【第五章 レオン】 第16話 三男坊
アルバムを閉じると、庭は夕暮れに染まり始めていた。
西日を浴びた紫陽花は昼間とは違う表情を見せ、淡い紫色がどこか寂しげに揺れている。
帰ろうと玄関へ向かった大輔は、ふと足を止めた。
庭の隅。
そこには、小さな犬小屋が静かに佇んでいた。
三年前まで毎日のように聞こえていた足音は、もうない。
水飲み皿も、少し錆びた首輪も、時間だけが静かに積み重なっている。
大輔はゆっくりと犬小屋の前へしゃがみ込んだ。
木でできた入口には、小さな傷が無数についている。
子犬の頃のレオンが、歯を立てて遊んだ跡だった。
「……懐かしいな。」
指先で傷をなぞると、遠い日の光景が浮かんでくる。
まだレオンが生後二か月ほどだった頃。
母が嬉しそうに抱きかかえて帰ってきた日のことだ。
「ただいま!」
玄関を開けた母の腕の中には、真っ白な子犬がいた。
「今日から家族が増えます!」
その一言に、小学生だった大輔は目を丸くした。
「犬!?」
彩花は母の後ろから顔をのぞかせ、小さな子犬を見るなり歓声を上げた。
「かわいい!」
子犬は不安そうに辺りを見回し、小さく鳴いた。
「くぅん……。」
母はそっと床へ下ろす。
「怖くないよ。」
その優しい声に導かれるように、子犬は母の足元へ寄り添った。
「名前はどうする?」
父が笑いながら尋ねる。
大輔は真っ先に答えた。
「ポチ!」
「却下。」
母が即答した。
彩花は笑い転げる。
「兄ちゃん、昭和すぎ。」
「じゃあ、シロ!」
「白くても却下。」
居間は笑い声でいっぱいになった。
母は子犬を抱き上げ、その瞳を優しく見つめる。
「この子、ライオンみたいに強く育ってほしいな。」
「ライオン?」
「うん。」
「だから――レオン。」
その名前を聞いた瞬間、子犬は母の顔を見上げ、小さく尻尾を振った。
まるで、自分の名前が分かったかのように。
「決まりだね。」
彩花が笑う。
父も頷いた。
「今日から家族だ。」
その日からレオンは、犬ではなく家族になった。
朝は父を玄関まで見送り、夕方には母の買い物袋をくわえて運び、夜になると大輔の部屋の前で丸くなって眠る。
嬉しいときは全身で喜び、誰かが落ち込んでいると静かに隣へ寄り添う。
言葉は話せない。
けれど、誰よりも家族の気持ちを分かっていた。
母はよく笑いながら言っていた。
「うちは子どもが三人だからね。」
そのたびに父が苦笑する。
「一人は犬だけどな。」
「違うよ。」
母は首を横に振る。
「レオンも、大事な息子。」
その言葉にレオンは尻尾を振りながら母の膝へ顔を乗せる。
まるで「うん」と返事をしているようだった。
夕暮れの庭で、大輔は静かに目を閉じる。
レオンが走り回る姿。
母とじゃれ合う姿。
父のスリッパをくわえて逃げ回る姿。
彩花にリボンを付けられて困った顔をする姿。
どれも昨日のことのように思い出せる。
「本当に……お前は家族だったな。」
その時だった。
縁側から父が声を掛けた。
「大輔。」
「まだ持っているぞ。」
「え?」
父は古い木箱を抱えていた。
「レオンの物を、全部しまってある。」
大輔はゆっくり立ち上がる。
木箱の中には、レオンが残した思い出が眠っている。
首輪。
お気に入りのボール。
かじり跡だらけのおもちゃ。
そして、一冊の古いノート。
母の字で、こう書かれていた。
『レオン日記』
大輔は思わず息を呑む。
母はレオンとの毎日を、ひとつひとつ記録していたのだった。
父が木箱を居間へ運び、そっと蓋を開けた。
木の香りに混じって、どこか懐かしい匂いが漂う。
「母さんが全部取っておいたんだ。」
中には、青い首輪、擦り切れたリード、小さなゴムボール、そして歯形だらけのぬいぐるみが並んでいた。
彩花がぬいぐるみを手に取る。
「これ……まだあったんだ。」
耳の部分はほつれ、中の綿が少し見えている。
