66話
暗闇からの容赦なき銃火が、戦況のすべてを覆した。
左右の草むらから突如として浴びせられた怒濤の弾幕に、リガニア騎士団は完全に虚をつかれた。
再突撃の猛烈な勢いは霧散し、獰猛に組み上げられた突撃陣形は無残に瓦解。落馬する騎士が相次ぎ──そしてついに、敵の士気が完全に崩壊した。
ライルは、戦場の空気が決定的に変わったことを肌で察知し、即座に決断した。
「──退けぇっ!!」
血吐くような撤退の叫びが響く。
騎士たちが一斉に馬首を返し、闇の奥へと引き上げていく。
追撃は行われなかった。リデルたちもまた、もはや追撃を仕掛けられるほどの余力は残されていなかったのだ。
戦場から生々しい殺戮の音が一つ、また一つと消えていく。
平穏を取り戻した夜の森が、静寂とともに戻ってきた。
やがて──草むらがガサリと揺れ、人影が立ち上がった。
複数の兵士たちの影が、月光の下へと姿を現す。
リデルは呼吸を整えながら、彼らを冷静に見つめた。
その最前線から、一人の男が歩み出てくる。
「……ご無事で何よりです、リデル殿」
リヒトであった。
リデルは一拍置き、言葉を返した。
「……お前は。グランツ様の命を受け、帝都周辺に拠点を置く親衛隊系の軍閥や有力者たちを訪ねていたのではなかったか? ローズヴェル軍への参画を説得するために」
「ええ、その通りです」
リヒトは凄惨な戦場跡を見渡しながら言葉を続けた。
「ただ、ローズヴェル軍の窮地と、殿を務めるリデル殿たちの危機を聞きつけましてね。微力ながら助力すべく精鋭三百を率いて駆けつける最中、ただならぬ戦場音楽を聞きつけ、そのまま飛び込ませていただいた次第です」
リヒトは少し間を置くと、苦笑いを浮かべた。
「しかし、まさか最強と名高いリガニア騎士団を相手に、真正面から凄絶な殴り合いを仕掛けていようとは思いもしませんでしたが。正直、呆れ果てましたよ。ですが……あまりに見事でもありました」
リデルは静かにその言葉を受け止めた。彼の表情は、いつもの冷静な鉄仮面へと戻っていた。
「助かった。君たちの助けがなければ、間違いなくここで全滅していた」
「そのようなことはありません。私が見た限り、勝負は五分五分でしたよ」
「いや、本当に危ういところだった。心から感謝する」
リヒトは軽く手を振ってみせた。
「買いかぶりですよ。このフリンテとて、グランツ様から授かった代物ですし」
「それにしても、複数小隊による多方向射撃の連携が見事だった」
「複数小隊による多方向斉射は、以前リデル殿が念信スキル保持者を用いて実施された戦術を参考にさせていただいただけです。つまりは……所詮すべて他人からの借り物に過ぎませんよ」
謙遜であった。しかし、言っている内容自体は紛れもない事実でもあった。
リデルはリヒトをまじまじと見つめた。
フリンテという彼らにとって未知の兵器を渡されてから、どれほどの時間が経ったというのか。そのわずかな短期間で、複数小隊による高度な連携射撃を実戦レベルまで磨き上げていた。しかも、他者の戦術を正しく理解し、完璧に応用してみせたのだ。
「借り物だ」と本人は口にした。
しかし、借り物を実戦でこれほど完璧に使いこなすには、並大抵ではない理解力と過酷な訓練を要するはずであった。
リデルの思考回路が、冷徹にその情報を処理していく。
(……この男とその部下たち。やはり只者ではないな)
新兵器を手に取れば即座に実戦投入できる状態へと仕上げ、他者の斬新な発想を正確に自らの血肉とする。その学習速度と柔軟性は、並外れたものがあった。
かつて敵として対峙していた時にも感じていた才能であったが、こうして味方として並び立つと、その恐ろしさがより鮮明に理解できた。
(……まぁ、いい。今は味方だ。今は、な)
リデルはその思考を頭の隅へと一旦押しやった。
「いずれにせよ、命拾いをした」
リデルは改めて謝意を伝えた。
「これより撤退戦を再開する。後方に残した陣地守備隊も、そろそろ動き出している頃だ。合流し、遅滞戦闘を展開しながら帝都を目指す」
「承知いたしました。我ら三百、喜んでお供いたしましょう」
「ありがたい。……キリル、お前はまだ動けるか?」
「……当たり前だ。貴様とは鍛え方が違うのだよ」
かつての育ちの良い貴族の面影は失われ、まるで野盗のような荒々しい目つきと佇まいになったキリルが、噛みつくように言い放った。リデルはその毒舌に対し、どこか楽しそうに口元を歪めた。
リデルは周囲の兵士たちに向かって声をかけた。
泥と血にまみれた兵士たちが、互いを支え合いながら力強く立ち上がり始める。
深々と静まり返る夜の森を、一行は帝都を目指して歩みを進めたのだった。
───
殿戦を開始してから、二週間が経過していた。
その過酷な期間、リデル、キリル、リヒトの三人は退きながら戦い続けた。
