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亡くなった母から、三年後にLINEが届いた〜止まっていた家族の時間が、切なくも温かい奇跡で動き出す〜  作者: 鷹司 怜


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【第四章 母の心残り】 第15話 家族写真


 七月最初の日曜日。


 雨続きだった空が嘘のように晴れ渡り、朝日が庭の紫陽花を柔らかく照らしていた。


 大輔は実家の門をくぐる前に、一度だけ深呼吸をした。


 三年前まで、この季節になると母は朝早くから庭に出て、紫陽花へ水をやっていた。


「雨の日も好きだけど、晴れた日の紫陽花も綺麗なんだよ」


 そう笑っていた母の声が、不意に耳の奥で蘇る。


 胸は痛んだ。


 それでも以前のように息が詰まるほどではない。


 悲しみは消えていない。


 けれど、その悲しみと一緒に思い出を抱えられるようになってきた。


 玄関を開けると、廊下の奥から味噌汁の香りが漂ってきた。


「おはよう。」


 居間から父の声が聞こえる。


 食卓には朝食が並び、父と彩花が待っていた。


「兄ちゃん、おはよう。」


 彩花は少し照れくさそうに笑った。


 白いブラウスに淡い水色のスカート。


 母が昔選んでくれた服だと、一目で分かった。


「その服……。」


「うん。」


 彩花は袖を見下ろして微笑む。


「今日は母さんも一緒だから。」


 その一言だけで、大輔は返事ができなくなった。


 三人は静かに席へ着く。


 食卓には四人分の湯呑みが並んでいた。


 一つは仏壇の前。


 父は何も言わず、その湯呑みに温かいお茶を注ぐ。


「母さんの分だ。」


 それが、この家では当たり前になっていた。


 三年間、一度も欠かしたことがない。


 大輔は仏壇へ目を向けた。


 母は写真の中で穏やかに笑っている。


「今日は写真を撮るよ。」


 父が静かに言った。


「約束だからな。」


 居間の空気が少しだけ張りつめる。


 テーブルには紺色のアルバムが置かれていた。


 最後のページ。


 そこには母が残した空白がある。


『最後の一枚はまだありません』


『だから完成させてください』


 何度見ても胸が熱くなる文字だった。


「兄ちゃん。」


 彩花がアルバムを閉じた。


「正直に言っていい?」


「ああ。」


「まだ少し怖い。」


 大輔も小さく頷く。


「俺もだ。」


 写真を撮ることが怖いのではない。


 母がいない家族写真を撮ることが怖かった。


 最後のページを埋めてしまえば、本当に母が過去になってしまう気がしていた。


 父はそんな二人を見ながら、ゆっくり笑った。


「母さんなら怒るぞ。」


「え?」


「『私は写真の中に閉じ込められてないよ』ってな。」


 思わず彩花が吹き出す。


「言いそう。」


「絶対言う。」


 三人の間に小さな笑いが広がった。


 その笑いは、母がいた頃と少しだけ似ていた。


 父は立ち上がり、押し入れから古い木箱を取り出した。


「これも見ておけ。」


 中には古い写真立てやフィルム、アルバムが丁寧にしまわれていた。


「全部、母さんが整理していた。」


 大輔は一冊のアルバムを開く。


 幼い自分が父の肩車をされて笑っている。


 彩花がまだ赤ん坊だった頃の写真。


 家族四人で海へ行った夏。


 クリスマスケーキを囲んだ夜。


 ページをめくるたび、家族の時間が戻ってくる。


 そして一枚の写真で手が止まった。


 庭いっぱいに咲いた紫陽花の前で、母がレオンを抱いて笑っている写真だった。


「懐かしい……。」


 彩花が小さく呟く。


「あの日、レオンがじっとしてなくて。」


「母さん、おやつで釣ってたな。」


 三人が同時に笑う。


 父はその写真をしばらく見つめたあと、静かに言った。


「今日も、あそこで撮ろう。」


 窓の外では、紫陽花が風に揺れている。


 母が毎年大切に育ててきた花。


 今年も変わらず咲いていた。


