魔女三千里
死んで、生まれ変わって。
あれから、いったい何年が経ったのだろう。
数えるのは、とうの昔にやめてしまった。
結局、俺は前世の記憶を残したまま、再びこの世界に生まれてしまった。
それも、また魔族として。
せっかく生まれ変わるのなら、人間になってみたかったものだ。少なくとも、今度こそ普通の家庭に生まれてみたかった。
もっとも、生まれる場所を選べるわけでもない。
こればかりは、どうしようもなかった。
ただ、幸いなことに、今の俺には魔王の息子という肩書きがない。
身分も、地位も、家名さえも持たない。
森で生まれ、妖精たちに囲まれて育った。
朝になれば木漏れ日で目を覚まし、昼は川辺で本を読み、夜には妖精たちのくだらない話に付き合う。
腹が減れば木の実を食べ、眠くなれば眠る。
誰かに命令されることもなければ、魔族の繁栄を背負わされることもない。
実に素晴らしい生活だった。
かつて俺が望んでいたものが、ようやく手に入ったわけだ。
近くには小さな村があった。
森から少し歩けば辿り着ける、ごくありふれた村だ。
最初の頃は魔族であることを警戒されたものの、今では村へ行けば誰もが気軽に声をかけてくれる。
魔女と呼ばれることにも、すっかり慣れた。
どうやら、この百年で世界は随分と変わったらしい。
かつて魔王が死んだあと、統率を失った魔族たちは各地で暴れ回ったという。
それまで絶対的な力によってまとめられていた者たちが、突然その支配を失ったのだ。
当然と言えば、当然なのかもしれない。
だが、争いが永遠に続くことはなかった。
やがて、一部の賢い魔族たちが、人間との共存を選び始めた。
最初は小さな集落からだったらしい。
交易が始まり、互いの土地を行き来するようになり、少しずつ争いが減っていった。
もちろん、今でもすべての魔族と人間が仲良く暮らしているわけではない。
それでも、かつてのように、種族が違うというだけで剣を向けられることは少なくなった。
父が決して実現できないと考えていた世界。
それが、今では当たり前のものになりつつある。
皮肉な話だ。
そして、その平和を築いた人物として、今も語り継がれている英雄がいた。
かつての勇者。
ヴァレリア。
彼女の名前は、今では子供でさえ知っている。
村の広場には、大きな銅像が建っている。
剣を掲げ、遠くを見据える一人の女。
台座には、勇者ヴァレリアの功績が刻まれていた。
俺はその前で足を止めた。
「……こんな顔じゃなかったよな」
思わず、独り言が漏れた。
確かに、立派な銅像ではある。
堂々とした姿勢に、凛々しい顔つき。今にも剣を振り下ろしそうなほど勇ましい。
だが、俺の知っている彼女は、もう少し表情が豊かだった。
笑うときは大きな口を開けて笑い、怒るときは遠慮なく怒鳴った。
それに、こんなに上品な顔をしていただろうか。
少なくとも、スポンジケーキを二つに割ってアーサー王の話を始めるような女には見えない。
百年も経てば、人の顔など正確には伝わらないものなのだろう。
俺は少し笑った。
しかし、一つだけ、見覚えのあるものがあった。
銅像の小指。
そこには、細い指輪がはめられていた。
何の装飾もない、銀色の指輪。
俺はしばらく、それを眺めていた。
顔は違うかもしれない。
けれど、あの指輪だけは、間違いなく彼女のものだった。
「ねえ、ルシアン!」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると、村の少女が立っていた。
まだ幼い、いつも元気な娘だ。
「何を見てるの?」
「……何を見てるんだろうね」
「え?」
少女は首を傾げた。
どうやら、俺の返事が気に入らなかったらしい。
「変なの。それよりさ!」
「何だ?」
「また、あの綺麗な青いお花出して!」
彼女は両手を差し出し、期待に満ちた目で俺を見上げた。
以前、魔法で青い花を咲かせてやったことがある。
それ以来、顔を合わせるたびに同じことを頼まれるようになった。
