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魔女三千里  作者: カンナギらてぃん
あの空を超えていけ

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3/4

エンディング


 ヴァレリアと別れたあと、俺は一人で駅へ向かった。


別れ際に彼女が見せた笑顔が、妙に頭に残っていた。


最後くらい笑顔で別れましょう。


そう言われたのに、結局、俺はうまく笑えなかった。


今さら考えても仕方のないことだ。


俺はポケットに手を入れ、冷たい空気の漂う駅構内を歩いた。


指定されたホームには、ほとんど人がいなかった。


電光掲示板には、見慣れた行き先がいくつも並んでいる。けれど、俺が乗る列車の名前は、どこにも表示されていない。


しばらく待っていると、遠くから車輪の軋む音が聞こえてきた。


やがて、暗いトンネルの奥から一両の列車が姿を現した。


真っ黒な列車だった。


窓も、車体も、光を吸い込んでいるかのように黒い。


周囲の照明が当たっているはずなのに、車体の輪郭さえどこか曖昧だった。


列車は音もなく速度を落とし、俺の目の前で停車した。


これが、元の世界へ帰る唯一の方法だった。


ここに辿り着くまで、随分と苦労した。


異界へ来たときは、何も知らなかった。


どうしてここに来たのかも、どうすれば帰れるのかも。


手掛かりらしいものは、ほとんどなかった。


それでも俺は、この世界の歴史を調べ、古い文献を読み、時には人間の伝承にまで手を伸ばした。


だが、どれも役には立たなかった。


そもそも、人間たちは異界の存在をまともに信じていない。


無理もない。


俺だって、ここに来るまでは人間の世界について何も知らなかったのだから。


そんなある日、突然、俺の前に一人の魔族が現れた。


ミゲルと名乗る男だった。


確か、父の側近にいた魔族だ。


幼い頃に何度か顔を見た覚えがあった。


彼は俺を見つけるなり、深々と頭を下げた。


そして、帰還の時が来たと告げた。


しかし、俺は断った。


理由は単純だった。


その頃には、すでにヴァレリアに恋をしていたからだ。


彼女と一緒にいたかった。


大学を卒業するまで、同じ時間を過ごしたかった。


それだけのことだった。


ミゲルはしばらく説得を続けたが、俺が考えを変えないと分かると、帰還の方法だけを伝えて去っていった。


そのときの彼の表情は、今でも何となく覚えている。


困っているような、諦めているような。


そんな顔だった。


今になって思う。


あのとき、ミゲルが来なければよかったのかもしれない。


帰る方法など、知らないままでいた方が幸せだったのかもしれない。


そうすれば俺は、この世界で生き続ける理由を探していたはずだ。


大学を卒業し、仕事を見つけ、チャールズ教授の家に顔を出し、時にはヴァレリアと会う。


そんな未来も、あったのだろうか。


……いや。


考えても仕方がない。


俺は列車の扉を見つめた。


不思議なことに、この世界を去ることへの未練はなかった。


四年間も暮らしたというのに。


好きな人間もできた。


大切な思い出も増えた。


それでも、ここに残りたいとは思わなかった。


きっと、もう分かっているのだろう。


この世界には、俺が求めるものは何も残っていないのだと。


扉が開いた。


俺は一度だけホームを振り返り、それから列車に乗り込んだ。





帰還は、あっけないものだった。


窓の外を眺めているうちに、景色が変わっていた。


気がつけば、そこは俺の生まれた世界だった。


四年ぶりの故郷。


異界では何もしてなかったと言うのに、魔力が随分と増えているような感覚だった。


それ以外に懐かしい、という感情が湧くかと思ったが、そうでもなかった。


空の色も、漂う魔力の気配も、確かに記憶にあるものだった。


しかし、それだけだった。


俺はそのまま魔王城へ向かった。


城が見えてきたとき、思わず足を止めた。