 まるで「待っていたよ」と言うように。


 その時、父が引き出しから一枚の名刺を取り出した。


「佐伯写真館。」


 角の少し擦り切れた名刺だった。


「母さんが最後まで大事に持っていた。」


 裏には、母の文字が残っていた。


『最後の家族写真は、佐伯さんにお願いします。』


 大輔は息を呑む。


 母は、自分がいなくなった未来まで考えていた。


 父は携帯電話を手に取る。


「電話してみる。」


 呼び出し音が数回鳴る。


 やがて懐かしい声が受話器の向こうから聞こえた。


「はい、佐伯写真館です。」


 父が名乗ると、相手はしばらく黙っていた。


 そして穏やかな声で言った。


「……ようやく、その日が来たんですね。」


 父は静かに頷く。


「ええ。」


「母さんとの約束を果たしたくて。」


 電話の向こうで、小さく笑う声がした。


「私も三年間、お待ちしていました。」


 その言葉に、大輔は胸が熱くなった。


 母が残した約束は、家族だけではなかった。


 母を知る人たちも、その続きを待っていてくれたのだ。


「午後二時に伺います。」


「庭の紫陽花も、一緒に撮りましょう。」


 電話が切れる。


 時計を見ると、まだ十時半だった。


 あと三時間半。


 長いようで、きっとあっという間だ。


 大輔は仏壇の前へ座り、静かに手を合わせた。


「母さん。」


「今日は、一緒に笑えるように頑張るよ。」


 窓から吹いた風が、線香の煙をふわりと揺らした。


 それはまるで、母が優しく頷いたように見えた。


 そして家族三人は、それぞれ少しだけ照れくさそうに笑い合う。


 止まっていた時間は、もう動き始めていた。


午後一時五十分。


 庭には夏の光が降り注ぎ、紫陽花の花びらが風に揺れていた。


 約束の時間より少し早く、一台の白いワゴン車が実家の前に止まる。


 運転席から降りてきたのは、白髪の混じった男性だった。


「ご無沙汰しています。」


 佐伯は穏やかな笑顔で深く頭を下げた。


 大輔も頭を下げる。


「お久しぶりです。」


 子どもの頃から何度も会ってきた人だった。


 七五三、入学式、運動会、成人式――。


 人生の節目には、いつも佐伯がいた。


「大きくなりましたね。」


 その一言に、大輔は少し照れくさく笑う。


「もう三十を過ぎました。」


「私の中では、まだランドセルを背負っていた頃のままですよ。」


 その言葉に父と彩花も笑った。


 笑い声が庭に広がる。


 佐伯はゆっくり庭を見渡した。


「……紫陽花、今年も綺麗ですね。」


 父が頷く。


「家内が一番好きな花でした。」


 佐伯はそっと花に近づいた。


「最後に会った日も、この花の話をしていました。」


 三人は顔を見合わせる。


「母が?」


 大輔が尋ねると、佐伯は静かに頷いた。


「あの日、お母さんは写真館へ来られたんです。」


「入院する一週間くらい前でした。」


 誰も知らなかった話だった。


 父でさえ驚いた表情を浮かべる。


「一人で?」


「ええ。」


 佐伯は懐かしそうに目を細める。


「少し痩せていましたが、とても穏やかな顔をされていました。」


 母の姿が、大輔の脳裏に浮かぶ。


 病気と闘いながらも、いつものように笑っていた母。


「写真を一枚、現像してほしいと持って来られたんです。」


「そして帰り際に、私へ封筒を預けました。」


 佐伯はカメラバッグから、一通の封筒を取り出した。


 少し日に焼けた白い封筒。


 表には母の字で、


『家族写真を撮り終えたあとに渡してください』


 と書かれていた。


 父は目を閉じ、小さく息を吐く。


「本当に……最後まで準備していたんだな。」


「はい。」


 佐伯は優しく微笑んだ。


「それから、お母さんはこんなこともおっしゃいました。」


 佐伯は母の口調を思い出すように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「『写真って、不思議なんです。撮った瞬間は普通の日なのに、十年後には宝物になるんですよね』って。」


