97話
「撤退」の二文字が、混乱を極める戦場へと広がっていった。
伝令の声から声へと、まるで波紋のように前線へ伝播していく。
その声は、クロードと対峙していたジャックの耳にも届いた。
「……へっ、だそうだ」
ジャックは自嘲気味に呟いた。
「決着はお預けだな」
目の前には、膝をつくクロードの姿があった。荒い息を吐き出し、地へ突き立てた斬馬刀の柄にしがみつくようにして、かろうじて体を支えている。
すでに勝敗は決しかけていた。
しかしジャックは無言で刃を収めると、クロードに背を向けてその場を去ろうとした。
「俺をここで殺さなかったこと、死ぬほど後悔させてやるぞッ!!」
後ろからクロードの血を吐くような叫びが届く。
ジャックは振り返ることなく、泥を踏みしめて歩き続けた。
クロードはその背中を睨みつけることしかできず、悔しさに任せて拳で地面を叩きつけた。
───
一方、互いに余力を残したまま隙を窺っていたミナとフレイドの戦いもまた、決着がつかぬまま終わりを迎えようとしていた。
「……お行きなさい」
フレイドが静かに武器を収めた。
「……何の真似だ?」
ミナは疑惑の目を向け、警戒を解かずに問う。
「貴女とは万全の状態で戦いたい。ただ、それだけです」
フレイドが部下たちへ目で合図を送ると、包囲網が割れ、一本の道が開かれた。
ミナが撤退の合図を受け取り、すでに離脱へと意識を傾けていることを察したゆえの配慮であった。
「武人気取りもここまでだと呆れる」
ミナはフッと息を吐き、剣を鞘へと納めた。そのまま身を翻して歩き出す。
「また戦場で逢えたなら、その時にこそ雌雄を決しましょう」
背後から掛けられたフレイドの声に、ミナは立ち止まることなく応じた。
「どこまでも時代錯誤な奴だ。これからの時代……お互い、無事に剣で死ねるとは限らんぞ」
それだけを言い残し、ミナは雨の中へと姿を消した。
───
その時──リデルは不思議な空間を漂っていた。
視界の果てまで、ただ果てしない「白」が広がっている。
何も存在しない、静寂の世界。
己は荒れ狂うオーリス川の濁流へと身を投げたはずであった。……渡河に失敗し、命を落としたのだろうか。そんなとりとめのない思考がぼんやりと頭をよぎる。
その時、背後に確かな「気配」を感じた。
振り向くと、そこに一人の老人が立っていた。
骨と皮ばかりに痩せ細り、今にも倒れそうな痛々しい体躯。しかし──その瞳だけは違っていた。恐ろしいほどの生気と、底知れぬ狂気が混ざり宿っていた。
リデルはその顔に見覚えがあった。
数少ない前世の記憶──かつての自分自身の姿であった。
「……我らながら、随分と甘いものだ」
しわがれた老人の声が響く。
「かつて自分を殺そうとした者を許すどころか……あまつさえ手を貸し、その成長を助けようとするとはな」
リデルは何も言わず、ただ静かに佇んでいた。
「……罪滅ぼしのつもりかね?」
老体は嘲笑を浮かべ、言葉を重ねる。
「そのような真似をしたところで、お前が前世で殺してきた愛する者が許すはずもない。ましてや、生き返るわけでもあるまいし」
老人はすれ違いざま、リデルの肩を軽く叩いた。
「まあ良い。今の人生はお前のものだ、好きにするがいい」
そのまま通り過ぎようとした老人は、不意に足を止めた。
「……だが、覚えておけ」
背を向けたまま、老人の声が低く沈む。
「その甘さは、いずれ自分自身を殺すことになるぞ」
一拍の不吉な間。
「……あの『女』も、そちらの世界に来ているようだしな」
リデルは声を張ろうとした。
あの女とは誰のことだ、と。
しかし、喉が固まったように声が出ない。口唇すら動かない。
老体の背中は白い空間へ溶け込むように遠ざかり、やがて視界全体が深い闇へと沈んでいく。
意識が遠のき、黒が世界を塗りつぶした。
……それから、遠くから声が聞こえ始めた。
最初はかすかな掠れ声。
それが次第に、はっきりと形を帯びてくる。
誰かが、必死に自分を呼んでいる。
リデルはその声のする方向へと歩みを進めた。
暗黒の果てに、木洩れ日のような柔らかい光が差し込み始める。
