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73話

一月中旬。

霊峰における大規模な後処理は、おおよそ片付きつつあった。

死体の収容、捨て去られた武器や物資の接収、施設群の損傷状況の把握──リヒト率いる部隊が、淡々と作業を進めていた。

リデルは、そろそろ山を下りてヴェーデル本国に戻ろうと考えていた。次なる行動に向けた準備が、山ほど残されていたからだ。

まさにその時、一人の伝令が駆け込んできた。

リヒトからの緊急報告であった。

リデルは、最初その内容を聞いた時、自分の耳を疑った。聞き間違いではないかと思ったほどだ。

しかし伝令の引きつった表情が、それが決して聞き間違いなどではないことを物語っていた。

リデルは直ちに、山の東側に位置する監視所へと向かった。

現場の状況や変化を自分の目で直接確認する──それが、リデルの徹底した流儀であった。

監視所に到着すると、そこにはリヒトと数人の部下が詰めていた。

部下の一人が望遠鏡を手にしたまま、霊峰の東側に広がる麓の平原を食い入るように見下ろしている。

 

「どいつだ」

 

リデルは姿を現すなり、単刀直入にリヒトへ尋ねた。

 

「軍勢の先頭で、堂々と名乗りを上げている人物にございます」

 

リヒトが答えた。

いつもと変わらぬ落ち着いた声調であったが、その奥底には隠しきれない困惑が滲み出ていた。

 

「私を含め数人の目で確認いたしましたが……まず間違いなく『本人』に相違ございません」

 

「……一応、私にも確認させてくれ」

 

「はい」

 

リデルは差し出された望遠鏡を受け取ると、眼下の平野へと向けた。

ピントを合わせる。

麓には、およそ一万におよぶ軍勢が陣を敷いていた。

掲げられた幾多の旗印。

その先頭に、一人の人物が立っていた。

立派な佇まいをした、三十代後半の男であった。豪奢な甲冑を纏い、馬上から霊峰に向かって何事かを大声で叫んでいる。

リデルは望遠鏡越しに、その男の口の動きを注意深く読んだ。

距離があるため直接の声は届かない。しかし、その唇の動きと風に乗って断片的に届く声の残滓から、叫んでいる言葉を正確に読み取ることができた。

 

「──余は!」

 

男は声の限り叫んでいた。

 

「女神の恩寵を賜りし、ベルドルナ家正統当主──」

 

リデルの手が、ぴたりと止まった。

 

「──ローデンス・ベルドルナである!!」

 

叫びはさらに続いていた。

 

「霊峰を焼き払いし大逆人、リヒト! そしてリデルよ! 直ちに下山し、正々堂々我々と雌雄を決せい!!」

 

リデルは静かに望遠鏡から目を離した。

そしてしばらくの間、何も言わなかった。

隣ではリヒトが、無言のまま静かに佇んでいる。

 

「……ローデンス第一皇子が、なぜ……」

 

リデルは、ようやくそれだけの言葉を漏らした。


「……なぜだ?」

 

リデルは手に望遠鏡を持ったまま、自問自答するように低く呟いた。

 

「一体、何が狙いなんだ……?」

 

リデルの脳内で、眼下の状況が素早く整理されていく。

ローデンス第一皇子。実権こそ皆無に等しいが、南部都市国家連合と聖母派にとって最大の最重要人物である。教皇軍が帝国本領へと侵攻するための大義名分そのものであり、担ぎ上げられた神輿であった。

そのローデンスが、なぜか今、眼下にいるのだ。

麓に広がるのは遮るもののない大平原。高所から見る限り、伏兵の可能性など皆無であった。

敵の軍勢はおよそ一万。しかし強行軍を重ねてきたのか、全員が極度に疲弊しているように見えた。装備も服装もバラバラで、実際の戦闘能力は額面の半分以下とみても間違いない。地の利を掌握している今、リヒトの三千の精鋭だけでも容易に蹂躙できるだろう。

