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72話

大陸歴七九〇年、一月一日。

漆黒の夜が明け、霊峰インテグロモンテに新たな朝が訪れていた。

霊峰の朝は、静寂に包まれていた。

だがその静けさは、昨夜までの荘厳で偽りに満ちた平穏とは、根本から異なる性質のものであった。

華やかさを誇っていた建造物の幾つかは無惨に全半壊し、強固な石造りの壁には無残な大穴が穿たれていた。焦げついた煤が、かつて聖なる石畳と呼ばれた床を赤黒く染め上げている。

そして──その至る所に、死体が転がっていた。

リデルが崩れかけた霊峰の門を潜ったのは、夜明け直後のことであった。

彼を出迎えたリヒトとその数人の部下たちは、全員が顔や全身に黒い煤と返り血を浴びていた。羽織る外套もまた、決して綺麗とは言えない凄惨な状態であった。

 

「見事な手際だった」

 

リデルは労いの言葉をかけた。

 

「君たちのおかげで、我が軍は聖母派に対して初めて、戦略的優位を確保することができた。グランツ様にも、しかと報告する」

 

「ありがたきお言葉にございます」

 

リヒトは恭しく深々と頭を下げた。

 

「しかし、戦が開戦前の準備で決するというのなら、すべてはリデル殿の手柄と言えましょう。計画の緻密さと見事さには、作戦行動の最中から感服していたほどでございます」

 

「それは大袈裟というものだ」

 

リデルはそれを軽く受け流すと、本題を切り出した。

 

「──イングリア大司教はどうした?」

 

「殺しました」

 

リヒトは至極淡々と、まるで雑草を摘み取ったかのような口調で答えた。

 

「貴方様であっても、同じ判断を下されたと思いまして」

 

リデルはそっと目を閉じた。

 

「……そうか」

 

肯定も否定もせず、ただそれだけを口にした。

 

「とりあえず、この場の事後処理は我々の本隊が引き継ぐ。君たちは下がって体を休めてくれ」

 

「配慮、感謝いたします。それではお言葉に甘えさせていただきます」

 

リヒトは傍らに立つ部下に目で合図を送った。部下は了解の頷きを返し、部隊への通達のために素早く駆け去っていった。

その後、リヒトは静かにリデルを見つめた。

 

「……リデル殿、よろしければ」

 

「何だ?」

 

「少しの間、私の戯言のような雑談にお付き合いいただけますか」

 

リデルはリヒトの精悍な顔立ちを見つめた。

そして、その瞳の奥にある真意を瞬時に察した。

 

「リーフィア」

 

「はい」

 

「すまないが、少し離れていてくれ」

 

「……承知いたしました」

 

リーフィアは静かに一礼すると、数歩後ろへと距離を取った。

リデルとリヒトは並んで歩き始めた。焦土と化した境内を抜け、小高い丘の方へと向かっていく。

丘の頂からは、破壊された霊峰の全貌が一望できた。

昇り始めた朝の光が、崩壊した大聖堂と、沈黙した惨状を容赦なく照らし出していた。

リヒトが静かに口を開いた。

 

「今回の一件によって、私とリデル殿は、名実ともに女神教における最大の『神敵』となりましたな」

 

「そうだな」

 

「私とて、今さら天国や地獄の存在など端から信じてはおりません。ですが──」

 

リヒトは惨禍の霊峰を見渡しながら言った。

 

「この聖母派との血みどろの闘争に万が一敗北すれば、我らには碌でもない悲惨な最期が待っていることでしょう。それだけは確かです」

 

「……承知の上だ」

 

リデルは足元に転がる煤けた瓦礫を見つめた。

 

「今ここで動かなければ、来春の聖母派による大攻勢で我が軍が敗北するのは火を見るより明らかだった。誰かが悪名を被って断行しなければならなかったのだ」

 

「ええ」

 

「貴殿もまた、それを完璧に理解していたからこそ、真っ先に名乗りを上げてくれたのだろう?」

 

リヒトは一拍、間を置いた。

 

「我々は、四年前のあの時からすでに大きすぎる大罪の業を背負っておりましたからね」

 

自嘲気味な笑みが、彼の声に混じった。

 

