エンディング
ヴァレリアと別れたあと、俺は一人で駅へ向かった。
別れ際に彼女が見せた笑顔が、妙に頭に残っていた。
最後くらい笑顔で別れましょう。
そう言われたのに、結局、俺はうまく笑えなかった。
今さら考えても仕方のないことだ。
俺はポケットに手を入れ、冷たい空気の漂う駅構内を歩いた。
指定されたホームには、ほとんど人がいなかった。
電光掲示板には、見慣れた行き先がいくつも並んでいる。けれど、俺が乗る列車の名前は、どこにも表示されていない。
しばらく待っていると、遠くから車輪の軋む音が聞こえてきた。
やがて、暗いトンネルの奥から一両の列車が姿を現した。
真っ黒な列車だった。
窓も、車体も、光を吸い込んでいるかのように黒い。
周囲の照明が当たっているはずなのに、車体の輪郭さえどこか曖昧だった。
列車は音もなく速度を落とし、俺の目の前で停車した。
これが、元の世界へ帰る唯一の方法だった。
ここに辿り着くまで、随分と苦労した。
異界へ来たときは、何も知らなかった。
どうしてここに来たのかも、どうすれば帰れるのかも。
手掛かりらしいものは、ほとんどなかった。
それでも俺は、この世界の歴史を調べ、古い文献を読み、時には人間の伝承にまで手を伸ばした。
だが、どれも役には立たなかった。
そもそも、人間たちは異界の存在をまともに信じていない。
無理もない。
俺だって、ここに来るまでは人間の世界について何も知らなかったのだから。
そんなある日、突然、俺の前に一人の魔族が現れた。
ミゲルと名乗る男だった。
確か、父の側近にいた魔族だ。
幼い頃に何度か顔を見た覚えがあった。
彼は俺を見つけるなり、深々と頭を下げた。
そして、帰還の時が来たと告げた。
しかし、俺は断った。
理由は単純だった。
その頃には、すでにヴァレリアに恋をしていたからだ。
彼女と一緒にいたかった。
大学を卒業するまで、同じ時間を過ごしたかった。
それだけのことだった。
ミゲルはしばらく説得を続けたが、俺が考えを変えないと分かると、帰還の方法だけを伝えて去っていった。
そのときの彼の表情は、今でも何となく覚えている。
困っているような、諦めているような。
そんな顔だった。
今になって思う。
あのとき、ミゲルが来なければよかったのかもしれない。
帰る方法など、知らないままでいた方が幸せだったのかもしれない。
そうすれば俺は、この世界で生き続ける理由を探していたはずだ。
大学を卒業し、仕事を見つけ、チャールズ教授の家に顔を出し、時にはヴァレリアと会う。
そんな未来も、あったのだろうか。
……いや。
考えても仕方がない。
俺は列車の扉を見つめた。
不思議なことに、この世界を去ることへの未練はなかった。
四年間も暮らしたというのに。
好きな人間もできた。
大切な思い出も増えた。
それでも、ここに残りたいとは思わなかった。
きっと、もう分かっているのだろう。
この世界には、俺が求めるものは何も残っていないのだと。
扉が開いた。
俺は一度だけホームを振り返り、それから列車に乗り込んだ。
帰還は、あっけないものだった。
窓の外を眺めているうちに、景色が変わっていた。
気がつけば、そこは俺の生まれた世界だった。
四年ぶりの故郷。
異界では何もしてなかったと言うのに、魔力が随分と増えているような感覚だった。
それ以外に懐かしい、という感情が湧くかと思ったが、そうでもなかった。
空の色も、漂う魔力の気配も、確かに記憶にあるものだった。
しかし、それだけだった。
俺はそのまま魔王城へ向かった。
城が見えてきたとき、思わず足を止めた。
巨大な城壁。
空を突き刺すように伸びた尖塔。
黒ずんだ石造りの外壁には、長い年月を経たような傷が刻まれている。
幼い頃は、この城が世界のすべてだった。
当たり前のように廊下を歩き、当たり前のように部屋で眠っていた。
だが、今になって見ると、随分と薄気味悪い場所だ。
窓は少なく、城壁は高い。
陽の光さえ拒んでいるように見える。
こんな場所に長く住んでいたら、気が滅入りそうだった。
少なくとも、チャールズ教授の家の方がずっと居心地がいい。
あの家には庭があった。
窓を開ければ風が入り、朝には鳥の声が聞こえた。
ここには、そういうものがない。
城門へ近づくと、門番がこちらを見た。
