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90話

レイは手にした書類に目を落としたまま、家臣の報告に静かに耳を傾けていた。

その横顔には、確かに「何か」が宿っていた。

先ほどリデルが感じ取った、あの得体の知れない重圧感が漂っていた。

リデルは、その様子を息を潜めて見つめていた。

その時、レイの視線がふと動いた。

天幕の入口へと向けられたその瞳が、リデルの姿を捉える。

 

「……ひっ!?」

 

短く、情けない悲鳴が漏れた。

次の瞬間、先ほどまでの圧倒的な威圧感が霧散した。

重圧も、存在感も、一瞬にして綺麗さっぱり消え失せる。書類を握る指先が、目に見えて震えていた。

 

「り、リデル……! い、いつ到着したのだ!?」

 

声のトーンも、うろたえる仕草も、完全に「いつものレイ」であった。

 

「先ほど到着いたしました、公王陛下」

 

リデルは恭しく一礼した。

 

「……お久しゅうございます」

 

(……私の錯覚だったとでもいうのか?)

 

リデルは内心で、己の直感を疑い始めていた。

 

「そ、そうか……! お前もヴェーデルや各地をめまぐるしく行き来して、さぞ疲れていることだろう」

 

レイは気まずそうに視線を泳がせながら、早口で捲し立てた。

 

「こんな雑務は我が処理できるゆえ、お前は奥でゆっくり休むが良い!」

 

言うや否や、レイは書類を抱え込んだまま、逃げるように天幕の奥へとそそくさと去っていった。

リデルはその唐突な後ろ姿を、呆然と見送るしかなかった。

ふと、背後から忍び笑いが漏れ聞こえた。

振り返ると、ゴートンが肩を揺らしていた。

 

「……何か可笑しいことでもあったか、ゴートン殿」

 

「ええ、まあ」

 

ゴートンは笑いを噛み殺しながら答えた。

 

「すべからく私の予想通りでしたので。立ち話も何ですから、まあお掛けください」

 

勧められるまま、リデルは席についた。

 

「驚かれたでしょう。まるで閣下ご本人がそこにいるかのようだったのでは?」

 

ゴートンが切り出した。

 

「……ああ」

 

リデルは素直に認めた。

 

「あれは一体、どういうカラクリなんだ?」

 

「閣下は、レイ陛下がかつて演劇界で『スプレンドール』の名を馳せた凄腕の男優であったことはご存じですよね?」

 

「ああ、知っている」

 

「まさかと思われるでしょうが」

 

ゴートンは悪びれもせずに言った。

 

「あれは、文字通り『演じていた』のですよ」

 

リデルは眉をひそめ、「そんなバカな」と言いたげな表情を浮かべた。

 

「陛下ご本人曰く、あれは『演者』というスキルの効果だそうです」

 

「『演者』だと?」

 

「はい。他者を深く分析し、観察し、理解を深めれば深めるほど、その人物を高精度で模倣できるのだとか。実は、先ほど陣中でリデル様のお姿をお見かけした際、すぐに貴方だと分かったのも、日頃の公王陛下の立ち振る舞いや存在感が閣下に瓜二つだったからなのですよ」

 

リデルは一拍の間を置き、ぽつりと呟く。

 

「なるほど」

 

理解を示しつつも、疑問を重ねる。

 

「しかし……先ほど私と目が合った瞬間、即座に元のレイ様に戻られたようだが。あれはどういう理屈だ?」

 

「それも陛下曰く、ですが」

 

ゴートンは可笑しさを隠しきれない顔で言った。

 

「スキルの発動と維持は、ご自身の精神が安定している場合に限られるそうでして」

 

一拍の間。

 

「…まあ、そういうことです」

 

リデルはその説明を聞き、すべてを察した。

つまり──自分という存在そのものが、レイにとって精神の安定を乱す最大の要因なのだ。

以前と何一つ変わっていない。自分に対する「疫病神」扱いが、今なお健在であるという事実に、リデルは何とも言えない複雑な表情を浮かべるしかなかった。

リデルの渋い顔を見て、ゴートンは表情を引き締めて口を開いた。

 

「ともあれ……我々にとってレイ陛下は、かけがえのない良き君主です。かつて、私どものような弱小な下級貴族は、どれほど能力があろうと日の目を見ることはありませんでした」

 

ゴートンの声に、静かな熱が宿り始める。

 

「重要な役職はすべて縁故と世襲によって上級貴族に占有され、努力も才能も何の意味もなさなかった……。だが、新しく本領東部のトップに立たれたレイ陛下はその不条理を打破してくださった。能力と意欲さえあれば、家柄に関係なく重用してくださる」

 

ひと息つき、自嘲気味に笑う。

 

「年ばかり重ねてうだつの上がらなかった私も、その恩恵にあずかった一人です」

 

その言葉に偽りがないことを、リデルは察していた。本心からの忠誠だからこそ、少々厄介でもある、と。

 

「……もちろん、リデル様にも感謝はしておりますよ」

 

ゴートンは言葉を続けた。

 

「レイ陛下が模範とされている人物……その原点が間違いなく貴方であることは理解しておりますから」

 

そこで、ゴートンの声色がガラリと変わった。

 

「しかし──これだけは固く覚えていただきたい」

 

「……」

 

「我ら一同、レイ陛下を通じてリデル様が類稀なる傑物であることは重々承知しており、そのお力を疑うことはございません。しかし。我らが命を賭して忠義を誓うのは、どこまでもレイ陛下お一人であります」

 

ハッキリと、一切の隙を与えずに言い切った。

 

「それをゆめゆめお忘れなきよう」

 

リデルはゴートンの瞳をまっすぐ見つめた。

その意図は即座に解釈できた。

──自分は名目上の上司かもしれないが、現場の差配に余計な口出しをするな、という牽制だ。

そしてリデルは、その牽制を受け入れ、ある意味では深く納得していた。

本領東部におけるレイの家臣団統制は、自分の予想に反して極めて良好に機能していた。上下の信頼関係は固く、軍勢のまとまりも申し分ない。

そんな順調な組織に、名目上の上司である自分が口を挟めば、彼らからすれば外からの不快な介入でしかないだろう。そして事実、現在の状況には文句のつけようがなかった。

 

「……分かった」

 

リデルは短く答えた。

 

「しっかり弁えさせてもらうよ」

 

ゴートンは満足そうに深く頷いた。

リデルは改めて天幕の中を見渡した。

きびきびと無駄なく動く家臣たち。整然と処理されていく書類。極めて高い統制の行き届いた空気感。

 

(あとは……これが悪い方向に転がらなければ良いのだが)

 

リデルは内心でそう願わずにはいられなかった。

レイが『演者』のスキルによってあれほどの圧倒的な存在感を醸し出せるのなら──それが戦場でも発揮され、全軍の先頭に立つことができれば、これ以上ない強力な戦力となる。

しかし、そのためにはレイの精神が安定している必要がある。そして、自分が近くにいるだけでその精神は不安定になるのだ。

おまけに、軍勢の中枢を担う幹部たちは自分を「煙たい外部者」として警戒している。

そんな微かな懸念と不穏な予感を抱えたまま──半日後、東方諸州への進軍が再開された。

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