 彩花の目に涙が浮かぶ。


 その言葉は、母らしかった。


「『だから最後の一枚も、泣き顔じゃなくて、いつもの家族でお願いします』とも。」


 庭に静かな風が吹く。


 紫陽花が小さく揺れた。


 佐伯はカメラを取り出しながら言う。


「私はプロです。」


「皆さんを無理に笑わせることもできます。」


 そう言って一度言葉を切る。


「でも今日は、それはしません。」


 父が不思議そうに見つめる。


「お母さんから頼まれているんです。」


「『あの人たちが自然に笑うまで待ってください』と。」


 大輔は思わず空を見上げた。


 どこまでも青い空。


 母は、本当に全部お見通しだったのだ。


「では。」


 佐伯が優しく声を掛ける。


「急ぎません。」


「少し、お母さんのお話をしませんか。」


 三人は顔を見合わせる。


 最初に口を開いたのは父だった。


「家内は料理が苦手でね。」


「えっ?」


 彩花が驚く。


「母さんが?」


「最初のカレーなんか、塩を砂糖と間違えて入れた。」


 一瞬の沈黙。


 そして彩花が吹き出した。


「本当?」


「本当だ。」


 父も笑う。


「でも本人は最後まで認めなかった。」


 今度は大輔も笑ってしまった。


「そういえば、母さんって失敗すると話を変えてたな。」


「『栄養はあるから大丈夫』って。」


 三人の笑い声が庭いっぱいに広がる。


 佐伯は何も言わず、その様子を見守っていた。


 カメラを構えることもなく。


 ただ、静かに。


 母との約束を守るように。


 その時だった。


 庭を渡る風が少し強く吹き、紫陽花の花びらが一枚、ふわりと舞い上がった。


 その花びらは、大輔の肩へそっと落ちる。


 彩花が小さく微笑んだ。


「母さん、『まだ泣かないで』って言ってるのかな。」


 大輔は肩の花びらを掌に乗せ、空を見上げた。


「そうかもしれないな。」


 佐伯は静かにカメラを持ち上げる。


「皆さん。」


「そろそろ、お母さんとの約束を果たしましょう。」


 三人はゆっくりと紫陽花の前へ並んだ。


 あと少しで。


 三年間空白だったアルバムの最後の一枚が、完成する。


 佐伯はファインダーをのぞき込みながら、ゆっくりと息を吐いた。


「肩の力を抜いてください。」


 三人は紫陽花の前に並ぶ。


 父が中央。


 大輔と彩花がその両隣に立つ。


 だが、誰も笑えなかった。


 母がいない。


 その事実だけが胸に重くのしかかる。


 佐伯はカメラを下ろした。


「少しだけ、お待ちしましょう。」


 無理に撮らない。


 それも母との約束だった。


 沈黙が流れる。


 庭では蝉が鳴き始めていた。


 夏が来る。


 母がいない四度目の夏。


 その静けさを破ったのは父だった。


「そういえばな。」


 父は照れくさそうに笑う。


「母さん、写真を撮る前は必ず俺の襟を直してた。」


 そう言って、自分の襟元へ手をやる。


「『曲がってる』って。」


 彩花が笑った。


「兄ちゃんなんて、毎回寝癖を直されてたよ。」


「そんなこともあったな。」


 大輔も苦笑する。


 すると彩花が近寄り、大輔の前髪を整えた。


「はい。」


「母さんの代わり。」


 その瞬間だった。


 大輔の目から、一筋の涙がこぼれた。


「兄ちゃん?」


「ごめん。」


 首を振る。


「嬉しかった。」


 それだけだった。


 母がいなくなってから、自分たちは失ったものばかり数えていた。


 でも、本当は違う。


 母が残してくれたものも、たくさんあった。


 父の優しさ。


 彩花の笑顔。


 家族で笑える時間。


 全部、母が育ててくれたものだった。


 父は静かに空を見上げる。


「母さん。」


「見てるか。」


 風が吹く。


 紫陽花が揺れる。


 まるで返事をするように。


 佐伯はもう一度カメラを構えた。


「今です。」


 その声に三人は自然と顔を見合わせる。


 彩花が笑う。


 父も笑う。


 つられて大輔も笑っていた。


 誰にも作れない笑顔だった。


 心の奥から生まれた、本物の笑顔。


 カシャッ。


 シャッターの音が静かな庭に響く。


 三年間止まっていた時間が、その一枚に刻まれた。


 撮影が終わると、佐伯はカメラを下ろし、小さく頭を下げた。


「約束を果たせました。」


 父も深く頭を下げる。


「ありがとうございました。」


 佐伯はバッグから、一通の封筒を取り出した。


「これを。」


 白い封筒。


 母の字でこう書かれている。


『写真を撮ったあとに読んでください』


 三人は縁側に腰を下ろした。


 父が封を切る。


 便箋は一枚だけだった。


 みんなへ。


 きっと今ごろ、素敵な写真が撮れていますね。


 もし笑えていたら、お母さんは百点をあげます。


 もし泣いていたとしても、それでも百点です。


 涙も笑顔も、家族だから。


 アルバムの最後のページは埋まったかもしれません。


 でも、家族の物語は終わりません。


 これから先も、写真を撮ってください。


 誕生日。


 お正月。


 何でもない日曜日。


 そして、いつか家族が増えた日も。


 アルバムは、思い出をしまう箱ではありません。


 未来へ続く道です。


 だから、一枚で終わらせないでください。


 ページを増やしてください。


 たくさん笑って。


 たくさん泣いて。


 たくさん生きてください。


 それが、お母さんの一番の願いです。


 最後に。


 大輔。


 彩花。


 お父さん。


 本当にありがとう。


 みんなの家族になれて、私は世界で一番幸せでした。


            ――お母さん


 読み終えたあと、誰もすぐには口を開かなかった。


 静かな涙だけが頬を伝う。


 悲しみではない。


 感謝の涙だった。


 父はアルバムを開き、現像された写真を最後のページへ丁寧に差し込む。


 母が残した空白が、ようやく埋まった。


 しかし、その隣には新しい透明なポケットが何枚も続いていた。


「まだ終わりじゃないな。」


 父が微笑む。


「うん。」


 彩花も頷く。


「これから増やしていこう。」


 大輔はアルバムをそっと閉じた。


 その重みは、三年前とは違っていた。


 悲しみだけではない。


 家族の歴史。


 母の願い。


 そして、これから生きていく未来。


 すべてが、その一冊に詰まっている。


 帰ろうとしたとき、不意に庭の隅へ視線が向いた。


 そこには、古い犬小屋が静かに残っていた。


 空になった水入れ。


 首輪を掛けていた木の杭。


 レオンがいつも昼寝をしていた場所。


 大輔は足を止める。


「……レオン。」


 その名前を口にした瞬間、父も彩花も静かに振り返った。


 三人の胸に、もう一つの大切な家族の記憶がよみがえる。


 母のあとを追うように旅立った、大きくて優しい三男坊。


 その物語は、まだ誰も最後まで語れていなかった。

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