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88話

リデルたちが去ってから、数週間の時が流れていた。

エルドラの大広間は、かつてないほどの熱気と賑わいに包まれていた。

マルシア率いる北方軍閥の完全撤収を祝う大催事──三年間に及ぶ過酷な前線を戦い抜いた諸将が各地から参集していた。全員が相応の地位にある者たちであったが、東方人らしく、品格のある穏やかな宴などとは程遠かった。

あちこちで怒号が飛び交う。

感情を高ぶらせた男が立ち上がり、隣の男の胸ぐらを掴む。長机が激しく揺れ、杯が倒れて酒が流れる。それを見て周りが爆笑し、別の男が野次を飛ばす──気がつけば室内中のあちこちで凄惨な殴り合いが始まっていた。

完全な狂乱状態であったが、誰もそれを止めようとはしない。止める必要などないことを、その場にいる全員が熟知していたからだ。

ギリアスは上座に深々と腰掛け、酒を煽りながらその混沌を実に愉しそうに眺めていた。

宴も半ばを過ぎた頃、ギリアスはおもむろに立ち上がった。

 

「皆、聞いてほしい」

 

静かな、たった一言であった。

だがその瞬間、先ほどまでの狂乱が嘘のように静まり返った。

掴み合っていた男たちが即座に手を放し、床に倒れていた者が跳ね起きる。すべての視線が一斉に、上座の男へと注がれた。

 

「俺たちは三年もの間、あのマルシアの軍勢と戦い抜いてきた」

 

ギリアスは一人ひとりの顔を見渡すように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「多くの同胞を失った。生き残ったお前たちとて、幾度となく死の淵を彷徨ったはずだ」

 

誰も声を上げない。ただ、凄惨な死闘を思い出したのか、あちこちから低く啜り泣く息遣いだけが漏れ聞こえていた。

 

「……だが今日、あのイカれた女と戦って生き残った俺たちは──東方史上最強の猛者として、永遠に歴史にその名を刻むことになる!」

 

「「そうだ!!」」

 

「「俺たちが最強だ!!」」

 

歓声が上がった。声と声が重なり合い、大広間全体を低く重厚な轟音が揺らす。

 

「──そして」

 

ギリアスは言葉を継いだ。

 

「聞き及んでいる者もいるだろうが……俺たちと帝国本領で猛威を振るうグランツとの間で、近く和議が結ばれようとしている」

 

場内の空気が、一瞬で変質した。

 

「そうなれば……もう戦う必要も、血を流す必要もなくなる。グランツが勝手に帝国を統一していくのを横目に、お前たちは故郷で英雄として、穏やかで無事息災な生活を送ることになるんだ」

 

重苦しい静寂が落ちた。

それは歓喜でも怒りでもない、奇妙な拒絶の静寂であった。言葉にできないドロリとした感情が、広間全体に澱のように漂う。

ギリアスはその反応を見届けると、満足そうに満面の笑みを浮かべた。

 

「……安心したぜ、お前たち」

 

低い声が響く。

 

「そうだよな……俺たちの居場所は、俺たち自身の血と手で勝ち取り、守ってきたものだ。今更どこぞの誰かの風下に降るなんて──」

 

一拍の間。

 

「──到底、耐えきれるはずもないよな?」

 

「そうだ!!」

「再び本領の貴族どもの犬に成り下がってたまるか!」

「俺たちは誇り高き東方の戦士だ!!」

 

怒号のような叫びが爆発的に巻き起こる。

ギリアスはその熱気を全身で浴びながら、さらに声を張り上げた。

 

「その通りだ! 俺たちはあのマルシアすら退けた、帝国最強の東方兵だ!」

 

声の波浪がさらに巨大化していく。

 

「ならば──それを今度は帝国のど真ん中で、証明してやろうじゃないか!」

 

勝ち鬨のような叫びが大広間を完全に支配した。杯が掲げられ、床が激しく踏み鳴らされ、無数の拳が卓を叩く。

その最高潮の熱気の中で、ギリアスは満を持して口を開いた。

 

