【第四章 母の心残り】 第14話 母が隠していた手紙
「写真、撮るか」
父の言葉から一週間後。
私たちは再び実家へ集まっていた。
六月が終わり、
庭の紫陽花も少しずつ色を失い始めている。
母が好きだった季節が終わろうとしていた。
私は居間でアルバムを眺めていた。
何度見ても飽きない。
母の笑顔。
父の笑顔。
幼い頃の自分たち。
そしてページの最後に残された空白。
未来のための一枚。
その時だった。
父が古いノートを持ってきた。
「これも見つかった」
私は顔を上げる。
「どこで?」
「机の奥」
父は苦笑した。
「まだ隠し場所があったらしい」
母らしい。
本当に。
彩花も笑っている。
父はノートをテーブルへ置いた。
表紙には何も書かれていない。
普通の大学ノートだった。
だが中を開いた瞬間。
私たちは言葉を失った。
一枚の封筒が挟まっていた。
真っ白な封筒。
母の字。
そこにはこう書かれていた。
『これは見つからないと思います』
私は思わず吹き出した。
彩花も笑う。
父も笑った。
「見つかったな」
「見つかっちゃったね」
涙の続く物語の中で、
久しぶりに自然な笑いが生まれる。
けれど次の文字を見て、
その空気は変わった。
封筒の下に小さく書かれていた。
『できれば読まないでください』
私は固まった。
父も。
彩花も。
誰も手を伸ばせない。
読んでいいのだろうか。
母が読まないでと言っている。
だが残したということは、
いつか見つかる可能性も考えていたはずだ。
父が静かに言った。
「母さんなら怒らないだろ」
私は苦笑した。
確かに。
「見つかる方が悪い」
とか言いそうだ。
彩花も笑った。
そして封筒を開いた。
中には便箋が数枚入っていた。
今までより文字が乱れている。
書かれた時期が違うのだろう。
病気が進行していた頃かもしれない。
彩花が読み始める。
『本当は怖いです』
私は息を止めた。
それまでの手紙にはなかった言葉だった。
母はいつも強かった。
少なくとも私たちの前では。
だが。
この手紙は違った。
『死ぬのが怖いです』
胸が締め付けられる。
母が初めて見せた弱音だった。
私は文字から目を離せない。
『みんなを置いていくのが怖いです』
彩花の声が震える。
父は下を向いている。
私は拳を握った。
母だって怖かったのだ。
当たり前なのに。
私は一度も考えたことがなかった。
母は平気だと思っていた。
笑っていたから。
強かったから。
だが違う。
本当は怖かった。
不安だった。
苦しかった。
それでも。
私たちの前では笑っていた。
『夜になると泣いてしまいます』
私は唇を噛む。
涙が滲む。
誰にも見せない場所で。
一人で。
母は泣いていた。
『お父さんには言えません』
『子どもたちにも言えません』
文字が少し滲んでいた。
書いている時に泣いたのかもしれない。
『だからここに書きます』
部屋が静まり返る。
聞こえるのは時計の音だけ。
カチ。
カチ。
カチ。
時間は進む。
止まらない。
母が失った未来へ向かって。
その時だった。
便箋の途中で文字が変わる。
少し落ち着いている。
まるで気持ちを整理した後のように。
『でも』
私は顔を上げた。
『レオンがいる日は大丈夫です』
彩花が涙を拭う。
父も小さく笑った。
レオン。
やはりレオンだった。
母の支え。
家族の三男坊。
『あの子は何も言いません』
『でも隣にいてくれます』
私の脳裏に、
母の足元で眠るレオンの姿が浮かぶ。
大きな体。
優しい目。
母を見守るような姿。
『私が泣くと顔を舐めてきます』
彩花が泣きながら笑った。
「やるね、レオン」
私も笑った。
涙が止まらないのに。
不思議だった。
温かかった。
そして手紙は最後のページへ続く。