レオンのお気に入りだった。
遊ぶときも、眠るときも、いつも口にくわえて歩いていた。
「何度捨てようとしても、母さんが『まだ使うから』って。」
父が懐かしそうに笑う。
大輔は木箱の奥にあった一冊の大学ノートを手に取った。
表紙には丸い字で書かれている。
『レオン日記』
ページを開く。
最初の日付は、レオンが家へ来た日だった。
五月十二日
今日から家族が一人増えました。
男の子です。
ご飯を食べるのが上手で、眠る前は私の膝の上から動きません。
大輔も彩花も大喜び。
お父さんは「また世話が増えるな」と言いながら、一番うれしそうでした。
自然と笑みがこぼれる。
「父さん、本当にそうだった?」
父は頭をかきながら苦笑した。
「最初は反対だったんだ。」
「でも一週間で負けた。」
「早いね。」
彩花が笑う。
ページをめくる。
六月三日
レオンが初めて「おすわり」を覚えました。
ご褒美をもらうためだけに頑張っています。
食いしん坊です。
でも、それも可愛い。
七月二十日
今日は初めて海へ。
波が怖くて、お父さんの後ろへ隠れていました。
強そうなのに、意外と怖がりです。
読み進めるたび、居間に笑い声が戻ってくる。
その頃の家族が、ノートの中で生きていた。
「母さん、細かいことまで書いてる。」
「毎日が楽しかったんだろうな。」
父の言葉に、大輔は頷いた。
さらにページをめくる。
写真が一枚、テープで貼られていた。
幼いレオンが、まだ小さな彩花の膝で眠っている。
その横で母が優しく微笑んでいる。
「この日、覚えてる。」
彩花が写真を指差した。
「熱を出して寝込んだ日。」
「レオン、一日中そばにいたんだよ。」
父も頷く。
「誰が動かそうとしても離れなかった。」
大輔は写真を見つめる。
レオンは言葉を話せなかった。
それでも、家族の悲しみや苦しみを誰よりも敏感に感じ取っていた。
ページをめくる手が止まる。
日付は、母が体調を崩し始めた年だった。
十月十五日
最近、レオンの様子が少し変です。
私のあとばかりついてきます。
台所でも、庭でも、洗濯を干していても。
夜になると、私の布団の横で眠るようになりました。
偶然かな。
大輔は息をのんだ。
さらに読み進める。
十一月二日
病院から帰ると、レオンが玄関でずっと待っていました。
今日は抱きついて離れません。
泣いているようにも見えました。
犬にも分かるのでしょうか。
私の病気が。
居間に静寂が落ちる。
父は目を伏せた。
彩花は静かに涙を拭う。
大輔の胸にも、重いものが込み上げてきた。
母は誰にも弱音を吐かなかった。
それでもレオンだけは、何かを感じ取っていたのだ。
最後の一文には、震えるような文字でこう書かれていた。
レオンだけは、全部知っている気がします。
だから今日も、私の隣で眠っています。
大輔はノートを閉じた。
そのときだった。
木箱の底から、一枚の写真が滑り落ちる。
拾い上げると、そこには母とレオンが寄り添って写っていた。
病院へ入院する一週間前。
母は笑っている。
けれどレオンだけは、まっすぐ母の顔を見つめていた。
まるで、別れが近いことを知っているかのように。
大輔は写真を胸に抱きしめる。
「レオン……。」
その名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられた。
父が静かに口を開く。
「このあとからだった。」
「レオンが、ほとんど母さんのそばを離れなくなったのは。」
窓の外では、夕暮れの風が紫陽花を揺らしていた。
家族の誰よりも早く、レオンは別れの気配を感じていたのかもしれない。
大輔は、母とレオンが寄り添って写る写真を、しばらく見つめていた。
母は穏やかに笑っている。
その膝へ顎を乗せるレオンは、まっすぐ母だけを見つめていた。
