見回し、穏やかに微笑んだ。
「お母さんには、本当にお世話になりました。」
そして封筒を見ると、懐かしそうに頷く。
「ああ、このフィルムですね。」
「ずっと預かっていたんですよ。」
「『必ず取りに来ます』って、お母さんが笑っていましたから。」
父は何も言えず、静かに目を伏せた。
店主は奥の棚から、一冊の厚いアルバムを取り出した。
「実は、お預かりしたときに試し焼きを一枚だけしていたんです。」
「色味を確認するために。」
そう言って、一枚の写真をテーブルへ置く。
三人は息をのんだ。
そこに写っていたのは――。
夕暮れの散歩道。
紫陽花の咲く坂道で、母がしゃがみ込み、レオンを優しく抱きしめている。
レオンは母の顔を見上げ、嬉しそうに尻尾を振っていた。
そして、その少し後ろには父が笑っている。
誰かに向かって手を振る彩花。
写真の端には、大輔の肩が少しだけ写り込んでいた。
ごく普通の家族写真。
けれど、その笑顔は、どの写真よりも自然だった。
「これ……。」
彩花の声が震える。
「最後の散歩の日……。」
父は写真を両手で包み込むように持ち、小さくつぶやいた。
「母さん、こんなに笑っていたのか。」
その笑顔を見た瞬間、大輔は胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
病気と闘っていた母ではない。
「家族と過ごす時間が幸せでたまらない母」の笑顔だった。
しかし、その写真には――
三人とも、その場では気づかなかった「ある小さなもの」が写っていた。
店内には静かな音楽が流れていた。
写真店特有の薬品の匂いが、どこか懐かしい。
三人はテーブルを囲み、試し焼きされた一枚の写真を何度も見つめていた。
父が写真を少し離して眺める。
「本当に、いい笑顔だな。」
病気のことを知っている今だからこそ、その笑顔がどれほど尊いものだったのかが分かる。
彩花はそっと写真の表面を指でなぞった。
「この日、お母さん……痛くなかったのかな。」
店主は静かに首を横へ振る。
「きっと、痛みはあったと思います。」
「でも、人って不思議なものでね。」
「大切な人と一緒にいる時間だけは、苦しさを忘れられることがあるんです。」
三人は黙って頷いた。
大輔は改めて写真を見つめる。
母の笑顔。
父の穏やかな横顔。
彩花の無邪気な笑顔。
レオンの優しい瞳。
そして、自分の肩が少しだけ写っている。
そのときだった。
「あれ……?」
大輔は写真の端に目を留めた。
「父さん、このバッグ……。」
母の肩に、小さな布製のショルダーバッグが掛かっている。
何の変哲もない、花柄のバッグ。
けれど大輔には見覚えがあった。
「これ、お母さんが病院へ行くとき、いつも持ってたよね。」
父も写真を覗き込み、小さく息をのむ。
「ああ。」
「財布と診察券、それから携帯電話を入れていた。」
彩花が首をかしげる。
「でも散歩なのに、どうして持ってるんだろう。」
その一言で、三人は顔を見合わせた。
近所を歩くだけなら、バッグなど必要ない。
まして、ほんの一時間だけの外出だ。
それなのに、母はそのバッグを肌身離さず持っていた。
店主は思い出したように言った。
「そういえば、お母さんが写真を預けに来たときも、そのバッグでした。」
「現像をお願いしたあと、何かを大事そうに中へしまっていましたよ。」
何かを――。
大輔の胸がざわつく。
父も同じことを考えているようだった。
「家に……まだあるかもしれない。」
写真を受け取り、三人は急いで実家へ戻った。
居間へ入ると、父は押し入れの天袋から小さな衣装ケースを下ろす。
「母さんの荷物は、ほとんどそのままなんだ。」
蓋を開けると、きれいに畳まれたスカーフや手袋、愛用していた手帳が並んでいる。
その一番奥に、見覚えのある花柄のショルダーバッグがあった。
「これだ……。」
彩花が小さくつぶやく。
父はゆっくりとファスナーを開けた。
中には、古いハンカチ。
診察券。
お守り。
そして、充電の切れたスマートフォンが入っていた。
大輔は思わず息をのむ。
「母さんの……。」
そのスマートフォンは、母が亡くなった日から誰も触れていなかった。
父は静かにそれを両手で包み込む。
「病院から戻ったあと、そのままにしてしまった。」
「見る勇気が、なかったんだ。」
部屋の空気が張り詰める。
彩花は不安そうに父を見る。
「中に、何か残っているのかな。」
父はゆっくり頷いた。
「分からない。」
「でも……。」
そのとき、大輔は写真をもう一度見つめた。
母はバッグを大切そうに抱えている。