そこには今まで見たことのない文字があった。
大きく。
強く。
まるで誰かへ伝えるように。
『どうしても伝えたいことがあります』
私は息を呑んだ。
何だろう。
母が最後まで隠していたこと。
本当の秘密。
その答えが、
次のページに書かれている。
『どうしても伝えたいことがあります』
その一文を前にして、
誰も言葉を発することができなかった。
窓の外では夕暮れが始まっている。
庭の紫陽花が風に揺れていた。
母が好きだった景色。
その中で彩花は続きを読み始めた。
『これは大輔には言えませんでした』
私は息を呑む。
自分の名前。
その瞬間、胸が大きく鳴った。
『言ったらあの子は傷つくからです』
嫌な予感がした。
母は何を知っていたのだろう。
私が知らない何かを。
『だから秘密にしました』
彩花の声が震える。
父も黙っている。
私も。
誰も口を挟めない。
『大輔は自分が病院へ来なかったことを後悔すると思います』
胸が締め付けられた。
その通りだった。
三年間。
毎日。
私はそのことばかり考えていた。
最後に会えなかったこと。
電話を後回しにしたこと。
仕事を理由にしたこと。
その全てを。
『でも』
短い言葉。
けれどその一文字に救いを求めてしまう。
『私は待っていませんでした』
私は固まった。
意味が分からなかった。
待っていなかった?
どういうことだろう。
彩花も戸惑った表情で続きを読む。
『最後の日』
『私は大輔を呼ばないでとお願いしました』
部屋の空気が止まった。
父が顔を上げる。
彩花も。
私自身も。
理解できなかった。
呼ばないで?
母が?
どうして。
『仕事をしていてほしかったからです』
涙が溢れた。
私は拳を握る。
そんな理由。
そんな理由で。
『あの子は優しいから』
『全部投げ出して来ると思いました』
母の声が聞こえる気がした。
いつもの優しい声が。
『でも私は嫌でした』
涙が止まらない。
『最後の思い出が』
『病室になるのは嫌でした』
私は顔を覆った。
声が漏れそうになる。
母は知っていたのだ。
私がどれほど自分を責めるか。
だから最後まで守ろうとした。
亡くなる瞬間でさえ。
『覚えていてほしいのです』
便箋の文字が少し滲んでいる。
『笑っている私を』
視界が真っ白になった。
泣いているのか。
笑っているのか。
自分でも分からなかった。
母との思い出が溢れてくる。
運動会。
夏祭り。
誕生日。
受験の日。
就職の日。
いつも笑っていた。
母は。
いつだって。
『だから』
最後の数行。
母の文字は弱々しい。
けれど優しかった。
『最後に会えなかったことを』
私は息を止めた。
『後悔しないでください』
涙が零れ落ちる。
ノートの上へ。
ぽたり、と。
『それは私が選んだことです』
父も泣いていた。
彩花も。
部屋の中には嗚咽だけが残る。
三年間。
私は自分を責め続けた。
だが。
母は責めていなかった。
最初から。
一度も。
『それよりも』
最後の文章が続く。
『生きてください』
私は顔を上げる。
『幸せになってください』
胸の奥が熱い。
苦しいほどに。
『お母さんはそれが一番嬉しいです』
その瞬間だった。
便箋の間から、
小さなメモが落ちた。
白い紙。
折り畳まれている。
彩花が拾い上げる。
そして開いた。
そこには母の字で、
たった一行だけ書かれていた。
『まだもう一通あります』
私たちは顔を見合わせた。
父も。
彩花も。
私も。
思わず笑ってしまう。
本当に母らしい。
最後まで終わらない。
最後まで家族を驚かせる。
だがその下には続きがあった。
『仏壇の裏です』
私は思わず立ち上がった。
仏壇。
母がいる場所。
そこに、
まだ誰も読んでいない手紙が残されている。
そしてきっと。
それが本当に最後の手紙なのだ。
