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亡くなった母から、三年後にLINEが届いた〜止まっていた家族の時間が、切なくも温かい奇跡で動き出す〜  作者: 鷹司 怜


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【第五章 レオン】 第18話 最後の散歩


 夏の朝は早い。


 まだ七時だというのに、庭の紫陽花は朝露をまとい、陽の光を受けて静かに輝いていた。


 大輔は縁側に腰を下ろし、湯のみから立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。


 昨日、父から聞いたレオンの話が頭から離れない。


 毎日午後五時になると玄関で待ち続けたこと。


 家族の顔を一人ひとり確かめて、ようやく安心したように眠っていたこと。


 そして、最後まで母との約束を守り抜いたこと。


 その一つひとつが胸の奥へ静かに積み重なり、言葉にならない想いになっていた。


 縁側のガラス戸が開き、父が庭へ出てくる。


 手には二つの湯のみを持っていた。


母は父に腕を支えられながら、ゆっくりと玄関を出た。


 久しぶりの外の空気を胸いっぱいに吸い込み、目を細める。


「風が気持ちいいね。」


 その声は少しかすれていたが、どこか弾んでいた。


 レオンは母の足元を歩き回りたい気持ちを必死に抑えるように、少し前を歩いては立ち止まり、何度も振り返る。


「ちゃんとついてきてる?」


 そう確認しているようだった。


 母は笑いながらしゃがみ込み、レオンの頭を撫でる。


「大丈夫だよ。今日はゆっくり歩こうね。」


 その言葉を理解したかのように、レオンは歩幅を合わせた。


 いつもなら元気いっぱいに駆け出す散歩道。


 けれど、この日は違った。


 母の一歩に合わせ、一歩ずつ進む。


 まるで、母が疲れないように気遣っているかのようだった。


 家を出てすぐの小さな坂道。


 春には桜が咲き、夏には紫陽花が道の両側を彩る。


 母は足を止め、一輪の紫陽花へ手を伸ばした。


「今年も咲いてくれたね。」


 その優しい声に、風が花を揺らす。


 レオンも紫陽花を見上げ、それから母の横へぴたりと寄り添った。


 少し先では、小学生くらいの男の子が自転車を止めた。


「あっ、レオンだ!」


 男の子は駆け寄り、嬉しそうにレオンを撫でる。


「久しぶり!」


 レオンは尻尾を振りながら、男の子の手を優しく舐めた。


「おばちゃん、こんにちは。」


 母は微笑み返す。


「こんにちは。大きくなったね。」


「うん! レオン、元気だった?」


「元気だよ。」


 そう答えた母の声に、一瞬だけ寂しさが混じった。


 父はその表情を見逃さなかった。


 母は、もう来年はこの道を歩けないかもしれないことを知っていた。


 だからこそ、今日という一日を心に刻むように景色を見つめていた。


 散歩道の途中には、小さな公園がある。


 ベンチへ腰を下ろすと、レオンは母の足元に伏せた。


 蝉が鳴き始める少し前の静かな時間。


 木漏れ日が母の肩に落ちる。


「覚えてる?」


 母が穏やかに尋ねる。


「大輔が小さい頃、この公園で転んで大泣きしたこと。」


 父が笑う。


「ああ。レオンが真っ先に駆け寄った。」


「まだ子犬だったのにね。」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 レオンは話の意味が分かっているように、小さく尻尾を振る。


