67話
かくして、逆襲の火蓋が切って落とされた。
グランツ率いる主力五万の軍勢の最初の標的となったのは、ラステ伯率いるリガニア軍であった。
敵軍三万六千に対し、グランツ軍は五万。兵力差は拮抗しているかに思えたが、戦いの始まる前から勝敗の行方は火を見るより明らかであった。
二週間に及ぶ不毛な追撃戦の末、リガニア軍の兵站は乱れ、補給線は途切れ、兵士たちの足取りは鉛のように重かった。
対するグランツ軍は、帝都で十全な休養を取り、補給を完璧に整え、満を持して報復の機会を待ち続けていた。将兵たちの士気は、まさに「天を突く」勢いであった。
決戦の地となったアレスト平原にて、両軍は激突した。
グランツの指揮は完璧であった。
正面から圧倒的な重圧をかけつつ、相手の隙を突いて側面を急襲する。リガニア軍が慌てて側面防御に回ろうとすれば、すぐさま正面から全軍で押し潰す。どちらの陣形を厚くしようとも、常に予想外の方向から怒濤の打撃が襲いかかった。
極めつけは、ミナを先頭としたヴェーデル騎士団による激烈な側面突撃であった。これによってリガニア軍の陣形は完全に崩壊。ラステ伯は全軍退却を命じざるを得なかった。
これまで帝都を南から圧していた脅威が、わずか一日で霧散したのである。
しかし、グランツの進撃はそこにとどまらなかった。
彼は返す刀で、即座に西へと軍を転進させた。
フランク・ロングードが死守する西の戦線へと合流し、同じく殺到していた敵群を一方的に蹂躙した。
西の脅威を取り払うや、間髪容れずに今度は北へと転進する。
帝都の北方を死守するラムズのもとへと駆けつけたのだ。
ラムズはこの二ヶ月間、圧倒的な数で勝る敵勢を相手に耐えがたき持久戦を強いられていた。だが、グランツ率いる主力が到着した瞬間、戦況は劇的な一変を遂げた。
さらに続いて、東へと疾走する。
東の戦線を必死に支えていたドン・ヴィステルの救援に駆けつけ、ここでも同様の鮮やかな逆転劇を演じてみせた。
各地の戦線を次々と転戦しながら、グランツは負けなしの連戦連勝を重ねていった。
この一連の苛烈な連戦は、足かけ三ヶ月に及んだ。
深緑の夏に始まり、紅葉の秋を駆け抜け──そして厳寒の冬の到来を目前にして、戦争はようやく自然収束を迎えることとなった。
凍てつく初雪が舞い始め、街道が凍結したことで、兵士たちの行軍は物理的に不可能となったのだ。両陣営は言葉を交わすこともなく、暗黙の了解のもとに戦闘行動を休止した。
この三ヶ月におよぶ大反撃の戦果を冷静に振り返れば、完全な勝利とまでは言えなかった。
南の宿敵であるリガニア大公ボイドは堅固な本拠地に引き籠もり、息の根を止めるまでには至らなかった。
北の雄であるラングレー公もまた同様であり、その喉元深くへ侵攻する前に冬の到来を許してしまった。
しかし──それ以外の成果は計り知れないほど大であった。
帝都とローズヴェル本国を結ぶ主要街道沿いに立ちはだかっていた本領貴族どもは、あらかた叩き潰された。東方に広がっていた膨大な領土も、広範囲にわたって切り取ることとなった。
最終的にグランツは、帝国本領八州のうち、実に「三州」をその掌中に収めたのである。
開戦前、彼の支配域は帝都とその極めて限定的な周辺地域のみであった。それがわずか三ヶ月の戦闘で、支配領域を倍以上に拡大させたのだ。
数字上の単純な領有面積で言えば、未だに本領貴族連合の方が広大な土地を保持していた。
しかし──帝国全体の「中心軸」を握ったのはグランツであった。
帝都を完全に掌握し、東西を貫く大街道を確保し、帝国本領における揺るぎない絶対的拠点を確立したのだ。
この極寒の冬の間に、新たな軍政体制を構築する。補給を万全に整え、酷使した兵を十分に休ませる。そして暖かい春が訪れれば、再び怒濤の進撃を開始する──。
戦乱の天秤は、明らかにグランツ側へと大きく傾いた。