まるで、その中に家族へ残したい何かが入っていることを知っているように。
大輔の胸が高鳴る。
このスマートフォンこそが、母から届いたLINEの秘密につながるのではないか――。
そんな予感が、静かに芽生え始めていた。
父はスマートフォンを見つめ、小さくつぶやく。
「……充電してみよう。」
その一言が、止まっていた時間を再び動かし始めた。
父は母のスマートフォンを、まるで壊れ物を扱うように両手で持ち上げた。
三年前から時が止まったままの、小さな白い端末。
ケースには、少し色褪せた紫陽花のストラップが揺れていた。
「これ……。」
彩花が小さく笑う。
「母さん、このストラップお気に入りだったよね。」
「毎年、紫陽花を見るたびに『今年も元気に咲いたね』って言ってた。」
父は静かに頷く。
「ああ。病院へ行く日も、必ず付けていた。」
大輔はストラップを指先でそっと撫でた。
それだけで、母の笑顔が浮かんでくる。
父は棚の奥から充電器を取り出し、スマートフォンへ差し込んだ。
画面は真っ暗なまま動かない。
「やっぱり……。」
彩花が不安そうにつぶやく。
しばらく待つと、小さく振動が伝わった。
画面の中央に電池のマークが現れる。
三人は息を止めたまま見守った。
数分後――。
ゆっくりとメーカーのロゴが浮かび上がる。
「ついた……。」
誰ともなく声が漏れた。
まるで、止まっていた時間そのものが目を覚ましたようだった。
ロック画面には、母が設定していた壁紙が映し出される。
家族五人で撮った写真。
父。
母。
大輔。
彩花。
そして、真ん中で満面の笑みを浮かべるレオン。
「この写真……。」
大輔は思わず笑みをこぼした。
「海へ行った日のだ。」
「レオン、波が怖くて父さんの後ろに隠れてた。」
父も懐かしそうに笑う。
「強そうな顔をして、あいつは本当に怖がりだった。」
張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。
しかし、その笑顔も長くは続かなかった。
画面の右上に、小さな通知が表示された。
未送信メッセージ 1件
三人は顔を見合わせる。
「未送信……?」
父がゆっくりと画面を開く。
パスコードは、母の誕生日だった。
迷うことなく解除される。
ホーム画面には、生前と変わらないアイコンが並んでいた。
カレンダー。
写真。
天気。
そして――LINE。
大輔の鼓動が速くなる。
父はすぐには開かなかった。
しばらく画面を見つめたまま、小さく息を吐く。
「怖いな。」
その一言に、大輔も彩花も頷いた。
母との思い出が詰まった世界へ、もう一度足を踏み入れるような気がしたからだ。
父はまず、「メモ」のアプリを開いた。
そこには買い物の予定や料理のレシピが並んでいた。
『牛乳』
『みりん』
『彩花の好きなプリン』
『大輔が帰ってきたら唐揚げ』
たったそれだけの文字なのに、胸が熱くなる。
母は最後まで、家族の日常を大切にしていた。
さらに下へスクロールすると、一つだけタイトルのないメモがあった。
作成日は、母が最後に自宅へ帰った日。
大輔は静かに開く。
そこに書かれていたのは、ほんの一文だった。
「笑っている写真を残そう。」
その下には、もう一行だけ。
「悲しい顔より、未来のあなたが笑える写真を。」
彩花が声を詰まらせる。
「お母さん……。」
父は静かに目を閉じた。
「あの日、何度も写真を撮ろうと言った理由が分かった。」
病気の記録を残したかったわけではない。
最後の姿を覚えていてほしかったわけでもない。
母が残したかったのは、
家族が笑っている記憶だった。
大輔は、写真店で見たあの一枚を思い出す。
夕暮れの散歩道。
紫陽花。
レオン。
父の笑顔。
彩花の笑顔。
そして、母の笑顔。
あれこそが、母が未来へ届けたかった景色だった。
父はスマートフォンを静かに閉じた。
「今日は、ここまでにしよう。」
「LINEは……また明日開こう。」
大輔は頷いた。
焦る必要はない。
母の想いは逃げない。
それよりも、一つひとつ受け止めながら前へ進みたかった。
その夜、大輔は仏壇の前へ座り、今日現像した写真をそっと飾った。
遺影の母が、その写真の中でも笑っている。
まるで、
『その笑顔を忘れないでね。』
そう語りかけているようだった。
線香の煙がゆっくりと天井へ昇る。
外では夏の虫が鳴き始めていた。
静かな夜だった。
けれど、大輔には分かっていた。
明日、あのLINEを開けば――
母が三年間かけて家族へ届けようとした、本当の想いが少しずつ明らかになる。
止まっていた時間は、もう後戻りしない。
未来へ向かって、再び動き始めていた。




