ウォーウィック・アベニュー駅
地下鉄というものは、相変わらず居心地が悪い。
この国に来て、どれくらいたっただろうか。それなりに何度も利用してきたはずなのに、どうにも慣れなかった。
窓の外に広がるのは、暗闇ばかりだ。
今、自分がどこを走っているのか。地上では雨が降っているのか、それとも晴れているのか。そんな当たり前のことさえ、ここでは分からない。
何より、この閉鎖的な空間が気に入らなかった。
それなのに、周囲の人間たちは平然としている。
新聞を読む者。携帯電話を眺める者。眠っている者までいる。
よくもまあ、こんな場所で落ち着いていられるものだ。
……いや、待てよ。
俺が落ち着かないのは、単に自然が好きだからなのかもしれない。
木々が風に揺れる様子や、空の色が少しずつ変わっていくのを眺めていると、不思議と心が安らぐ。
そう考えると、地下鉄が苦手なのも納得がいく。
自然か。
人間の作ったものに囲まれて暮らすうちに、かえって自然を恋しく思うようになったのだろうか。
そんな、どうでもいいことを考えていたときだった。
「ルシアン! もう行くの?」
聞き覚えのある声に、思わず振り返る。
そこには、息を切らしたヴァレリアが立っていた。
この四年間で、彼女も随分と変わった。
初めの頃はどこか馴染んでいなかった服装も、今ではすっかり英国の街並みに溶け込んでいる。
もっとも、こうして人目も気にせず大声を出すところは、昔から少しも変わっていない。
「ヴァレリア。わざわざ来たのか?」
「当たり前でしょ? 大学の四年間、ずっと一緒だったんだから」
「……そうか」
四年。
口にすると、妙に長く感じる。
この世界に来たばかりの頃は、一日を過ごすだけでも随分と苦労したものだ。
それが今では、四年もの月日が過ぎている。
「それで、用件は?」
「あなた、昨日なんて言った?」
「何の話だ?」
「今日、何時に寮を出るって言った?」
「十八時」
「で、今は何時?」
「十時だな」
「そこよ!」
ヴァレリアは、待ってましたと言わんばかりに指を突きつけてきた。
「まだ八時間もあるじゃない。一緒に過ごしましょ。最後くらい、いいでしょ?」
「別に構わないが……」
「それに、次はいつ会えるか分からないんだし」
その言葉に、返事が詰まった。
彼女と過ごすのが嫌なわけではない。
むしろ、その逆だ。
ヴァレリアは俺にとって、初めて好きになった相手だった。
だからこそ、困る。
これ以上、一緒に過ごしたところで何になるのだろう。
もう答えは分かっている。
それなのに、まだ何かを期待してしまう自分がいる。
できることなら、これ以上傷つきたくはなかった。
「ほら、行くわよ」
「おい、まだ返事を——」
最後まで言わせてもらえなかった。
彼女は俺の腕を掴むと、そのまま強引に歩き始めた。
まったく、昔からこうだ。
人の都合などお構いなしに、自分の思いついたことをすぐ行動に移す。
こういう豪快なところが、俺は少し苦手だった。
けれど。
なりふり構わず、自分の気持ちに正直な彼女のことが、どうしようもなく好きだった。
連れてこられたのは、一軒のカフェだった。
店先に並べられた小さなテーブル。通りに面した大きな窓。扉を開けると、焼き菓子の甘い匂いと、挽きたてのコーヒーの香りが漂ってくる。
見覚えがあるどころではない。
ここは、俺がイギリスに来て初めて訪れたカフェだった。
「懐かしいでしょ?」
ヴァレリアが、どこか得意げに笑う。
「ああ。よく覚えていたな」
「当然よ」
俺は店内を見渡した。
四年前と、ほとんど変わっていない。
あの頃の俺は、この世界について何も知らなかった。
人間の暮らしも、言葉も、社会の仕組みも。
分からないことばかりだった。それなのに何故かこの店に入ってしまった。おどおどした子供が薄い服装で現れたものだから周りは騒然としていた。
そんな俺に最初に手を差し伸べたのが、チャールズ教授だった。
彼は当時、このカフェの客だった。
