運命愛
魔王は、恐れていた。
数多の戦場を駆け、幾千もの命を奪い、魔族の頂点に君臨してきた男。
その男が、たった一人の人間が遺した言葉に怯えていた。
かつて、世に名を轟かせた預言者がいた。
彼の預言は決して外れることがなく、王侯貴族から名もなき民に至るまで、誰もがその言葉に耳を傾けたという。
そして、その預言者は死の間際、魔王にこう告げた。
「魔王は死ぬ。そして、その息子もまた、この世から姿を消すだろう」
それが、彼の最後の預言だった。
魔族たちは理解できなかった。
なぜ、あれほど恐ろしい魔王が、たかが人間一人の言葉を恐れるのか。
魔王の力は絶対だった。人間の軍勢を幾度となく退け、数々の英雄を葬ってきた。その力を知る者にとって、人間の預言など、取るに足らない戯言でしかなかった。
しかし、魔王だけは違った。
彼には、その言葉を笑い飛ばせない理由があった。
かつて、預言者は自身の妻の死を告げたことがある。
いつ、どのようにして死ぬのか。
その預言は、あまりにも具体的だった。
そして、現実となった。
一日たりとも違わずに。
あの日のことを、魔王は今でも覚えている。
どれほど強大な力を持っていようと、死の運命から妻を救うことはできなかった。
だからこそ、彼は恐れていた。
魔王には、もう一つの悩みがあった。
魔族の衰退である。
かつて大陸にその名を轟かせた魔族は、今や往年の勢いを失いつつあった。
その原因の一つが、人間と他種族との結びつきだった。
かつては人間と距離を置いていた異種族たちが、次々と人間の側につくようになったのだ。
魔族を取り巻く情勢は、年々厳しさを増していた。
それだけではない。
近頃では、魔族の中にさえ、人間との共存を望む者が現れ始めていた。
争いをやめ、互いを認め合い、同じ大地で生きていく。
彼らは、そんな未来を語った。
だが、魔王は知っていた。
人間と魔族は、決して共存できない。
少なくとも、彼はそう信じていた。
たとえ一時の平和が訪れたとしても、いずれどちらかが支配する側となり、もう一方は虐げられる。
力を持つ者が、持たざる者を従える。
それが、この世界の理だった。
そして今、その力の均衡が崩れようとしている。
魔族が衰え、人間が勢力を増していく。
このままでは、いずれ魔族は人間に屈することになるだろう。
それだけは、認めるわけにはいかなかった。
しかし、魔王には時間がなかった。
預言が正しければ、自分は死ぬ。
そして、息子もまた消えてしまう。
魔族の未来と、たった一人の息子。
その両方を守るために、魔王は一つの決断を下した。
二度目の禁術を使うことを。
薄暗い広間に、魔王が一人立っていた。
床には複雑な魔法陣が刻まれ、その溝を黒い光がゆっくりと巡っている。
禁術。
それは、魔王でさえ容易に扱うことのできない魔術だった。
強大な力を得る代わりに、術者は相応の代償を支払わなければならない。
魔王は、その恐ろしさを誰よりも理解していた。
なぜなら、彼はすでに一度、その術を使っていたからだ。
それでも、迷いはなかった。
魔王は魔法陣の中央へと歩みを進める。
そして、代償を捧げた。
自分が愛するものを。
魔法陣が輝き始めた。
床を這う黒い光が幾重にも重なり、やがて広間の中央に人の形を作り出していく。
骨が形を成し、肉がまとわりつき、失われたはずの命が、ほんの一瞬だけこの世に引き戻される。
そこに現れたのは、一人の老人だった。
かつて、魔王が自らの手で殺した預言者。
その男が、再び魔王の前に立っていた。
しかし、蘇ったとはいえ、その姿は生者のものとは程遠かった。
落ち窪んだ眼窩。血の気のない肌。今にも崩れ落ちそうな身体。
預言者は、虚ろな目で魔王を見つめた。
魔王は口を開いた。
「……どうすれば、我が息子は強くなれる」
それは命令でも、脅迫でもなかった。
ただ、一つの問いだった。
預言者の唇が、かすかに動いた。
「……異界へ……」
声はひどく掠れていた。
魔王は眉をひそめる。
「異界、だと?」
「……連れて、行け……」
それだけだった。
問い返す間もなく、預言者の身体に亀裂が走った。
乾いた音とともに、その指先が崩れ始める。
腕が、肩が、そして顔が。
