84話
ギリアスは上座へと向かい、重々しい足取りでゆっくりと腰を下ろした。
一拍の静寂の後、不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「……お互い、まどろっこしい腹の探り合いは無しにしましょうや」
リデルは逃げずに、正面からギリアスの眼光を受け止めた。
「俺たちはこれまでマルシアとの戦争を続けてきましたがね、彼女を推戴するからってグランツ公らと敵対する意思も意図も、最初から持ち合わせてはおらんのですよ」
ギリアスは静かに言葉を重ねた。
「そもそも、そのマルシアとの停戦が成立した今となっては、尚更のことだ」
実にあっさりとした口調であった。
北方軍閥との停戦がすでに成立しているという公表されてない事実を、隠す素振りすら見せない。
リデルはその告白を静かに受け止めた。
脳内で一瞬の計算が巡る。この情報をいかに利用するかではなく──「なぜこの男は、交渉の冒頭で何の隠し立てもなくこれを明かしたのか」という意図の計算であった。
だが、その動揺を表情に出すことはなかった。
「こちらも全くの同意見です」
リデルは落ち着き払った声で答えた。
「マルシア殿下との停戦の有無にかかわらず、我々としましても、ギリアス様らとこそ固い友誼を結ぶべきだと考えております」
ギリアスの目が、微かに動いた。
次の瞬間、その顔に破顔するような好意的な笑みが広がった。
「なんだ。じゃあ俺たちは、直接顔を合わせる前から同じ腹だったわけですかい」
「そのようですね」
「じゃあ──」
ギリアスはパンと勢いよく手を叩いた。
「こんな堅苦しい話し合いは、今すぐ終わりにしようじゃないか!」
パン、パンと、追撃するように軽快な手拍子が鳴り響く。
その合図とともに左右の重厚な扉が同時に開かれ、大勢の使用人たちが雪崩を打って室内へと入ってきた。長机を運ぶ者、豪華な椅子を配する者、美しい織物の布を広げる者──全員が無駄のない完璧な手際で立ち回っていく。
謁見の間が、見る見るうちに華やかな宴の場へと姿を変えていった。
「……これは?」
リデルが尋ねた。
「飯の準備ですよ」
ギリアスは当然と言わんばかりに胸を張った。
「東方人が真に重要な腹を割る時は、食卓を一緒に囲むのが昔からの相場なんだ」
リデルはその言葉に理解を示し、小さく頷いた。
ほどなくして扉が再び開かれ、別室で待機していたリーフィアたちも室内へと通された。
辺境伯邸の幹部たちも、それぞれ割り当てられた席へとついた。
クロードはジャックから距離を取った席を選びつつも、苛立ちを隠せない様子で時折横目で睨みつけている。
ケティルは懐に書類を仕舞い込み、ようやく両手を空けた状態で席についたが、未だに手元の計算についてブツブツと呟いていた。
フレイドはリーフィアの隣席へとついた。まさに「美女と野獣」といった異彩を放つ並びであったが、根底にある武人としての気質が似通っているのか、意外にも会話が弾んでいるようであった。
周囲の賑わいから少し離れた位置に、リデルとギリアスの二人だけが並び合う特別席が設けられていた。
宴の準備が整うと、次々と豪奢な料理が運び込まれてきた。
真っ先に鼻腔をくすぐったのは、豊潤なスパイスの香りであった。数種類の香辛料が複雑に重なり合い、食欲を強くそそる香りが室内に充満する。
帝国本領ではお目にかかれない珍しい食材が鮮やかに皿の上に彩られ、給仕される料理の数は尋常ではなかった。「豪勢」という言葉すら生ぬるいほどの破格の饗宴であった。
巨大な長机が、埋め尽くさんばかりの料理で彩られていく。
全員が着席したのを見届けると、ギリアスは並々と酒が注がれた杯を手に取り、静かに立ち上がった。
「──それでは」
ギリアスの一声で、室内が一瞬で静まり返った。
「西から遥々やって来られた、我らが新たなる友人たちに──」
ギリアスはリデルたちを見つめた。
その顔には、先ほど同様の、誰もが惹きつけられてしまうような自然な笑みが浮かんでいた。
「──乾杯!!」
高らかに杯が掲げられた。
室内に、幾重もの金属の杯が重なり合う快い音が鳴り響いた。
乾杯の澄んだ音が収まると、手際よく料理が各自の皿へと取り分けられていった。
宴が本格的に始まり、周囲は一気に賑やかさを増していく。
リデルは静かに杯を置くと、口を開いた。
「……では、今後の互いの方針についてですが──」
「リデルさん」
ギリアスが笑顔で片手を挙げ、その言葉を遮った。
「それは少々、無粋というものではないかい?」
「……とおっしゃいますと?」
「貴方は先ほど、俺たちと友誼を深めたいとおっしゃってくれた。ならば俺はまず何よりも、貴方という人間そのものを深く知りたく思っているんだよ」
リデルは一拍の間を置き、即座に思考を切り替えた。
「これは失礼いたしました。まったくもって、仰る通りですな」