一瞬、槍を握る手に力が入ったように見えたが、俺の顔を確認するなり、その場に姿勢を正した。
「……お帰りなさいませ」
それだけだった。
身分を証明するものを求められることも、帰還の理由を尋ねられることもなかった。
四年も経っているのに、よく覚えているものだ。
俺は軽く頷き、城内へ足を踏み入れた。
広間には、ミゲルが待っていた。
「ルシアン様……!」
俺の姿を見るなり、彼は大きく息を吐いた。
その表情には、はっきりと安堵が浮かんでいた。
魔族にしては、随分と感情の分かりやすい男だ。
「久しぶりだな、ミゲル」
「お待ちしておりました。本当に……お待ちしておりました」
彼は何かを言いかけ、口を閉じた。
そして、少しだけ俯いた。
「父上が……」
その先を聞くまでもなかった。
父は、大きな寝台に横たわっていた。
幼い頃に見た姿とは、随分と違っていた。
かつては広間に立つだけで周囲を圧倒していた男が、今では身体を起こすことさえ難しいらしい。
頬は痩せこけ、呼吸は浅い。
それでも、俺が近づくと、父はゆっくりと目を開いた。
「……帰ってきたか。我が息子よ」
懐かしい声だった。
以前よりも、ずっと弱々しくなっていたが。
「ただいま戻りました」
俺は寝台の傍らに立った。
父の顔を見て、すぐに理解した。
もう長くはない。
こういう姿を見るのは、二度目だった。
あの時は人間だった。
あのときも、身体は少しずつ弱り、やがて動かなくなった。
そして、二度と目を開けることはなかった。
だから、父がこれからどうなるのかも、おおよそ想像がついた。
けれど、不思議と心は動かなかった。
悲しいとも、寂しいとも思わない。
ただ、父が死にかけている。
それだけの事実が、そこにあった。
父は俺を見つめ、震える唇を動かした。
「今こそ……我が魔族が繁栄する時だ」
その声には、かつての威厳がわずかに残っていた。
「我に……それを見せてくれ」
俺は何も答えなかった。
魔族の繁栄。
父は昔から、そのことばかり考えていた。
だが、俺にはよく分からない。
なぜ、それほどまでに繁栄を望むのだろう。
何を手に入れれば満足するのか。
どれほど強くなれば、安心できるのか。
父の願いは、俺には理解できなかった。
だから、返す言葉も見つからなかった。
その晩のことだった。
部屋で一人過ごしていると、突然、扉が激しく叩かれた。
「ルシアン様!」
ミゲルの声だった。
「どうした?」
扉を開けると、彼はひどく青ざめていた。
「大変です! 魔王様の魔力が……!」
それ以上の説明を待たず、俺は廊下へ出た。
ミゲルの後を追い、父の寝室へ向かう。
城内は妙に騒がしかった。
廊下を走る足音。
慌ただしく行き交う使用人たち。
誰もが何かに怯えているようだった。
どうやら、父の魔力に異変が起きているらしい。
しかし、俺にはそれがよく分からなかった。
長い間、魔力に触れない生活を送っていたせいだろうか。
この世界にいた頃なら、少し離れた場所からでも感じ取れたはずの気配が、今ではひどく曖昧だった。
寝室に入ると、父は先ほどと同じように横たわっていた。
ただ、その呼吸はさらに弱くなっていた。
「父上」
声をかけると、父はうっすらと目を開いた。
そして、俺の腕を掴んだ。
驚くほど冷たい手だった。
「……お前が、帰ってきてくれて……よかった」
父は息を整えながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「お前に……我の魔力のすべてを託す」
「……」
「そして、代々の魔王に受け継がれてきた……この指輪も」
父は震える手を持ち上げた。
そこには、一つの指輪があった。
魔王の証。
この城にいた頃、何度か見たことがある。
「すべては……魔族のために……」
父の手から、魔力が流れ込んできた。
熱いとも、冷たいとも違う。
身体の奥へ、何かが静かに染み込んでいくような感覚だった。
膨大な力だった。
父が長い年月をかけて蓄えてきたもの。
それが今、俺の中へ移されていく。
やがて、父の手から力が抜けた。
掌には、指輪が残されていた。
「魔王様……」
隣に立つミゲルが、小さく声を漏らした。
今にも泣き出しそうな顔だった。
俺は受け取った指輪を見つめた。
そして、右手の指にはめた。
左手の小指には、ヴァレリアからもらった銀色の指輪がある。
