91話
レイ率いる軍勢は、大きなトラブルもなく順調に行軍を続けていた。
食糧や水の補給も滞りなく、行軍速度も概ね予定通りであり、全軍はついにオーリス川の近辺へと差し掛かっていた。
リデルは隊列の中腹、レイの周りを固める本領貴族たちの集団から少し離れた後方に位置していた。
それは露骨なまでにリデルとの接触を避ける配置であり、ゴートンの言葉どおり徹底されていた。
「……リデル」
隣を並走するジャックが、低く声をかけてきた。
「ああ、分かっている。辺境伯軍が仕掛けてくるなら、このオーリス川周辺だと言いたいのだろう?」
「ああ」
ジャックは前方に視線を向けたまま言った。
「ギリアスの十八番は伏兵と奇襲だ。このオーリス川周辺は葦が生い茂り、その先には緩やかな丘陵が連なっている。大部隊でも、容易に身を隠せる地形だ」
「進言したいところだが、今の状況ではな。もっとも、その程度の警戒はゴートンたちも怠ってはいないはずだ」
「……不安なのは、地形のことだけじゃない」
ジャックの声に、わずかな緊張が混じる。
「俺の見立てでは、この軍勢が三軍の中で最も危うい。レイ陛下にゴートン、そしてお前。全員が異なる立場で異なる意見を持ち、誰一人として主導権を握れていない状態だ」
「……」
「『船頭多くして船山に登る』というやつさ。ギリアスなら、必ずその指揮系統の間隙を突いてくる」
「さすがに考えすぎではないか?」
「いや……」
ジャックの瞳には、真剣な光とともに微かな怯えが色濃く混じっていた。
「俺は戦士団時代、奴がそういう場面を幾度も制するのを見てきた。ギリアスは組織の不協和音や人間の綻びを嗅ぎ分ける天才だ。奴は、人間というものを熟知している」
リデルはジャックの言葉を静かに反芻し、頭の中で素早く計算を弾いた。
限られた情報の中で敵陣営の指揮系統の揺らぎを察知し、そこに的確に牙を剥く──もしそれが事実なら、あの男の洞察力はもはや名将という水準すら逸している。だが、あるいは。
その時であった。
前方から激しい馬蹄音が響き渡り、一騎の伝令兵が駆け込んできた。
レイの目前で馬を止めると、息を切らせながら叫んだ。
「報告! この先に、東方兵の展開が確認されました!」
全軍に一瞬で緊張が走った。
隊列の中にざわめきが広がり、レイも目を見開いた後、覚悟を決めたように表情を引き締める。
その中で唯一、ゴートンだけが微動だにせず冷徹さを保っていた。
「兵力は?」
「それが……」
静かな問いただしに、伝令兵は逆に言いにくそうに口ごもった。
ゴートンは即座に言葉を重ねる。
「三万でも四万でも構わん。我々には六万の兵がいるのだからな」
「……千であります」
伝令兵が絞り出すように答えた。
「オーリス川の対岸に展開している敵兵力は……目視で約千名程度に過ぎません」
先ほどとは異なる困惑と不穏なざわめきが、諸将の間に広がった。
「……千だと!?」
ひとりの将軍が憤怒の声を上げた。
「我らを舐めおって!」
「蛮族どもめ、たった千で何ができる!」
「直ちに渡河し、踏み潰してやるべきだ!」
血気盛んな怒号があちこちから巻き起こる。
レイもまた、その勢いに押されるように果敢な討伐命令を下そうと口を開かけかけた。
その時、諸将を押し分けて一人の男が前に進み出た。
リデルであった。
「申し上げます、陛下」
レイの傍らへ歩み寄り、静かに言葉を紡ぐ。
「あまりに敵の兵力が少なく、露骨に過ぎます。伏兵の罠である可能性が極めて高く、安易な攻撃は極めて危険です。まずは斥候を放ち、周囲の敵情を細かく探るべきかと」
初歩的かつ極めて堅実な進言に、周囲の諸将からも頷く動きが広がった。反論の余地のない正論であった。
レイも納得したように頷きかけた──その時である。
「私はリデル様の進言に反対です、陛下」
ゴートンの静かな声が、制するように割り込んだ。
「それこそが、ギリアス側の狙いである可能性がございます」
リデルはゴートンが次に発する言葉を、言う前に察知していた。それはリデル自身もすでに頭の中で懸念として処理していた可能性の一つであった。
「ど、どういうことだ、ゴートン?」
レイが困惑気味に尋ねる。
「そもそも我々の足を止めさせ、時間を稼ぐことこそが敵の目的である可能性が高いのです」
ゴートンは淀みなく言葉を続けた。
「仮に我々の前に立ちふさがる敵が本当に千名に過ぎない場合、辺境伯軍の本隊は、一体どこへ向かっているとお考えですか?」
一拍の間。
「……間違いなく、中央を進むグランツ様の本隊です」
レイの顔からさっと血の気が引いた。
リデルは珍しく語気を強めて反論した。
「それも推測の域を出ない。リスクを最小限に抑えるためにも、まずは迅速に敵情を探るのが筋だ。斥候を出せば状況は明確になる」
「川を越えて斥候を放つにも、地の利は敵にあります」
ゴートンも一歩も引かなかった。
「成功の確率は低く、どちらにしてもいたずらに時間ばかりを浪費することになります」
「だが、確たる確認もなしに全軍を動かすのは愚策だ!」
「確認を待つ間にグランツ様の本隊がギリアスの本隊に急襲された場合、どのような責任をお取りになるおつもりですか!?」
ゴートンの鋭い眼光が、リデルを正面から射抜いた。
その瞳に私心や対抗心はなく、リデルと同じ「迷い」と「危惧」が宿っていた。
リデルは内心で思考を整理した。
これは明確な答えのない天秤であった。
ゴートンの主張も痛いほど理解できた。彼ら東部本領貴族という「外様」の立場からすれば、斥候を出して逡巡している間に主君であるグランツが討たれれば、「利敵行為」「見殺し」という汚名を着せられ、陣営内での立場を完全に失う。
ならば罠と知りつつも果敢に打って出て、千の敵を粉砕し、ギリアスの背後か手薄なエルドラを突く方が、武功としても名分としても立つ。たとえ失敗しても「勇敢に戦った」と評価され、責められる道理はないからだ。
もっとも、どちらにしても生き残れてかつ、グランツ陣営が滅亡していない、という前提の話ではあるが。
確認もなしに大軍を罠かもしれない地形へと踏み込ませることに、リデルの冷徹な理性が強い拒絶を示していた。
しかし、本人らも理解しているようにも、現状では双方の主張はともに正しく、ともに間違っていない。
答えは戦場の霧の向こう側にあり、神ではない人の子である彼らに分かるはずがない。
そして、リデルとゴートンの双方が一歩も引かない以上、最終的な決定権はただ一人へと委ねられた。
──レイ・ヴェーデル。
全員の重い視線が、一斉にレイへと集中した。
レイはその美しい瞳をわずかに揺らし、息を呑んだままじっと佇んでいた。
だが、それほど時を置かず、覚悟を決めたようにその唇が開かれた。