まったく、一度親切にするとこれだ。
「魔女は忙しいんだよ。あっちに行った」
「嘘つき!」
「失礼な」
「だって、いつもグータラしてるだけじゃん!」
なかなか鋭い。
確かに、ここ最近は昼寝をしているか、本を読んでいるかのどちらかだった気がする。
だが、それの何が悪いのだろう。
「グータラできるっていうのは、一番幸せなことなんだよ」
俺は笑いながら、少女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「もう! 髪がぐちゃぐちゃになる!」
少女は慌てて俺の手を払いのけた。
そして、頬を膨らませる。
その怒った顔を見て、ふと懐かしい気持ちになった。
可能に似ている。
「魔女は変わってる人しかいないって聞いたけど、本当にそう!」
「そうか?」
「そうよ! みんなグータラばっかり!」
それだけ言うと、少女は走り出した。
少し離れたところで振り返り、あっかんべーをしてみせる。
そして、そのまま村の通りへ消えていった。
「……元気なものだ」
俺は小さく笑った。
ああいう子供は、きっと長生きする。
根拠はないが、何となくそんな気がした。
再び銅像を見上げる。
ヴァレリアは、相変わらず勇ましい顔で遠くを見つめていた。
「……さようなら」
それだけ告げて、俺は広場をあとにした。
村の外れには、一軒の魔導具屋がある。
村で唯一の店だ。
古びた木製の看板には、今にも消えそうな文字で店の名前が書かれていた。
扉を開けると、鈴が軽い音を立てた。
店内には、杖や魔石、用途の分からない魔導具が所狭しと並んでいる。
埃っぽい匂いがした。
奥からは、陽気な歌声が聞こえてきた。
どうやら店主は、今日も機嫌がいいらしい。
「今日もいい歌声だね」
声をかけると、棚の向こうから小柄な男が顔を出した。
「お? ルシアンじゃねえか!」
店主はにやりと笑った。
「だろ? 今日は特に調子がいいんだよ」
「毎回そう言ってる気がするけど」
「毎日調子がいいってことだ。いいことだろ?」
「それはそうだな」
店主は笑いながら、手に持っていた布を置いた。
「それにしても珍しいな。あんたがうちに来るなんて」
「ちょっと、お別れを言いにね」
「……お別れ?」
店主の動きが止まった。
「何だ、どこか行くのか?」
「ああ」
「へえ。魔女ってのは、一度住み着いた場所には随分と固執するって聞いたんだがな」
「合ってるよ」
「じゃあ、何でだ?」
「俺は少し特殊なんだ」
店主はしばらく俺を見つめ、それから大きく笑った。
「はっ! 魔女なんて、みんな変わってるだろ!」
まったく。
今日だけで、同じようなことを二度も言われてしまった。
そんなに変わっているつもりはないのだが。
店主は奥の棚へ向かうと、そこに並んでいた杖を次々と取り出し始めた。
「ほら、見ていけ」
「何を?」
「杖だよ、杖!」
あっという間に、カウンターの上が杖で埋まった。
長いもの、短いもの、宝石が埋め込まれたもの。
中には、どうやって握るのか分からないような形のものまである。
「餞別だ。好きなのを一本持っていけ」
「金ならあるさ」
「いらねえよ」
「でも——」
「金があるやつは、カエルなんか買わねえだろ」
「……うぅ」
痛いところを突かれた。
確かに以前、随分と安いカエルを買ったことがある。
あの時は……。
「ほら、遠慮すんな」
「じゃあ、ありがたく」
俺はカウンターに並んだ杖を、一つずつ手に取った。
魔力の通り方。
木材の質。
握ったときの感触。
どれも微妙に違う。
こういうものは、見た目だけでは分からない。
「……うーん」
「そんなに悩むものかねえ」
店主は呆れたように腕を組んだ。
「俺には、杖なんて全部同じに見えるが」
「全然違うよ」
「そうか?」
「杖は俺にとって、足みたいなものなんだ」
「足?」
「ああ。これから長い旅をするなら、なおさら慎重に選ばないと」
店主は首を傾げた。
「へえ……俺にはさっぱり分からんが」
