98話
南を進むドン軍、そして中央を進むグランツ本隊のもとへ、一撃の凶報が舞い込んだ。
──レイ軍、大敗
その時、グランツの本隊はすでにオーリス川の渡河を完了させていた。敵首都エルドラへの本格的な侵攻態勢を整え終えた、まさにその瞬間であった。
伝令がグランツの前へと伏し、事態を報告する。
報告を静聴したグランツは、眉ひとつ動かさなかった。
「レイは無事かね」
開口一番に問うたのは、それだけであった。
「はっ」
伝令が迅速に応じる。
「現在はリデル様と合流し、西に向かって敗走中でございます」
その言葉を聞き、グランツの目元がわずかに緩んだ。
普段の彼からは想像もつかぬ、あからさまな安堵の表情であった。
「……それと、もう一つ」
グランツは重ねて問う。
「敗走するレイの軍勢は、追撃を受けているか否か。どちらだ」
「辺境伯軍は川を渡らず、川沿いを下って南下しております。恐らく現時点でも、レイ様への追撃は行われておりません」
その報告の瞬間、周囲の諸将に動揺が走った。
陣内にざわめきが波紋のように広がる。
辺境伯軍が川沿いを下っている──それはすなわち、このグランツ本隊へ向けて真っ直ぐ進軍していることを意味していた。
(──決戦か、あるいは撤退か)
二つの選択肢が、全員の脳裏を同時に駆け巡る。
頭の中で素早く勝算を考え始める者がいた。
伝令の報告が確かであれば、互いの兵力はほぼ拮抗している。しかもこちらはすでに渡河を終えており、今度は我々が地の利を活かして敵を迎え撃つ陣形を敷くことができる。
しかし。
対峙する相手は、あのマルシア軍と三年以上も死闘を繰り広げてきた東方兵の猛者たちだ。そして事実として、レイが率いた六万の大軍を一方的に叩き潰した軍勢でもある。正面から激突した場合、勝利の保証などどこにもなかった。
誰もが確信を持てず、そして誰ひとりとしてグランツへ進言しようとはしなかった。
これまで、グランツの決断は常に絶対の正解であった。
あらゆる窮地において、グランツは完璧な結果を示し続けてきたのだ。
ゆえに諸将は固く口を閉ざし、全知全能と思われるグランツの下知をただ静寂の中で待った。
幕舎の中に、重苦しい静寂が満ちる。
隙間風が、天幕の布地を虚しく揺らす。
そして──グランツが静かに口を開いた。
───
一方、南下を続けていたギリアス率いる本隊は、すでに戦闘体勢に入っていた。
オーリス川の戦いで圧倒的勝利を収めた勢いそのままに、返す刀でグランツ本隊を撃破すべく、破竹の勢いで行軍を再開していたのだ。
まさに、その最中であった。
「──報告ッ!!」
前方より疾走してきた斥候兵が、息を乱しながら本陣へ駆け込んできた。
「オーリス川を渡河していたグランツ本隊ですが……再び川を渡り、西へと反転! 全軍、総撤退を開始いたしましたッ!!」
その言葉が響き渡った瞬間、周囲の諸将から歓喜の咆哮が上がった。
「我らの完全勝利だッ!!」
「グランツめ、尻尾を巻いて逃げ出しおったか!!」
「東方兵の敵ではなかったな! この勢いのまま帝国本領まで攻め込もうぞ!!!」
重なる大声、突き上げられる拳。
将兵の誰もが、宿敵を打ち破った高揚の渦の中にいた。
ギリアスは諸将の歓声に対し、男らしい不敵な笑みで応えた。
探るような視線を避け、軽く口元を覆って咳き込む。
さりげなく自らの手元を見つめると、すぐさま背を向けた。
「……今日はここで祝杯を挙げるぞ」
ギリアスは朗々と告げた。
「本隊の嗜好品を全て放出し、兵たちの労をねぎらってやれ」
地鳴りのような大歓声が、天をつかんばかりに湧き上がる。
その狂喜の喧騒の中、ギリアスは一人静かにその場を後にした。
誰ひとりとして気づく者はいなかった。
彼が口元を覆ったその掌に、べっとりと濃密な血がへばりついていたことに──。
───
──グランツ本隊ならびにドン軍、総撤退
その報せは、西を目指して泥道を歩むリデルのもとにも届いた。
リデルの愛馬は奇跡的に対岸へ辿り着いていたものの、今は重傷者を搬送する馬車の引き馬として提供されていた。そのため、彼自身も一兵卒に混じって歩を進めていたのだ。
報告を終えた伝令に対し、リデルは特に動揺する様子も見せなかった。
「……そうか。分かった」
ただ一言、それだけを返した。
拍子抜けしたような表情で、伝令は辞去していく。
その傍らで、リーフィアもまた報告を静聴していた。
彼女は微動だにせず、ただ佇んでいた。
これまで誰よりも近くでリデルに仕え、どんな死地においてもその横顔を見つめ続けてきた彼女であったが──いま、その顔にはこれまで一度も見せたことのない異様な色彩が浮かんでいた。
言葉にならぬ激しい悔恨。
そして、いつか必ずこの屈辱を雪ぐという、暗く冷たい「報復の炎」が、その瞳の奥で静かに燃え上がっていた。
だが、リデルはその変化に気づいていなかった。
ただ固く前を見据え、敗走の道を一歩一歩、確かな足取りで歩み続けていた。




