82話
フレイドと一旦別れた後、案内役として残された部下数名がリデルたち一行を先導した。
足を踏み入れたエルドラの街は、文字通り活気と喧噪に満ち溢れていた。
市場からは威勢のいい怒号と笑い声が入り混じって響き渡り、幼い子供たちが路地を元気に走り回っている。露天の商人は大声を張り上げて客を呼び寄せ、酒場の前では真昼間から男たちが大勢集まって酒を酌み交わしていた。
そこには東方人らしい奔放さが確かに存在しており、帝国本領の街並みとは根本的に異なる熱量が漂っていた。
リデルは馬上から、その光景と人々をつぶさに観察した。
活気がある。間違いなく賑わっている。
しかし。
(……何かが引っかかる)
リデルは視線をかすかに細めた。
人々の目が、時折さりげなくこちらへと向けられているのだ。
正面からあからさまに凝視してくる者は一人もいない。しかし、視線が確かに自分らに注がれていた。
露天商人は売り物を並べ直すフリをしながら、横目でチラチラとこちらを追う。
走ってきた子供が一行の近くへ寄ろうとすると、側にいた親がそっと子供を引き寄せ、その大人は気のない素振りでリデルを一瞥した。
酒場の男たちは、リデルたちが通り過ぎるその瞬間だけ、示し合わせたかのように声のトーンを落とした。
──それが至極自然な日常の反応に見えるよう、街の全員があらかじめ訓練されているかのように。
リデルには、その光景に見覚えがあった。
それも、否応なく胸に刻まれた明確な記憶である。
──完全に統制された「監視社会」の下で生きる、人々の顔だ。
表向きは明るく振る舞い、笑い、騒いでいる。だがその裏で、常に周囲の気配を観察し、他者へ決して弱みを見せぬよう細心の注意を払い続けているのだ。「いつ、誰がどこで見ているかわからない」という潜伏した緊張感が、常に人々の身の奥底に張り付いている。
前世の記憶の中でも、幾度となく目にしてきた不気味な光景であった。
「東方諸州の人々は情に厚く、権力による束縛を嫌う自由人だ」と、巷ではまことしやかに囁かれていた。
しかし今、リデルの眼前に広がっているのは、その下馬評とは真っ向から対立する姿であった。
誰もが、絶対的な支配者の目を異様なほど気にしている。
特に、よそ者である自分たちの前では。
(なるほどな)
リデルは前方を見据えた。
これは敬愛などではなく、支配者に対する根深い「恐怖」であった。
単に慕われているだけでは、民衆がこれほどまでに張り詰めた目つきになるはずがない。心の底から恐れていなければ、このような反応が街全体に浸透することなどあり得ないのだ。
ギリアス・ティーガルという男が、この地の人々にとってどのような存在であるか。
民衆からの熱烈な支持を得ているという噂。そして「慕われると同時に、恐れられている」というラムズの鋭い分析。
今、リデルが目の当たりにしているのは、まさに後者の事実を雄弁に物語る証拠であった。
この街全体が、あの一人の男の手のひらの上で転がされている。
その事実を示す証左として、これ以上にわかりやすいものは存在しなかった。
───
ティーガル辺境伯邸は、エルドラの街の中央に一際高くそびえ立っていた。
外壁は高くそびえ立ち、門扉は重厚そのものであったが、無駄な過剰装飾は一切排除されていた。豪華な飾り立てよりも、実用的な防衛機能を徹底して追及した質実剛健な造りである。
案内役に連れられ、一行は重々しい館内へと足を踏み入れた。
長く続く石造りの廊下を静かに進んでいく。
やがて、案内役が足を止めた。
「この先につきましては」
案内役は振り返り、鋭い視線で一行を見回した。
「リデル様。ならびに、そちらの男性のお二人のみとさせていただきます」
「そちらの男性」──その指先が向けられたのは、ジャックであった。
「私はリデル様のお側に仕える護衛でございます」
リーフィアが一歩前へ踏み出た。
「どうか、私も同席させてください」
「申し訳ございませんが──」
案内役は素気なく首を横に振った。
「ティーガル辺境伯様とのご面会は、先ほどの二名様のみを通すことが絶対の条件となっております」
「ですが、それではリデル様の安全が──」
「リーフィア」
リデルが静かに制した。
「ここで皆のまとめを頼む」
リーフィアはリデルへと視線を向けた。
何かを言い募ろうと口を開かけたが、リデルの揺るぎない瞳を見て、静かに口をつぐんだ。
「……承知いたしました」
不服であるという感情がそのまま顔に滲み出ていたが、彼女はそれ以上言葉を挟まなかった。
案内役が再び先頭に立って歩き出す。
リデルとジャックの二人が、その背中に続いた。
静まり返った廊下を進みながら、リデルは並んで歩くジャックへ小声で囁いた。
「……随分と指名で目をかけられているな、ジャック」
「……」
「昔、ここで何かひどい悪さでもしていたのか?」
軽口を叩くような口調であった。
ジャックは少しの間を置き、ぽつりと呟いた。
「……ああ」
普段の彼からは想像もつかない、深く重い声であった。
「……悪さと言えば、悪さだったのかもしれねぇな」
前方をじっと見つめたまま、言葉を繋ぐ。
「本当だったらな……この場所には二度と足を踏み入れたくなかったんだよ」
リデルはその横顔を静かに見つめた。
「なら、どうして今回の危険な訪問に付いてきたんだ?」
「え?」
「お前に無理強いをしたつもりはなかったが」
ジャックは一瞬だけ言葉を詰まらせた後、無理やりに精一杯の軽薄な笑みを作ってみせた。
「……お前は放っておくと、どうも滅茶苦茶をやりがちだからなぁ」
お道化た口調であったが、その声の奥底には決して隠しきれない真摯な響きが混じっていた。
「ギリアス相手に無茶をしないように、俺がサポートしに来てやったんだよ」
「……フッ」
リデルは短く鼻で笑った。
「じゃあ、せいぜい頼りにさせてもらうぞ」
廊下の突き当たりに、巨大で重厚な両開きの扉が立ちはだかっていた。
案内役が扉番の兵士へ合図を送る。
重苦しい音を立てて、扉が開かれた。
室内は、圧倒されるほどに広大であった。
部屋の中央奥には一段高くなった主席が設けられ、その左右にそれぞれ整然と席が配置されている。
右側の席には、一人の男が腰掛けていた。
小柄で若く、まだ二十代半ばほどに見える。しかしその瞳は、部屋に入ってきたリデルとジャックを殺気立つような眼光で睨みつけていた。単なる警戒や好奇心などではない、明確な「敵意」を宿した眼差しであった。
左側の席には、一人の女性が佇んでいた。
艶やかな黒髪に、美しい褐色の肌。彼女は手にした書類に没頭しており、こちらへ視線すら向けず、何事かを呟きながら内容の確認に没頭していた。
そして──二人の手前中央に、正装へと着替えたフレイドが凛として立っていた。
先ほどの鎖帷子ではなく、絢爛な式典用の礼装を身に纏っている。しかし、その圧倒的な巨躯と顔に刻まれた一筋の傷跡は、彼が死線を潜り抜けてきた武人であることを雄弁に主張していた。
「……ようこそお越しくださいました、リデル・バートン様」
フレイドは重々しく、深く頭を下げた。