身元も分からず、行く当てもなく途方に暮れていた俺を見て、捨てられた子供だと思ったらしい。
それからというもの、彼は俺をあちこちへ連れ回した。
役所や病院、それに名前も覚えていないような施設にも、何度となく足を運んだ。
彼が最初にしようとしたのは、俺の身元を明らかにすることだった。
だが、そんなものが分かるはずもない。
何しろ俺は、この世界の人間ではないのだから。
出生記録もなければ、国籍もない。
当然、両親について尋ねられても、まともに答えられるわけがなかった。
イギリスには、Looked After Children という制度上の呼び方がある。
親元で暮らせず、地方自治体の保護下に置かれた子供たちのことだ。
そうした子供の多くは里親家庭で暮らすことになる。
当時、聞いた話では七割ほどだったと思う。
俺も、本来ならそうなるはずだった。
しかし、チャールズ教授は俺を養子として迎え入れた。
彼は妻に先立たれたばかりだった。
今になって思えば、あの決断には様々な感情があったのだろう。
当時の俺には、それがよく分からなかった。
教授は、最初の頃、毎晩のように泣いていた。
夜中に目を覚ますと、隣の部屋から声が聞こえてくることがあった。
大の大人が、誰もいない部屋で一人泣いている。
俺には、それが不思議で仕方なかった。
死んだ者は戻らない。
どれほど悲しんだところで、事実が変わるわけでもない。
そう考えていたからだ。
ところが、ある日を境に、教授は泣かなくなった。
代わりに、俺を叱るようになった。
帰りが遅ければ怒り、食事を残せば注意し、勉強を怠ければ小言を言った。
最初は理解できなかった。
なぜ、俺の行動にそこまで腹を立てるのか。
俺が何をしようと、彼には関係ないはずなのに。
だが、今なら少し分かる。
あれは、愛情だったのだ。
もちろん、当時は別の可能性も考えた。
亡くなった妻に向けられるはずだった愛情が、行き場を失い、たまたま俺に向けられたのではないか、と。
だが、いくら考えても答えは出なかった。
そもそも、人間という生き物は奇妙だ。
身元の分からない子供を、男手一つで育てる。
そんなことをして、彼に何の得があったのだろう。
妻を失った男が、突然子供を連れて暮らし始めれば、周囲から妙な噂を立てられるかもしれない。
研究に費やせる時間も減る。
生活費だって余計にかかる。
面倒なことばかりだ。
それでも、彼は俺を育ててくれた。
学校に通わせ、食事を用意し、時にはくだらない冗談を言って笑わせようとした。
俺が何かを覚えれば、自分のことのように喜んだ。
この国で過ごした四年間、俺は本当に多くのことを学んだ。
歴史や科学、文学、そして人間の社会について。
だが、今になって思う。
愛情にまで理由を求めるのは、案外、馬鹿馬鹿しいことなのかもしれない。
俺は、かつてチャールズ教授が座っていた椅子に腰を下ろした。
向かいにはヴァレリアが座る。
「それで、この後はどうするの?」
注文を済ませるなり、彼女が尋ねてきた。
「とりあえず、ウォータールー駅に行くつもりだ」
「そうじゃなくて」
「違うのか?」
「これから何をするのかって聞いてるの。大学も卒業したんだし」
「ああ……」
少し考えてみる。
しかし、これといって思いつくことはなかった。
「平和に過ごしたいな」
「なにそれ」
ヴァレリアは呆れたように笑った。
彼女の前には紅茶とヴィクトリア・スポンジ・ケーキが置かれている。
紅茶を飲みながら、片手にはケーキを持っている。
器用なものだ。
二刀流、とでも呼ぶべきだろうか。
「逆に、君はどうするんだ?」
「私? 私はとりあえず親のところに戻るわ」
「そうか」
大学の友人たちは、ほとんどが就職先を決めていた。
卒業後の進路を聞かれるたびに、企業名や職業の話が出てくる。
そんな中、俺とヴァレリアだけは、最後まで就職先を決めなかった。
「それがいい。働くにはまだ早すぎる」
「ちょっと! それ、どういう意味よ!」
「大きな物事を成すには、まず親玉から」
