7話
「金貨を、受け取らない、と……?」
ラムズの声に、わずかな戸惑いが滲んだ。
「リデル様、これは私の誠意の証として――」
「銀貨二百枚は、もともとバートン本領から不正に取り立てられたものです。元の持ち主に返るのは当然のことですから、これは受け取ります」
リデルは、淡々と続けた。
「しかし、金貨百枚は別の話です。これを受け取れば、今回の一件は『金銭で解決済み』という形になってしまう。それは、私の望むところではありません」
「リデル様、それは……我々の誠意を、踏みつけるおつもりですか」
「踏みつけるつもりはありません。代わりに――」
リデルは、一拍置いた。
「金貨の代わりに、別のものを受け取りたいと考えています」
「別のもの、とは」
「現在、バートン本領の直轄領を管理している徴税担当官――その大半は、ラムズ、あなたの推薦によって任命された者たちです。彼らを、全員解任いたします」
応接間の空気が、変わった。
ラムズの表情から、悲愴さが消えていく。代わりに浮かんだのは、明らかな警戒だった。
「リデル様……それは、いささか乱暴な話ではございませんか」
ラムズの声が、わずかに低くなった。
「徴税担当官は、長年その土地を見てきた者たちです。彼らを一斉に解任すれば、徴税業務そのものが立ち行かなくなります。ただでさえバートン家の会計は厳しい状況にあります。これ以上の混乱を招けば、それこそ領民に被害が及ぶことになりかねません」
心配そうな表情。だが、その奥にあるものを、リデルは見逃さなかった。
(混乱を心配しているわけではない。その混乱が、バートン本家にどう影響を及ぼすかを懸念しているだけだ)
「ご心配には及びません」
リデルは、静かに言った。
「すでに、後任の人選はある程度済んでいます。直轄領十二の村のうち、八つについては、新たに任命する担当官の名前まで決まっています」
「……すでに、ですか」
「この一ヶ月間、帳簿を読み直していましたから。ついでに、領内の人材についても調べが済んでいます」
ラムズの目が、わずかに細められた。十二歳の少年が、独力でそこまで進めていた――その事実が、これまでの「無害な子供」という評価を、根底から揺るがすものだった。
「会計の混乱について、心配はいりません。新しい帳簿の体系もすでに用意してあります。引き継ぎに必要な期間は、せいぜい二週間程度でしょう」
ラムズは、しばらく沈黙した。
「……一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「これだけ大規模な不正です。十年もの間、誰にも気づかれずに行われてきた。リデル様は、それを『誰の責任』だとお考えなのでしょうか」
探るような問いだった。ホーエンス一人の責任で収めるか、それとも――。
「率直に言いましょう」
リデルは、ラムズの目を正面から見据えた。
「これほど大規模かつ組織的な不正が、十年もの間、誰にも露見せず続いていた。それを『誰も気づかなかった』と説明するのは不可能です」
「……」
「バートン本領の徴税担当官たちが、この十年、本当に何も知らなかったというのは、論理的にありえません。少なくとも関与していた者がいる――いや、グルだったと言って差し支えないでしょう」
その一言は、明確だった。ホーエンス個人の問題、という枠組みを、リデルは自ら踏み越えた。
ラムズの纏う空気が、変わった。
悲愴さも戸惑いも、もうそこにはなかった。代わりに、何かがゆっくりと持ち上がっていくような感覚があった。
「リデル様」
ラムズの声に、初めて、重みのある何かが混じった。
「それは――私の推薦した者たちすべてを、不正の共犯者と断じるということでしょうか。それは、私自身を信頼していない、という意味にも取れますが」
明確な、圧だった。
大きな体躯が、わずかに前に出た。座っているだけなのに、その存在感が部屋の温度を変えていった。庭先に並んだ私兵たちの存在が、ふと、リデルの意識の端をかすめた。
応接間に、誰も口を開けない時間が流れた。
ジョルジュは何も言えずに立ち尽くし、シャルロットの手は、夫の袖を強く握りしめていた。
リデルは、その圧をまっすぐに受け止めた。
「『信頼していない』というのは、その通りです」
静かな声だった。だが、一切、揺るがなかった。
「ですが、ラムズ。信頼を壊したのは私ではありません」
「……」
「十年です」
リデルは、繰り返した。
「十年もの間、私たちは不正に搾取され続けてきたのです。その間に任命された担当官の大半は、あなたの推薦だった」
一語一語、刻むように。
「私は、何も壊していません。すでに壊れていたものを、見つけただけです」
応接間の空気が、張り詰めた。
ラムズの大きな手が、膝の上で、ゆっくりと拳に変わっていった。その喉から、何かを噛み砕くような、低い呼吸が漏れた。
長い。長く、緊張する沈黙だった。
応接間にいる誰もが、息をするのも忘れていた。
やがて――。
ラムズの拳が、ゆっくりと開かれた。
「……」
大きな体が、ふたたび深く折られた。今度の動作は、最初に部屋に入ってきた時よりも、さらに深かった。
「リデル様の仰る通りでございます」
声には、先ほどまでの圧は跡形もなかった。代わりに、ひどく丁寧で、感情の読めない口調だけが残っていた。
「私の監督不行届により、御家に重大な損害をお与えしました。担当官の解任、ならびに新体制への移行、すべてリデル様のご指示に従います。私の方からも、関係者には、速やかに手続きを進めるよう申し伝えましょう」
「ありがとう、ラムズ」
リデルは、表向きには、ほっとしたような少年の表情を作って見せた。
「あなたがそう言ってくれて安心しました。これからも、御家のために力を貸してください」
「……御意に」
ラムズは、深々と頭を下げたまま、しばらく顔を上げなかった。
その姿を見下ろしながら、リデルは内心で、静かに考えていた。
(表向きは、こちらの勝ちだ。だが――)
あの拳の、一瞬の硬直。
ラムズは、今この場では引いた。だが、それは「納得した」という意味ではない。むしろ、その逆だ。これまで「無害な子供」「御しやすい当主」と見積もっていた相手が、牙を剥いてきた。、――その事実そのものが、ラムズにとっては、これまでとは比較にならない「脅威」として再評価されたはずだった。
(今日から、私は『盤上の駒』ではなく、『盤上の対局者』として見られるだろうな)
それは、危険であると同時に――面白くもあった。




