96話
鋭利な刃が肉を切り裂く、鈍い音が響いた。
レイは固く目を瞑り、訪れるはずの激痛を待っていた。
──だが、痛みが来ない。
恐る恐る目を開けると、三人の護衛兵が目の前に立ちはだかっていた。
文字通り、「肉の壁」となって。
迫り来る刃を、己の体で直接防いでいたのだ。一人は腕から血を吹き出させ、もう一人は肩に刃が刺さったまま、それでも倒れず踏みとどまっていた。
それだけではなかった。
周囲で別の敵と交戦していた兵たちが、レイの危機を知るや、目の前の戦闘を捨てて集まってきたのだ。
敵に背を向けて走るなど、戦場においては死と同義である。それでも彼らは、迷わず駆け込んできた。
壮絶な激戦であった。
何度もレイに危機が迫る。その度に誰かが間に割って入り、誰かが盾となり、誰かが傷を負って倒れていった。
レイはその光景を、ただ茫然と見つめていた。
感覚が麻痺していた。理解が追いつかない。
彼らは「被害者」であるはずだ。レイ自身、そう自覚していた。自分の醜い願望と功名心のために動かされ、ギリアスの策に嵌まってこんな死地に引きずり込まれたのだ。むしろ自分を憎み、呪って当然の存在のはずであった。
しかし兵たちは、一切の迷いなくレイを守るためにその身を投じていく。
やがて、数による押し返しとリーフィアの怒涛の奮戦によって、迫り繰り出した敵群はことごとく切り伏せられた。
周囲に、束の間の静寂が戻る。
その時──傍らで、一人の兵士が泥の中に膝をついた。
腹を押さえる中年兵だ。深く刃を突き立てられていた。
だが、死を目前にしたその顔には、どこか深い安堵の色が浮かんでいた。
「……よかっただぁ」
訛りの混じったつぶやき。
「……陛下様が、ご無事で」
そこに嘘偽りなど微塵もなかった。
レイにはそれが痛いほど伝わった。だからこそ、余計に理解できなかった。
「……どうして」
レイの声が震える。
「……どうして我がために、そこまで」
兵士は迷うことなく、途切れ途切れに答えた。
「そりゃあ……陛下はワシらにとって、『希望』だからですけ」
「……なに?」
「先祖代々、家畜同然だったワシらを解放してくださったのは……陛下ですけえ」
農奴解放令──。
レイがその施策を何の目的で行ったか、忘れるはずもなかった。
反乱粛清によって死に体となった在郷有力貴族にとどめを刺すための、政治的な手段に過ぎなかったのだ。領民の救済など露ほども考えてはいなかった。むしろ急進的な構造改革によって、農奴だった者たちも大なり小なり被害や混乱を被っていたはずなのだ。
レイはその事実を正しく理解していた。
「それだけじゃねぇ……」
兵士は弱々しく微笑みながら続けた。
「娘や息子たちも、もう土地や地主様に縛られずにすむ……。昔のオラたちじゃあ想像もできなかった未来を、子供たちが歩めるように……陛下がしてくれたんですけ」
兵士の血に染まった手が、力強くレイの手を握りしめた。
「だからどうか……陛下は生きてくだせぇ。オラたちの子供の──」
言葉が、途中で途切れた。
手から、すっと力が抜け落ちる。
レイはその手を握り返したまま、凍りついていた。
降りしきる豪雨の中、赤い血が泥水とともに広がっていく。
かけるべき言葉など、何一つ見つからなかった。
レイは無言のまま兵士の最期を見送った。抜け落ちたその手を、いまだ握りしめたまま。
雨音を突いて、足音が近づいてきた。
リデルであった。
激戦を潜り抜けた衣服は赤黒く汚れていたが、その足取りに乱れはなかった。
茫然自失のレイの傍らに、静かに膝をつく。
「……まるで意味が分からない、というお顔ですな」
落ち着いた声であった。
「……」
「彼だけではありません」
リデルは惨状を極める戦場を見渡した。
「陛下の盾となって散っていった者たちも、今なお死力を尽くして戦う者たちも……全員が同じ覚悟を抱いております」
レイが血走った目でリデルを見返した。
「なぜかお分かりですか」
リデルはレイの肩を力強く叩いた。
「かつて陛下がグランツ様に救いを見出したように……民草もまた、レイ様ご本人に『光』を見出したからです」
レイはリデルの瞳をまっすぐに見つめた。そして、息を呑んだ。
リデルと出会って以来、幾度となく視線を交わしてきた。だがその眼差しは常に、レイを試すような冷徹な値踏みか、圧倒的な威圧、あるいは精緻な計算が宿るものであった。
しかし、今は違っていた。
真剣そのものであった。己の魂の全てを込め、真実を伝えようとする眼差し。
「もはや逃げ出すことは許されません」
リデルの言葉が深く紡がれる。
「栄光も汚辱も、その全てを生きて受け止めなければならない。それこそが、統治者としての責務であり、逃れられぬ業なのです……!」
その言葉が、レイの胸の奥底へと深く深く突き刺さった。
何かが音を立てて弾けた。
長い間、己の心を苛み続けていた暗雲と深い霧が、一気に吹き飛んでいくような感覚。
いま、霞んでいた己の進むべき道が、くっきりと目の前に立ち現れていく。
レイは無言のまま、だが力強く泥を蹴って立ち上がった。
唇を固く噛み締め、そこから赤く血が滲む。顔は苦渋に歪んでいたが、その瞳の奥には猛烈な熱量が燃え盛っていた。
もう迷わない。
もう立ち止まらない。
もう死ぬことなど絶対に許されない。
失敗も、屈辱も、惨敗の泥を啜ることも──その全てを背負って前へ進む。
固い決意が、レイの魂に刻み込まれた。
「──総員ッ!! 川の対岸へと退却せよッ!!! 我に続けぇぇぇッ!!!」
レイが腹の底から叫んだ。
それは、これまで誰も聞いたことのない、魂を揺さぶる覇気にあふれた咆哮であった。
身を翻すと、目の前の川へ向かって一直線に走り出した。
演技めいた虚構の気取りも、隠しようのなかった小心者の面影も、そこには一片すら残されていなかった。
ただひたすらに、前だけを見据えて走る。
その姿はあまりにも見事であり、堂々としていた。
あの冷徹なリデルですら、思わず感服するほどの圧巻の逃げっぷりであった。
「──総員ッ!! 撤退、撤退だッ!!」
一拍遅れて、リデルも全軍へ向けて大声で号令を発した。
自らも走り出し、並走するリーフィアへ素早く指示を飛ばす。
「レイ様は泳げぬそうだ! 手助けをして差し上げろ!」
「承知いたしました!」
リーフィアは力強く頷くと、速度を上げてレイの背中を追いかけていった。
その背中を見送りながら、リデルはひとまず胸を撫で下ろした。
(……これでレイはもう大丈夫だろう)
しかし次の瞬間、リデルの胸中に別の強烈な不安が湧き上がった。
(……さて。私自身も泳ぎは決して得意ではないのだが、どうしたものか)
走りながら思考を巡らせる。
だが、考えている間にも足が止まることはない。
豪雨のなか荒れ狂うオーリス川の濁流が、目の前に迫っていた。
生きようとする本能が、勝手に身体を動かしている。
リデルは微かな迷いすら脱ぎ捨て、荒れ狂う濁流の中へと、躊躇なくその身を躍らせたのだった。