「俺たちは今より第二皇子殿下を担ぎ上げ、西進を開始す──」

 

その宣言が放たれかけた、まさにその瞬間であった。

重厚な大扉が爆音とともに叩き開かれ、全身汗にまみれた伝令兵が転がり込んできた。

 

「き、急報──っ!!」

 

悲鳴にも似た叫びが、熱狂の渦を切り裂いた。

 

「グランツ陣営の総勢十万を超える大軍勢が……三方より東方諸州に向けて進軍を開始いたしました!!」

 

大広間が、一瞬にして凍り付いた。

誰一人として動くことができない。

ギリアスは立ち尽くしたまま、伝令を見つめていた。その表情に「驚き」の色はなかった。

静寂が支配する中、やがてギリアスの口元が歪な笑みを浮かべた。


───

  

七月下旬。

帝国本領の北部へと向かっていた二つの大軍が、突如として進路を東へと変えた。

ドン率いる三万、レイ率いる六万の軍勢も東へ。

その上下の間をグランツが直率する本隊五万が中央を進む。三軍が巨大な扇形を描きながら、東方諸州に向けて怒涛の進撃を開始していた。

総勢十四万。

北部本領貴族の鎮圧を口実に動かしていた軍勢を、極秘裏に東方へと転進させたのだ。敵がその異変に気づいた時には、すでに大軍は国境線を踏み越えていた。

隊列の中腹で、リデルはグランツの愛馬と並んで手綱を握っていた。

 

「……まったく、恐ろしいお方だ」

 

リデルは前方の街道を見つめたまま呟いた。

 

「これほどの大方針転換であるにもかかわらず、一切の混乱もなく完璧に大軍を機動させるとは……」

 

一拍の間を置き、言葉を続ける。

 

「さては最初からこの奇襲を見越し、他二軍の進軍速度までも細かく調整しておられましたな?」

 

「敵を欺くなら、まず味方から。というやつだよ」

 

グランツは穏やかな声で応じた。

 

「……もっとも、最後の一押しをしたのはお前の進言だがね」

 

「は?」

 

「お前が軍議であれほどまでに警戒感を露わにするのを聞いて、腹が決まったのだ」

 

グランツは前進を続けながら語る。

 

「……よほどの傑物だったのだな、ギリアスという男は。お前が人前であそこまで褒めるなど、実に珍しい」

 

「ええ」

 

リデルは迷いなく頷いた。

 

「本人もさることながら、あれほどのカリスマに率いられた東方兵が、素直に我々に従うはずがありません」

 

「……」

 

「滅ぼすにせよ服属させるにせよ……一度徹底的に打ちのめし、敗北を突きつけねばなりません。あの手合いは、そこまでして初めて大人しくなるのです」

 

「どこまでも情赦のない男だな、お前は」

 

グランツは微かに笑った。

 

「だが、いくらギリアスとて、まさかこのタイミングでの奇襲までは見抜けていまい。存外、この一戦で現辺境伯体制は砂上の楼閣のごとく崩れ去るかもしれんぞ」

 

「……陛下」

 

リデルの声が、わずかに硬度を増した。

 

「そのような甘い希望的観測は、今すぐお捨てくだされ」

 

「……と言うと?」

 

「あの男は、決してそのような生半可な器ではありません。確かに我々は戦術的優位を確保しましたが……奴は必ずや、この状況すら覆すような想定外の一手を仕掛けてきます」

 

グランツは黙ってその言葉に耳を傾けていた。それ以上の返答はなかった。

しばらく進んだ後、リデルが手綱を引いた。

 

「それでは私は、レイ様の軍勢と合流いたしますので、これにて」

 

「ああ。頼んだぞ、リデル」

 

リデルは馬首を返し、別隊へと駆けていった。

グランツはその背中を、遠ざかって見えなくなるまでじっと見つめ続けていた。

 

「……わざとなのか、知らずになのか」

 

ポツリと、誰にも聞こえない声で呟く。

 

「……どこまでも人を妬かせる奴め」

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今日もおふっwとなりました。 殺伐してるのに…
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