『仏壇の裏です』
その一文を読んだ瞬間。
私たちは顔を見合わせた。
そして同時に笑った。
「まだあるのか」
父が呆れたように言う。
彩花も苦笑する。
「母さん、本当に手紙好きだね」
私は頷いた。
いや。
きっと違う。
母は手紙が好きだったのではない。
伝えたかったのだ。
残される私たちに。
何度でも。
何年先でも。
言葉を届けたかったのだ。
私たちは居間へ向かった。
仏壇の前。
母の写真がある。
いつもの優しい笑顔。
三年前から変わらない。
けれど不思議だった。
最近は少し近く感じる。
失った人ではなく。
見守ってくれている人として。
父が仏壇の後ろへ手を伸ばした。
すると。
指先が何かに触れる。
「あった」
小さな封筒だった。
白い封筒。
少しだけ色褪せている。
母の字でこう書かれていた。
『本当に最後です』
私は思わず吹き出した。
彩花も笑う。
父も肩を震わせる。
「信用できないな」
「あと三通くらい出てきそう」
涙の中の笑いだった。
でも。
母なら喜ぶ気がした。
泣くだけじゃなく、
笑っていてほしいと願う人だから。
父が封筒を開く。
便箋は一枚だけ。
今までで一番短かった。
けれど。
一番大切な手紙だった。
『ここまで読んでくれてありがとう』
私は静かに息を吐く。
母の声が聞こえるようだった。
『もう言いたいことはほとんど言いました』
父が苦笑する。
「確かにな」
本当にそうだった。
父への言葉。
彩花への言葉。
私への言葉。
レオンへの言葉。
母は全部残してくれた。
それでも。
最後に残した言葉があった。
『でも一つだけ』
胸が高鳴る。
最後の願い。
最後の想い。
『お願いがあります』
私は自然と背筋を伸ばした。
彩花も。
父も。
誰も目を離せない。
『自分を許してください』
その言葉に、
私は息を止めた。
父も固まる。
彩花も。
まるで母が私たち全員の心を見ていたようだった。
父は妻を救えなかったと思っている。
彩花はもっと病院へ行けたと悔やんでいる。
私は最後に会えなかったことを責め続けている。
それぞれの後悔。
それぞれの傷。
母は全部知っていた。
『私は誰も責めていません』
涙が溢れる。
止まらない。
『だから自分を責めないでください』
母らしい。
本当に。
最後まで。
最後の最後まで。
私たちを守ろうとしている。
『人生は後悔のないようには生きられません』
便箋の文字を見つめる。
その一文には、
母自身の人生が詰まっている気がした。
『でも後悔があるから』
『人は優しくなれるのだと思います』
私は顔を覆った。
最近、自分もそう思うことがあった。
母を亡くして。
レオンを亡くして。
もっとできたのではないかと思い続けた。
その痛みがあるから、
誰かの悲しみに気づけるようになった。
『だから前を向いてください』
窓の外から風が吹く。
仏壇の花が揺れた。
まるで母が頷いているみたいだった。
そして。
最後の一文。
『また会える日まで』
『元気にしていてください』
私は泣いた。
彩花も。
父も。
声を上げて泣いた。
悲しいからではなかった。
ようやく届いたからだ。
母の本当の願いが。
母の本当の愛情が。
三年かけて。
ようやく。
その時だった。
彩花が涙を拭きながら笑った。
「母さんらしいね」
父も頷く。
私は仏壇の写真を見る。
母は笑っていた。
昔と同じように。
優しく。
穏やかに。
そして父が言った。
「写真を撮ろう」
私は顔を上げる。
父は照れくさそうに笑った。
「最後の一枚だ」
アルバムの空白。
母が残した場所。
そこを埋める時が来た。
過去ではなく。
未来のための写真。
私たちはゆっくり立ち上がった。
三年間止まっていた家族の時間が、
ようやく再び動き始める。