巨大な城壁。


空を突き刺すように伸びた尖塔。


黒ずんだ石造りの外壁には、長い年月を経たような傷が刻まれている。


幼い頃は、この城が世界のすべてだった。


当たり前のように廊下を歩き、当たり前のように部屋で眠っていた。


だが、今になって見ると、随分と薄気味悪い場所だ。


窓は少なく、城壁は高い。


陽の光さえ拒んでいるように見える。


こんな場所に長く住んでいたら、気が滅入りそうだった。


少なくとも、チャールズ教授の家の方がずっと居心地がいい。


あの家には庭があった。


窓を開ければ風が入り、朝には鳥の声が聞こえた。


ここには、そういうものがない。


城門へ近づくと、門番がこちらを見た。


一瞬、槍を握る手に力が入ったように見えたが、俺の顔を確認するなり、その場に姿勢を正した。


「……お帰りなさいませ」


それだけだった。


身分を証明するものを求められることも、帰還の理由を尋ねられることもなかった。


四年も経っているのに、よく覚えているものだ。


俺は軽く頷き、城内へ足を踏み入れた。


広間には、ミゲルが待っていた。


「ルシアン様……!」


俺の姿を見るなり、彼は大きく息を吐いた。


その表情には、はっきりと安堵が浮かんでいた。


魔族にしては、随分と感情の分かりやすい男だ。


「久しぶりだな、ミゲル」


「お待ちしておりました。本当に……お待ちしておりました」


彼は何かを言いかけ、口を閉じた。


そして、少しだけ俯いた。


「父上が……」


その先を聞くまでもなかった。





父は、大きな寝台に横たわっていた。


幼い頃に見た姿とは、随分と違っていた。


かつては広間に立つだけで周囲を圧倒していた男が、今では身体を起こすことさえ難しいらしい。


頬は痩せこけ、呼吸は浅い。


それでも、俺が近づくと、父はゆっくりと目を開いた。


「……帰ってきたか。我が息子よ」


懐かしい声だった。


以前よりも、ずっと弱々しくなっていたが。


「ただいま戻りました」


俺は寝台の傍らに立った。


父の顔を見て、すぐに理解した。


もう長くはない。


こういう姿を見るのは、二度目だった。

あの時は人間だった。


あのときも、身体は少しずつ弱り、やがて動かなくなった。


そして、二度と目を開けることはなかった。


だから、父がこれからどうなるのかも、おおよそ想像がついた。


けれど、不思議と心は動かなかった。


悲しいとも、寂しいとも思わない。


ただ、父が死にかけている。


それだけの事実が、そこにあった。


父は俺を見つめ、震える唇を動かした。


「今こそ……我が魔族が繁栄する時だ」


その声には、かつての威厳がわずかに残っていた。


「我に……それを見せてくれ」


俺は何も答えなかった。


魔族の繁栄。


父は昔から、そのことばかり考えていた。


だが、俺にはよく分からない。


なぜ、それほどまでに繁栄を望むのだろう。


何を手に入れれば満足するのか。


どれほど強くなれば、安心できるのか。


父の願いは、俺には理解できなかった。


だから、返す言葉も見つからなかった。




その晩のことだった。


部屋で一人過ごしていると、突然、扉が激しく叩かれた。


「ルシアン様!」


ミゲルの声だった。


「どうした?」


扉を開けると、彼はひどく青ざめていた。


「大変です! 魔王様の魔力が……!」


それ以上の説明を待たず、俺は廊下へ出た。


ミゲルの後を追い、父の寝室へ向かう。


城内は妙に騒がしかった。


廊下を走る足音。


慌ただしく行き交う使用人たち。


誰もが何かに怯えているようだった。


どうやら、父の魔力に異変が起きているらしい。


しかし、俺にはそれがよく分からなかった。


長い間、魔力に触れない生活を送っていたせいだろうか。


この世界にいた頃なら、少し離れた場所からでも感じ取れたはずの気配が、今ではひどく曖昧だった。


寝室に入ると、父は先ほどと同じように横たわっていた。


ただ、その呼吸はさらに弱くなっていた。


「父上」