ヴァレリアが目を丸くした。
そして、すぐに吹き出した。
「懐かしい! それ、私が前にグループワークで言ったやつじゃない!」
「ああ。いきなりアーサー王の話を持ち出した、とんでもない理論だったな」
「いいじゃない。あれ、結構使えると思うわよ?」
「どこがだ」
「じゃあ、もう一回説明してあげる」
彼女はそう言うと、手に持っていたスポンジケーキを二つに割った。
何を始めるつもりなのだろう。
「いい? 私はアーサー王を倒したいの」
「物騒だな」
「で、こっちがアーサー王」
彼女は大きい方のケーキを持ち上げた。
「こっちが息子のモードレッド」
今度は小さい方を示す。
「さて、私はいつアーサー王を倒すべきでしょう?」
「二人が戦い合っているときだろうな」
「違う!」
「なぜだ?」
「だから、私はアーサー王を倒したいのよ!」
「……なら、アーサー王が死んだときか?」
「正解!」
ヴァレリアは満足そうに頷いた。
「大きな物事を成すには、まず親玉からってことよ」
思わず鼻で笑ってしまった。
「俺も君みたいな、スポンジケーキ並みに柔らかい脳みそが欲しいものだ」
「喧嘩売ってる?」
「そもそも、アーサー王が死んでからでは意味がないだろう」
「分かってないわね」
彼女は人差し指を立てた。
「息子は、いずれアーサー王みたいになるのよ。つまり、第二のアーサー王ってわけ」
「ほう」
「だったら、息子が成長する前に倒せばいい。そうすれば、アーサー王を一対一で倒すチャンスが生まれるでしょ?」
「それなら、息子が先に死ぬのも悪くないな」
「もっと現実的に考えて。年齢って大事なのよ。息子が先に亡くなることは少ないわ」
「……そうか」
頭が痛くなってきた。
彼女の話は、いつもこうだ。
ふざけているようで、本人は至って真面目らしい。
しかも、妙なところで理屈が通っているように聞こえるから厄介だった。
もっとも、今回に限っては、どこまで本気なのかさっぱり分からない。
「それで?」
ヴァレリアが、残りのケーキを皿に戻した。
「あなたは何がしたいの? これからの人生」
「君と過ごしたい」
考えるより先に、言葉が出ていた。
彼女は一瞬だけ黙った。
しかし、すぐにいつもの調子で答えた。
「無理よ。前にも言ったでしょ。私は誰とも過ごせないの」
「その性格じゃ、そうだろうな」
「失礼ね」
彼女も鼻で笑った。
「そういうことじゃなくて、真面目に聞いてるの」
「俺も真面目に答えたつもりだが」
「じゃあ、もう一回。あなたは何がしたいの?」
「だから、平和に過ごしたい」
「分かったわ。職業で答えて」
随分としつこい。
俺は窓の外に目を向けた。
道行く人々の姿を眺めながら、以前読んだ本のことを思い出す。
森の奥に住み、人知れず長い年月を生きる存在。
人間から恐れられ、ときには頼られる。
そんな生き方も、悪くないと思った。
「……魔女、かもな」
ヴァレリアが手を叩いた。
「天才ね!」
「何がだ」
「大学を卒業して魔女になるなんて! エンジニアになるより、よっぽど建設的で自由だわ!」
「褒めているのか、それは」
「もちろんよ」
彼女は笑っている。
俺も少しだけ笑った。
「悪くないだろ、魔女。自然の豊かな場所に住んで、長く生きるんだ」
「それで?」
「長く、平和を味わう」
朝になれば鳥の声で目を覚まし、昼は木々の間を歩き、夜は静かに本を読む。
誰かに命令されることも、争いに巻き込まれることもない。
そんな日々が、何十年、何百年と続く。
想像してみると、随分と魅力的だった。
「でも、魔女って人間を襲うわよ?」
「人間だって人間を襲うだろ」
ヴァレリアの手が止まった。
それまで楽しそうに動いていた口も、静かになる。
「……そうね」
彼女は紅茶の水面に目を落とした。
「魔女、か。いいわね」
少し間を置いて、続ける。
「私も、そうなれたらいいな」
その声は、妙に寂しげだった。
なぜそんな顔をするのか、俺には分からなかった。
ただ、何か言わなければいけないような気がした。
