86話
「……御冗談を、ギリアス様」
リデルは一拍置いて応じた。
しかし、ギリアスの眼光に一切の揺らぎはなかった。
それは冗談を言っている者の目ではなかった。獲物を確実に仕留めようと狙いを定める、猛獣のごとき眼光であった。射抜くような視線がリデルを捉えて放さない。
リデルはその威圧感を真っ向から受け止めた。
──これは本気だ。
世辞でも、探りを入れるブラフでも、酒の席の軽口でもない。
リデルは手にしていた杯を静かに卓上へと置いた。
「……実に魅力的なお誘いですが」
腹を割って話す覚悟を決めた。
「私はグランツ様にお引き立ていただき、ヴェーデルの宰相にまで取り立てていただきました。その恩義に背き、主君を替えるつもりはございません」
「忠臣の面をするなよ、リデルさん」
ギリアスの口調は穏やかであったが、投げかけられる言葉はどこまでも直接的であった。
「アンタが本質的には俺と同類の人間だということは、とうに見抜かれているんだ」
「私のような人間、とは?」
「一言で言えば、己の欲望に恐ろしいほど忠実な男だ」
ギリアスは言葉を重ねる。
「しかも、分相応なほどの力量を備えているから、大抵のことは思い通りになってしまう。アンタを抱える主君からすれば、実におそろしく厄介な組み合わせよ」
杯を弄びながら、言葉を続けた。
「アンタの場合、そうしてお堅そうな顔をしてはいるが、本質的には自分が『面白い』と感じることに徹底して没頭するタイプと見た」
「……」
「大方、グランツの語る壮大な夢や野望に当てられ、その行き着く果てを見届けたいがために付き合っている。といったところだろう?」
ギリアスはリデルの瞳を凝視した。
「そうでなければ説明がつかないのさ。アンタほどの人物が、誰かの下に大人しく従っているなんてな」
周囲の喧噪が遠のいていくようだった。
リデルは内心でその言葉を認めていた。まさに本質を突かれた、と。
だが、それを態度に出すつもりはなかった。
「……随分と高く評価されたものですな」
リデルは口元をわずかに動かした。
「そこまで買い被っていただけるとは、恐縮です」
自然な笑みを作ってみせた。
「そりゃあ買いもするさ」
ギリアスは笑みを引っ込めた。
「スキルというわけではないがね……俺は相手の顔を見れば、どんな修羅場や人生を潜り抜けてきたか、大体の察しがつく自信があってね」
杯を置く。
「これまで数多くの人間を見てきた。頭の切れる奴、腕っぷしの立つ奴、殺しや戦場に慣れきった奴……乱世なら引く手あまたな連中ばかりだ」
一息つき、酒を喉へと流し込む。
「……だがな、リデルさん」
ギリアスはリデルの瞳を直視した。
「アンタは別格だったよ」
「ほう……どのような意味で?」
「アンタの背後には、数え切れないほどの死体の山が見える」
静かな、だが重い声であった。
「およそ十六歳の若造が拵えられるような量じゃない……尋常ならざる死の山だ。その無数の屍の上に、アンタという強烈な存在が成り立っている」
リデルは静かに沈黙を守った。
「……正直に言おう」
ギリアスは続けた。
「部下たちの手前、大物ぶってはいたが……」
少し間を置き、自嘲気味に呟いた。
「……震えちまったんだよ、俺は」
その言葉には、何の虚飾もなかった。
「こんな感覚は、ジャックにリシウスを殺せと命じた時以来だ」
室内の喧噪がいよいよ遠ざかる。
ギリアスは再び身を乗り出した。
「アンタと俺が組めば無敵だ」
声に熱が宿る。
「マルシア程度など目ではない。グランツも聖母派も容易く駆逐し、あっという間に天下を掌握できる」
一拍の間。
「それどころか、世界の果てまで行き着けるはずだ」
「……大きく出られましたな」
リデルは静かに返した。
「一つ、お聞かせ願えますか」
「何だ?」
「世界を平らげてまで、ギリアス様は何を成そうとされているのですか?」
ギリアスは間を置かずに答えた。
「もちろん、『自由』のためだ」
即答であった。
「血統や法に縛られず、こんな乱世だけでなく平和な時代であっても、己の実力をもって成り上がれる世界……ただそれだけだ」
飾りも言い訳もない。言い訳をしようとも思っていない、という顔であった。
リデルはその言葉に耳を傾けていた。
グランツと初めて出会った時と同種の感覚──揺るぎない核心を口にする者の重み。
心が動かされた。否定などできなかったし、否定したくもなかった。
「……残念です」
リデルは静かに告げた。そこに笑みはなかった。
「ギリアス様と、もう少し早く出会えていればと思わずにいられません」
本心であった。演技ではない。
前世を含めても、これほどまでに清々しい欲望の方向性を持つ男に出会ったことがあっただろうか。
ギリアスの言葉は、確かにリデルの心を掴んでいた。
しかし、この男はもう。
───
翌朝。エルドラの城門前。
馬に跨がり、出発の準備を整えるリデルたち。
「度重なるご配慮、深く感謝いたします」
リデルはギリアスに向かって頭を下げた。
「いただいた親書は、責任を持ってグランツ様とレイ様にお届けいたします」
「ああ、頼んだぞ」
ギリアスは頷いた。
「俺たちはすでに友邦だ。困った時はいつでも力を貸すと、二人にも伝えてくれ」
そう言いながら、手を差し出す。
リデルもその手を取り、強く握手を交わした。
ギリアスの手は大きく、力強かった。
「それでは」
「ああ……またな」
リデルたちが馬を進め、街道へと消えていく。エルドラの輪郭が遠ざかっていく。
城門前には、ギリアスとフレイドが並んで立っていた。見送りの態勢のまま、しばらく二人とも動かなかった。
「……見事に振られましたな」
フレイドが和やかな声で呟いた。
「なんだ、聞いていたのか」
ギリアスは笑って返した。
「ええ……初対面の方にあそこまで腹を割って話されるなど、これまで一度もございませんでしたから。内心ヒヤヒヤしておりましたよ」
「そうまでしても……欲しかったのさ、あいつが」
「存外、一途なお方でしたね」
「そうでもないさ」
遠ざかるリデルたちの背を見つめながら、ギリアスは言った。
「あいつは確かに、俺の言葉と野心を天秤にかけていた。俺の側に傾かなかったのは……出会った順番と、ほんの少しの情。それだけのことだ」
「では──」
フレイドが静かに尋ねた。
「……やるのですか?」
「ああ」
ギリアスは短く答えた。
「俺は一度狙った獲物は絶対に逃さない。どんな手を使ってでも手に入れる男だ。昔も……そしてこれからもな」
遠ざかるリデルの背中は、すでに小さくなっていた。
「だから」
ギリアスの声から、温かみが一切消え失せた。
どこまでも透明で、氷のように冷徹な声。
「──アイツを手に入れるためには、殺すしかないだろう?」
フレイドは静寂の中で佇んでいた。
「グランツ・ローズヴェルを、な」
吹き抜ける風の中、リデルたちの姿はすでに街道の彼方へと消えていた。