声をかけると、父はうっすらと目を開いた。


そして、俺の腕を掴んだ。


驚くほど冷たい手だった。


「……お前が、帰ってきてくれて……よかった」


父は息を整えながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「お前に……我の魔力のすべてを託す」


「……」


「そして、代々の魔王に受け継がれてきた……この指輪も」


父は震える手を持ち上げた。


そこには、一つの指輪があった。


魔王の証。


この城にいた頃、何度か見たことがある。


「すべては……魔族のために……」


父の手から、魔力が流れ込んできた。


熱いとも、冷たいとも違う。


身体の奥へ、何かが静かに染み込んでいくような感覚だった。


膨大な力だった。


父が長い年月をかけて蓄えてきたもの。


それが今、俺の中へ移されていく。


やがて、父の手から力が抜けた。


掌には、指輪が残されていた。


「魔王様……」


隣に立つミゲルが、小さく声を漏らした。


今にも泣き出しそうな顔だった。


俺は受け取った指輪を見つめた。


そして、右手の指にはめた。


左手の小指には、ヴァレリアからもらった銀色の指輪がある。


右手には、父から受け継いだ魔王の指輪。


二つを見比べてみる。


まるで違うものだった。


片方は、何の力も持たない、ただの銀の輪。


もう片方は、魔族の頂点に立つ者だけが受け継ぐ指輪。


それでも、俺にはどちらも同じように重く感じられた。


「……父上?」


呼びかけても、返事はなかった。


父は、もう動かなかった。


こうして、魔王は死んだ。




魔王の死は、瞬く間に魔族全体へと伝わった。


翌日には、各地から有力な魔族たちが城へ集まり始めた。


見覚えのある顔もいれば、初めて見る者もいた。


彼らは俺を見るなり頭を下げ、次々と忠誠を誓った。


父が死んだというのに、悲しむより先に、新たな魔王の話をする者もいた。


もっとも、魔族にとっては、それほど珍しいことではないのかもしれない。


王が死ねば、次の王が必要になる。


ただ、それだけの話だ。


俺が魔王になるための手続きは、すぐに始まった。


とはいえ、やることのほとんどは形式的なものだった。


古い言葉で書かれた誓約を読み上げ、見知らぬ魔族たちの前に立ち、何度も同じような儀式を繰り返す。


一つ終われば、また次がある。


魔王になるというのは、随分と面倒なものらしい。


その儀式は、三日三晩続いた。


そして、最終日。


俺はようやく、すべてが終わったことを知った。


いや。


終わりが訪れた、と言うべきなのかもしれない。


勇者が現れたのだ。





城内には、炎が広がっていた。


壁を這うように燃え上がる焔が、石造りの廊下を赤く照らしている。


床には、何人もの魔族が倒れていた。


血の匂いと焦げた臭いが入り混じり、息をするだけで喉が痛んだ。


その中央に、一人の人間が立っていた。


剣を握り、こちらを見据えている。


勇者。


魔王を討つために現れた、人間たちの希望。


俺は初め、その勇者を迎え撃つつもりだった。


魔王になった以上、そうするのが当然なのだろう。


父から受け継いだ魔力を使えば、少なくとも簡単に負けることはないはずだ。


そう考え、右手に力を込めた。


だが。


その顔を見た瞬間、力が抜けた。


「……ヴァレリア?」


彼女だった。


つい数日前まで、同じカフェで紅茶を飲み、くだらない冗談を言い合っていた女。


俺が初めて恋をした人間。


ヴァレリアが、剣を持って目の前に立っていた。

だが彼女の顔は現実を受け入れられていなさそうだった。


炎が揺れる。


周囲には、倒れた魔族たち、人間の身体が転がっている。


それでも、俺たちはしばらく動かなかった。


ただ、互いを見つめていた。


彼女の指には、銀色の指輪があった。


俺の左手にも、同じ指輪がある。


炎に照らされ、二つの指輪が小さく輝いていた。


運命は残酷だった。


"強くなるためには異界に行け"