敵の正面攻撃は避けつつ、伏撃を仕掛け、奇襲を断行し、叩いては即座に引き、再び待ち伏せて叩く──熾烈を極めるゲリラ的な遅滞戦闘を繰り返したのだ。
猛追してくるリガニア大公軍の先鋒は、その度に手痛い損害を被った。しかし、圧倒的な兵数差ゆえに敵の進撃が完全に止まることはなかった。
それでも──彼ら三人は二週間の間、帝都へと続く生命線を死守し続けたのである。
やがて、遠方に帝都の雄大な城壁がその姿を現した時、リデルの足が止まった。
正確には──激痛のあまり、足を止めざるを得なかったのだ。
右足が激しく痛んだ。
三度目の夜襲を跳ね返した際、敵の矢が足を貫通していたのだ。リヒトが帯同させていた軍医が適切な応急処置を施してくれたものの、完全な治癒には程遠い状態であった。
リデルの両脇に、スッとキリルとリヒトが入った。
二人に肩を貸されながら、リデルは一歩一歩、確かな踏み込みで歩いた。
帝都の巨大な城門は、すでに大きく開け放たれていた。
その先には、広大な軍勢が整然と陣を敷いていた。
完全装備を整えた大軍が、今まさに出撃の時を迎えようとしていたのだ。
その軍勢の最前線に、グランツ・ローズヴェルの姿があった。
グランツは、歩み寄ってくる三人を見つめた。
リデルの痛々しい脚。キリルの腕に痛々しく巻かれた血の滲む包帯。リヒトの泥と血に塗れた顔面。
そして、彼らの背後に続く兵士たちの姿──脱落者を出し、半数にまで減りながらも、眼光だけは鋭く生き残った者たちの勇姿を。
グランツは、一言も言葉を発しなかった。
ただ静かに歩み寄り、三人の目の前に立ちふさがった。
「……グランツ様。このような不躾な姿にてお目見えします無礼、なにとぞお許しを」
リデルが息を整えながら口を開いた。
「只今、戻りました」
グランツは返事をしなかった。
そのまま力強く腕を伸ばすと、三人を残さず抱きしめたのだ。
三人を同時に、その逞しい両腕で深く抱き留めた。
周囲の空気が、しんと静まり返る。
「よく……よく無事に戻ってきてくれた」
声が激しく震えていた。
普段の厳格な将帥たるグランツのものとは、到底思えぬ声であった。
「感謝する……。お前たちの奮闘。心より、感謝するぞ……!」
三人は身動き一つ取らなかった。いや、取れなかったのだ。
周囲に集う兵士たちが、その胸を打つ光景を静かに見守っていた。
誰かが感極まって鼻を啜り、別の誰かが目元を拭った。
二週間におよぶ絶望的な殿戦を最後まで戦い抜いた猛者たちと、帝都でその無事なる帰還を祈り続けながら待っていた者たちが、今、一つの場所で熱い息吹を共有していた。
やがて、グランツは三人から静かに身体を離した。
一瞬だけ、その厳格な顔に人間味あふれる感傷が覗いたが──次の瞬間にはそれも消え去っていた。
再び、万を越える軍を統べる真の「将帥」の顔へと戻っていたのだ。
グランツはくるりと振り返った。
目の前には、完璧に整列した大軍勢が待機している。
グランツは深く息を吸い込んだ。
「──聞けぇっ!!」
雷鳴のごとき雄叫びが、大空へと轟き渡った。
腹の底から絞り出されたその声は、その場に集うすべての全軍の耳朶を打った。
「帝国の忠臣たる我らが、一体何をされたかを知れ!!」
誰も身じろぎ一つせず、グランツの言葉に全神経を注いだ。
「帝都の荒廃を見過ごして、領地に籠る不義の輩に替わり、命を懸けて帝都を助けに参った勇士たちが──あろうことか、背後から刃で刺されたのだ!!」
怒号ではない。しかし、紡がれる言葉の一語一語に、血の滲むような重圧が宿っていた。
「この非道を仕掛けた者は誰か!? 我が身の保身しか頭にない本領貴族どもである! そしてその背後で裏糸を引くのは、信仰を盾に取り、今まさに帝国を掌握せんとする野心を剥き出しにした聖母派に他ならない!!」
将兵たちの間から、抑えきれない怒りの不平が噴出し始めた。
「許さんぞ……!」
「断じて報復してやる!」
「逆賊どもを討ち果たせ!」
グランツはさらに牙を剥き、声を張り上げた。
「討つべし悪逆の臣!! 滅すべし聖母派!!」
その一声が、爆発寸前であった兵士たちの情念に火をつけた。兵らから地鳴りのごとき大轟声が巻き起こる。
何千、何万という雄叫びが重なり合い、帝都の歴史ある石畳を激しく震わせた。
「情けは不要!容赦なく戦え!これより我々は、逆襲を開始する!!」
グランツの声が、全軍の魂を揺さぶるように締めくくった。
湧き上がる応戦の声が、いっそう凄まじい地鳴りとなって爆発する。
その凄絶な熱狂の渦の中で、リデルはキリルとリヒトの肩を借りながら、目の前の光景をただ静かに焼き付けていた。
前世を含めた長い記憶の歴史の中でも、これほどまでに激しく、魂を揺さぶる言葉を聞いたことは、リデルとて片手で数えるほどしかなかった。