右手には、父から受け継いだ魔王の指輪。
二つを見比べてみる。
まるで違うものだった。
片方は、何の力も持たない、ただの銀の輪。
もう片方は、魔族の頂点に立つ者だけが受け継ぐ指輪。
それでも、俺にはどちらも同じように重く感じられた。
「……父上?」
呼びかけても、返事はなかった。
父は、もう動かなかった。
こうして、魔王は死んだ。
魔王の死は、瞬く間に魔族全体へと伝わった。
翌日には、各地から有力な魔族たちが城へ集まり始めた。
見覚えのある顔もいれば、初めて見る者もいた。
彼らは俺を見るなり頭を下げ、次々と忠誠を誓った。
父が死んだというのに、悲しむより先に、新たな魔王の話をする者もいた。
もっとも、魔族にとっては、それほど珍しいことではないのかもしれない。
王が死ねば、次の王が必要になる。
ただ、それだけの話だ。
俺が魔王になるための手続きは、すぐに始まった。
とはいえ、やることのほとんどは形式的なものだった。
古い言葉で書かれた誓約を読み上げ、見知らぬ魔族たちの前に立ち、何度も同じような儀式を繰り返す。
一つ終われば、また次がある。
魔王になるというのは、随分と面倒なものらしい。
その儀式は、三日三晩続いた。
そして、最終日。
俺はようやく、すべてが終わったことを知った。
いや。
終わりが訪れた、と言うべきなのかもしれない。
勇者が現れたのだ。
城内には、炎が広がっていた。
壁を這うように燃え上がる焔が、石造りの廊下を赤く照らしている。
床には、何人もの魔族が倒れていた。
血の匂いと焦げた臭いが入り混じり、息をするだけで喉が痛んだ。
その中央に、一人の人間が立っていた。
剣を握り、こちらを見据えている。
勇者。
魔王を討つために現れた、人間たちの希望。
俺は初め、その勇者を迎え撃つつもりだった。
魔王になった以上、そうするのが当然なのだろう。
父から受け継いだ魔力を使えば、少なくとも簡単に負けることはないはずだ。
そう考え、右手に力を込めた。
だが。
その顔を見た瞬間、力が抜けた。
「……ヴァレリア?」
彼女だった。
つい数日前まで、同じカフェで紅茶を飲み、くだらない冗談を言い合っていた女。
俺が初めて恋をした人間。
ヴァレリアが、剣を持って目の前に立っていた。
だが彼女の顔は現実を受け入れられていなさそうだった。
炎が揺れる。
周囲には、倒れた魔族たち、人間の身体が転がっている。
それでも、俺たちはしばらく動かなかった。
ただ、互いを見つめていた。
彼女の指には、銀色の指輪があった。
俺の左手にも、同じ指輪がある。
炎に照らされ、二つの指輪が小さく輝いていた。
運命は残酷だった。
"強くなるためには異界に行け"
これは俺に限った話ではなさそうだ。
だから彼女もあそこに居たのだろう。勇者として力をつけるために。
「……だから、言ったのよ」
ヴァレリアが口を開いた。
その声は、驚くほど冷たかった。
「もう会わない方がいいって」
俺は何も答えなかった。
彼女は続けた。
「これが、いいエンディングなの」
エンディング。
カフェでも、同じ言葉を使っていた。
「ゲームだって、そうでしょ。魔王は最後に必ず死ぬ。そして勇者が凱旋して、物語は終わる」
ヴァレリアは、ゆっくりと剣を持ち上げた。
その切っ先が、俺に向けられる。
「……逃げるなら、今よ」
俺は首を横に振った。
「お互い、立場があることくらい分かっている」
「……」
「俺の首を持って帰れ」
ヴァレリアの表情が歪んだ。
「そうしなければ、君が危ない」
魔王を討つために来た勇者が、魔王を逃がした。
そんなことが知れれば、彼女はどうなるのだろう。
少なくとも、今までどおりの生活は送れないはずだ。
俺は、それを望まなかった。
「なら……!」
ヴァレリアが声を張り上げた。
初めて聞く怒鳴り声だった。
「なら、正々堂々と戦ってよ!」
彼女の手が震えている。
剣先も、小刻みに揺れていた。
「私は……私は!」
そこで言葉が途切れた。
彼女の目から、涙が溢れた。
一粒、また一粒。
頬を伝い、床へ落ちていく。
まるで、周囲で燃え盛る炎を消そうとするかのように。
「私は、あなたを斬れない!」
その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。
彼女は、俺を殺したくないのだ。
