85話
十年前──。
東方諸州の片隅に、二人の男がいた。
兄、ギリアス。弟、リシウス。
血を分けた兄弟であったが、二人が作り上げた勢力は、単なる血縁の絆を遥かに超えた強固な結束を誇っていた。
独自の部隊を率いて敵対的な氏族を次々と容赦なく打ち滅ぼし、その苛烈さと武名は東方全域へと轟いていく。
──『ジャライカ戦士団』。
二人の姓から冠されたその戦士団の名を知らぬ者は、東方諸州には一人として存在しなかった。
若き日のジャックがその軍門に下ったのは、二人の圧倒的な強さとカリスマに惹かれたからであった。
一兵卒としての泥臭い出発であったが、凄惨な戦場を重ねる中で、彼の中に眠っていた才覚が一気に開花する。
並外れた戦闘の資質、過酷な局面での速やかな判断力、そして何より死線を前にしても決して動じぬ強靭な精神力。
ギリアスとリシウスはジャックを一人前の戦士として一目置き、ジャックもまた二人を深く敬愛した。
ギリアスを「親父」、リシウスを「兄貴」と呼び、実の家族のように慕っていた。
ある日、ジャックはギリアスの天幕へと呼び出された。
「……なんですか親っさん。改まって大事な話って?」
いつもの軽薄な調子であったが、ギリアスの様子は異なっていた。
細巻きの煙草をふかしたまま、珍しく重々しい表情を浮かべていた。
「……まあ座れ」
「どうしたんですか、柄にもなく真面目な顔をして。また女絡みの揉め事ですか?」
「ふっ、そうならお前なんぞ呼ぶものか」
ギリアスは自嘲気味に笑った。
「実はな……近く婚約することになった」
「ほら、やっぱり女絡みじゃないですか!」
ジャックは身を乗り出した。
「で、お相手は誰なんです? リシカの姉さんか、それともジェルンの姐さんですか?」
「違う」
ギリアスは静かに首を振った。
「……サルディアお嬢様だ」
「誰です、そりゃ?」
「現ティーガル辺境伯様の御令嬢さ」
ジャックは一瞬絶句し、思わず立ち上がりかけた。
「じ、冗談はよしてくださいよ親っさん! 俺たちみたいな野盗同然の連中の頭に、そんな上等な話が舞い込むわけがないでしょうが!」
「それが、本当なんだよ」
ギリアスは細巻きの灰を落とした。
「実のところ俺たち兄弟は、一応ティーガル家の末端の陪臣格にあたる。氏族との抗争も、主家の意向に添う形で進めてきたんだ。組織が大きくなりすぎたんで、ここらで身内に取り込んで、完全に抱え込みたいんだろうよ」
それを聞いたジャックの瞳が、歓喜で輝いた。
「すげぇ……! じゃあ親っさんは将来、辺境伯になれるかもしれないってことですか!」
「ティーガル家に入ると言っても、所詮は末端の末端だ」
「いいや、なれますね!」
ジャックは力強く断言した。
「親っさんほどの傑物が、温室育ちの貴族どもに後れを取るはずがねぇ! いずれはティーガル家を……いや、それを足がかりに帝位だって夢じゃねぇ!」
「……ありがとな」
ギリアスは低く呟いた。
「そこまで清々しく買いかぶってもらえると、俺も嬉しいぜ」
一拍の間。
「だがな……全員がお前のように素直に喜んでくれるわけじゃない」
「……え?」
「その反発の筆頭が……リシウスだ」
「こんな千載一遇の好機なのに、一体どうして……!?」
「気に食わないのさ」
ギリアスは横のグラスを手にとった。
「これまでどれほど多くの仲間の血を流し、戦士団をここまでの規模に叩き上げたと思っているんだ。今更になって辺境伯の犬になりにいくのか、とな」
グラスの酒を一気に煽る。
「それも一理ある。俺たちは看板など借りず、己の腕っぷしひとつで居場所を勝ち取り、守ってきた。誇りが生まれるのも当然だ。だがな……俺がティーガル家の幹部に収まれば、これ以上無駄な血を流さずとも、居場所を守ることができるし、大きくすることもできる。リシウスは戦士団を割るつもりだが、俺はこの話を受ける気だ」
ジャックはギリアスの眼光を見つめた。
そこに迷いは一切なかった。自分の果たすべき役割を、ジャックは瞬時に悟った。
「……分かりましたよ、親父」
声のトーンが変わる。
「俺がやります。半殺しにされる覚悟で、命がけでリシウスの兄貴を説得し──」
「──殺せ」
ギリアスがその言葉を遮った。
静かだが、一切の揺らぎのない声であった。
「……え?」
「言葉や情なんかで信念を曲げる男ではないことくらい、お前も分かっているはずだ」
ギリアスはジャックの目を直視した。
「だから……殺すしかないんだよ」
一拍の間。
「奴が唯一心を許している……俺とお前の手でな」
───
「──とまあ、そんなわけでジャックの奴に実の弟を仕留めさせたわけですよ」
ギリアスは杯を傾け、どこまでも淡々と言い放った。
「当然、それ相応の報酬とポストを用意してやった。だが奴はそれをすべて固辞し、戦士団を去っていった」
ギリアスはリデルを凝視した。
「奴が口を割っていない以上、この不都合な真実を知るのはジャックと──」
一拍の間。
「──リデルさん、貴方だけだ」
周囲の喧騒が嘘のように遠のき、二人の間だけに冷徹な静寂が横たわる。
リデルは一切の動揺を見せなかった。
「……なぜ、そのような事実を私にお話しに?」
「嘘を取り繕ったところで、貴方には容易に見抜かれるでしょうからね」
ギリアスはあっけらかんと言い切った。
「それに……筋が通り、理にかなっているならば、それくらいの悪行は平然と許容されるタイプでしょう? 貴方は」
リデルはその言葉を聞き、内心で静かな戦慄を覚えた。
話の凄惨さに対してではない。
会ってわずか数時間足らずの初対面であるにもかかわらず、この男が驚くほど正確に自分の本質を洞察しているという事実に、だ。
(……この男、やはり只者ではない)
リデルは表情ひとつ変えずに返した。
「……手段の良し悪しは別として、当時の状況については理解いたしました。しかし……それほどまでに有能であった弟君を切り捨てたこと、後々に後悔されたのでは?」
「まったく。その通りだ」
ギリアスはどこか遠くを見つめる目をした。
「後を継いだ義兄相手に下手を打って一時監禁されるわ、帝都から落ち延びてきた第二皇子を擁立したのはいいが、マルシア相手に三年間も不毛な消耗戦を強いられるわでね」
ため息をひとつ吐く。
「もし……俺の隣にリシウスがいてくれたなら、そんな無様なヘマはしなかった。この十年間で帝都を……いや、帝国全土を掌握できていたかもしれん」
在りし日の幻影を慈しむような目であったが、その瞳にすぐさま強い光が戻った。
「だが……その回り道も決して無駄ではなかったと、今日ようやく分かったよ」
「……と、おっしゃいますと?」
「今日、貴方という男に出会えたからだ……リデルさん」
ギリアスは杯を置くと、直視してきた。
先ほどまでの遠い目ではなく、現実を鋭く見据える覇者の眼光。
「……なあ、どうだろう?」
ギリアスの口元に、無邪気なまでの笑みが浮かんだ。
「──俺のところへ、来てみる気はないかい?」
その笑みは少年のように無垢に見えたが、その奥底には、決して拒絶を許さぬ本気の欲望が渦巻いていた。