俺はポケットを探り、小さなものを取り出した。
テーブルの上に置く。
金属が木の天板に触れ、かすかな音を立てた。
ビール瓶の蓋だった。
「俺は、これさえあればどこへでも行ける」
「……何それ?」
「魔女でいうところの箒だな」
ヴァレリアは蓋をじっと見つめた。
やがて、何かを思い出したように目を見開く。
「ちょっと待って。それって……」
「ああ」
「まさか、あのときの?」
「そうだ」
「私がべろんべろんに酔っ払って、あなたに『一生持ってなさい』って言ったやつ?」
「よく覚えているな」
「嘘でしょ! 本当に持ってたの?」
彼女は信じられないという顔で、俺と蓋を交互に見た。
「悪くないだろう?」
俺は蓋を指先で転がした。
「これほど思い出の詰まったものも、そうないからな」
「……そうね」
ヴァレリアは懐かしそうに微笑んだ。
「あの夜は楽しかったわね」
「ああ」
「しかも、ちょうどワルプルギスの夜だったのよね」
妙なことまで覚えているものだ。
酔っ払って何を言ったのかさえ曖昧なくせに、そんな細かい日付だけは忘れていないらしい。
「そういえば」
ヴァレリアが、足元に置いていた鞄を持ち上げた。
長く使い込まれた、少しくたびれた鞄だ。
「私からも、もう一つ渡すものがあるの」
「何だ?」
「いいから、ちょっと待って」
彼女は鞄の中をしばらく探り、やがて小さなものを取り出した。
銀色の指輪だった。
飾り気のない、細くて薄い指輪。
光を受けて、控えめに輝いている。
「どう? いいでしょ」
「指輪?」
「そう。お揃いよ」
彼女は自分の小指を見せた。
そこには、同じ形の指輪がはめられていた。
「……どういうつもりだ?」
「何が?」
「付き合ってはくれないのに、こんなものを渡すのか?」
ヴァレリアは呆れたように肩をすくめた。
「ぐちぐち言う男はモテないわよ」
「余計なお世話だ」
「それに、前にも言ったでしょ」
彼女は俺の手を取った。
「どんなに好きな人が現れても、私は誰とも付き合えないの」
その言葉を聞くのは、初めてではなかった。
理由を尋ねたこともある。
けれど、彼女はいつも、それ以上のことを話そうとはしなかった。
そして俺も、無理に聞き出そうとはしなかった。
ヴァレリアは俺の小指に、そっと指輪をはめた。
冷たい金属が肌に触れる。
不思議な感覚だった。
「……また会えたらいいな」
俺がそう言うと、彼女は微笑んだ。
「ええ、そうね」
それから、少しだけ視線を落とした。
「でも、これで会うのは最後よ」
「……そうか」
「なんとなく、そっちのほうがいい気がする」
彼女は窓の外を見た。
通りを歩く人々は、俺たちのことなど気にも留めず、それぞれの目的地へ向かっている。
「きっと、その方がいいエンディングなのよ」
エンディング。
随分と、彼女らしい言い方だった。
俺は目の前のコーヒーを口に運んだ。
いつもより濃い。
苦味が舌に残り、ゆっくりと喉を通っていく。
おそらく、この味は忘れないだろう。
この店の匂いも、窓から差し込む光も。
向かいに座る彼女の姿も。
「でも、最後くらいは笑顔で別れましょう」
ヴァレリアは笑っていた。
いつもと同じ、明るい笑顔だった。
それなのに、俺はどうしていいのか分からなかった。
笑えばいいのだろうか。
それとも、悲しむべきなのだろうか。
何か気の利いた言葉を返すべきなのかもしれない。
しかし、どれも正しいようには思えなかった。
俺は、人間ではない。
人間たちの暮らしを学び、彼らと同じものを食べ、同じ言葉を話すようになった。
チャールズ教授から愛情を教わり、ヴァレリアを好きになった。
それでも、こういうときに何を言えばいいのか、いまだによく分からない。
彼女は笑っている。
だから、俺も笑うべきなのだろう。
そう思った。
けれど、うまく笑えなかった。
しばらく考えた末に、ようやく一つの言葉が浮かんだ。
それは、かつて愛する人間の最後に告げた言葉だった。
「さようなら」