そう言いながら、彼は棚の奥を探り始めた。
「だったら、これなんかどうだ?」
差し出されたのは、一本の古びた杖だった。
木目はすっかり色褪せ、持ち手には妙な曲がり方をした装飾が施されている。
随分と奇妙な形だった。
「……変わった杖だな」
「だろ?」
店主は得意げに笑った。
「こいつはな、勇者が生きていた頃の代物なんだよ」
俺は杖を見つめた。
「……百年前のものか」
「ああ。立派なアンティークだろ?」
「随分と長いこと売れ残っていたんだな」
「余計なこと言うな!」
店主は笑いながら、杖を俺に押しつけた。
俺はそれを受け取った。
軽く握ってみる。
古い割には、悪くない。
むしろ、手に馴染む感覚があった。
「……これにするよ」
「お、決まりか?」
「ああ。売れ残りでも、俺はこれがいい」
「だから売れ残りって言うな!」
店主は声を上げて笑った。
俺もつられて笑った。
そして、彼が別の棚に目を向けた隙に、こっそり魔法を使った。
金貨を二枚。
店主のポケットへ、そっと移しておく。
彼が気づくのは、きっと俺が村を出たあとだろう。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「おう」
店主はカウンターに肘をついた。
「また会えたらな」
「ああ。また会えたら」
「……いや」
店主は少し考え、それから言い直した。
「帰ってこいよ」
俺は振り返った。
「ここは、お前の故郷なんだからな」
故郷。
随分と久しぶりに聞く言葉だった。
俺が生まれた森も、この村も、確かに今の俺にとって大切な場所だ。
「ついでに、俺に不死の魔法でもかけてくれよ」
店主は冗談めかして笑った。
「そうすりゃ、いつ帰ってきても店を開けて待ってられるからな!」
「……欲張りだな」
「商売人だからな!」
俺は笑って、杖を肩に担いだ。
「故郷は、変わるものだよ」
店主は何も言わなかった。
ただ、いつものように笑っていた。
俺は店を出た。
背後で、扉の鈴が小さく鳴った。
さて。
別れの挨拶も済ませた。
荷物もまとめた。
あとは、旅に出るだけだ。
村の馬屋へ向かい、一頭の馬を買うことにした。
これから先、どれほどの距離を進むことになるのか分からない。
歩いていくのも悪くないが、さすがに限度がある。
それに箒で飛ぶのにも長距離だと魔力の消費が激しい。何かあった時に魔力がないと大変だ。
馬屋には、まだ若い少年がいた。
俺が馬を選んでいると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、魔女なのにどこかへ行くの?」
「ああ」
「魔女って、ずっと同じ場所に住むんじゃないの?」
「そういう魔女もいるね」
「じゃあ、どうして?」
俺は馬の首を軽く撫でた。
「探し物をしに行くんだ」
「探し物?」
「ああ。あるものを探している」
少年は興味津々といった様子で、俺の顔を覗き込んだ。
「それって、いいもの?」
「……そうだな」
少し考えた。
いいもの。
確かに、そうかもしれない。
少なくとも、俺にとっては何より大切なものだった。
「俺にとっては、とても大事なものなんだ」
「へえ」
「一度、なくしてしまったからね」
「そっか……」
少年は少しだけ残念そうな顔をした。
そして、すぐに笑った。
「見つかるといいね!」
「ああ」
俺は頷いた。
それから、何気なく左手を持ち上げた。
小指を見る。
そこには、何もなかった。
かつて、銀色の指輪がはめられていた場所。
俺は左手を下ろし、新しい杖を握り直した。
これから、長い旅が始まる。
どこまで行けば見つかるのか。
そもそも、本当に見つかるのか。
そんなことは、俺にも分からない。
けれど、今度は自分で決めたことだ。
誰かに命令されたわけでも、運命に従ったわけでもない。
ただ、俺がそうしたいと思った。
それだけで十分だった。
俺は馬に乗り、村の出口へ向かった。
「きっと見つけるさ。たとえ三千里かかっても」