少なくとも、表面上はそう見えていた。
───
聖都ベルノープル──大聖堂の静謐なる一室。
冬の澄んだ光が縦長の窓から差し込む中、豪華な装飾が施された円卓を囲むように、聖母派の枢機卿たちが勢揃いしていた。
ゲオルクスは、中央の上座に深く腰掛けていた。
その前方に、側近のレオールが最新の地図と戦況報告書を広げて立った。
「……これより、戦況報告を申し上げます」
レオールは恭しく頭を下げると、この三ヶ月間に起きた出来事を順を追って淡々と報告し始めた。
アレスト平原におけるリガニア軍の惨敗。西の戦線での大幅な後退。北方における激戦による甚大な損耗。東部戦線での相次ぐ敗退。そして、本領貴族たちの支配地域が著しく縮小した事実──。
客観的に見れば、聖母派および本領貴族陣営にとって、何一つ良いところのない最悪の報告内容であった。
しかし──レオールは一通りの報告を終えると、事もなげにこう付け加えた。
「──以上。すべてゲオルクス猊下の御予測通りの展開となっております」
それを聞いた枢機卿の一人が、満足そうに深く頷きながら口を開いた。
「いやはや、真に感服いたしましたぞ。まさかこれほどまでに、教皇猊下の仰った通りの戦況を辿るとは……」
「まったくでございますな」
「最初にこのお見立てを伺った折には、失礼ながら半信半疑でございましたが……」
他の枢機卿たちも、口々に同調の声を上げた。
ゲオルクスは指先で太い葉巻を転がしながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……なぁに、何一つ難しいことなどあらへんよ」
南部訛りが、その口から自然と漏れ出た。
「本領貴族のボンボン共が、伊達に戦を熟知しとるグランツに勝てるわけがないなんて、ハナから分かりきっとった事や。こちらがヒトとカネを極力テコ入れして、やっと滅びん程度に支えてやる……。ワシらはそれくらいしか期待しとらんし、むしろその方がこちらにとっても都合がええんや」
「なるほど……!」
別の枢機卿が膝を打って頷いた。
「確かに。グランツに不用意に楯突いた本領貴族どもが困窮すれば困窮するほど、奴らは我らの力と権威に縋り付かざるを得なくなりますな。結果として、より扱いやすくコントロールしやすくなる、というわけですな」
「せや」
ゲオルクスは葉巻の先に火を点け、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。
「グランツの奴は、知らず知らずワシらのために帝都進出の足場を固めてくれてるってわけや。本領貴族どもを程よく痛めつけて弱らせ、それでもギリギリ抵抗できる程度の戦力を保たせておく……。その状態こそが、一番ワシらにとって美味いんや」
ふっと一拍置くと、ゲオルクスは眼光を鋭く光らせた。
「ジラーモ。兵隊の準備の進捗はどうなっとる?」
問いかけを受け、ジラーモが滑らかに前に出た。
「はっ。南部都市国家連合、および主要な全傭兵ギルドへの公式要請が完了しております。現段階で確実に押さえている兵力は、一十五万」
「一十五万か」
「来春の出撃期までに揃えられる最終的な総兵力としては、『四十万』程度と見込んでおります」
円卓を囲む枢機卿たちの間に、どよめきが広がった。
「おお……!」
「四十万の大軍とは……!」
「グランツの抱える総兵力は精々十万そこそこですから、圧倒的ですな!」
歓喜と驚愕の声が、あちこちから湧き上がった。
ジラーモは表情一つ変えずに言葉を続けた。
「それと──イスタッドのゾルベ旅団につきましても、現在抱えている案件を片付け終え、あと二ヶ月ほどで我が陣営へ合流できる見通しとなっております」
「ほな、来春までにはすべての戦力が完璧に揃うわけやな」
「はい。万全の体制が整います」
