83話
「ギリアス様は政務の処理のため、少々遅れておられます」
フレイドが二人に向かって静かに断りを入れた。
「先立ちまして、我が辺境伯の主要幹部をご紹介させていただきます」
フレイドは左側の席へと向いた。
「まず、左手にお座りなのは、当辺境伯領の内政および外交を総括する宰相、ケティル様です」
ケティルと呼ばれた黒髪の女性は、手元の書類から一秒ほどだけ二人へ視線を向けた。
そしてすぐに興味を失ったように、再び手元の書類へと目を戻す。
「……この収支の数字、合っていないわね。もう一度計算し直さなきゃ」
独り言のように淡々と呟きながら、手元の羊皮紙に素早くペンを走らせ始めた。
フレイドはそれをいつもの光景であるかのように、何事もなくスルーした。
「そして、右手にお座りなのが、辺境伯軍の軍務を補佐されておりますクロード様。ギリアス様のご子息であらせられ──」
「……おい」
クロードがその言葉を遮った。低い、苛立ちを含んだ声であった。
「俺はな、あのグランツ本人がやって来ると聞いたからこそ、忙しい合間を縫ってわざわざ足を運んでやったんだ」
クロードはリデルとジャックの全身を、見下すような視線で上から下へと一瞥した。
「……それが何だ? 蓋を開けてみれば、餓鬼が一匹と半端者が一人。一体全体、どういうつもりだ?」
「こちらの御方は、ヴェーデル公国宰相たるリデル・バートン様でございます」
フレイドが落ち着き払った声で紹介した。
「ヴェーデルだぁ?」
クロードは鼻で冷笑した。
「ローズヴェルの傀儡国の三下が、ウチの親父に直接目通りできるとでも思っているのか?」
「……お前なんかよりよっぽど、修羅場の死線を潜り抜けてきてるぜ、この御方は」
ジャックが傍らで、小声でボソリと呟いた。
「うるせぇ!」
クロードが激高して噛みついた。
「半端者に話を聞いちゃいねぇんだよ!」
ジャックは肩をすくめて見せた。どうやら二人は旧知の仲であり、かつては気心の知れた関係だったらしい──リデルは内心でそう解釈した。
「事実でございます」
フレイドが静かに会話に割り込んだ。
「リデル様は、先日のリガニア大公軍との激戦において、殿役の見事な大役を果たされました。撤退する主力三万の安全を完璧に確保しつつ、追撃軍の足止めを二週間以上にわたって達成された。その戦功は、ここ東方諸州にまで轟いております」
一拍の間。
「ギリアス様もそのお噂をお聞きになり、舌を巻いて感服されておりました。今回の面会につきましても、大変楽しみにされているとお聞きしております」
クロードの表情が一変した。
何か言い返そうと口を開かけたが、言葉に詰まり、バツが悪そうに視線を横へ逸らした。
その瞬間、左側の席から「くすっ」と小さな嘲笑が漏れた。
ケティルであった。
彼女は書類から目を上げることなく、しかしその薄い唇に皮肉めいた笑みを浮かべていた。相手を徹底的に小馬鹿にするような、冷ややかな笑みであった。
クロードはケティルの嘲笑を横目で見咎め、さらに不機嫌そうに顔を歪めた。
そして、その苛立ちの矛先を再びリデルへと向けた。
「……まあいい、どうせ使いっ走りのガキには変わりねぇだろうが」
ギラついた目が、真っ直ぐにリデルを捉えた。
──まさに、その瞬間であった。
クロードの口が、ピタリと止まった。
リデルは別段、威嚇をしたわけでも身構えたわけでもなかった。ただ、静かにクロードの瞳を見つめ返していただけである。
しかし、その瞳の奥底には──言葉では言い表せない「何か」が存在していた。
底知れぬ深さとも、冷徹な静寂とも言い切れぬ「ナニカ」が、クロードの喉元で言葉を凍りつかせたのだ。
一瞬、クロードの身体が怯むように強張った。
自分が無意識に怯んだ事実に気づき、さらなる屈辱と怒りに苛まれたのか、彼は即座に別の方向へと顔を向けた。
「……ジャック」
低い、地を這うような声であった。
「……テメエ、よくもまあノコノコとこの場所に顔を出せたもんだな」
ジャックの表情に破綻はなかった。
「『身内殺し』をやったんだ。どんな惨い目に遭うか分かっているだろうな?」
「おいおい、クロード坊」
ジャックはいつもの軽薄な調子で肩をすくめた。
「その件については、俺はちゃんと筋を通したつもりだぜ? 言いがかりは勘弁してくれよ」
「……ふざけるな!!」
裂くような怒号が響き渡った。
クロードが猛然と椅子の肘掛けを叩き割らんばかりに叩いた。
「お前の身勝手な行動のせいで、どれほど多くの仲間が、大切な家族が死んだと思っている! 親父が許そうとも……俺は絶対にお前を許さねえ!」
「……へぇ」
ジャックの顔から、一瞬で嘲笑が消え去った。
「なら来いよ、クロード坊。……東方の作法に則って、今ここでケリをつけようじゃねえか」
二人の間に立ち込める空気が、殺伐とした殺気へと塗り替えられた。
リデルは微動だにしなかった。
フレイドが二人を制しようと動こうとした、その時──。
「……止めねぇか」
声が落ちた。
重く、静かな一言であった。しかしそのわずかな一声が、広い部屋に満ちていた殺気を一瞬で霧散させ、空間全体を完璧に支配した。
クロードの動きがピタリと固まった。
ジャックもまた、煽るのを即座にやめた。
そして──これまで我関せずを貫いていたケティルが、抱えていた書類を膝の上に置き、静かに立ち上がった。その顔色は先ほどまでの放漫なものとは一変し、直立不動の姿勢をとっていた。
奥の間に続く暗がりから、ゆっくりと足音が近づいてくる。
部屋の闇から、静かに一人の男が姿を現した。
東方風の緩い衣装を身に纏った男であった。
歩みに焦りなど微塵もない。しかし、その一歩一歩が揺るぎない確かな重みを伴っていた。
リデルはその男の姿を凝視した。
整えられた豊かな髭、獲物を射抜くような鋭い眼光──しかしその奥底には、確かな人間的温もりが宿っている。
フレイドから話を聞いた段階で思い描いていた通りの男であった。だが同時に、あらゆる事前情報を遥かに凌駕する圧倒的な「存在感」が、その全身から放たれていた。
「……ウチの若い者共が失礼をいたしましたな」
男が口を開いた。
リデルに向けられた、低く重厚な言葉であった。
「いえ……どうかお気になさらず」
リデルが静かに答えた。
男の口元が緩やかに動いた。
──笑みであった。
同性であっても一瞬で魅了されてしまうような──計算や打算の欠片もない、心からの自然な笑みであった。
「……遠路はるばる、よくぞお越しくださいました」
男が一歩前へと歩み出た。
「私がギリアス・ティーガルでございます。以後、お見知りおきを」
リデルは目の前の男をじっと見つめていた。
その胸の奥で、何かが激しく揺れ動いた。
──かつて、グランツ・ローズヴェルと初めて対峙した時以来の感覚であった。
頭脳の計算で捉えられるような人間ではない。情報や分析だけで推し量れるような器でもない。
直接対面して初めて、その底知れぬ存在の重みが理解できる──そうした次元の人間が、今、目の前に立っていた。