つまり、リデルは今、思いがけない不慮の事態によって、聖母派のアキレス腱を完全に手中に収めている状態にあった。

 

「……」

 

しかし、リデルは何も言わなかった。

あまりにも突飛な敵の行動に、珍しく頭の整理が追いついていなかったのだ。

 

「第一皇子は、昔から名声を異常なまでに求めるお方です」

 

リヒトが、さりげなく助言を挟んだ。

 

「おそらくは……単に『格好をつけたい』という理由もあるのでしょう。実情はどうあれ、自ら陣頭に立ち霊峰の悪人に直接対峙してみせた──という形を作りたかったのではないかと」

 

「……なるほど」

 

その一言で、リデルの胸のつかえが少しだけ下りた。

 

「……どうなさいますか?」

 

リヒトが静かに続けた。

 

「ひとまず、向こうのお望み通りに下山して、第一皇子殿下をお捕まえしますか?」

 

「そうだな。とりあえずそれで──」

 

言いかけたリデルの言葉が、途中でぴたりと止まった。

頭の中で、何かが鋭く動いた。

急速に一つの「絵図」が鮮明な形を成していく。

即興の閃きであった。粗削りな策に過ぎない。リデル自身、これほどまでに大胆な策を実行に移すのは極めて珍しかった。

しかし──もしも上手く行けば、聖母派に対してさらなる優位を獲得するどころか、敵の戦略の根底そのものを叩き潰せる可能性を秘めていた。

そして何より、この策の優れている点は「失敗しても我が方が失うものがほとんどない」という点であった。

ただ一点──リデル本人の身の安全だけは、まったく別の話であったが。

 

「……リヒト」

 

「はい」

 

「ローデンスの元へ使者を送ってくれ。『交渉の場を設けたい』と伝えるんだ」

 

「交渉、ですか」

 

「それと、私が使うため白旗も用意してくれ」

 

リヒトは一瞬だけ、目を細めた。

 

「……承知いたしました」

 

──一時間後。

 

麓に設けられた天幕の中に、ローデンスと数人の護衛たちが待ち構えていた。

そこへ、霊峰の斜面を静かに降りてくる人影があった。

掲げられているのは白旗。

従者も連れず、ただ一人。

リデルであった。

リデルは天幕の前に辿り着くと、ローデンスの目前へと進み出た。

そして、静かに膝をついた。

 

「お初にお目にかかります、ローデンス殿下」

 

穏やかだが、芯の通った声だった。

 

「私の名はリデル・バートン。交渉の申し入れをご承諾いただき、感謝の念が絶えません」

 

ローデンスは馬から降り、両腕を組んで傲然と見下ろしていた。

 

「……当然だ!」

 

朗々と響く、大きな声であった。

 

「いかに背天者であり、聖なる霊峰を焼き払った悪人であろうとも、礼儀と作法を欠かさぬのがベルドルナ家の男である。そちらこそ、約束通り一人で乗り込んできた度胸だけは褒めて遣わそう」

 

(……単純で扱いやすい男だ。ゲオルクスが大事にするわけだ)

 

リデルは内心でそう思いつつも、表情には一切出さなかった。

 

「して──」

 

ローデンスは尊大に言葉を続けた。

 

「今回の交渉とやらだが、言わずもがなそちらの降伏手続きであると、こちらは解釈しているが。相違ないな?」

 

「いいえ」

 

リデルは静かに、しかし明確に答えた。

 

「……違います」

 

「何……!?」

 

「そのような些細な話ではございません。もっと大きな話でございます」

 

ローデンスの身体が、わずかに前のめりになった。

 

(……食いついた)

 

リデルは心の中でほくそ笑んだ。だが、表情は微動だにさせない。

 

「現在繰り広げられている、我々と聖母派の無益な戦闘行為──」

 

リデルは顔を上げ、直然とローデンスの目を見据えた。

 

「……どうかローデンス様の手によって収めていただきたく、参上した次第でございます」

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