勇者としてここに来たのに。
魔王を討つことが、彼女の役目であるはずなのに。
それでも、俺を斬ることができない。
……まったく。
人間というのは、本当に奇妙な生き物だ。
俺は、できるだけ優しい声を出そうとした。
魔族としてではなく。
魔王としてでもなく。
ただ、彼女と四年間を過ごしたルシアンとして。
「大きな物事を成すには、まず親玉から」
ヴァレリアは何も言わなかった。
ただ、涙を流していた。
俺は一歩、彼女に近づいた。
彼女は動かなかった。
もう一歩。
剣の切っ先が、俺の胸に触れる。
そして俺は、その剣を掴んだ。
ヴァレリアが目を見開く。
「……ルシアン?」
俺は、そのまま剣を自分の心臓へと突き立てた。
鋭い痛みが走った。
身体の奥を、冷たいものが貫いていく。
足元がふらついた。
「……何を……」
ヴァレリアの声が震えていた。
俺は彼女を見た。
「俺が魔王で、よかった」
「……何、言ってるの」
「君を傷つけずに済んだから」
その瞬間、膝から力が抜けた。
ヴァレリアが慌てて俺の身体を支える。
「馬鹿なこと言わないで……!」
彼女は剣から手を離し、俺の傷口に触れた。
「お願い……治って……!」
必死な声だった。
どうやら、回復魔法を使おうとしているらしい。
こんな状況だというのに、少しおかしくなった。
「……魔王に回復魔法を使う勇者が、どこにいるんだよ」
「黙って……!」
「これでいいんだ」
「よくない……!」
「これで……」
言葉を続けようとしたが、うまく声が出なかった。
身体が重い。
指先から、少しずつ感覚が失われていく。
ヴァレリアは俺の頭を抱きかかえた。
何かを必死に呟いている。
俺の名前だろうか。
それとも、何か別の言葉だろうか。
もう、よく聞こえなかった。
視界がぼやけていく。
燃え盛る炎も、崩れた城壁も、彼女の顔も。
少しずつ、遠ざかっていく。
そのとき、不意に思い出した。
あの世界で過ごした、四年間のことを。
楽しいことばかりではなかった。
慣れない言葉で授業を受け、理解できない課題に何時間も頭を悩ませた。
チャールズ教授には、何度も勉強をさせられた。
ときには、嫌がらせをしてくる人間もいた。
それでも。
友人たちとパーティーをした。
試験前には、眠い目をこすりながら一緒に勉強した。
近くの国へ旅行に出かけたこともあった。
ヴァレリアとくだらないことで言い争い、彼女の理屈に何度も頭を抱えた。
そして、チャールズ教授と湖畔を歩いた。
水面に映る夕日を眺めながら、人生について話したことがある。
あのとき、教授は何と言っていただろう。
確か、運命についての話だった。
人は、自分の運命を選べるとは限らない。
望まない出来事も起こるし、どれほど努力しても変えられないことがある。
それでも、自分に与えられた人生を愛することはできる。
そんな話をしていた気がする。
当時の俺には、よく分からなかった。
なぜ、望んでもいない運命を愛さなければならないのか。
不幸な出来事まで、受け入れる必要があるのか。
理解できなかった。
だが、今なら少しだけ分かる気がした。
俺は魔族として生まれた。
魔王の息子として育ち、父の命令で異界へ送られた。
自分で選んだわけではない。
そして今、魔王として死のうとしている。
これもまた、自分が望んだ運命ではなかった。
それでも、悪くない人生だったと思う。
少なくとも、あの世界に行かなければ、チャールズ教授にも、ヴァレリアにも出会えなかった。
人間を好きになることもなかっただろう。
誰かと過ごす時間が、こんなにも大切なものだと知ることもなかった。
俺は今、好きだった人の腕の中にいる。
彼女は泣いている。
俺は、もうすぐ死ぬ。
それなのに、不思議と後悔はなかった。
自分の人生を締めくくるには、これ以上ない場所なのかもしれない。
……ああ。
そういえば。
チャールズ教授。
あなたに、まだ伝えていないことがありました。
あなたが言っていたように、俺は自分の運命を愛しました。
この先、あなたにもう一度会えるのかは分かりません。
死んだあとに何があるのかも、俺には分かりません。
けれど。
もし、もう一度同じ人生を歩むことになったとしても。
俺はきっと、あなたに会いに行きます。
何度でも。
そして、そのときは。
俺は、あなたの本当の息子として生まれたいです。