「今さら一つや二つ、背負う業が増えたところで……大した違いなどございませんよ」

 

二人はしばらくの間、無言で並んで佇んでいた。

 

「……しかし」

 

リヒトが不意に、横目でリデルの側顔を覗き込んだ。

 

「私の見る限り……リデル殿もまた、そのお若さには到底見合わぬほど、不可思議なまでに深い業を抱え込まれているように見受けられます」

 

「……」

 

「到底十六歳の青年のものではない。最初に敵同士で出会ったころから、ずっとそのように感じておりました」

 

リヒトは探るように、静かに言葉を紡ぐ。

 

「……貴方様は一体、何者なのでございますか?」

 

核心を容赦なく突くような呟きであった。

リデルはしばらく沈黙を守った。

そして、かすかに口元を緩めた。

 

「異界の怪物、暴君サルターンの生まれ変わりだとでも言ったら信じるか?」

 

どこか冗談めかした口調であった。

リヒトはその言葉を聞いた瞬間、思わず腹を抱えて声を上げて笑った。

腹の底からの笑い声であった。この冷徹な男がこれほど感情を露わにして笑うなど、極めて稀なことであった。

 

「なるほど」

 

笑いを収めたリヒトは、噛み締めるように呟いた。

 

「それならば……私ごときが敵うはずもありませんな」

 

二人は再び並び、朝の光に包まれる苛烈な霊峰の景色を見つめていた。

やがて、リヒトが一歩前へ踏み出した。

 

「私の不躾な戯言にお付き合いいただき、ありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

「……ようやく、本当の意味での『同胞』に出会えた気分ですよ」

 

リヒトはリデルの方へと振り返った。

 

「これからも二人で、グランツ様の覇業を支えて参りましょう」

 

「ああ」

 

リデルは短く答えた。

リヒトは深々と一礼すると、自部隊の待つ方へと静かに去っていった。

リデルは、その去り行く背中をじっと見送っていた。

朝の光はどこまでも透き通らせ、惨乱たる霊峰をただ静かに照らし続けていた。


───

 

教皇ゲオルクスに報告が届いたのは、女神教の説教を行っている真っ只中であった。

大聖堂の豪奢な講壇に立ち、集まった数百人の熱心な信徒たちに向けて説教を届けていたゲオルクスは、耳元で側近が緊迫した声で囁いた瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 

「……失礼。後の続きは弟子たちに任せますゆえ」

 

彼は一言だけ言い残し、即座に講壇を降りた。

信徒たちの間に動揺のざわめきが広がった。

しかしゲオルクスは、一度たりとも振り返らなかった。

静かな廊下に響く彼の足音は、異常なほどに速かった。

 

「……あのイングリアの老いぼれがくそがあぁっ!!」

 

怒声が石造りの回廊に激しく反響した。

 

「拠点一つ満足に守れんほど脳味噌が呆け腐っとったんなら、さっさと破門にして放り出しておけばよかったわ!!」

 

先ほどまで講壇で信徒たちを魅了していた聖者のごとき穏やかな声は完全に消やせ、まるで凶暴な野獣のごとき口調へと変貌を遂げていた。

ゲオルクスは激しい足取りで歩を進めながら、高速で頭脳を回転させていた。

感情と思考が、まったく別の回路で完璧に分離して動いていたのだ。

怒りを怒りとして怒号で吐き出しながらも、彼の頭脳の裏ではすでに引き起こされた二つの重大な懸念事項が整理されつつあった。

第一に──インテグロモンテという絶対的要衝を失ったことで、南部都市国家連合の西側防衛線が無防備に晒されたこと。

これまでは、グランツ陣営と都市連合の間にはリガニア大公領が堅固な壁として存在していた。ゆえに本土を直接攻撃されるリスクがなく、教皇軍は全軍を注ぎ込んだ強気の攻撃一辺倒の戦略を組むことができていたのだ。

しかし今や、あの軍事的要塞たる霊峰は敵の手に落ちた。あそこから出撃を許せば、その先には平坦な大平原と整備された街道がどこまでも広がっている。攻めやすく守りにくい地形の極みであった。

