87話
七月──。
帝国本領の北部に、不穏な戦雲が色濃く広がっていた。
ラングレー公を筆頭とする北部本領貴族の連合軍は、来たるべき決戦に備え総勢七万に及ぶ大軍勢の動員に成功していた。しかし、事前にキリルが張り巡らせていた綿密な調略の糸は、敵陣営の連携を内部から着実に瓦解させていた。
先鋒を担うバートン侯爵軍四万が押し寄せると、足並みの乱れた七万の敵軍は各個撃破の憂き目に遭うほかはなかった。ラムズが指揮する精強無比な兵らがその隙を的確に突き、敵の拠点を個別になぎ払っていく。純粋な兵力では下回るはずのバートン軍が、対等どころか優勢を誇っていた。
さらにその背後からは、南部方面よりドン率いる三万の軍勢が北上。東部方面からはレイが率いる六万の精鋭が進軍を開始していた。そして最後方に、グランツが直率するローズヴェル軍の精鋭五万が「後詰」として揺るぎなく控えている。
──勝利の行方は、もはや誰の目にも疑いようがなかった。
その出馬を直前に控えた時であった。
帝都の緊迫した軍議の場に、東方より戻ったリデルが姿を現した。
「こちらが、ギリアス様からの親書となります」
リデルは手にした親書をグランツへと恭しく手渡した。
グランツはそれを受け取り、ゆっくりと封を解いた。軍議に集まった居並ぶ諸将たちが、息をのんでその手元を見守る。
一通り目を通し終えると、グランツは顔を上げた。
「……大義であった。やはりお前を特使として行かせたのは、大正解であったな」
諸将たちの緊張した表情も、一気に和らいでいった。
「ティーガル辺境伯は、我々との不可侵ならびに友好関係の樹立を望んでいるようだ」
グランツは居並ぶ将たちを見渡しながら語りかけた。
「素直にこの申し出を引き受けるべきと思うが、お前はどう考えるか?」
そう言いながらリデルに親書を返し、彼はそれを読む。
「はい。それが定石かと存じます」
暫くして、リデルはそう言った。
「この親書の通り、ティーガル辺境伯と友誼を結べば、我々は東方からの脅威を心配する必要がなくなります。北のラングレー公も今や虫の息である以上、聖母派との停戦が明け次第、全戦力を南方の都市国家連合へ集中的に投入できる完璧な状況が整います」
リデルは淡々と言葉を重ねる。
「そうなれば、一年と経たずに半島全土を制圧し、北方軍閥よりマルシア様を帝都へとお呼びすれば、帝国は再び、グランツ様の手によって統一されることとなります」
天幕の中が、歓喜のどよめきに包まれた。
諸将たちが次々と感嘆の声を上げる。
「……見事な先見の明だ!」
「乱世に終わりが見えてきたな」
「ティーガル辺境伯までもが味方につけば、我が陣営はまさに盤石だな!」
賞賛と期待の声が幾重にも重なり合う。
──だが、その楽観的な雰囲気を、リデルの冷ややかな一言が一瞬で叩き斬った。
「──ただし」
声は低く、静かであった。
しかしその一言は、天幕の隅々にまで確実に響き渡った。
「この安易な和議を受け入れることは、遠からず我々を破滅へと導くことになるでしょう」
氷のような静寂が落ちた。
グランツは鋭い眼光でリデルを見つめた。リデルはその視線を真っ向から受け止め、表情一つ変えなかった。
「……それはどういう意味だ、リデル」
グランツが静かに問い返した。
「単純な理屈でございます」
リデルは盤上の巨大な地図の前へと歩み寄った。
「東方諸州を完全に掌握しているティーガル辺境伯の支配人口は、約千二百万。現在の我々の支配領域における二千万に対し、帝国圏において第二位の規模を誇ります」
「……」
「彼らの軍制は我々ほど先進的な動員体制こそ整っておりませんが……その気になれば、低く見積もっても十万を超える膨大な兵力を動員可能です」
リデルは地図の東方を指し示しながら続けた。
「そのような大兵力が、我々の背後に野放しのまま存在し続ける状況で軍事行動を起こすなど……危険極まりない愚策と言わざるを得ません」
「しかし!」
一人のベテラン将軍が思わず声を挟んだ。
「ティーガル辺境伯は、我々との和議と同盟を求めて頭を下げてきているのではないか! 現にグランツ様宛の直筆の親書まである。それを指して危険だと突っぱねるのは、あまりに飛躍が過ぎるのではないか!?」
「同盟などではありません」
リデルは声を一段高くして、明確に反論した。
「彼らが提示してきたのは、ただの『不可侵』と『友好』に過ぎません」
天幕の中が再び静まり返った。
「彼らは我々と直ちに刃を交えないという姿勢を見せてはいますが、将来にわたる何の保障も結ぼうとはしていない。和議を求めておりながら、具体的な物は何一つ文脈に明文化されていないのです。このような紙切れ一つで、なにを信じろと言うのですか」
リデルはきっぱりと言い放った。
天幕の中に、動揺と困惑が広がっていく。
内心で、リデルは自らの主張が半ば言いがかりに近い暴論であることを自覚していた。諸将たちが難色を示すのも当然であった。
ギリアスと東方兵の凄惨な武勇は、この西方領域にまで知れ渡っている。あのマルシアを相手に三年間も互角に渡り合った男とその軍勢──その話を聞くだけで本能的な恐怖を抱くのは当然であり、無用な衝突を避けたいと思うのは人間としての正常な防衛本能であった。
しかし……リデルの洞察は、ギリアスの隠された本性を寸分の狂いもなく捉えていた。
皮肉なことに、リデルの目から見れば、ギリアス・ティーゲルとグランツ・ローズヴェルはどこまでも酷似していた。
果てしない野望と壮大な夢を抱き、その目的を果たすためならばどんな手段すら躊躇なく実行する決断力。
ただし──両者の見据える未来の方向性だけが、真っ向から対立していた。
一方は「平等をもたらすための絶対的な支配」を目指し、一方は「支配を排した不平等な自由」を渇望している。
そのような二人の覇王が、互いに歩み寄り迎合することなど絶対にあり得ないのだ。遅かれ早かれ、両者が激突する未来は避けられない。
ならば──。
リデルはグランツの方へと静かに向き直った。
「──天に、二つの太陽が並び立つことはできません」
短く、重い一言であった。
天幕に集う大勢の中で、その言葉の真意を完璧に理解できたのはグランツ一人だけであった。
だが、それで十分であった。
「恐るべきことに……ギリアスという男もまた、グランツ様と同じく未だ成長の途上にございます」
リデルは言葉を紡ぐ。
「叩くのであれば、一日でも早いほうがよろしいかと」
天幕全体に、重苦しい沈黙が落ちた。
グランツはリデルの瞳をじっと見つめていた。
その美しい顔立ちが、微かに、歪んだ。
それは不愉快な事実や不都合な進言を突きつけられた時の表情ではなかった。
もっと生々しく、暗い感情──まるで己の愛する者の口から、他の人間に対する最大級の称賛を聞かされた時のような、ごく微かな「嫉妬」の色が、その表情の端に確かに刻まれていた。




