92話
「我が友グランツに危機が及ぶ可能性が一片でもある以上、我らが立ち止まるわけにはいかぬ」
レイは堂々と言い切った。
「オーリス川に到着次第、即座に敵を攻め立て、川を渡るぞ!」
ゴートンは無言で力強く頷いた。
リデルもまた、静かに深々と一礼した。
「……御意に」
かくして、レイと六万の将兵の運命はここに定まった。
───
「──かかれーっ!」
レイの鋭い号令が、川岸の空気に響き渡った。
第一波の突撃部隊が、対岸で待ち構えるわずか千名の東方兵へと襲いかかる。
いかに精強を誇る東方兵といえど、あまりの兵力差の前には多勢に無勢であった。一時間も経たぬうちに勝負の決着はつき、千の敵兵は川岸から退いていった。
それを確認し、主力が本格的な渡河を開始した。
近辺の橋は事前にすべて落とされていたため、全軍が川に入り歩いて渡るほかはなかった。
川幅は広大であったが、幸いにも川底は浅く、大人の腰より少し高い程度の水位であった。
陣列を崩さぬ整然とした進軍であれば、大きな支障は生じないはずであった。
(……もし対岸で予期せぬトラブルが起きたならどうなる……?)
壊走同然のパニック状態でこの川へと逃げ戻れば、無数の兵が足を取られて転倒し、溺死するか、あるいは味方の踏みつけによって圧死することになる──。
リデルは馬上で、そのような不吉な惨劇の計算を弾いていた。
その時、横から一頭の馬が並びかけてきた。
ゴートンであった。
前方に視線を向けたまま、低い声で呟く。
「……先ほどは、ありがとうございました」
「何のことだ?」
リデルが応じると、ゴートンは口元に小さく笑みを浮かべた。
「世の中には、己の意見や常識が否定されたと分かった途端、他者の足を引っ張ることだけに腐心する者が多く存在します」
「……」
「殊に、聡明と評される貴族や学者連中に限ってその手合いが多いため手に負えません。誰もが貴殿のように節度ある人物であれば良いのですがね」
「私はただ、進言すべきことを口にしたまでに過ぎん」
リデルも前を見据えたまま静かに返した。
「君とて同じだ。もし立場が逆であったなら、互いに同じ判断を下していただろう」
「……フッ」
ゴートンは鼻で小さく笑った。
「さすがは、グランツ様の『懐刀』と恐れられるだけのお方だ」
そのまま、一段と声を落として言葉を継ぐ。
「……もし、この先において何らかの万が一が生じた際には──」
「何だ?」
「──リデル様の手で、すべての責任をこの私に押し付けていただきたい」
リデルはその言葉の真意を瞬時に汲み取った。
最終判断を下した主君レイに罪が及ばぬよう、己を盾とするこの男なりの深い忠義であった。
「……覚えておこう」
リデルは答えた。
「もっとも、お互いに無事でいられたらの話だがな」
「……まったくですな」
ゴートンは再び前を見据えた。
二人で言葉を交わすうちに、全軍の渡河は無事に完了していた。
馬の蹄が力強く対岸の土を踏みしめ、背後で激しかった川のせせらぎが遠ざかっていく。
目の前には、見渡す限りの広大な対岸の地が広がっていた。
葦の群落が続き、その奥には緩やかな丘陵がどこまでも連なっている。
静かであった。あまりにも、不気味なほど静まり返っている。
その重苦しい静寂は、全軍に嫌でも強い緊張感を強いていた。リデルが事前に伏兵の危険性を説いていたからこそ、なおさらであった。
将兵の一人ひとりが頭の中で最悪の事態を想定しながら、それでも前へと足を進めていく。
対岸への移動自体は極めて順調であり、一時間ほどで六万の全軍が渡河を終えた。
(……ここまでは上々、か)
リデルがそう思考を巡らせかけた、まさにその時であった。
隣に視線を向けると、ジャックの顔色が蒼白に変色していた。
ミナもその異変に気づき、極度の緊張を隠すように茶化す声をかけた。
「どうしたジャック? ここに来て武者震いでも止まらなくなったわけ?」
しかし、ジャックの身体の震えは一向に収まらなかった。
「……クソがっ! こんなタイミングで来るのかよ……!」
ミナの言葉を完全に無視し、歯噛みしながら低く呻く。
「……いるのか?」
リデルが問う。
内心では自身の鼓動までもが激しく鳴り響き始めていたが、それを顔には一切出さなかった。
「……ああ」
ジャックは声の限りをしぼり出すように告げた。
「……俺たちが完全に渡り切るのを待って、見せつけるように強烈な殺気を解き放ってきやがった。……くそ、勘の鋭い奴も気づいてるだろうぜ」
ジャックの懸念は、即座に現実となった。
軍勢のあちこちで、恐ろしい変異が起き始めていたのだ。
ある者はジャックと同じく原因不明の猛烈な悪寒と震えに襲われ、ある者は「今すぐ逃げろ!」と狂ったように叫び出した。さらに錯乱した者は自ら刃を首筋に当てようとし、慌てた周囲の兵に取り押さえられていた。
はじめは、ほんのわずかな恐怖の波紋に過ぎなかった。
だが、その目に見えぬ不気味な絶望は瞬く間に感染し、六万の巨大な軍勢は加速度的に集団ヒステリー状態へと陥っていく。
その時、天候が急激な変貌を遂げた。
先ほどまでの晴天が嘘のように黒雲に覆われ、風向きが激しく変わる。
突如として猛烈な豪雨が叩きつけ、激しい雷鳴が大地を揺らした。
──次の瞬間であった。
見渡す限りの葦の群落の中から、人影が立ち上がった。
一人。
二人。
三人──。
そこからは、目を疑うような勢いと速度で増殖していった。
広大な葦の原がうねり、丘陵の陰から黒い群衆が這い出してくる。
渡河を終えたばかりの六万の軍勢を、完全に包囲するほどの巨大な規模で無数の影が現れた。
あちこちで風にたなびく、ティーガル辺境伯の漆黒の軍旗。
敵の兵力は、こちらと同等──いや、それ以上であった。
戦場の霧は完全に晴れ渡り、残酷な真実が白日のもとに晒された。
ギリアスが「最初の標的」として定めたのは──他ならぬ、このレイの軍勢であったのだ。
激しい豪雨の中、一人の男が馬上で悠然と佇んでいた。
「……ヘッ」
ギリアスは空を仰ぎ、ニヤリと口元を歪めた。
「お天道様までもが、俺たちの勝利を祝福してくれているらしいぜ」
周囲の側近たちから、野性味あふれる笑い声が湧き上がる。
ギリアスはゆっくりと正面を見据えた。
そこには、あまりの衝撃に言葉を失い、雨の中で立ち尽くす六万の哀れな軍勢が広がっていた。
ギリアスの瞳が、それらを冷徹に捉える。
獲物の息の根を止めるタイミングを見定める、猛獣の眼光。
そこには一切の迷いもなく、揺るぎない確信だけが宿っていた。
肩叩き代わりにしてはいた指揮杖を、天高く掲げる。
そして──力任せに振り下ろした。
「──全軍、突撃」
怒号のような咆哮が、雷鳴と豪雨を切り裂いて響き渡る。
「連中に、本物の地獄を叩き込んでやれッ!!」




