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89話

祝宴の喧騒が引き去った辺境伯邸の大広間には、主だった将軍十数名だけが残されていた。

机の上に巨大な地図が広げられ、燭台が集められる。誰もが先ほどまでの狂乱とは打って変わり、険しい軍人の顔つきへと戻っていた。

 

「ケティル、状況の説明を」

 

ギリアスの促しに応じ、ケティルが前に進み出た。

そこには普段の気怠げな雰囲気は微塵もなかった。

 

「現在、グランツ陣営の軍勢は三方向から東方諸州へ侵入し、ここエルドラを目指して急速に進軍中であります」

 

ケティルが地図上の一点を指し示す。

 

「南よりドン軍三万、中央にグランツ直率の本隊五万、北よりレイ軍六万。これに対し、我々が即座に動員可能な兵力は六万程度にとどまります」

 

諸将から重苦しい唸り声が漏れた。

六万対十四万──圧倒的な数字の格差が、場に重い沈黙をもたらす。

 

「──という状況だが」

 

ギリアスが口を開き、傍らの男に視線を向けた。

 

「クロード、お前ならどう迎え撃つ?」

 

「あ、ああ……」

 

クロードは急に指名されて焦りを覗かせつつも、前に出て地図を凝視した。

 

「俺なら……動員兵力を均等に二万ずつ三分割し、南北を流れるオーリス川の対岸でそれぞれの敵を迎え撃って時間を稼ぐ。一ヶ月も稼げれば、追加の兵をかき集められるはずだ。そこから各個撃破に転じる」

 

「なるほど、即興にしては悪くないな」

 

ギリアスの言葉に、クロードの表情にわずかな安堵が浮かんだ。

 

「──ただし」

 

「……っ」

 

「詰めが甘い」

 

容赦なくバッサリと切り捨てられた。

 

「敵がこの奇襲効果を最大限に活かしてこないはずがない。大方、俺たちが把握していないだけで、後方にはさらなる大規模な予備兵力が控えているはずだ」

 

ギリアスは冷徹な眼光で地図を見つめる。

 

「三方向から分散した俺たちを全力で叩き、一点でも綻びが出れば、その穴に予備兵力を一気に注ぎ込んでくる。俺たちが体制を整える前に、エルドラを奪いに来るだろうよ」

 

ギリアスの予測は、恐ろしいほど正確であった。

事実、三軍の後方遥か西からは、本領西地域とローズヴェル本国から集められた五万の増援が、フランクの指揮のもと急行していたのだ。

 

「じゃあ、親父ならどうするってんだよ」

 

プライドを傷つけられたクロードが、不満げに問い質した。

 

「決まっているだろう」

 

ギリアスは不敵に口元を歪めた。

 

「俺たち東方兵の戦い方は、いつだって『攻撃』あるのみだ」

 

「攻撃……?」

 

「機先を制されたなら、相手の出鼻を挫くまで。二方向からの攻勢は最小限の兵力で粘り強く防ぎ止め、残る一点に集結させた全戦力をぶつけて徹底的に叩き潰す」

 

「どこを叩くってんで」

 

「まあ、その選定が一番の難題なんだがな」

 

ギリアスは気楽な調子で呟きながら、地図の上に視線を走らせた。

南のドン軍三万。兵力は最小だが、叩いたところで全体に与える打撃は限定的だ。

中央のグランツ本隊五万。首魁を討てれば最大の打撃となるが、精鋭で固められ最も堅固で隙がない。

北のレイ軍六万。兵力こそ最多だが、率いるのは実戦経験の浅い若き名目上の君主。隙が生まれる可能性が最も高い。

並大抵の司令官なら、数日は悩むような難問であったが、ギリアスの太い指は迷いなく地図上の一点を強く突き刺した。

 

「──ここだ」

 

───

 

その頃、リデルは北方を進軍するレイ軍の野営地に到着していた。

馬を進めながら全軍の様子を見渡したリデルは、密かに目を見張っていた。

予想に反して、実に完璧な統制が取れていたからである。

レイには酷な評価となるが、正直なところリデルは期待していなかった。

レイの本拠はすでに帝国本領東部へと移っており、家臣団も自ずと本領貴族が中心となる。先の反乱で東部現地の主要な大貴族は処分されており、まともな指揮官クラスは残っていないはずであった。

この軍勢に参加しているミナらヴェーデル騎士団以外は碌な戦力はないだろうと、高を括っていただけに嬉しい誤算ではあったが、それ以上に疑問が勝った。

 

(……この見事な陣容は、一体誰が整えたというのだ?)