やがて老人の身体は細かな塵となり、暗い広間に散っていった。
あとには、何も残らなかった。
魔王はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
異界。
聞き慣れない言葉ではなかった。
しかし、それがどのような場所なのか、魔王自身にも分からなかった。
そこに何が存在し、何が待ち受けているのか。
それでも、魔王は預言者の言葉に従うことにした。
その言葉に、息子を救うための答えがあるのかもしれない。
その晩、魔王は息子を呼び出した。
広間に現れた少年は、玉座の前で足を止めた。
魔王はしばらく、息子の顔を見つめていた。
亡き妻との間に生まれた、たった一人の子。
その瞳には、いつものように何の感情も浮かんでいなかった。
魔王は静かに口を開いた。
「異界へ行け」
少年は父を見上げた。
「……異界?」
「ああ。そこで学び、強くなってこい」
魔王が告げたのは、それだけだった。
異界で何を学ぶべきなのか。
何を成し遂げればよいのか。
いつ帰ってくればよいのか。
そんなことは、一つも説明しなかった。
いや、説明できなかった。
魔王自身、異界について何も知らなかったのだから。
それでも少年は、何も尋ねなかった。
ただ静かに、父の言葉を受け入れた。
やがて、少年の目の前に奇妙なものが現れた。
黄緑色の液体だった。
それは宙に浮かび、まるで水面のようにゆらゆらと揺れていた。
しかし、ただの液体ではない。
その奥には、こちらの世界とは異なる何かが広がっている。
魔王にも、その先を見通すことはできなかった。
「行け」
少年は頷いた。
そして、ためらうことなく液体へと足を踏み入れた。
足先が沈み、膝が消え、やがて腰までが黄緑色の中に呑み込まれていく。
少年は振り返らなかった。
未知の世界へ向かうというのに、その足取りに迷いはなかった。
魔王は、その姿を見て安堵した。
息子には、欲がない。
何かを手に入れたいという願いも、何かを失いたくないという執着も。
だからこそ、恐れることもない。
そのことを、魔王は誰よりもよく知っていた。
少年の肩が沈み、顔が液体に呑み込まれようとした、そのとき。
魔王は小さく呟いた。
「……強くなれ」
その言葉を息子に向けて口にしたのは、これで二度目だった。
一度目は、ずっと昔。
魔王が初めて禁術を使った、あの日のことだ。
魔王は、かつて息子に強さを与えた。
禁断の魔術によって。
生まれた息子の魔力は弱すぎた。
その代償として差し出したのは、息子の欲望だった。
何かを欲しいと思う心。
何かを成し遂げたいと願う心。
そして、失いたくないと望む心。
魔王はそれらを犠牲にして、息子に強大な力を与えた。
その結果、少年は何も望まなくなった。
母が死んだときも、そうだった。
少年は泣かなかった。
母に生きていてほしいと願うことも、もう一度会いたいと嘆くこともなかった。
ただ、その死を受け入れた。
母は死んだ。
それが事実であるなら、受け入れるしかない。
少年にとっては、それだけのことだった。
魔王は、そんな息子の姿を見ていた。
そして、理解していた。
息子が悲しまない理由を。
自分が、そうしてしまったのだということを。
だからこそ、少年は異界へ向かうことにも恐怖を抱かなかった。
未知の世界に何が待ち受けていようと、そこに何の感情も生まれない。
生きて帰りたいという願いさえ、彼にはなかった。
魔王はそれを知っていた。
知っていながら、息子を送り出した。
息子が強くなることを願って。
少年の姿が完全に消えると、黄緑色の液体はゆっくりと収縮し、やがて何事もなかったかのように消え去った。
広間に静寂が戻った。
魔王はしばらく、息子の消えた場所を見つめていた。
そして、ゆっくりと玉座に腰を下ろした。
預言者は、異界へ連れて行けと言った。
息子は、その言葉どおり異界へ旅立った。
これで、あの預言を覆せる。
息子は強くなり、やがて戻ってくる。
そうすれば、魔族の未来も守られるはずだ。
魔王は目を閉じた。
長い間、彼を苦しめていた不安が、ようやく薄れていくようだった。
そして、その夜。
魔王は久しぶりに、深い眠りについた。
これですべてが安泰になる。
そう、確信していた。