近づくにつれ光は広がり、やがてリデルの全身を包み込んでいった──。
───
「リデル様! 目を覚ましてください、リデル様!!」
リーフィアの切迫した叫びが、鼓膜を揺らした。
まぶたを開けると、突き刺さるような太陽の閃光が視界を白く染めた。
やがて輪郭が結ばれ、眼前には涙をボロボロとこぼすリーフィアの顔があった。
「……ありがとう。もう、大丈夫だ」
リデルが静かに告げた瞬間、リーフィアは感極まったようにその顔を胸に抱きしめた。
彼女の甘い芳香と、泥や他者の血が混ざり合った生々しい匂いが鼻腔を突く。それが、ここが死後の世界などではないという現実をリデルに強く実感させた。
見上げれば、空はどこまでも青かった。
先ほどまでの猛烈な荒天が嘘のように、清々しい青空が広がっている。
リデルたちは無事、オーリス川の対岸へと辿り着いていたのだ。
リデルがリーフィアの二の腕を軽く二度叩くと、彼女はハッと正気に戻り、慌てて体を離した。
リデルは起き上がり、周囲を見渡した。
兵たちの大きな人だかりができている。
近づくと、そこではゴートンが泥に膝をついており、その前にレイが仁王立ちしていた。
「……此度の惨敗は、私の軽率な進言ゆえのもの。どのような処分でも受け入れる所存です」
ゴートンの声であった。
開戦前にリデルへ語った覚悟を、そのまま実行しようとしていたのだ。全責任を己一人で背負い、死を以て償うべく。
事情を知らぬ周囲の者たちもその情念を察し、もしもの時には制止しようと構えているに見えた。
だが、全ての事情を察しているリデルは動かなかった。止める必要がないと分かっていたからだ。
レイが無言で腰の剣を抜いた。
周囲にピンと張り詰めた緊張が走る。
だが──その口から出た言葉は、誰の予想とも異なるものであった。
「……違うぞ、ゴートン」
静かだが、深く響く声。
「今回の敗戦は、我の自惚れと愚かな願望が招いたものだ」
レイは抜いた剣の刃先を、自らの顔へと向けた。
「死をもって責任を果たすべきは……我が方なのだ」
息を呑む静寂。
「……しかし!」
レイは激しく言葉を継いだ。
「ここで我が死んでしまっては、散っていった者たちに顔向けができぬ! 生き残った者たちの忠義に報いることもできぬ! それではあまりにも無責任だ……!」
光る刃が動いた。
レイの首元へと一直線に走る。
しかし切り落とされたのは肉ではなく──彼の象徴であった美しき長髪であった。
一束の黒髪が、泥の上へとひらりと落ちる。
レイはその場に深く頭を下げた。
「だからどうか……我に挽回の機会を与えてほしい!! 生きて、諸君らが命を懸けるに値する君主であることを、証明させてほしい!!!」
血を吐くような大声。
戦場で上げたどの叫びよりも大きく、魂を揺さぶる声であった。
その頬を、大粒の涙が伝って泥へと落ちる。
周囲の将兵たちが、動いた。
ある者は声を上げてすすり泣き、ある者は強く頷き、またある者は泥に拳を突いて深々と一礼した。
ミナも。ジャックも。リーフィアも。
そしてリデルもまた、静かに頭を下げ──初めて「レイ」という一人の男に対し、真心の敬意と賛同を示したのだった。
───
荒れ狂う川の対岸から、その一部始終を見つめる者がいた。
ギリアスであった。
「どうなさいますか? 我らも渡河し、追撃をかけますか」
傍らのケティルが望遠鏡を下ろし、聞く。
「いや」
ギリアスはしばらく対岸の光景を見つめていたが、やがて静かに首を振った。
「引き際だ。俺たちの完勝を汚すこともあるまい」
背を向け、ゆっくりと歩き出す。
その顔にどのような感情が浮かんでいたかを知る者は、誰一人としていなかった。
後年、この激戦は「オーリス川の戦い」として史書に刻まれることになる。
レイ軍の死傷者は、確認できただけでも一万八千を数えた。
グランツ陣営が帝都進出以来、初めて味わった紛れもない大敗北であった。
しかし──それと引き換えに一人の異能の男を本物の「支配者」として覚醒させたこの一戦は、やがて全土の歴史を大きく揺るがす重大な転換点として、永く語り継がれていくのであった。