しかも「聖域不可侵」という宗教的前提を抜きにしても、霊峰そのものは純粋な軍事視点で見れば完璧な天然の要害である。奪還しようと試みれば、籠城する敵の最低でも三倍以上の大軍と、それを上回る凄惨な犠牲を払わねばならない。現在のグランツ陣営からあの要塞を力づくで奪い返すなど、ほぼ不可能に近かった。

 

第二に──全信徒の士気に対する深刻な影響である。

この知らせによって、最初のうちは「聖域を侵した神敵を滅せよ」と激しい怒りによって一時的に士気は跳ね上がり、各地で信徒による突発的な蜂起も急増するだろう。だが、それは所詮一過性の熱狂に過ぎない。

グランツ陣営は、女神教の信徒であれば決して踏み越えてはならない「一線」を軽々と踏み越えてみせた。ならば彼らは、背後から牙を向く信徒の叛乱に対しても、一切の情け容赦のない苛烈な報復を躊躇う理由がない。

そうなれば、恐怖によって信徒の士気は暴落する。それどころか、保身のためにグランツ側へ寝返り寝返る者すら続出するだろう。

厳格な軍制ではなく、「信仰」という精神的結合によって成り立っている教皇軍にとって、それは組織の根幹を揺るがす致命的な打撃であった。

ゲオルクスの胸中に、未曾有の焦燥感が湧き上がっていた。

今すぐ明確な「勝利」が欲しかった。どれほど小規模なものであっても構わない。敵に対して優位を示し、動揺を抑え込む「何か」が必要であったのだ。

彼の脳内で、霊峰奪還に向けた大規模な作戦計画が電光石火で組み上がり始めた。

……しかし。ゲオルクスは不意に足を止めた。

 

(……待てや。考え直せ)

 

これこそが、敵の描いた真の絵図ではないのか?

グランツとリデルは、霊峰を奪取することで我が方を焦らせ、無謀な奪還作戦へと引きずり込もうとしているのではないか。焦りに任せて動けば、間違いなく第二、第三の罠に嵌まり、敗北を重ねることになる。神敵に立て続けに不覚を取れば、それこそ今度こそ信徒の動揺は抑えがきかなくなるのだ。

今は伸るか反るかの博打に打って出るより、徹底した「防衛と安定」を優先すべきである──。

彼の頭脳の中で、瞬時に次なる方針が固まった。

取り急ぎ手元にある即応兵力を西部の防衛へと回し、現地の混乱と動揺を最低限に抑え込む。そして不測の事態に備え、十万の大軍を「予備兵力」として聖都に留め置く。来春に予定されている帝国本領への侵攻軍は当初の予定の半数程度に縮小せざるを得ないが、現地のリガニア軍と合流した信徒勢力を加えれば、依然として絶対的な数的優位は確保できるはずだ。

わずか数秒で、新プランが完璧に組み上がった。

ゲオルクスは再び足取りを早め、廊下を進み始めた。

その時──廊下の向こうから、修道士がなりふり構わず小走りで駆け寄ってきた。

 

「ゲ、ゲオルクス猊下……!」

 

「どないしたんや。少しは落ち着きぃ」

 

「き、緊急のご報告でございます!」

 

「何や、言ってみぃ」

 

ゲオルクスは足を止めることなく、促した。

 

「……霊峰陥落の急報を受けまして、先ほど一万の軍勢が聖都を進発いたしました!」

 

「なんや、そんなことか」

 

ゲオルクスは鼻で笑い、ほとんど意に介さず吐き捨てた。

 

「ちょうどそっちに兵を回そうと考えておったところや。都合がええわ」

 

「それが……極めて深刻な、問題がございまして」

 

「何だと?」

 

「その軍を率いている人物が……!」

 

修道士から指揮官の「名」を告げられた瞬間──。

ゲオルクスの取り繕っていた余裕の表情が、一瞬で凍りついた。

先ほどまで彼の脳内で完璧に組み上がっていたはずの綿密な対抗策が、音を立てて木っ端微塵に崩壊していくのを、ゲオルクスは戦慄とともに味わう事となった。

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― 新着の感想 ―
いつも楽しみに拝読しています。ストーリー展開が楽しすぎて更新がまちきれません。
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