リデルも柔らかな笑みを返した。
「できれば、リデルさんの名高い武勇伝を聞かせてほしいものだねぇ」
ギリアスは身を乗り出すようにして興味津々に言った。
「実は俺は……貴方の隠れファンでね」
「これは驚いた。高名なギリアス様にそう言って貰えるなんて。分かりました。大した話ではありませんが──」
リデルは少し記憶を整理するように沈黙した後、語り始めた。
「私の初陣となった、トルデラン砦の攻防戦からお話ししましょうか」
リデルの口から、怒涛の半生が静かに語られていった。
トルデランでの死闘に始まり、狭隘な峡谷での決死の迎撃戦。ヴェーデル公王ロイへの単身での直談判。宰相就任と『赤手組』の暗殺者たちとの死闘。そして、記憶に新しいリガニア大公軍を相手取った凄絶な殿戦──さらには、霊峰における殲滅戦に至るまで。
ギリアスは、恐ろしいほどの聞き上手であった。
相槌を打つタイミングは完璧であり、驚くべき局面では目を見張り、唸るべき場面では低く唸り、興奮する場面では声をあげて笑ってみせた。そのリアクションのすべてが、計算された演技ではなく、心からの純粋な感情であるかのように感じられた。
一通りの語りが終わると、ギリアスは感嘆の溜息とともに杯を置いた。
「……いやぁ、やはり俺の目に狂いはなかった」
ギリアスは深く首を振りながら言葉を継いだ。
「それどころか……期待以上ですよ、貴方は」
単なる世辞や外交辞令ではない。その事実が、リデルにははっきりと伝わってきた。
宴はいよいよ最高潮に達し、周囲はどんちゃん騒ぎの狂乱を呈していた。クロードは酒に酔って部下と激しい口論を交わし、ケティルは手帳を取り出して没頭するように何かを書き留め、フレイドとリーフィアは意外なほど意気投合して酒を酌み交わしている。
喧噪の中で、リデルとギリアスの二人だけがまるで隔離された静寂の空間に存在しているかのようであった。
「感謝するよ、リデルさん。……次は、俺の番だな」
ギリアスは自らの杯を酒で満たした。
「さあ、何でも遠慮なく聞いてくれ」
リデルの瞳が、静かに細められた。
「……そうですね。何でも、とおっしゃるならば」
「ああ」
「少し本題の趣旨とは外れてしまいますが──」
「構わないよ」
「──先ほどクロード様がジャックに対して口にされていた、『身内殺し』の真相についてお聞きしたい」
ギリアスの眉が、ピクリと跳ねた。
ごく微かな、一瞬の反応──だが、確実に動いた。
リデルは畳みかけるように静かに続けた。
「……ぜひ、お伺いしたんですが。よろしいですかな」
「……一体全体、どうしてそのような過去に興味をお持ちで?」
ギリアスの声から笑みが消え、どこか研ぎ澄まされた刃のような鋭さが混じり始めた。
「いやはや──」
リデルは笑みを崩さぬまま答えた。
「……かつて貴方様にお世話になっていたジャックとは、私も長い付き合いになりましてね。しかし、彼の口からその事件。聞かされたことは、ただの一度もなかった。義理堅い男ですから、恐らく今後も口を開くことはないでしょう」
「……」
「ただ……一人の友人として、彼の背負う過去を知っておきたい。それだけでございます」
ギリアスはしばらくの間、鋭い眼光でリデルを見つめ返していた。
やがて、その口元が歪な笑みを象った。
「……なるほど。友人想いなお方だ」
ギリアスは杯を手に取った。
「いいでしょう。お話ししましょう」
一口、酒を喉へと流し込む。
「……私には昔、自慢の弟がいましてね」
語り口は静かであった。
「器量も男気もあり、おまけに頭の回転も速い……実に将来有望な男でしたよ。当然、奴を慕う者も大勢おり、その一人がジャックでした」
「……」
「ある日、敵対する氏族の討伐のために、弟とジャックが前線へ向かった。だが功を焦ったジャックが敵の罠にハマり、致命的な窮地に陥った。……弟は奴を救うため、自ら危険を侵して助けに向かったのです」
ギリアスは淡々と話を続ける。
「弟の捨て身のおかげで、ジャックは無事に生還することができた。……しかし代わりに、弟は二度と帰らぬ人となった。その罪悪感と責任に耐えかね、ジャックは俺の前から。この東方諸州から姿を消した」
ギリアスは杯の酒を一気にあおった。
「──というのが、表向き世間に通っているお話です」
リデルは表情を変えず、横顔のまま静かに耳を傾けていた。
「……と、言いますと?」
「弟は、ジャックを助けようとして殺されたわけではない。ジャック自身の手によって、背後から刺し殺されたのです」
ギリアスは感情の篭もらない冷徹な声で言い放った。
「そして……その暗殺をジャックに直々に命じたのは──」
一拍の間。
「──他ならぬ、この俺なんですよ」
実に軽やかな口調であった。
しかしその横顔には、あまりにも冷酷で、暗い闇に満ちていた。