「まあまあ……上出来やな」
ゲオルクスは漂う煙を吐き出した。
期待以上でも以下でもない、と言わんばかりの冷徹な面持ちであった。
「レオール」
「はっ」
「この冬の間、本領内にいる信徒どもに指示を打っとけ」
「……どのような指示でございますか?」
「大規模な暴動を起こすように、や」
室内の温度が、ふっと下がったかのように静まり返った。
「奴らを冬だからと休ませたらあかん。徹底的に疲弊させるんや。グランツの奴もこの冬はじっくり英気を養うつもりでおるはずやから、そこに嫌がらせを仕掛けてやるんや」
「承知いたしました。……では、教皇府の名義にて正式な指示書を作成いたします」
「……いや、ワシ個人の名前でええ」
レオールは、わずかに言葉を詰まらせた。
「しかし……猊下。それでは……」
「ワシの名前でええ、と言っとるんや」
ゲオルクスは、静かに、だが逆らいがたい威圧感を込めて繰り返した。
「組織としての教皇府より、ワシ個人の名前を出した方が本領の信徒どもも奮発するやろ。……それに」
少し間を置き、ゲオルクスは冷たい笑みを浮かべた。
「責任の所在について、曖昧な真似はしたくないんや、ワシは」
レオールはそれ以上、反論の言葉を重ねなかった。
深々と頭を下げる。
「……承知いたしました」
室内にいる誰もが、その決断の持つ真の意味を正しく理解していた。
信徒たちに暴動を起こさせれば、グランツ軍は当然、容赦のない武力鎮圧に動く。無数の信徒たちが血を流して死ぬことになるだろう。それをゲオルクス個人の名義で行うということは──その凄惨な結果に対するすべての罪と責任を、ゲオルクス自身が一身に引き受けるという覚悟の表れであった。
彼は間違いなく、自他ともに認める冷酷非道な外道であった。
しかし──保身のために部下に責任を擦り付けるような、卑怯者では断じてなかった。
それこそが、ゲオルクスという男の底知れぬ恐ろしさであった。
「さあ──」
ゲオルクスは悠然と立ち上がると、両手を大きく広げて見せた。
「皆の者、この冬は英気をたっぷり養うんやで」
枢機卿たちを一人一人見回しながら、高らかに宣言する。
「そして来年の今頃は──帝都のど真ん中でワシらの豪華な凱旋を祝おうやないか!!」
───
「──以上のように。我々がこの冬の間、何ら手立てを打たなかった場合……来春には、今以上に絶望的な状況へと追い込まれることになります」
帝都に置かれた軍本営の一室にて、リデルはグランツに向けて冷徹に言い放った。
グランツは、リデルが提示した極めて悲観的な戦況予測を聞いても、特段驚いた様子を見せなかった。彼自身もまた、全く同じ懸念を脳裏に抱いていたからであった。
「……やはり、ラングレー公かリガニア大公のどちらか一方だけでも、この秋のうちに完全に潰しておくべきだったか」
「はい。仮にどちらか片方だけであったならば、我が軍の力で十分に抑え込むことが可能でした。しかし……その双方に対して警戒の目を配りつつ、来春確実に押し寄せてくる聖母派の大軍を相手取るなど、到底不可能です。我が軍は確実に必敗いたします。……それを打破するには、聖母派側にも我々とまったく同じ『窮地』に陥ってもらう必要があります」
グランツは重厚な眼光でリデルを見つめ返し、静かに問いかけた。
「……真に、断行するのだな? 『背天者』という汚名など比較にすらならぬほど、恐ろしく重い罪の咎を背負うことになるぞ」
「承知の上です。それに伴うあらゆる咎と誹りは、すべてこの私が引き受けます」
交錯する二人の強い視線。
卓上でゆらゆらと揺らめく一筋の蝋燭の炎は、広げられた紙の地図を怪しく照らし出していた。
そこに描かれているのは──ヴェーデル南東部と、南部都市国家連合その西方の狭間に立ち塞がるようにそびえ並ぶ山脈、巨大なる『霊峰インテグロモンテ』の姿であった。