 

ヴェーデルの在地家臣団にここまでの手腕を持つ者はいない。現地で相当な傑物を発掘したのか、あるいはレイ本人が想像を超える成長を遂げたのか。

リデルが思考を巡らせながら馬を進めていると、背後から声をかけられた。

 

「……もしや、リデル・バートン様でございますか」

 

振り返ると、そこに一人の男が立っていた。

短躯で引き締まった筋肉質の体躯に、鋭く不躾な目つき。三十代後半ほどの男で、お世辞にも美形とは言い難い無骨な風貌であった。

 

「ええ、そうですが」

 

「ああ、やはり。お初にお目にかかります、宰相閣下」

 

男は短く頭を下げた。

 

「私の名は、ゴートン・モーリスと申します」

 

リデルはその名を聞いた瞬間、記憶の引き出しを開いた。レイからの定期報告書にあった名前だ。

 

「……そうか。貴公が東部本領地域におけるレイ陛下の補佐と取次を担当している、ゴートン氏か」

 

「敬語は結構です」

 

ゴートンは淡々と言い放った。

 

「レイ陛下の宰相であられるリデル様は、私にとっても上司にあたりますので」

 

言葉遣いこそ丁寧であったが、その佇まいにはどこか挑戦的な空気が滲んでいた。

 

「レイ陛下をお探しのでしょう。ちょうど私も向かうところでしたので、よろしければご案内いたします」

 

「ああ、頼む」

 

二人は並んで陣中を歩き始めた。

 

「しかし……急造の軍勢と高を括っていたが、よく纏まっているな。物資の補給面にも抜けがない。これはすべて君の差配かね?」

 

ゴートンは鼻で短く笑った。

 

「滅相もございません」

 

「ほう?」

 

「我ら東部の本領貴族は、東方諸州の脅威に対抗するため、元より尚武の気風が強く、各家が独自に軍役に備えておりました。最新兵器である火砲の普及率こそ低いものの、兵の練度と純粋な戦闘力は、ローズヴェル軍の精鋭にも引けを取らないと自負しております」

 

「しかし、その割には先の反乱の際、拍子抜けするほど簡単に鎮圧されたようだが?」

 

あえて挑発的な言葉を投げかける。だが、ゴートンは微動だにしなかった。

 

「上が無能だったからです」

 

臆することなく言い切る。

 

「我々が持てる全力を叩きつけていれば、グランツ様の首は今頃帝都の門前に晒されていたでしょうな」

 

不敬極まりない暴言であったが、男の表情に動じた風は一切なかった。

 

「……ふっ」

 

リデルは思わず口元をほころばせた。

 

「頼もしい限りだな。その並々ならぬ武勇が、東方兵を相手に存分に発揮されることを期待しているよ」

 

歩みを進めながら、リデルは言葉を継いだ。

 

「しかし、レイ陛下も幸運だ。君のような優秀な人材を現地で抱え込むことができたのだからな」

 

その言葉の端々には、レイに対するわずかな軽視が込められていた。

ゴートンはそれを見透かしたように言った。

 

「ほう……貴方ほどの御方でも、他のヴェーデル家臣と同じような態度を取られるのですね」

 

「……どういう意味だ?」

 

「いえ、お気になさらず」

 

ゴートンは前を見据えたまま静かに言った。

 

「……今の陛下に直接お会いになれば、お分かりになるはずです」

 

それから軽い会話を交わしながら進むうちに、中央の巨大な本陣天幕へと辿り着いた。

レイとの再会は、実に半年ぶりのことであった。

天幕に足を踏み入れた瞬間、リデルは思わず足を止めた。

そこにいたのは──かつての、感情に任せて動く気まぐれで美しいだけの青年ではなかった。

腰を下ろして静かに書類に目を通すその姿には、圧倒的な重厚感が漂っていた。周囲の家臣たちが忙しなく動くその中心に、揺るぎない錨のようにどっしりと鎮座している。

異質なまでの圧倒的な存在感。

それはまるで──もう一人の自分自身と対面しているかのような錯覚すら、リデルに覚えさせるものであった。

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