これは俺に限った話ではなさそうだ。

だから彼女もあそこに居たのだろう。勇者として力をつけるために。


「……だから、言ったのよ」


ヴァレリアが口を開いた。


その声は、驚くほど冷たかった。


「もう会わない方がいいって」


俺は何も答えなかった。


彼女は続けた。


「これが、いいエンディングなの」


エンディング。


カフェでも、同じ言葉を使っていた。


「ゲームだって、そうでしょ。魔王は最後に必ず死ぬ。そして勇者が凱旋して、物語は終わる」


ヴァレリアは、ゆっくりと剣を持ち上げた。


その切っ先が、俺に向けられる。


「……逃げるなら、今よ」


俺は首を横に振った。


「お互い、立場があることくらい分かっている」


「……」


「俺の首を持って帰れ」


ヴァレリアの表情が歪んだ。


「そうしなければ、君が危ない」


魔王を討つために来た勇者が、魔王を逃がした。


そんなことが知れれば、彼女はどうなるのだろう。


少なくとも、今までどおりの生活は送れないはずだ。


俺は、それを望まなかった。


「なら……!」


ヴァレリアが声を張り上げた。


初めて聞く怒鳴り声だった。


「なら、正々堂々と戦ってよ!」


彼女の手が震えている。


剣先も、小刻みに揺れていた。


「私は……私は!」


そこで言葉が途切れた。


彼女の目から、涙が溢れた。


一粒、また一粒。


頬を伝い、床へ落ちていく。


まるで、周囲で燃え盛る炎を消そうとするかのように。


「私は、あなたを斬れない!」


その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。


彼女は、俺を殺したくないのだ。


勇者としてここに来たのに。


魔王を討つことが、彼女の役目であるはずなのに。


それでも、俺を斬ることができない。


……まったく。


人間というのは、本当に奇妙な生き物だ。


俺は、できるだけ優しい声を出そうとした。


魔族としてではなく。


魔王としてでもなく。


ただ、彼女と四年間を過ごしたルシアンとして。


「大きな物事を成すには、まず親玉から」


ヴァレリアは何も言わなかった。


ただ、涙を流していた。


俺は一歩、彼女に近づいた。


彼女は動かなかった。


もう一歩。


剣の切っ先が、俺の胸に触れる。


そして俺は、その剣を掴んだ。


ヴァレリアが目を見開く。


「……ルシアン?」


俺は、そのまま剣を自分の心臓へと突き立てた。


鋭い痛みが走った。


身体の奥を、冷たいものが貫いていく。


足元がふらついた。


「……何を……」


ヴァレリアの声が震えていた。


俺は彼女を見た。


「俺が魔王で、よかった」


「……何、言ってるの」


「君を傷つけずに済んだから」


その瞬間、膝から力が抜けた。


ヴァレリアが慌てて俺の身体を支える。


「馬鹿なこと言わないで……!」


彼女は剣から手を離し、俺の傷口に触れた。


「お願い……治って……!」


必死な声だった。


どうやら、回復魔法を使おうとしているらしい。


こんな状況だというのに、少しおかしくなった。


「……魔王に回復魔法を使う勇者が、どこにいるんだよ」


「黙って……!」


「これでいいんだ」


「よくない……!」


「これで……」


言葉を続けようとしたが、うまく声が出なかった。


身体が重い。


指先から、少しずつ感覚が失われていく。


ヴァレリアは俺の頭を抱きかかえた。


何かを必死に呟いている。


俺の名前だろうか。


それとも、何か別の言葉だろうか。


もう、よく聞こえなかった。


視界がぼやけていく。


燃え盛る炎も、崩れた城壁も、彼女の顔も。


少しずつ、遠ざかっていく。


そのとき、不意に思い出した。


あの世界で過ごした、四年間のことを。





楽しいことばかりではなかった。


慣れない言葉で授業を受け、理解できない課題に何時間も頭を悩ませた。


チャールズ教授には、何度も勉強をさせられた。


ときには、嫌がらせをしてくる人間もいた。



それでも。


友人たちとパーティーをした。


試験前には、眠い目をこすりながら一緒に勉強した。


近くの国へ旅行に出かけたこともあった。


ヴァレリアとくだらないことで言い争い、彼女の理屈に何度も頭を抱えた。


そして、チャールズ教授と湖畔を歩いた。


水面に映る夕日を眺めながら、人生について話したことがある。


あのとき、教授は何と言っていただろう。


確か、運命についての話だった。


人は、自分の運命を選べるとは限らない。


望まない出来事も起こるし、どれほど努力しても変えられないことがある。


それでも、自分に与えられた人生を愛することはできる。


そんな話をしていた気がする。


当時の俺には、よく分からなかった。


なぜ、望んでもいない運命を愛さなければならないのか。


不幸な出来事まで、受け入れる必要があるのか。


理解できなかった。


だが、今なら少しだけ分かる気がした。


俺は魔族として生まれた。


魔王の息子として育ち、父の命令で異界へ送られた。


自分で選んだわけではない。


そして今、魔王として死のうとしている。


これもまた、自分が望んだ運命ではなかった。


それでも、悪くない人生だったと思う。


少なくとも、あの世界に行かなければ、チャールズ教授にも、ヴァレリアにも出会えなかった。


人間を好きになることもなかっただろう。


誰かと過ごす時間が、こんなにも大切なものだと知ることもなかった。


俺は今、好きだった人の腕の中にいる。


彼女は泣いている。


俺は、もうすぐ死ぬ。


それなのに、不思議と後悔はなかった。


自分の人生を締めくくるには、これ以上ない場所なのかもしれない。


……ああ。


そういえば。


チャールズ教授。


あなたに、まだ伝えていないことがありました。


あなたが言っていたように、俺は自分の運命を愛しました。


この先、あなたにもう一度会えるのかは分かりません。


死んだあとに何があるのかも、俺には分かりません。


けれど。


もし、もう一度同じ人生を歩むことになったとしても。


俺はきっと、あなたに会いに行きます。


何度でも。


そして、そのときは。


俺は、あなたの本当の息子として生まれたいです。



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