 母はその背中を撫でながら、小さくつぶやいた。


「ありがとうね。」


「いつも、みんなを守ってくれて。」


 レオンは顔を上げ、母の瞳をじっと見つめる。


 その澄んだ瞳に映る母は、穏やかに微笑んでいた。


 母はリードをそっと握り直す。


「レオン。」


「もし、お母さんがいなくなっても……。」


 そこで言葉を切り、小さく首を振った。


「ううん。」


「こんな話は、散歩には似合わないね。」


 レオンは何も言わず、母の膝へ鼻先を寄せる。


 母は目を閉じ、その温もりを確かめるように両手で包み込んだ。


 父は少し離れた場所から、その光景を静かに見つめていた。


 声を掛けることも、急かすこともできなかった。


 この時間は、母とレオンだけの大切な時間だと分かっていたから。


 やがて母は立ち上がり、空を見上げる。


 真っ青な夏空に、一羽の白い雲がゆっくり流れていく。


「帰ろうか。」


 その言葉に、レオンは静かに歩き始めた。


 家までの帰り道。


 レオンは何度も振り返り、母がちゃんと歩いていることを確かめながら、一歩一歩進んでいく。


 その後ろ姿を見つめながら父は思った。


 ――この散歩が、きっと最後になる。


 胸が締めつけられた。


 けれど誰も、その言葉を口にはしなかった。


 母も。


 父も。


 そして、きっとレオンも。


 ただ静かに、同じ道を歩き続けた。


 家まであと百メートルほどになった頃だった。


 母はふと足を止めた。


「少しだけ、休んでもいい?」


 父はすぐに頷き、近くのガードレールへ手を添える。


「無理するな。」


「うん。」


 母はゆっくりと腰を下ろした。


 額には細かな汗が浮かんでいる。


 ほんの十分ほど歩いただけなのに、息は少し上がっていた。


 レオンは何も言わず、母の足元へ座る。


 そして膝へそっと顎を乗せた。


「ふふ。」


 母は優しく笑う。


「心配してくれてるの?」


 レオンは小さく尻尾を振る。


 その姿が愛おしくて、母は何度も頭を撫でた。


「あなたは本当に優しい子だね。」


 風が吹く。


 紫陽花の花びらが一枚、母の肩へ舞い落ちる。


 レオンは鼻先でその花びらをそっと払った。


「ありがとう。」


 母は目を細めた。


 その何気ない仕草を、大輔は少し離れた場所から見つめていた。


 当時は、ただの散歩だった。


 家族四人と一匹で歩く、いつもの時間。


 けれど今思えば、その一つひとつが、かけがえのない宝物だった。


 母は立ち上がると、リードを父へ渡した。


「少しだけ貸して。」


 そう言ってレオンの前へしゃがみ込む。


 両手でレオンの頬を包み、まっすぐ目を見つめた。


「レオン。」


「お願いがあるの。」


 レオンはじっと母を見つめ返す。


「お父さんはね、強そうに見えて、本当は寂しがり屋なの。」


 父が照れくさそうに笑う。


「おいおい。」


 母は続ける。


「彩花は、人前では笑ってるけど、一人になると泣いちゃうことがある。」


 彩花は少し唇をかみ、うつむいた。


「そして、大輔は……。」


 母はゆっくりと息を吸う。


「あの子は、自分がつらい時ほど『大丈夫』って笑う子。」


 大輔は胸が締めつけられた。


 母は全部知っていた。


 言葉にしなくても。


 笑顔の裏に隠していた弱さまで。


 母はレオンの胸をそっと撫でる。


「だからね。」


「みんなのこと、お願い。」


 レオンは一度だけ、小さく鳴いた。


「ワン。」


 返事をするように。


 母は微笑み、レオンの額へそっと額を寄せた。


「ありがとう。」


「うちへ来てくれて。」


「家族になってくれて。」


 その言葉に、父は静かに顔を背けた。


 涙を見せまいとしているのが分かった。


 帰り道、レオンは母のすぐ横を歩いた。


 一度もリードを引っ張らない。


 一度も走り出さない。


 まるで、この時間を少しでも長く味わうように。


 家へ着くと、母は玄関で振り返った。


 夕日が庭を茜色に染めている。


 紫陽花も、縁側も、犬小屋も。


 見慣れた景色を、一つひとつ目に焼き付けるように見つめた。


「やっぱり。」


 母は静かに笑った。


「この家が、一番好き。」


 その笑顔を、大輔は今でも忘れられない。


 数日後。


 母は再び病院へ戻った。


 その日を最後に、自分の足でこの家へ帰ることはなかった。


