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94話

ギリアスは指で輪を作り、片目に当てて遠くの戦場をつぶさに観察していた。

 

「……おい」

 

低い声が漏れる。

 

「おいおいおいおい……!」

 

急激に声のトーンが跳ね上がった。

 

「なんだ、ジャック! そしてリデル! アンタまでここに来てたのか!?」

 

その表情は実に愉しそうであった。心の底から喜びを爆発させている。

その隣で、ケティルが気怠げに望遠鏡を構えていた。激戦の最中であることを一切感じさせない、いつも通りの飄々とした佇まいである。

 

「……なんでこの距離を裸眼で見えるんですか、ギリアス様は」

 

愚痴めいた呟きとともに望遠鏡を動かす。

 

「てか……どこです?」

 

「ほら、あそこ! あそこだよ!」

 

ギリアスがケティルの持つ望遠鏡の筒を強引に向き直させた。

「……あ。いた」

 

ケティルは望遠鏡を下ろした。

 

「内政家としてだけでなく、将としても優秀と聞いてましたが……」

 

少し思案するように言葉を置く。

 

「まさかあんな最前線を突っ走る脳筋だったとは。恐れ入りますね」

 

「だろ? 面白い奴だろう」

 

ギリアスは実に愉快そうに笑った。

 

「アイツとなら、俺たちでも仲良くなれるぜ」

 

「ええ、そうでしょうね」

 

ケティルは再び望遠鏡を覗き込みながら言葉を継いだ。

 

「戦術家としても超一級なのは認めます。完璧なタイミングの横槍のおかげで、クロード隊の攻撃は乱れに乱れ、その混乱が周囲の部隊へも波及しています」

 

ケティルの分析は正確であった。

勝勢に乗っていた辺境伯軍は、予期せぬ側撃によって出鼻を挫かれ、クロード隊の突撃が完全に停止していた。それを見た周囲の部隊も、長年の実戦経験ゆえに「ただならぬ指揮官と精鋭がいる」と察知し、不用意な攻撃の手を緩めていたのだ。

流石はマルシアの軍勢と戦い抜いてきた東方兵であった。無謀な攻勢で無駄に被害を拡大させることを本能的に避け、引き時を心得ていたのだ。

しかし──それは「凡庸の中では優秀」という域を出ない。

凡庸を超越した名将は、その混迷の中にすら勝機を見出す。

そして、名将リデルの電撃的な動きに対し、同じく覇王たるギリアスが黙っているはずもなかった。

ギリアスは無言で馬に跨がり、陣頭へ出ようと手綱を握る。

だが──その目前に、ケティルが立ちはだかった。

 

「いけません、ギリアス様」

 

そこには普段の気怠さはなく、断固とした意志が宿っていた。

 

「そのお身体で前線に出ることも、ましてやスキルをこれ以上酷使(・・)する事も、私が許しません」

 

「ケティル……」

 

「我々だけで十分対処し、勝利してみせます。どうか我々を信じ、ここでご指示を」

 

一切の妥協を許さぬ態度であった。

ギリアスは馬上で大きくため息をついた。

 

「……まったく、ウチの息子の嫁さんはしっかりしていて頼りになるぜ」

 

呆れたように呟きながら、馬から降りる。

 

「まあ……そうは言っても、特に手出しをする必要なんてないんだがね」

 

「……と、おっしゃいますと?」

 

「俺の指示なんてなくてもさ。今頃、ウチの若頭(フレイド)が勝手に動いているはずだ」


───


戦場の中心では、クロード隊とヴェーデル騎士団による壮絶な激突が続いていた。

一進一退──などではなかった。

優勢に立っていたのは、ヴェーデル騎士団であった。

クロード隊は数々の修羅場を潜り抜けてきた精鋭であったが、ヴェーデル騎士団もまた帝都攻略以来の主要な戦役をことごとく駆け抜け、常に勝利を決定づけてきた猛者たちである。

彼らには自分たちこそがグランツ陣営最強の騎士団という、絶対の自負があった。その高い誇りが、凄まじい戦闘力へと変換されていたのだ。

そして何より──その陣頭には「剣聖」が立っていた。

 

「女ぁッ! 俺の奴隷になるなら生かしてやるぞ!!」

 

ミナの姿を捉えた数人の男たちが、下卑た笑いを浮かべながら問答無用で襲いかかる。

──だが、それが彼らの生前最後の言葉となった。

そして、最後に目にした光景でもあった。

ミナは三人に向かって、しなやかに踏み込んだ。

雑踏で人とすれ違うかのように、軽やかにその脇を通り抜ける。

次の瞬間、三人の男たちは斬られたことすら理解できぬまま、首と胴体が鮮やかに切り離されていた。

 

「……フン」

 

ミナは立ち止まることすらなく、吐き捨てる。

 

「ゲス共にはお似合いの最期の言葉だったな」

 

その瞬間、背後から不穏な殺気が迫る。

死角から敵兵の一人がミナの首筋を狙って刃を振り下ろそうとしていた。

──だが、ミナが振り返るより早く、その敵の首筋が一閃のもとに切り裂かれた。

男が崩れ落ちる。

 

「……調子は戻ったのか?」

 

ミナは前を見据えたまま尋ねた。

 

「ああ」

 

刀の血を払ったジャックが短く応じた。

 

「姫様をお守りするのが騎士の『務め』だからな。いつまでも怯えているわけにはいかないのさ」

 

「その意気だ」

 

ミナは剣を深く構え直した。

 

「お前は私と立ち合って生き残った数少ない一人なのだからな。いつまでも腑抜けていられては、剣聖としての私の名が廃る」

 

互いに背中を預け合いながら、冗談混じりに言葉を交わす。

ジャックはそれをミナなりの不器用な励ましだと受け取り、失われかけていた調子を取り戻しつつあった。

 

「……じゃあ、俺の本調子完全復活を記念して、この戦いが終わったら二人でデートでもいかがでしょうか?」

 

「いいだろう」

 

ミナがあっさりと肯定した。

ジャックは一瞬、面食らったように目を丸くする。

 

「……ほんとに?」

 

「……お互いに生きて生き残れたらな」

 

ミナが付け加えた。

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、前方の空気が劇的に霧散・変質した。

ミナの鋭い視線が正面へと向けられる。

凄まじく重厚な圧迫感が迫っていた。

フレイド──ジャライカ戦士団を率い、豪雨を突いて正面から突進してくる。巨躯と傷だらけの厳つい貌が、雨の中でも圧倒的な存在感を放っていた。

一方、ジャックの正面からは──。

 

「──見つけた! 見つけたぞ、ジャぁぁック!!」

 

鼓膜を破らんばかりの怒号が響き渡った。

クロードであった。

額に青筋を立て、凄まじい様相で馬を飛ばして迫ってくる。何かを狂ったように叫んでいるが、雨音と戦場の喧騒によって言葉の大半は掻き消されていた。

だが──腹の底からの絶大な「憎悪」だけは、痛いほどに伝わっていた。

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