言葉を交わしているわけではない。
それでも二人の間には、家族にしか分からない静かな時間が流れている。
「……母さん、嬉しそうだな。」
ぽつりとつぶやくと、父が静かに頷いた。
「あいつは、レオンに何度も助けられていた。」
「助けられていた?」
大輔が尋ねると、父は縁側へ目を向けた。
夕日が障子を赤く染めている。
「病気が分かってからだ。」
「母さんは、お前たちの前では普通にしていた。」
「笑って、ご飯を作って、いつも通りに過ごしていた。」
「でも夜になると、一人で縁側へ座っていたんだ。」
父の声は静かだった。
「俺が声を掛けようとすると、その前にレオンが走って行く。」
その情景が目に浮かぶ。
静かな夜。
縁側に座る母。
何も言わず、その隣へ座るレオン。
「レオンは母さんの膝へ頭を乗せた。」
「それだけだった。」
「でも母さんは、『ありがとう』って、いつも撫でていた。」
彩花は涙をぬぐいながら微笑んだ。
「レオン、本当に分かってたんだね。」
父は小さく笑う。
「ああ。」
「犬だからじゃない。」
「家族だったからだ。」
その言葉は、大輔の胸へ深く染み込んだ。
母が何度も言っていた。
『うちは子どもが三人だから。』
あれは冗談ではなかった。
本気だったのだ。
レオンは、本当に家族の一員だった。
木箱の中には、もう一つ小さな封筒が残っていた。
大輔が取り上げる。
母の丸い字で書かれていた。
『レオンへ』
三人は顔を見合わせた。
父が静かに封を開く。
中には、小さな便箋が一枚だけ入っていた。
レオンへ。
いつもありがとう。
あなたは言葉を話せないけれど、一番たくさん私の話を聞いてくれました。
苦しい日も、眠れない夜も、あなたは何も聞かずに隣にいてくれました。
その温かさに、何度も救われました。
もし私が先にいなくなっても、お父さんと大輔と彩花をお願いね。
あの子たちは強そうに見えて、本当は少し泣き虫だから。
あなたなら分かるでしょう?
だから、いつものように寄り添ってあげてください。
大好きだよ。
うちへ来てくれて、本当にありがとう。
――お母さん
読み終えたとき、誰も言葉を発することができなかった。
静かな涙だけが流れていく。
大輔は便箋を胸に抱きしめた。
「……ちゃんと守ったんだな。」
母が亡くなってからの三年間。
レオンは毎日、家族の誰かのそばにいた。
父が畑へ出れば、その後ろを歩いた。
彩花が泣けば、足元へ寄り添った。
大輔が実家へ帰れば、玄関まで駆け寄ってきた。
母との約束を守るように。
父がゆっくり立ち上がる。
「そうだ。」
「見せたいものがある。」
三人は父のあとを追って庭へ出た。
紫陽花の奥、小さな木のそばで父は足を止める。
そこには、小さな石碑があった。
レオン
その下には、母の字で刻まれた言葉。
『ありがとう、三男坊。』
大輔は膝をつく。
石碑へそっと手を添えた。
ひんやりとした感触が掌に伝わる。
レオンは、ここで家族を見守り続けている。
風が吹く。
紫陽花が揺れる。
木漏れ日が石碑を優しく照らした。
そのときだった。
大輔の耳に、懐かしい足音が聞こえた気がした。
タッ、タッ、タッ……。
振り返る。
もちろん誰もいない。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
「また来るよ。」
大輔は微笑んだ。
「母さんと一緒に、見守っていてくれ。」
夕空へ、一羽の白い鳥が飛び立っていく。
その姿を三人は静かに見送った。
そして父が、小さくつぶやく。
「母さんが亡くなった日からな……。」
「レオンは、毎日玄関で待っていたんだ。」
その一言に、大輔は顔を上げる。
父の目には、まだ語られていない記憶があった。
母の帰りを信じて待ち続けた、あの日々。
その物語は、家族の誰も最後まで話せずにいた。