 レオンは毎日、夕方になると玄関へ座り続けた。


 母が帰ってくると信じて。


 そして家族を守るという約束を守り続けた。


 父は静かに話を終えた。


「今でも思うんだ。」


「あの日、母さんはレオンに別れを告げたんじゃない。」


 父は空を見上げる。


「家族を託したんだ。」


 大輔は目を閉じる。


 あの日の夕焼け。


 紫陽花の香り。


 母の笑顔。


 レオンの優しい瞳。


 すべてが胸の中で一つにつながっていく。


 その夜、大輔は母のアルバムを開いた。


 最後の家族写真の隣に、一枚の写真をそっと挟む。


 散歩の途中、父が何気なく撮っていた写真だった。


 母が笑い、レオンが見上げている。


 飾らない、ありふれた一枚。


 けれど、それは家族にとって世界で一番大切な宝物だった。


 ページを閉じると、母の言葉が心に浮かぶ。


 ――アルバムは、思い出をしまう箱ではありません。


 ――未来へ続く道です。


 大輔は静かに微笑んだ。


「母さん。」


「レオン。」


「ありがとう。」


 その声に応えるように、窓の外で風が吹いた。


 庭の紫陽花が、夏の夕暮れの中で静かに揺れていた。


「眠れたか。」


「少しだけ。」


 父は隣へ腰を下ろし、苦笑した。


「俺もだ。」


 しばらく二人で庭を眺める。


 蝉はまだ鳴き始めていない。


 聞こえるのは風が木々を揺らす音だけだった。


「この庭を歩くたびにな。」


 父がぽつりと言う。


「レオンが走ってくる気がするんだ。」


 大輔も思わず笑った。


「玄関まで迎えに来て、勢い余って飛びついてきたよね。」


「ああ。泥だらけの足でな。」


 母はそのたびに困った顔をしながらも笑っていた。


『もう、レオン!』


 そう言いながら体を拭いてやり、最後には自分まで顔を舐められて笑ってしまう。


 そんな何気ない日常が、この家にはあった。


 父は立ち上がり、納屋の奥から一本の古いリードを持ってきた。


 革は色褪せ、金具には小さな傷がいくつも残っている。


「これ、覚えてるか。」


 大輔は手に取り、そっと撫でた。


 何度も握った感触が、掌によみがえる。


「レオンの散歩用だ。」


「母さんが毎日これを持って歩いてた。」


 父は庭の向こう、細い坂道へ目を向ける。


「最後の散歩も、このリードだった。」


 その言葉に、大輔は静かに息をのんだ。


 最後の散歩――。


 その日のことを、まだ誰も詳しく話してはいなかった。


 父は少し黙り込み、遠い記憶をたどるように空を見上げる。


「母さんが亡くなる少し前だった。」


「病院から一時的に家へ戻れた日があってな。」


 大輔は驚いた。


「外へ出られたの?」


「ああ。ほんの一時間だけだった。」


 医師から許可をもらい、母は久しぶりに自宅へ帰ってきた。


 体は痩せていた。


 歩くのもゆっくりだった。


 それでも玄関を開けた瞬間、母は笑った。


『ただいま。』


 その声を聞いたレオンは、一瞬だけ動きを止めた。


 次の瞬間、勢いよく駆け寄る。


 飛びつきたい。


 抱きつきたい。


 でも母の体が弱っていることを感じたのか、途中で足を止め、そっと鼻先を母の手に寄せた。


 母はしゃがみ込み、震える手でレオンの頭を撫でた。


『ただいま、レオン。』


 その一言だけで、レオンの尻尾は千切れそうなほど揺れ続けた。


 父は静かに目を閉じる。


「あの日だけは、本当に嬉しそうだった。」


 大輔の胸にも、温かな光景が広がる。


 母も、レオンも、互いの存在を確かめ合うように寄り添っていたのだ。


「それから母さんは言った。」


 父は微笑んだ。


『今日は、レオンと散歩に行きたい。』


 その願いを聞いた家族は、一瞬だけ顔を見合わせた。


 体力を考えれば無理をさせたくない。


 それでも父は、母の表情を見て頷いた。


『行こう。ゆっくりでいい。』


 レオンはその言葉が分かったかのように、小さく一声だけ鳴いた。


「ワン。」


 まるで「早く行こう」と笑っているようだった。


 大輔は色褪せたリードを握りしめる。


 その革の温もりは、今も家族の思い出をしっかりとつないでいる。


 そして、あの日の散歩は――誰も知らなかった母の最後の願いを運ぶ、大切な時間になっていく。

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